2
絢爛な品々が飾られる客室には張り詰めた空気が漂っている、ブリジットはきつく手を握り締め目の前の人物を恐れを以って見つめていた。
リリアンナ・ディーチェ公爵夫人はユーリの実の姉であった。齢は30になり昨年は第二子を産んだはずであるがその美貌は少しとて影を落としていなかった。ユーリと同じ赤毛は美しく薔薇の花弁にも似ている、美しい碧眼を縁取る睫毛は長く肌は透き通るように白い。その麗しさから未婚の間は薔薇の姫君と呼ばれた華である、ディーチェ公爵夫人となった今でも社交界での立場は揺るがず数多の流行を生み出している。その瞳が自分を見て不愉快そうに細められている、美しさも極めれば武器であるのだとブリジットは震えた。白い指先がドレスをなぞる、可愛らしい桃色の爪が剣先の様だと錯覚した。
ブリジットのドレスは今流行りのオフショルダータイプ、ピンクのシルク生地にいくつか宝石が散らされており幾重にもフリルが重なってふわふわと揺れている、こんなものを買う余裕は家にはない。婚約を結んだユーリが条件通り支援の為に贈ってくれたものだ、これ一着で金貨いくらなのかとブリジットは袖を通す時に目眩を起こした。
あの日から数日トントン拍子に契約──婚約は成立した。帰宅して両親にユーリとの事を話した時には目が飛び出るのかというくらい驚かれたがスタンシア家には願ってもいない話でよくやった、お前に相手が見つかるとは、などと小1時間に渡り号泣された。
危惧していたノーラッド伯爵家からの反発はなく今日は挨拶という形で訪れ、伯爵にも夫人にも好意的に接してもらえたのだがリリアンナとはこのように険悪な雰囲気になっていた。そこまで珍しいことでもない、必要なのは親の決定であり、その他の親族が賛成しているとは限らないのだから。おまけにリリアンナは言ってしまえば嫁いだ身、反対されたとて現当主の意向とあっては非を挟み込むことは出来まい。それに短髪の令嬢なぞ信じられない異端だろうとブリジットは目を伏せる。
「これは、貴方には似合わないわ」
「そんな…」
婚約者から贈られたドレスを似合わないと言われて爪の先で弾かれる、それは暗に相応しくない婚姻だと言っているのに他ならない。ブリジットにもそれは分かっていたしユーリに対して好意というものがないので傷付いたりはしないのだが、ユーリが贈ってくれたドレスに申し訳無かった。
リリアンナはふっくらとした唇から失望のため息を吐き出しつかつかと弟へと近寄る、恐らくは追い出せだとか破棄しろだとかそういうことを言いたいのだろう。ユーリの風除けになれなかったことが少し苦しかったがこれも仕方のないことだろう。
「この愚弟!恋人に似合いのドレスひとつ贈れないのですか!」
「ぐはっ!」
「オホホ、ごめんなさい、こんな甲斐性なしのドレスなんて売り払ってくださいましね?あなた、マダムに連絡を」
「かしこまりました」
諦めた様に成り行きを見ていたがリリアンナは淑女とは思えないジャブをユーリの鳩尾に叩き込んだ。目の前の光景にブリジットは硬直するが今までの張り詰めた表情が嘘の様に華やかな表情で微笑まれてしまった。嫌われていなかったのは嬉しいが、思うにユーリの女性恐怖症は姉の影響もあるのではないだろうか、そんなことを考えてしまう。
侍女に何やら指示を出しペンを持つリリアンナを一度だけ確認し、ブリジットは腹を抑えて蹲るユーリにおずおずと歩み寄った。
「ユーリ様、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫。いつものことだ」
「いつも…」
日常的にあんな鋭い一撃を食らっているのだろうか、もしやユーリを副団長になるまで鍛え上げたのはこの女傑なのかもしれない。個体性能値が幾つなのか気になるところである、アルカディアにおいて部隊を率いる為に必要なのは最低でも50レベルなのでユーリはそれより上なのだろうがリリアンナはもしかして弟並みかもしれない。ちなみにブリジットはまだ31レベルとひよっこだ。
やや苦しみながら起き上がるとユーリはブリジットの姿を頭からつま先まで見つめて頭を振った、可愛らしいドレスは社交界の流行りでドレスの一着さえない婚約者に送るにはいいと王室御用達の工房に頼んで作らせたのだがブリジットにはややちぐはぐだった、その事は彼女も実は鏡の前で思ったのだが変えのものもなく贈られたものを着ていかないのも失礼にあたると覚悟を決めて袖を通したのである。
「すまん、実際君の印象にはそぐわないドレスだったな」
「そのようなことは…」
「姉上の言う通りだ、もっとしっかり考えるべきだった」
ユーリは自分の判断を悔い、ブリジットは愛らしさの足りない自分の身を恥じていた。
「ユーリ様の好みに合わせるつもりでいます、そう気に病まないでください。ご参考までにドレスのタイプなどお伺いしても?」
「ドレスでは肌が見えるからな…正直騎士服が一番、あぐぅ!」
「あなたにはきっとシンプルなタイプが似合うはずよ」
復帰した弟に容赦ない脛蹴りを食らわせたリリアンナは一枚の紙をブリジットに手渡した、受け取って見てみるとそこにはレースやドレープ、フリルを取りはったシンプルながら優美なドレスが描かれていた。ドレスに疎いブリジットでも息を飲んでしまうほど素晴らしい出来だ、これを自分がユーリと話しているものの数分で作り上げたのかと思うと才能に身震いしてしまう。
「…デザインを、されていらっしゃるのですか」
「まさか、マダムに提案するときに図の方がイメージを共有しやすいだけよ。リファインは任せているわ」
「それでも素晴らしいです、流石は薔薇の姫君ですね」
「あら意地悪な方、そろそろ女も下り坂よ?」
「そのようなことはありません、リリアンナ様は例えられた薔薇が姿を隠すほど美しいと思います」
「まぁ…ふふ、貴方の方がよほど女を口説けそうね」
マダムというのはクチュリエールなのだろう、リリアンナの懇意にしている相手がプロとして相当の実力を持っているのは想像に容易くない。それに意見を出せるというのだから薔薇の姫君は伊達ではない。
皮肉のつもりで言ったつもりではなかったブリジットだが姫という言葉は既婚者であるリリアンナにとって気恥ずかしいものなのだろう、やや拗ねた様な顔を見せたがその仕草は一層魅力的で少女の様に愛らしい。ブリジットが自分の姉を褒めるちぎる光景にユーリは目を擦る、なんだか背景に百合が見える気がした。
「ユーリ、何を惚けているの?ダンスの練習をなさい」
「え、あの、何故?いたたたた」
「一月後、ディーチェ邸にて夜会を開きます、婚約者の御披露目も兼ねて出席なさい」
顔を上げたユーリに容赦のないベアークローが炸裂した、さすがに手心をとそれとなく言ってみるつもりだったブリジットは続いたリリアンナの言葉に目を見張る。ユーリとぱったり目が合ったところを見るに双方同じ考えらしい。
社交界の中心人物が主催する夜会、しかも期間は1ヶ月、たしかに公にする必要はあるのかもしれないがユーリとブリジットは契約関係の恋人。あまりにもハードルが高すぎるファーストミッションだ、ボロが出てもおかしくない。
「あ、あの、私、髪だってこんなに短くてとても人前には…」
「ドレスの流行とて最初は異端な目で見られるもの、髪型もそれと同じではなくて?あと100年後まだ長髪が流行っていると確信が持てる?」
「それは…」
「第一貴方にはきっとロングヘアは似合わないわ。確かに髪を切り落としたのは愚行でしょう、けれどその似合い方を見るに英断でもあります、似合わないドレスを身に纏うよりも女を捨てていないわ」
髪は言い訳に過ぎなかったのだがバッサリ主催に構わないと言われてしまえば逃げ道が無くなる。おまけにリリアンナの顔は楽しそうに笑っていて、欠席させるつもりはないと見える。
「夜会はインパクトを与えたものが勝者!ならば貴方の姿は既に勝っているといっていいでしょう」
「そ、そんな」
「それにね、どれだけ睨みを利かせてきたとして結局はこれとの婚姻にこぎつけられなかった相手です。獅子の喉元に牙も突き立てられぬ負け犬を気にかけることはありません」
「…姉上、私は、彼女に仕留められたわけではありません」
よろよろとやっとの思いで立ち上がったユーリは高笑いする姉に恨めしそうな声でそう言ったのだった。
ノーラッド伯爵邸の中庭の東屋では疲労困憊となったユーリとブリジットがいた。婚約を申し込まれたのも夕暮れの中だったなと、遠い目で赤い空を見つめる。すっかり冷たくなった紅茶を一息で飲み干してユーリは深い息を吐き出す、先程まで時間にしておよそ3時間2人は踊りっぱなしだったのだ、リリアンナの呼びつけたマダムがブリジットを採寸しデザインについて侃侃諤諤と意見を交わしていた間は2人でつまらない世間話をする程度には暇だったのだが話がまとまるや否やレッスン室に押し込められ初級から上級までのステップをスパルタ的にチェックされた。
双方騎士ということで体力には自信があったがノーラッド伯爵家のチューターはかなり厳しく少しでも完璧から外れると初めからやり直しとなるのだ、解放されたのは幸運かもしれない。
「本当に、本当に、申し訳ない」
「いいえ、久々のドレスもダンスも…序盤は、楽しかったです」
ユーリのホールドの安定感は抜群で踊りやすかった、女性恐怖症というわりに誘う仕草にもリードにもそつが無かったのは恐らくリリアンナの調教…教育の賜物であろう。ブリジットは身体を動かす事が好きだし実際序盤は楽しかったのだ、序盤だけだが。ユーリは僅かに目を伏せそれ以上は礼を重ねなかった、キリがないということは自覚するところなのだろう。
「社交界には全く出ていないのだな」
「あそこはドレスのない令嬢を迎え入れる場ではありませんから。とはいえユーリ様の恥とならぬように努めさせていただきます。髪以外で、ですが…」
「私は長い髪は恐ろしいと感じるし、君の髪もよく研がれた刃のようで美しいと思うがな」
やや強引な話題転換だったが、ブリジットのダンスは概ねできているものの洗練されていないものであった。デビュタント以来令嬢らしいことを一つもしてこなかったブリジットは俯いてしまう、これで1ヶ月後に間に合うかどうか。解放されたあたり及第点と見なされたはずだが赤獅子の伴侶を演じるなら完璧であるべきだ。
自分の外見について恥じるつもりはないがユーリの側で婚約者を演じる以上今まで通り他人に無関心という風にはやっていけない。なのだがユーリはその瑕ともいえる短髪を好ましいといった上、刃の様だなどと大凡褒め言葉と考えられない言葉を添えたのだ。ブリジットの髪色はアッシュグレイだがそれにしてももう少し例えようがあるだろうに、不器用さに思わず吹き出してしまう。
「……ふ」
「あっ…ええと、私はまた何か無礼を?」
「いえ、刃のようだなんておかしくて。他の方にもそんな調子で?」
「いや、会話もしないくらいだぞ」
「あぁ…はい」
真顔で言われたので半目になりながら頷く、話していると言葉足らずという事もないので忘れがちだが女性を相手にしたユーリは視線さえ合わせる事が出来なくなるという、獅子というよりは鼠だなどとブリジットは不敬にも考えてしまった。難儀な体質だと思う、世界の半分は女性なのだから。
「気になった事があるのですが、お聞きしても?」
「あぁ、何なりと」
「ユーリ様は私に動悸、息切れ、目眩を起こさないという話でしたが」
「その言い様では病のようだな…間違っていないが」
「私自体にはどういった印象を抱いていらっしゃるのですか」
「ん…そうだな、凛としている、かな」
「光栄です」
「そうだな、この際言っておくが君には勝手に友情めいたものを感じている…何と言ったらいいか、きっとナナリー様に近い感情だ」
「殿下と?」
語る瞳は穏やかだった。思い出されるのは初対面のこと、走ってきたナナリーにユーリは友人にでも話しかける様に接して、対するナナリーも呆れながらも親しみを感じさせる対応をしていた。
ナナリーとユーリの関係は有名だ、王女の生誕の頃軍上層部に勤めていたノーラッド伯爵が当時14歳であった息子を指して話し相手にと推薦したのだ、既に第二王子とも友人関係になっていた事もあり国王はそれを認めた。ナナリーにとっては年の離れた兄が3人いるという感じだろう、尤もブリジットからしたらナナリーの方が姉らしく見えたが。
それ故に伯爵家でありながらノーラッドは王家に太いパイプを持っていた、元々アルカディアでは爵位より実績という風潮があり領地に引きこもってぼんやり過ごす侯爵よりも戦場や内政で良い働きをした子爵の方を優先する。
強さこそ美しさ。そんな国風の中でスタンシアが傾いていくのは当たり前のことだったのだろう、のらりくらりと戦さを避け続け800年も存続してしまった。他の貴族達は自分達の価値を示そうと積極的に戦に政治にと乗り出し結果暗殺やら何やらで断絶する事が珍しくはなかった。ブリジットは紅茶で唇を湿らすと遠慮がちに切り出した。
「…いつごろからその体質になったのです?」
「事は10年前に遡る」
17歳、早いものでは既に夫婦となる年齢だ。女の適齢期は16から20、男は身を立ててからということでそれよりも5年ほど遅くなるが相手探しに乗り出す頃合いだろう。王家との関わりも強く、すでに騎士学校で頭角を現していたユーリはその美貌もあって令嬢達からは優良物件として狙われる運命にあった。社交性のあったユーリは自らの姉のエスコートなりで夜会に出る事も多かったのだが、そのアプローチの多いこと。
リリアンナと離れるや否や捕獲される様に多くの淑女に囲まれ、ダンスの音楽が流れれば最初から最後まで踊りっぱなし、婚約者がいるものですらユーリの鍛え上げられた身体に擦り寄り柔らかな自分をアピールしていた。
ユーリも最初のうちは身近に強い姉がいた事もありアルカディアの女は凄いとしか思わなかったのだがある時大事件が起こった。
とある男爵の令嬢が気分が悪いと偽りユーリと小部屋で2人っきりになった途端、何とドレスを脱ぎ去り下着姿で詰め寄ったのだ。ユーリは馬鹿な真似はよせともちろん拒んだのだがその令嬢は聞かずユーリを押し倒し既成事実を作ろうとした。
そしてユーリは悟ったのだ、自分は社交界において男などではなく蜘蛛糸に絡め取られた小蝿なのだと。爛々と光る彼女の目が魔獣のそれに見えたと言う。
幸いにも直ぐに衛兵が来たこと、ユーリが可哀想なくらい縮こまってたこと、令嬢が酔っていたこと、そして身分の差もあって何も起こらなかったとはいえ責任を取って婚約と言うことにはならなかった。その話自体揉み消され男爵家はそれとなく属州近くに左遷、いや異動させられて今ではその令嬢は侯爵夫人に収まっているとか。
女は恐ろしいなとブリジットは口の端を痙攣らせる。それでは女性恐怖症になるのも無理はない、もしこれの相手が公爵位であったら間違いなく責任を取らされていただろう。お気の毒にとやや上ずった声で呟くとユーリは苦笑した。
「まぁ、その、かなり失礼な話にはなるが君の髪も相まって初めて見た時男だと思ったんだ、すぐに間違いには気が付いたがな。君が私に気を使う必要はない。その姿が私に安堵を与えてくれるのだから」
「勿体ないお言葉です」
要するにユーリは女らしい女が苦手なのだろう、自分に好意を向ける対象が恐ろしくて仕方ない。それならば男っ気のないブリジットに安心を覚えるのは普通のことだろう。ブリジットは生来人に関心を持てない性格であり恋も愛も経験した事がなく、その上家のこともあって良くて政略結婚、悪くて平民落ちで修道院暮らしと思っていたからギラギラ各所に目をやって物件…男探しをしてこなかったと言うだけなのだが。
「しかしユーリ様、失礼ながらその言い方ですと男色を疑われます。お控えください」
「…………………それもあり、か…?」
「ええと…いかがなさいましたか」
「私が男色趣味だと噂を流せば、女性は寄り付かないのではないか?」
一瞬虚を突かれたユーリの表情に気安くなりすぎたかと焦ったが考え込んだ末に口からまろび出たのはとんでもない提案だった。
いや、まぁ、数は少ないが同性愛者というのはいるしこの国もそれを否定してはいない。変態──変人侯爵とあだ名されるとある初老の男は夜な夜な10かそこらの美少年に自分を囲ませてると言うし、ブリジットの知り合いにも美少女を愛してやまない人間がいる。
だが、しかし、しかしだ。否定されないと言ってもそれは国の在り方で周囲の人々が何を言うかまでには及ばない、この将来有望な青年にそんな噂があっては、いやそんな噂をさせては。狙いはそこだろうが断じて見逃せない、椅子から立ち上がりブリジットは耐えきれず大声を出した。
「──ご自愛ください!」
結果。その1週間後にはユーリは中性的な女性が好みという噂が流れたという。