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ユーリの私室に明かりはなかった。じわりと湿った空気がそこに満ちて、昼だというのに窓から差している陽の光が月の明かりのように見える。薄暗く重苦しいその中では、普段鮮やかな赤毛がぼんやりとしてひどく落ち着かない。
「旦、那様」
「………」
「……あの、何か、召し上がりませんと」
ブリジットは窒息してしまいそうな喉からなんとか言葉を絞り出した。机に肘をついて組んだ手の上に額を乗せるユーリには凡そ普段の快活さは見えない。顔はよく見えないが、それでもあのパーティの時に見た絶望的なあの表情が脳裏に浮かんだ。きっと今も彼はその顔のままなのだろう。
ディノスは奇跡的にも無事だった。けれど矢に仕込まれた毒がその体を蝕んでいるらしい。自らの身分も考えず、ふらりと席を立った自業自得と言えないことはないのだが、そんなことが起こったとしても守る事が騎士の仕事だ。その職務を全うできなかったこと、何よりも友人を傷付けてしまったことはどれほど彼の心を締め付けているだろう。
そして、それはブリジットに気を払ったからでもあり、彼女は今にも逃げ出してしまいたい気持ちを押さえ込んで、数日塞ぎ込んでいるユーリに向き合っていた。
「…放っておいてくれ」
「しかし…」
「放っておけ!」
覇気のない声に縋りつこうと思った途端、怒気を孕んだ声がブリジットの耳を打つ。突然の大声に思わず肩を竦ませると、ユーリはハッと顔を上げた。やっと見ることができたその顔は驚愕と、後悔と、焦りに染まっていて、自分がしてしまったことに今気がついたように見える。
「…すまん、今は、1人にしてくれないか」
「………はい」
それ以上は、踏み込めなかった。顔を伏せて沈んだ部屋から外に出る。
あのように声を荒げられるのは初めてのことだった、それくらいブリジットとユーリの間には距離があるのだ。当然のことだろう、お互い嫌い合っているわけではなくともたかが数ヶ月の間の中、やっと友人に近しい存在になっただけなのだ。真実友であるディノス、モーリスとブリジットが釣り合うべくもない。それはユーリがハハシアやオルガになれないのと同じことでどちらも悪いわけではないのだ。
けれど、このまま時の流れに解決を委ねるほど冷たい関係にも戻れなかった。
「……どうしたら」
「あの子が世話をかけますね」
「あっ…」
ため息とともに声を漏らすと廊下には赤毛の美しい女性が立っていた。柔和でありながら芯のある佇まいはノーラッド邸の女主人であるマリアンナ・ノーラッド、ユーリの母である。その姿を認めてブリジットは深く頭を下げた。
「…申し訳、ありません」
「何故謝るのですか?」
「旦那様が、殿下をお守り出来なかったのは私のせいですから」
「そんなことはありません、それに殿下は伏せっておられるけれどお隠れになったわけではないでしょう」
「けれど…!」
マリアンナの言葉に堪らず顔を上げたブリジットは、視線の先にある表情の平淡さに唾を飲んだ。穏やかな印象とは別のその顔にその先の言葉を失ってしまう。
「違います、守るべき者が1人増えた程度で動きが乱れるのならば所詮その程度の兵士。この一件は愚息の力不足でしかありません」
確かにそれはそうだろう。けれども、その容赦のない言葉が息子にかける言葉なのだろうか。歯痒い思いを必死に胸の奥に押し込めてブリジットは目を伏せる。何かを言うほどの権利はないのだから。ならば、ブリジットに出来ることと言ったら目を逸らさないことだ。
「……ディノス殿下の、ご容態は。腕を掠めたのは魔獣の毒という話ですが」
「えぇ、掠めたことと早めの処置もあって命に別状はないということでしたよ。ただ…後遺症が残るかもしれないということです」
「は……お、王家の抱える治癒師でもままならないのですか…?」
「…神のみが知る話です」
愕然とした。この大国にはどの国よりも多くの物資があると自負している。国民としての贔屓とは言えないほど、アルカディアは強大なのだ。そんな国で王子が毒を残したまま伏せっているというのはあまりに不自然である。静かに瞼を閉じて胸元を手で押さえるマリアンナにブリジットは困惑を隠し切れなかった。瞳を揺らすブリジットに、向かい合うマリアンナは柔らかく微笑み小首を傾げる。
「ねぇブリジットさん」
「は、はい!」
「どうしてそこまで思い悩むのかしら」
「…お義母様がどう仰ろうと、今回の件は私のせいです、悔やむのは当然のことだと」
「あら?妻だから、ではないのですね」
「………あ」
確かに夫婦であれば原因であるということを差し引いても伴侶であるから、という理由が挟まれるべきだ。ブリジットは一貫して責任を感じているからと主張してしまった、それはなによりも他人の証左だろう。さっと青ざめるブリジットにマリアンナはくすくすと可笑しそうに笑っている、騙された側だというのにこの反応は。唖然とするブリジットに、その淑女はあっけらかんと言ってのける。
「あら、いいのですよ、とっくにわかっていた話だもの。どうせ愚息が無理を言ったのでしょう」
「い、いつから…」
「あなたと初めて会った時からです」
「……!」
「うふふ、とってもわかりやすいわ、貴方達」
そんなにも分かりやすいのか。というか、こうなると親しい者には全て分かっていて察しの上見逃されていたということになるのではないか。だとしたら自分達はどれくらい滑稽だったのか、背筋に垂れた汗の冷たさに肩を震わすとまた小さく微笑まれてしまった。そして、その優しい眼差しにひと匙の冷たさを加えてマリアンナはブリジットを見つめる。
「悩むことも、悔やむことも大事でしょう。しかしその苦しみが先のないものであるのなら結局それは足を止めているだけにすぎません。貴方はそのまま蹲りますか?」
「………いいえ」
「なら、貴方にできることを考えなさい。その方が気も紛れますわ」
「…ありがとうございます」
なんというか、武家の女というものはこういう芯の強さを生来持ち得るのだろうか。少しくらい騙していたことを罵ってくれても構わないのに、そんなこともしない。ブリジットは深くマリアンナに一礼してから、足を動かした。
向かう先はユーリの自室でも、自分の部屋でもなかった。ノーラッド家が有する膨大な書物が収められている書庫。本一冊でさえ高価であるのに高く大きな本棚がいくつも並ぶその光景には目眩を起こしてしまう、本の虫であれば10年は平気で暮らしていけそうなその室内をブリジットは滑るように移動して、やがて一冊のものにたどり着いた。
「…よし」
空が白んできた頃、耳に届いたノック音にユーリはゆっくりと顔を上げた。結局、何もしないといういう気にもなれず特別急ぎでない書類を片付けて今度こそ何もやる事がなくなってきた最中であった。ブリジットではない、と思った。彼女ならばまだ寝ているだろうし、あんなに突き放してしまったのだから自分にこんな早朝から世話を焼くことはないだろう。ユーリは自分の不甲斐なさに苦笑しながら誰何の声を上げると、帰ってきたのは屋敷の執事の声だった。
「…ユーリ様、任務のためにも何か、お召し上がりになってくださいませ」
「……………そうだな、運んでくれ」
「はい」
今日は城に上がることになっていた。王子を守れなかったとあっては騎士団からの追放でも生温いというのに、それでも平時通りに勤めを命じられるというのはやはりいまだ床に伏せっている友人の言があるということなのだろう。いっそ責めてくれたら、そう何度繰り返したか。
ドアが開くとスープ皿とバゲットが載せられたワゴンが入ってきた。そしてやっと体が空腹を思い出す、まともな食事とは言えないが食べる気になったのは数日ぶりだ、仕事がなければそんな気にもならなかっただろう。そして、やはり同じように声をかけてくれたブリジットのことを思ってしまう。
「……ブリジットは。彼女に詫びておきたいんだが、まだ眠っているのか」
「は…?ま、まさかご存知ないのですか?」
「何?」
ユーリの枯れた声に、執事は僅かに狼狽えた。嫌な予感が胸を騒がせる、これは自分に愛想をつかして出ていったということではないはずだ。元より尽かされるものもない、しかし、使用人の動揺はどうしたことか。彼女に何が起こっているというのか。逸る気持ちで事情を聞き出したユーリは愕然として、カサついた唇をやっとの思いで動かしたのだ。
「……森に、だと?」
解毒薬になるものを見つけてくると、彼女は魔獣が住まう森へ単身向かったという。護衛にと屋敷のものは追い縋ったが一人で為さなくてはならないと突っぱねて昼からまだ戻っていないという。アルカディアの魔獣は他国と比べて気性が荒い、そんなのは子供でも分かる話で。そんな無茶をしてしまう理由など。ユーリはやっと思い出したように息を吐き出した。
それは、どう考えても自分のせいとしか思えなかった。