外伝 Ⅷ プロローグ
人類軍主力――第三師副官レナ・ハルトマンは、1歩も動けなかった。
目の前には、身命を賭して守ると誓った上司――【勇者】と呼ばれたゼナレスト・ディリバンが立っている。
腰まで伸びた赤い長髪に、見ているだけで胸が空いたような気持ちになる青い瞳。
長い髪も相まって、色白の肌はどこか女性的。でも、一度剣を持って戦場へと向かえば、まるで戦神が宿ったかのように荒ぶり、魔族を圧倒する。
それでも、レナから見て、ゼナレストは戦いに向いていないと思えた。
普段はすっとぼけていて、頼りない青年。皆は戦いとなれば――と二重人格者のように話すが、レナには常にゼナレストが戦う己の姿を見て泣いているように見えた。
しかし、ゼナレストが【勇者】であり、頼もしいのは事実だ。
いつもその背を追いかけるのがやっとなのだが、どういうわけかゼナレストの顔は、今日に限ってレナの方を向いている。
今日は魔族との大一番である。
この時のために色々と用意してきた。作戦によれば、もうすぐ補給部隊も東側から合流するらしい。
補給が完全に尽きる前に、人類軍主力は討って出たというわけである。
だが、結果的にそれは失敗に終わろうとしている。
戦さはこれからだとしても、やはり人類軍敗北という未来を想起せざる得ない。
何よりレナの目には、未来を見通せる力が宿っていた。
その目が言っているのだ。
このままでは負ける、と。
いや、それ以上にショックだったのは、今から行われる裏切り行為であった。
「さあ、【勇者】様……」
やっつけちゃって……。
神すら陶酔させるような甘露な響き。
囁いたのは、死人のような青白い肢体を衆人環視の前で堂々と晒した魔族だった。
鋸のようなギザ歯を見せ、濃い紅色の瞳を獲物を見据えた狼のように細める。
対する【勇者】は何も言わず、鞘に収まっていた剣を抜いた。
「ゼナレスト隊長……」
レナはまだ信じられなかった。
ゼナレストは勇者だ。責任感があり、部下からも慕われていた。
人類の宝ともいうべき人物だ。
それがあっさり魔族に籠絡されてしまった。
何よりレナが私憤を感じずにはいられなかったのは、今魔族がいるその場所に自分がいないことだ。
それはゼナレストが自分に殺気を向けること以上にショックな出来事であった。
「副官!!」
師団員たちの悲痛な声で、レナはようやく我に返る。
あれを、と兵が指差す方向を見た時、それまで赤くなっていたレナの顔から血の気が引いていった。
ゼナレストの後ろに、やや虚ろげな表情をして、立っていたのは、仲間の師団員たちだ。すべてゼナレストと同じ男だ。皆、【勇者】と同じく魔族に籠絡されてしまったらしい。
【勇者】ゼナレストが率いる第三師団の男女比は他の師団と比べても女性の方が多い。しかし、それでも第三師団全体の1割にも満たない。
そもそも女性兵は少ないのだ。
レナの後ろにいるのも、すべて女性の士官や兵たちだ。こちらは正気だが、今目の前の男たちに襲われては一溜まりもないだろう。
いや、【勇者】ゼナレスト1人だけでも十分お釣りが来る
有り体に言えば、絶体絶命だった。
「隊長! しっかりしてください! あなたは【勇者】です。いつも言ってるではないですか? 【勇者】としての自覚を持ってくださいと。あなたは簡単に色仕掛けで籠絡されるような人じゃないでしょ?」
「…………」
レナは説得を試みるが、ゼナレストはほぼ無反応だった。
そもそも聞こえているのかどうかも怪しい。
ただゆっくりと剣の柄を握ったまま近づいてくる。
物言わぬ【勇者】の代わりに答えたのは、真っ裸の魔族だった。
「あなた、ゼナちゃんのこと何もわかっていないのね」
「なんだと!!」
「そうやって、ゼナちゃんを追い詰めたのが悪いのよ。ゼナちゃんだって人間よ。おいしいものを食べたいし、好きな時に寝たい。あるいは美しい女を抱きたい」
「ゼナレストは! 【勇者】は……!」
「しないのぅ? それってとっても不幸じゃないの? 他人が与えた【勇者】というレッテルによって、自分を押し殺して。ゼナちゃん、か~わ~い~そ~。【勇者】は人の幸せのために戦ってるんでしょ? なら、【勇者】を幸せにする人はいたのかしら?」
「そ、それは……」
言われて、レナはハッとした。
まさに魔族の言う通りなのだ。
故にショックだった。何故ならその真理に最初に辿り着かなければならなかったのは、側で控え、ずっと【勇者】ゼナレスト・ディリバンを追いかけてきた自分でなければならなかったからだ、と。
「これでわかったでしょ? あなたは色仕掛けなんて低脳なことしか言わないけど、わたしは決して【勇者】を色仕掛けなんかで籠絡していない。強いて言うなら、女の格の違いよ」
魔族は口の端と耳がくっつくのではないかと思う程、にやけると、「ひゃははははははははは!」と下品に笑い出す。
レナは何も言い返せない。
ただ膝を突き、絶望に打ちひしがれていた。
そこからどう生き延びたかわからなかったか。
第三師団が様子のおかしいことに気づいた第五師団が師団長と一緒に助けに来てくれたことまでは覚えている。
その師団長に言われるまま、レナは戦場を脱出し、今散り散りになった兵士を集めながら、南の森まで後退していた。
最初は魂が抜けていたようなレナも、徐々に己の職責を思い出し、立ち直っていく。
それはひとえに、部下たちがそんな副官でも慕ってくれたおかげだった。
「すまない、みんな」
「いえ。副官がショックなのもわかります」
「元気を出してくださいね、レナ副官」
そう言って、隠し持っていたという高級茶葉の紅茶を、部下の1人が差し出した。
芳醇な香りに癒やされ、ようやくレナの口元が緩んだような気がした。
ズドォオオオオオオンンンンン!
レナたちの夜営地からそう遠くない場所で、大きな煙が上がっていた。