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「おっ…と…」
流石に暗い。カンテラを持つ手が枝に当たってつい顔をしかめてしまった。見上げれば月は高く、随分と時間が経っていたことが分かる。けれどそれで好都合、目当ての魔獣は夜行性でこの時間に合うようにノーラッド邸を出てきたのだから。枝を踏んで警戒などさせないようにブリジットは注意深く足元を見て歩いた。
アルカディアの魔獣は気性が荒い、それは国の北のさらに北にある魔王城と神話に語られる魔王と勇者の因縁が関わっているからだと伝えられている。だから、間違っても城に近づいてはならないよとわらべ歌にまでなっているのだが、意外な事に魔王城付近の村に特別な被害はないらしい。王都に近付くにつれて凶暴化しているのだとしたら、忠義も重たすぎると感じる。
そして、もう一つ伝えられていることは魔獣には特別な事情がない場合手を出さないこと、だ。不思議な話だが気性が荒いといっても彼らは傷つけられない限り威嚇するだけに限るのだ。その代わり一度でも敵対行為をすれば地の果てまで追い詰められる、とか。
魔獣は魔法を使うことが出来る極めて強力な存在で、その身体も魔法の研究や防具、武器の材料として申し分ない。狩りの対象とするには誂え向きで、魔王の生み出した存在ということで正当性もあった。
けれど、7000年も経ってしまえばもはや侵略者とは呼べない。正当性はもはやどちらにもなく双方には消し去れない禍根だけが降り積もっている。それでも、手を出さない限り魔獣は牙を剥くことはないのだった。どちらが浅ましいのだか分かりはしないな、とブリジットは自嘲して足をさらに森の深部へと進めていった。
目的であるものはヘルハウンドの爪、死を呼ぶ狗と言われるその獣の血から今回の毒は作られたという話だ。しかし合わせる薬草の配合を変えればその解毒薬にも変わるらしい。
ヘルハウンドは一般的な魔獣で気候を問わず広く分布している。ただし、それは弱いという意味では決してない。むしろ逆で強いからこそ勢力が広がっているといえよう。だからこそ人との諍いも多い、魔獣の中でもとりわけ凶暴な種であるが怖気づくわけにはいかなかった。
「グウゥーー……」
地を這う唸り声にハッとブリジットが顔を上げると先の行き止まりに赤い灯りが点々と見える。カンテラを上げればそこにいたのは闇の毛並みの大きな獣、十分距離を取っているはずだがそれでも大きいと思うほど巨軀だ。そして赤目はポツポツと増え出してブリジットは囲まれていることを思い知る、ブリジットにとっては少し遠いと思うものの、獣からしたら間合いのうちだろう。
どくどくとうるさい心臓を押さえつけて、唾を飲み込んだ。皮膚を炙る殺気と恐怖は十分過ぎるほど。それでもなんとか敵意がないことを伝えたくてカンテラを地面に置いてゆっくりと語り掛ける。
「…待って、君達に危害を加えるつもりは」
「グルルルル…」
「ウオオオォォンッ!!」
だが、届かない。一匹のヘルハウンドのひと吠えで敵意は更に膨れ上がったように見える。気が付けば手先は震えていた、身体の恐怖に心が付いていっていない。逃げたいと身体が叫んでいるらしいが、逃げる気力もないのだ。麻痺した心のまま震える声で尚も続ける。
「…信じてほしい。ただ、欲しいものがあるだけなんだ」
「ウーーー………」
信じてほしいなんて言葉ほど薄っぺらいものはないだろう、むしろ弱者を気取って狩られたことだってあるのかもしれないのに。ブリジットは警戒を解かないヘルハウンドに対して一瞬考えてからすらりと細剣を抜いた。そしてそのまま地面へと深く突き立てる。滅多なことでは抜けないだろう、同時に鞘を吊るベルトも外してその側に置き大きくその場から離れた。
「………」
敵意がない、と示すためにゆっくり腰を下ろす、意味があるかは分からないが。顔を伝う汗がポタリと地面に落ちる、心臓が喉元に競り上がってきそうだった。そもそも、手を出さなければ殺されないなんて都合のいい話が本当にあるのだろうか。たまたま温厚な獣だった場合は?人間であれば必ず殺すという意思を持つ個体がいた場合は?最悪の可能性なんて考えればいくらでも思いついてしまう。
そうして座り込んでどれくらい時間が経っただろうか。張り付くシャツがうっとうしくて、死んでも仕方ないとちう諦念が脳裏を掠め始めたころ、一匹のヘルハウンドが徐に歩み寄ってきた。目をつむる事も忘れてそのまま様子を見ていると、ヘルハウンドはそのまま細剣を噛み砕いてどっしりと腰を落ち着けた。
「……バウッ!」
「…通じ、てるの…?」
少なくとも、殺意はほんの少しだけ緩まったように感じた。錯覚なのかもしれないが、敵対意思はあれどこちらをすぐどうこうする気はない様に思える。
ブリジットは外套を脱ぐと地面に拡げた。気が変わらないうちに交渉をしてしまおうと思ったのだ。とはいえ、人語が分かるかどうかは不明だし、伝わったとしても逆に怒りに触れてしまうかもしれないがここで特に何もせずにこの場を去ればそれこそ侮辱な気がした。
「…非常に、虫のいい話なのは分かってる。だが、君達の爪を一つでいい、くれないかな。対価なら出せるものを出すよ」
ぴくりと魔獣が片目を歪めたように見えた、本当に虫のいい話だとブリジットも分かっている。人間は魔獣から多くのものを奪ってきた、かつては逆だったけれど、今となっては人間こそが加害者側にある。そんな繁栄の上にある人間の小娘一人がお前の一部を寄越せという、代価など払えるものの方が少ないというのに。しかし、ここで好物になりそうな肉でも差し出せばそれこそただの獣と思っていると知らしめるだけなのだ、この身一つに出来ることしかブリジットには出来ない。
「………無理、だよね」
「ウゥ」
「え?な、何?」
「グルルル…」
「え、剣?そんなものでいいの…?」
「ギャウッ!オォン!」
静かな敵意とともにブリジットを眺めていた一頭が柄だけになった剣とその鞘を鋭い爪で指し示した。もう何の意味もないものにブリジットが首を傾げると苛立たしげに装飾の黄金色の宝石を鼻先で突いた。分からないのか、とでも言うような様子、想像に反した感情の豊かさに面食らいつつも、剣の残骸にそろそろと手を伸ばす。
「…か、飾りを?外せって言ってるのかな…?」
「バウッ」
「わ、わかった!」
今度は急かされた、ような気がする。慌てて宝石を外しながらヘルハウンドが光り物を好むと言う話は聞いたことがないなと心の中で疑問符を浮かべた。まぁ、個体差かもしれないし、これくらいしか代価に出来るものがなかったからなのかもしれないけれど。しかし、この強靭な爪では宝石など掠った程度で砕けてしまうだろう。それを考えると珍しいものということで目に留まったのか、真相はわからない。
何とか取り外すとヘルハウンドはブリジットが脱いだ外套の端を口で掴んで持ち上げた。あれは爪を包もうと思っていたものなのだがたしかにあの前脚では持っていけないだろう、と納得する。ゆっくりと後ろに下がるその後ろからもう一頭、ふた回りほど小さなヘルハウンドが此方へと進み出て口に咥えていた爪を地面へと落とした。子供なのだろうか、それにしてもその爪はブリジットの片手よりも大きいのだけど。もう生え揃っているのを見ると丁度よく生え変わりの時期だったのか、ヘルハウンドが後退したのを確認してブリジットはそっとその黒々と冷たい爪を持ち上げた。
「…ありがとう、ここには二度と私は立ち入らない」
「オォーン!」
「…ごめんね」
謝ったのは何に対しての罪悪感なのか、するりと口を出た言葉と共に目を伏せてゆっくり、ゆっくりと後ろに進み出す。後ろ歩きの姿勢だが、後方で細やかな草の擦れる音が聞こえた。退いてくれているのだろう、早く帰れということかもしれないが。
それでも背を向けることはやはり出来なくて。でも、魔獣の方もそれをわかってくれているのだろう、最後まで警戒を解かなかった気高い獣達に敬意を払いながらブリジットは遂に森を出たのだった。
結局ノーラッド邸に戻ったのは朝だった。愛馬から降りて門へ近づくと門番がブリジットの姿を見て目を丸くし、そして安堵の表情と共に駆け寄ってきた。この屋敷の使用人は優しい、無理を言ったのはこちらなのに。ブリジットは申し訳なさから頭を下げる。
「ただいま帰りました」
「あぁブリジット様!心配いたしましたよ!」
「申し訳ありません、旦那様はいつお戻りになりますか」
確か今日のユーリは仕事があったはずだ、爪を渡したかったがこればかりは仕方がない。そう尋ねてみると門番は少しだけ表情を和らげて口を開こうとした、しかしその隙間の一瞬後方から鋭く届く声が聞こえた。
「ブリジット!」
「え…だ、旦那様?今日は任務の…」
「この、大馬鹿者ッ!」
「えっ」
ずんずんとブリジットへ向かってくるのはここにいないはずのユーリだった。出勤の時間は過ぎているはずなのに、と混乱していると厳しい顔のままに叱責されてしまう。理由は明らかだが、ユーリが何故ここまで怒っているのかが分からない。傍迷惑だっただろうか、しかし自分に心を大きく乱す理由なんてなさそうなものだが。驚きに瞬きを繰り返すブリジットにユーリは更に気を害したようで近くにいるというのに大声のまま続けた。
「仮にも貴族の娘が護衛も何もつけず夜の魔獣の森に行くなんて何を考えてる!剣が使えることなんて問題にならない!危ないだろ!君は女性なんだ!何か間違いがあったらどうするつもりだった!しかも帯刀もしないで!」
「あ…あっ、い、いえ、向こうで…その、無くしただけといいますか…」
「無くした!?騎士が剣を!?」
「も、申し訳ありません…!」
「傷は!打撲は!痛みがなくとも異常ある箇所は!」
「ありませんッ!」
「二度とするな馬鹿ッ!」
「はい!」
まるで教官だ、稽古をつけてもらったときでさえここまで厳しくされたことはない。ビリビリと身体を打つ声に背筋を伸ばしてブリジットは頷く、もしかして部下にはこういう厳しい一面も見せているのだろうか。
そして、返す言葉もない。マリアンナの言葉に衝動的に出てきてしまったはいいものの、周りに心配をかけてしまっていては本末転倒だ。気まずさに視線を下げると突然身体が暖かなもので包まれた、外套も無くしてしまってシャツ一枚だから有難い。しかしブリジットを包んでいるものの感触は到底布とは思えず恐る恐る前を見ればユーリの赤毛が目の前にあった。
抱きしめられている、女性恐怖症の彼に。混乱するブリジットをよそにユーリはというと深く深く安堵の息を吐いた。
「………あぁ」
「え…?だ、旦那様…そ、そのような…?」
「すまん、一方的に怒鳴りつけて、俺は、最低だ…」
「い、いいえ…仰ることは、ごもっともですし…」
「…心配したんだ。とても。俺の言葉で君を傷つけてしまったのだろうと思って、いてもたってもいられなくて…まったく子供だな」
「…あの、とても失礼なことかもしれませんが…心配は嬉しいです」
「また、そうやって…」
ブリジットを抱きしめる力は決して強くはないが、大切なものを繋ぎ止めるような優しさを感じた。あぁ、優しい人なのだと、ふわふわとした意識のままブリジットはすぐ側で揺れる赤毛を見詰めた。こんな自分に本気で怒ってくれて、本気で心配してくれた、それが本当に嬉しい、嬉しいのだけど。
先程から周りにいる使用人達の眼差しがとてもくすぐったい。
「あ、あの…そろそろ…」
「え?…うわぁ!?す、すまん!」
たった今気が付いたのか顔を赤から青、そして白へと変えて猛烈な勢いでユーリは後退りわなわなと手を動かした。初めての経験なのだろう、それはブリジットとて同じだがその勢いに少しだけ胸の底がちくりと痛んでしまった。その痛みに素知らぬふりをして落ち着くまで言葉を待つ、なんなら気にせずに仕事へ向かってくれていいのだがこの律儀な男は決してそれを飲まないだろう。
「あぁ…え、ええと、その、何をしに森になんて?」
「…あ、あの、この爪を!」
「これは…」
言われて思い出すくらいにはブリジットの側も気が抜けていた、鞄から鋭い爪先に触れぬように慎重に爪を取り出して見せれば、ユーリはすぐさま落ち着いて目を細めた。一発でこれが何か理解したということだろう。
「…譲っていただきました、魔獣に」
「譲って、だと?」
少しだけ険しさのあった表情が呆気に取られたように緩んだ、信じられないと思っているのだろう。当人であるブリジットさえもここまで上手くいくと思わなかったし、もしや夢ではと思っていた。しかし幸運に味方されたとはいっても手に入れたものは手に入れたのだ、しかも血を流さずに。ユーリは2度ほど爪とブリジットの顔を交互に見て呆然とした様子で口を動かした。
「私の、為に…?」
「いいえ、私の為でもあります」
「…有難う。この恩は決して忘れない、急ぎ登城して届けよう」
どうやらブリジットの安否を確認してからでないと仕事にはいけないと連絡を入れていたようでひどく申し訳なくなった。もう少し早く帰れればよかったのだが、これでも最短ルートを駆けてきたのだ。しかし詫びるとキリがなくなりそうでもあるので心中でそっと頭を下げるだけにしておいた。
馬車の手配がされ、御者が馬を見ていると、ユーリは暫し躊躇った後ブリジットに向かい合った。
「…一つ聞かせてくれ、何故君は魔獣を殺さなかった」
「それは…」
勿論、罠にでもなんでもかけて奪い取ったほうが効率がよかったことなんて分かっている。それでもそれだけはしてはならないと思ったのだ。自分を助けるのではなく、一番は悔やむユーリの背を押したかったからだから。
「貴方が、魔獣との共存を夢見るのなら、その伴侶として夢に寄り添うべきだと思いました」
「…君は」
「貴方の眩しさが、翳ってほしくはありません」
結局はエゴなのだ、ままならないこの世界で歳を重ねてなお甘い夢を見ているこの男にそのままでいてほしい。人の夢はいつだって儚いが、それでもその儚さに光る美しさを諦める必要はどこにだってありはしない。いくら無理だと思われて、自分でも問題が分かっていても、そんな存在がいてくれるだけでブリジットにとってはなんだか救われるような気がしたのだ。
ユーリが魔獣を殺したことがないとは思わない、けれど、殺したくはないと思っていることは間違いがない。ここで守りたい一つの命のために、もう一方の命を奪っては夢の天秤は吊り合わない、だから、そうした。
ユーリはしばらく口を半開きにしてブリジットを見つめていたがやがて堪らないといった様子で吹き出して苦く微笑みを浮かべた。
「まったく…そんな……夢のために、無理をするな」
「努力いたします」
ブリジットが言葉の裏で無理ですと伝えてみれば、ユーリはまた笑った。