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スギデ スギデ タマラナイ  ~ケントとニックのにっぽん奇譚~

作者: 遠山海月

 爽やかで心地良い日曜日の昼下がり。


 5階建ての古くて小さなマンションは南側に広がる児童公園から時折強く吹く風が運ぶ子供たちの嬌声をその色褪せた壁面に受けながらも、建物内部は至って静かで早春の穏やかな日差しに包まれていた。


 そんなオンボロマンションの103号室の住人ニックは先程から隣室のケントの住む104号室のドアの前に立っていた。




 ニックは来日5年目、ケントは3年目を迎える外国人で二人とも同じアメリカ出身の30歳。


 しかし国籍は同じでも金髪にブルーの瞳、彫りの深い顔にスラリとした長身で見た目にいかにもアメリカンなニックに比べると、ケントは黒髪に茶色い瞳、面長だがあっさりとした顔つきで身長も170cmと日本人の中に間切れても一見違和感のない風采をしていた。


 二人は同じマンションの隣人でアメリカ人同士ということもあり互いに気安い存在ではあったが部屋を頻繁に行き来するほど打ち解けた間柄ではなかった。


 駅前の外国語学校で英語を教えるニックとデザイン事務所に勤めるケントでは活動時間が微妙にずれているのも理由の一つだったが、ケントの茶目っ気ある性格が職場でも真面目外国人と評されるニックには少々苦手であることが二人の付き合いが今一つ深まらない要因でもあったのだ。


 

 

今もニックはインターホンのボタンを押す為に伸ばした指を寸前で止めると眉間に深く皺を寄せ暫し躊躇していた。


 が、やがて意を決してボタンを押した。と、同時に素早く半歩後方へと飛んだ。


「カランポロ~ン」


 間抜けな呼び鈴の音がドアの外にも漏れ聞こえてきただけで何も起きなかった。ニックはやや拍子抜けして鼻を啜った。

 

 

 前回ニックがケントの部屋を訪ねたのは半年以上前。まだ残暑の陽射しが容赦なく照りつける蒸した日だった。

 

 職場で大きなスイカを貰ったが独りでは食べきれないため隣人にお裾分けしようとしたのだが、インターホンのボタンを押した途端ボタンの上に開けられた小さな穴から水鉄砲のように勢いよく水流がニックの顔めがけて飛び出して来たのだ。


「ワーオッ!!」

突然の出来事に驚きの声を響かせてしまった。


 その叫び声を合図に中から出てきたケントは水を滴らせるニックに向けて満面の笑みを浮かべながら言った。

「やあ、ニック。どうだい、訪ねてきた本人の声が呼び出し音になるインターホンなんて画期的だろ?」


 その言葉にニックは顔を真っ赤にした。

「いきなり水を引っ掛けるなんて失敬じゃないか」と大声で怒鳴りながらケントに詰め寄った。


 迫るニックの胸を掌で抑えながら「マアマアおちついて。ニッポンの夏は暑いからネ、クールなお出迎えだよ。なのにそんなにカッカしたらせっかく冷えた頭がまたすぐ熱くなっちゃうヨ」と薄ら笑いを浮かべるケントに反省の様子はなかった。


 同い年だというのにまるで高校生のような童顔のケントがヘラヘラ笑うとニックは心底馬鹿にされたような気なるのだった。

「暑いから一緒にスイカを食べて涼もうと思ってきたのに、もう知るもんか!」

ケントに背中を向けるとニックは自室へ引き返した。


 去りゆく隣人の背中にケントの「ゴメン、ニック。悪気じゃなかったんだ」と慌てた謝罪が聞こえてきたが「今更遅い!」と一声残すと腹立ち紛れに乱暴に音を立ててドアを閉めると、ドア越しに聞こえる「悪かったよニック、出てきとくれヨ」と言うケントの声を無視して怒りにまかせてスイカを丸ごと一個一気にやけ食いしたのだった。


 そのせいだろうか、夜中から激しい腹痛に襲われ一晩中トイレで過ごすことになってしまった。


 翌日、「昨日はゴメン」と書かれたメモとともにミネラルウォーターのボトルが2本、レジ袋に入れてドアノブにぶら下げられていた。


「フン、また水で頭を冷やせとでも?ボクはすっかりお腹が冷えてトテモ苦しかったんだ」と苦々しく眉をしかめるニックにっとってはそれもまた皮肉にしか受け止められなかった。

 

 なにかというとケントの悪戯に困惑するニックだったが、彼が根っから悪い奴でないことは充分にわかっていた。寧ろ人懐こくて陽気な性格は話しているととても楽しかったし、そう感じるのはニックだけではないようで、近所の住人らが世間話に花を咲かせているときは大概その中心には彼がいた。


 ケントの部屋を訪れる友人も多く、賑やかな話し声も薄い壁伝いによく漏れ聞こえてきた。

それでもあの茶目っ気と悪ふざけがニックにはなんとも我慢ならなかったのだ。


 とはいえ一週間も経てばいい加減ニックの怒りも収まっていた。会えば笑顔で挨拶をしたし、時間があれば冗談交じりに世間話に加わることもあった。


 もっとも過日の謝罪の品がミネラルウォーターのペットボトルだった理由を尋ねたとき、「だってニッポンの言葉にあるだろう?ミズニナガシテって」とウインクされたときにはおもわず拳を握っていたのだが・・・




 そんなこともあり、町内やマンションの廊下で出会うことはままあったが、改めてニックがケントの部屋を訪ねるのは今日が久し振りであった。


 充分警戒をして臨んでみたがあの夏のように水が飛びだすことはなく、安堵と同時にその無反応ぶりが逆に不気味でもあった。


 もう一度インターホンを押してさっと飛びのいたがやはり間抜けな呼び出し音が鳴る以外に何も起きなかった。


 不在なのだろうか?

見えないだろうけどと思いながらドアの上部にある覗き窓から逆に中の様子を窺ってみた。

一瞬何か影が動くように感じたのでもっとよく見ようと窓すれすれに左眼を当てたときだった。


 今度はその覗き窓からまたしても勢いよく水流が迸りニックの目を直撃した。


「ワーオッ!」

叫び声がマンションの廊下に響いた。


 そして前回同様、ドアが開くと「ハーイ!ニックごきげんよう」と、したり顔のケントが小憎らしい童顔を覗かせたのだった。


「ご機嫌なわけないだろう、、、ハ、ハッ、ハークション、ハーックション」

沸き上がる怒りと共に今まで忘れていたものまでこみあげてきた。


「おや、刺激が強すぎたかな」

クシャミを連発するニックをケントが不思議そうに見つめる。


「チクショウ、ナンテコッタ。散々警戒してたのにまたやられるなんて。おかげで治まってたクシャミまででてきちゃったじゃないか」


 その様子にケントは目を丸くして問いかけた。

「ひょっとしてニック、キミ花粉症かい?」


「そうだよ。毎年この時期は酷いんだ。ニッポンは大好きだけどこいつだけはイタダケナイネ。目は痒いしクシャミは止まらない鼻水は出放題。しょっちゅう鼻をかんでるからもう鼻が真っ赤でヒリヒリだ」


「キミは色白だから余計に目立つネ。大酒呑みみたいだヨ。いや、外国人で鼻が高いから天狗と間違われなきゃいいけど、フフフ。いやいや、それはちょっと羨ましいな。ふーんそうか、やっぱり花粉症なんだ。最近クシャミがよく聞こえてくるからひょっとしてとは思ってたんだヨ。だから今回は水じゃなくて目薬を飛ばしてみたんだけど」

ケントがニヤッとするのでニックは直撃した水滴を拭った手を鼻先に当て匂いを嗅いでみた。が、詰まった鼻では何の匂いも感じることはできなかった。


「えっ、この水は目薬なのかい?気遣われてるのか馬鹿にされてるのか複雑だな。とにかく花粉症は辛いんだよ。これ以上ボクをイライラさせるようなことはやめてくれ」


「何言ってるんだいニック。杉花粉のアレルギーこそニッポンに住む醍醐味じゃないか。ボクはキミが羨ましいヨ。世界に花粉症はいくつもあるけど杉花粉のアレルギーはニッポンだけなんだヨ。ニッポンの春の風物詩を体験できるなんて最高じゃないか」


 鼻を啜るニックを見るケントの目は輝いていた。



 そういえば…ニックは思いだした。この風変わりな隣人が自分以上に大の日本贔屓であることを。


 なによりケントが日本人の血を引くクォーターであることが大きな要因なのだろうが、それにしても彼のニッポンへの興味はいささか偏っているようにニックは思えて仕方なかった。


 たしか、来日した理由はニッポンのアニメに感動したからだと言っていた。忍者になるのが夢だとも言っていたような気がする。クールジャパンは最高で、なんでもアキバとウエノは彼にとって聖地なのだそうだ。


 アサクサで買ったという忍者の衣装にカマクラ土産にニックが贈った模造刀を背負って深夜の公園を走り回ったり木々の間を飛び移る彼を見かけたこともあった。


 マンションの廊下で尖った鉄の塊を踏んで靴底に穴を開けたこともあったがあれもマキビシとかいう彼の持ち物だった。


 ケントがいつも着ているTシャツやトレーナーにはデザイン会社に勤める腕を利用して自分の好きな日本語を大きくプリントしていた。


 去年の秋頃会った時だったか、その日着ていたTシャツに書かれた言葉の意味を尋ねると得意顔で「これは『ファイト一発ファイトイッパツ』って読むんだ。残暑を気合で乗り切ろうってメッセージだよ」と聞かされたが惜しいかな文字は『ファイト一揆』になっており世の中に不満を持つ人を抗議活動に煽るようなメッセージになっていたのだった。


 もちろんニックはそれを指摘して自慢気な彼のメンツを潰すような無粋な真似はしなかったが。


 今日もトレーナーに何やら書かれていた。気になったのでその意味を尋ねてみた。


「花粉症が羨ましいなんてさすが日本贔屓は違うネ。ところで今日も変わったトレーナーを着てるけどその文字もキミがデザインしたのかい?」


「おや、わかるかい。これはね漢字でパンダっていう意味なんだぜ。今ウエノのパンダが繁殖シーズンなんだ。今年こそベビー誕生を願って作ってみたんだネ」

トレーナーの裾を引っ張りケントは得意気に応えた。


「ナルホド。でもパンダと言う字はどっちかっていうと日本語ではなくて中国のものなんじゃないかい?」


「細かいことを気にせず色んな文化を吸収して自国のものにするのがクールジャパンの真髄なのさ。実はこの文字も同僚の中国人から教わったんだ」


 細かいことを気にしないのはジャパンではなく彼の性格なのだろうにとニックは呆れつつも、まぁだったら大丈夫だろうと思いトレーナーの文字を指さして指摘してみた。


「そうか『大熊猫』と書きたかったんだね。それならきっと教えてくれた同僚が間違ったのかな。トレーナーの文字が『犬熊猫』になってるから三匹の動物の関連が判らなくて不思議に思ってたんだ」


「え?」

トレーナーの裾を引っ張り上から眺めていたケントだったが少し頬を赤らめながら言った。


「あ、あれれ、オカシイナ。劉さんに教わった通りに書いたんだけどな…。ボクあっちこっちで「パンダって漢字で書けるかい?」って自慢しちゃったヨ。今まで誰も気づかなかったのかな?」

首を傾げるケントに(多分皆はキミの自慢話に興味無かったか気遣ってたかのどちらかだと思うよう)とニックは心の中でツッコミをいれてみた。


「いや~それにしてもこんな細かいとこに気づくなんてニックもいよいよクールジャパンに目覚めてきたネ」

照れ隠しなのか、無理矢理両手でニックの手を握るとぶんぶんと上下に揺すった。


 たまにはやり返すのも良い気分だとの想いが顔に出たのだろう、ニックのニヤついた表情を見るとケントは強引に話を変えた。


「それはそうとニック。今日はどうしたんだい?また何か素敵なお裾分けでも?それとも花粉症デビューを自慢しにきたとか?」


「そんなんじゃないんだケント。まあ、花粉症絡みっていうのはハズレじゃないんだけど」

ニックも訪問の目的を思い出して改まった。


「実はケントにお願いがあって来たんだ」


「お願い?改まってなんだい?クールなトレーナーをデザインして欲しいとか?だったら割安で引き受けるヨ」


「ち、、、ックション、、、違う違う。そうじゃないんだ。お願いっていうのはキミに木登りをして欲しいんだ」


「木登りだって?まあ得意だけど」

唐突な話にも関わらずケントは満更でもない表情でニックを見た。ニックもケントが木登りを得意にしているのは以前深夜の忍者姿を見て知っていた。


「さっき買い物の帰りにマンション前の公園で一服してたんだ。そしたら風が吹いてきてボクの帽子が飛ばされてね。公園の木の枝に引っ掛ってしまったんだ。ボクだって木登りぐらいはできるからよじ登って取ろうと思ったんだけど、なにしろその木ときたらあの憎き杉の木なんだ。近づくこともできなくてさ。諦めようかと思ったんだけど思い出もあるお気に入りの帽子だからどうしても諦めつかなくて。そこでケントが身軽なことを思い出したんだ。何とかならないかな」


「なんだそんなことか。公園の木ならどれでも楽勝だヨ。チョトマッテテ、今着替えてくるから」


 玄関にニックを待たせてケントは部屋の奥へと姿を消した。



 それから10分経ってもケントは出てこなかった。



 てっきり部屋着を外出用に替えてくるだけだと思っていたがそれにしては遅かった。ニックの脳裏に嫌な予感がよぎった。


「ケント?」

部屋の奥に向かって呼びかけた。


 一拍の間を置いて奥の扉が開き黒装束に身を包んだ一人の忍者が現われた。


「ニック、お待たせでござる」


「ケ、ケント。まさかその格好で公園に行くつもりじゃあ、、、」


「せっかくの依頼でござるからな。本当は闇に紛れて活躍するのが忍でござるが、早い方が良いでござろう?」


 ござるござるってキミはモンキーか!とイラッときたニックはその格好なら是非真夜中まで待ちたいと思ったがそれはそれで怪しさも増すような気もして戸惑った。


 今なら忍者かぶれの外国人のパフォーマンスか劇の練習で言い訳もできそうだが夜中では不審者以外の何者でもない。ケント一人なら気にもすまいが一緒にいる身としては居た堪れない。


「では参るでござる」

ニックの戸惑いをよそにケントはやる気満々だった。


「あ、アァ、ヨロシクオネガイシマス」

こうなっては忍者に任せるしかなかった。


 

 腰を屈め前傾姿勢となり右腕を顔の前、左腕を背中に当て小走りに行くケントの後ろをニックはなるべく距離をとって歩いた。


たぶん草鞋のつもりなのだろうビーチサンダルのペタペタという音がニックを脱力させた。


 そもそも忍者って草鞋なんて履いてたっけ?そういえば忍者の足許ってどんなだっけ?

どうでもいい疑問ばかりが湧いてきた。


 ノロノロとようやくニックが公園に到着した時ケントの姿はなかった。


 まさかもう仕事にかかっているのか、案外頼りになるな。

ニックが感心しかけた時、近くのベンチからケントの声がした。


「問題の木はどこでござる」

ニックが視線を送ったがベンチにケントの姿はなかった。


 良く見るとベンチの裏に身を屈めて隠れているケントの姿があった。

やれやれ、忍者としての意識は強いらしい。 帽子を取り戻すためには忍者ごっこに付き合わなければならないようだ。


 ニックは何気なくベンチに座ると振りかえらず小声で言った。

「公園の一番奥にある大きな杉の木だ、、、ハーックション、ハーックション」

やはり外は花粉が舞っている。せっかくの小声の芝居がクシャミで台無しになった。


「なんであんな奥の木まで帽子が飛ぶでござる。ニック、オヌシ帽子でフリスビーでもしてたのではござらぬか?」

ニックの芝居の巧拙に関わらずあくまでケントの口調は忍者だった。


「大事な帽子でそんなことするわけないだろ。風で飛んでったんだ、そりゃあもう見事なぐらいに。そんなことよりケント、相手は樹齢二百年を超える大木だから幹も太くて登りやすいとは思うけど、くれぐれも枝を折ったりしないように気を付けてくれよな」


 

 この公園に生えている杉の木はたった一本だが何しろこの辺り一帯が開発される遥か昔から生えている歴史ある大杉だった。


「御意!」

一言発して忍者は公園の縁沿いを囲む花壇の裏をペタペタと走って行った。


 走る異物に気づいた何人かの子供たちが遊びの手を止めてじっと眺めているが今更気にしてもしょうがない。


ニックはなるべく騒ぎが大きくなりませんようにとただ祈るばかりだった。



 ニックが可能な限り近寄って様子を見ようと歩きだすと早くも杉の木に辿りついた忍者はその太い幹にしがみつくとスルスルと登り始めあっと言う間に姿が見えなくなった。


「どうだい、帽子見えるかい?」

遠巻きに声をかけた。


ほどなくして返事があった。


「ああ、見つけたでござる。クリーム色のソフト帽でござるな」


「そうそれそれ。ケント、取れそうかい?」


「枝の先の方だけど大丈夫でござる」

そう言いながら目指す枝を先へ向かって這い進んでいるようで大杉の枝が一本ぐぐっと下方へしなるのが遠目にも判った。


 不思議な外国人たちの行動が気になるのだろう、遊んでいた子供たちの視線がすべてこちらを注目しているのが感じられた。


 やばい、やはり目立っている。ニックが焦りを感じたときだった。


「取ったでござる!」

ケントの成功を告げる声のすぐ後に

「ありゃっ!!」

何かをしくじったことを告げる声が続けて聞こえた。


 直後ベキッと弾けるような音がして大杉の中から枝に跨った忍者が落ちてきた。


「オーマイガッ!、、、ックション、ハックション」ニックは胸の前で十字を切って天を仰ぎながらクシャミをした。


 

 緊急事態に花粉を気にしても居られなかった。

「ケント、大丈夫かい」

駆け寄ると腰を押さえながらよろよろとケントが立ちあがった。手にはしっかりと帽子が握られていた。


「ハハハハ、、、ちょっと失敗でござる」


「ホントに大丈夫かい?鼻に何か付いてるけど」

見るとケントの両方の鼻の穴から杉の枝が顔をだしていた。


グーにした右手を鼻面に置きパーに開きながらケントは言った。

「ダイジョ~ブ。落ちた拍子に枝先が鼻に入ったみたいでござるが、突き刺さってはござらぬよって」非常時でもあくまでも忍者だった。


フンと口を閉じて息むとスポッとケントの花から杉の小枝が二本飛んだ。



ケントが落ちた杉の木は頂上付近を巣にしている大きな烏を見立てて『天狗の一本杉』『天狗杉』などと大そうな名前まで付けられていた。


住民にとっては花粉症の元凶のような存在でしかなかったが貴重な文化財として市の天然記念物に指定されているため花粉の被害と伐採を訴える住民の声などにはびくともせず悠然と天に向かって忌々しい葉を茂らせていた。


 当然、そんなお偉い杉の木様を傷つけるなどという行為はもっての外であった。



「ほらニック、帽子でござる」

差し出された帽子を受け取ろうとしたニックの手が引っ込んだ。


「ハックシュン、、、ごめんケント。その帽子は受け取れない、、、ックション」


 落下のショックで舞い散った花粉のせいもあるだろうが、なにより帽子の中に溜った黄色い粉末にニックの神経が激しく反応した。


「おお、これは。花粉がどっさり。これじゃあキミは触れないでござるな。しっかりクリーニングして渡すからもう少し預かっておくでござる」


「かたじけない。クリーニング代はちゃんと請求するがよいぞ」

せめてもの、である。忍者に合わせ時代劇っぽく礼を言ってみた。



「あれー、殿様みたいなこと言ってる外人がいるぞー」


「忍者もいるぞ!変な忍者」


「ビーサン履いてやんの」


 冷やかしの声に驚いて見回せばいつの間にか二人は子供たちに囲まれていた。


「あーっ!この人たち天狗杉の枝折ったんだ」


「あー、いーけないんだ、いけないんだー」


「みなさーん、ここに悪い忍者がいますよー」


「悪い殿様もいるぞー」


「外人が木をおりましたー」


 もう子供たちの囃子声を止めることはできなかった。


 まずい、やがて周囲の大人も集まって大騒ぎになってしまうとニックが観念したときケントの忍術が炸裂した。


「えーい、ダマレ、ダマレ。忍法、木遁の術・花粉の舞い!」

大声で叫ぶとケントは折った杉の枝を両手で持って力一杯振り回した。

 

 春風に乗って大量の花粉が辺りを黄色に染めた。


「やべぇ、花粉症になっちゃうよ」


「卑怯だぞ外人」


「うわっ、みんな逃げろぉ」


 てんでに悪態をつきながら、なかには泣きながら子供たちは逃げ去って行った。


「さぁニック、今のうちでござる」


 ケントがニックの腕を掴んで促し、二人もその場から逃げだした。


「ケント、ナントイウコトヲ!、、、ックション、ァーックション」



 各々の部屋へと逃げ帰った二人だったがニックのクシャミ、鼻水、目の痒みは薬を飲んでも暫くの間治まることはなかった。




 あれから2週間が過ぎていた。


 散々な目にあい、今だ花粉症は絶好超のニックだったが漸く重い腰をあげ隣人を訪ねてみた。

帽子のその後も気がかりだったが、もう一つ確かめたいことがあったからだ。


 悪化した花粉症にもうインターホンを警戒する気力もなかった。が、何も飛び出すことも無く普通にドアが開きケントが現われた。


 しかしケントの様子を見てニックは自分の予感が当たったことを確信した。


 ゴーグル型のサングラスに河童の嘴のように中央が大きく盛り上がったマスクを装着したケントはどう見ても重症な花粉症患者でしかなかった。


「ハ~イ、ニッ、、、ックション」


「やあ、ケント。最近壁伝いにクシャミが聞こえてくるからもしやと思ったんだけど、やっぱりキミ、、、ックション、、、花粉症になってたんだ」


「そうなんだヨ。どうやらあの日花粉まみれになったのが原因らしいんだ、、、ックション」


「どうだい。念願の花粉症デビューはァックション、、、実際になってみたら大変だろう。こんなものならないにこしたことはないんだから」


「確かにこいつは強烈だネ。目も鼻も取り外して水でジャバジャバ洗いたいヨ。でもこれぞ杉花粉の醍醐味だと思うと、、、ハックション、、、嬉シクテ涙ガ出テクラァ」

ケントは江戸っ子のように掌で鼻を擦る仕草をみせた。


「だからその涙は花粉のせいだってば。それにしちゃあケント、花粉大歓迎なわりには重装備じゃないか」


「何言ってんだいニック。こんなカッコイイ装備が着けられるのも花粉症になればこそだろ。それに見てくれヨ」

ゴーグルを外したケントの目は充血して真っ赤だった。


「どうだい。花粉の影響でヴァンパイアに覚醒したようなんだ。これで金髪だったら最高にクールなんだけど、残念ながらボクは黒髪だからなぁ。こうなったら髪の毛染めようかしら」


「馬鹿なことを。凄く痒いんだろ。こんなになるまで擦って」

ニックは試しに持っていた目薬を数滴垂らしてみた。


「ウォー、これが聖水の威力か!、、、ックシュン。目が、、、ックシュン、、、目が燃えるように熱いぃぃぃ、、、ックシュンックシュン」

吸血鬼キャラになりきったケントは目を押さえて大袈裟に身を捩って悶えた。


 悶えながらクシャミをする忙しい彼を見てどうやらケントは花粉症の他にチューニ病というものも罹っているらしいとニックは苦笑したが、そんな言葉を知っている自分もなんだかんだニックに染まってきているような気がしてゾッとした。


「さあ、いつまでも遊んでないで医者に行こう。アレルギーを抑える薬を貰えば少しは楽になるさ」


「ノーサンキューだよニック。せっかくニッポンの風物詩を味わってるのに。治ったらもったいないじゃないか」


「そうかい。でもね、もうすぐ桜が咲いてキミの大好きな花見の季節なんだがね」


 毎年ケントは桜が咲くと公園の桜の下で近所のお年寄りと一緒になって宴会に興じていた。


「せっかくの花見なのにクシャミや鼻水じゃあちっとも楽しめないと思うんだけど、どうだい」

暫らく沈黙していたケントだったが(といっても相変わらず二人のクシャミで賑やかだったが)やがて「仕方ない。花見は大事だ。鼻水で花見ず、ではジョークにもならないからネ」

と呟くと医者へ行くことを受け入れた。




 小柄で小太り、まるでタヌキのような初老のドクターは簡単な問診をしただけで

「これは花粉症だね。とりあえず症状を抑える薬をだすから効果なかったらまた来なされ」

とあっさり診察を終えようとした。


「え、コレデ終リ?・・・」

なおざりな診察に同席していたニックの抗議の声を制してケントがドクターに尋ねた。

「あのー実はドクター、もう一つ見て欲しいものがあるのデス」


まさかチューニ病の診察を!?自覚があったのか!

ニックの見当違いな思惑をよそにケントはマスクに手をかけた。


「診て欲しいのは鼻なのデス」


「鼻水かね。それも薬が効けば楽になるから」

適当なドクターにケントはいつになく真面目に答えた。


「いえ。鼻水は、出る。ケド垂れないのデス」


「はあ。どういうことだね」

ドクターは怪訝な顔をした。


「垂れる前に吸ワレテシマウのデス」

そう言いながらケントはマスクを外した。


 その顔を見てドクターもニックも飛び上がるほどに驚いた。


 大きなマスクに隠れて気づかなかったがケントの鼻の頭から長さ5センチ程の木が生えていたのだ。


「おい、ケント!こんなときにまで悪ふざけするのはよさないか。ドクターをからかったっていいことないぞ」


「そうだよ君。さっさとそれを取りなさい」

ドクターはケントの鼻に付いている木を引っ張った。


「て、イチチチ、、、イターイ!ヤメテクダサイ。違うのデスヨ。これホントにボクから生えてるのデス。ホラ良く見て」

と言われて二人がケントの鼻を凝視した。


 確かに、鼻の頭からすっくと伸びた木はその元を辿ると数本の根が網目のように鼻翼を覆いそれぞれの鼻腔へと深く続いていた。


「ホントに自分で付けたんじゃないのかい?」

ニックが木を摘まみながら尋ねた。


「本当だヨ。初めはなんだか固い鼻毛が数本生えてきたと思ったんだ。それも両方の穴からお揃いでさ。毛抜きで抜こうとしたんだけど痛くて抜けなかったんだ。ほっといたらどんどん太くなって鼻伝いに上に昇って来て…ある朝目覚めたら鼻の頭で二つの穴から生えた鼻毛が絡まるように捩れて一本の棒になってたんだ。これは凄いことになったぞと思っているうちにぐんぐん大きくなってきたんだヨ」


「って、ケント、その時点で医者に行こうとは思わなかったの?」


「だってなんだかワクワクするじゃないか。近所の人もみんな面白がってくれるし」


「え、その格好で街を歩いたのかい?」

ニックにはケントの思考が信じられなかった。


「そうだよ。みんなボクを指さしてピノキオ、ピノキオって」とケントは嬉しそうだった。


「ねえ、ニック。ボクの先祖は実はシラノ・ド・ベルジュラックなんだ」


「は?」

ニックはポカンとした。


「なんてね、嘘だヨ。でもホラ、嘘付いても鼻は伸びなかったろう。これは決して妖精の魔法なんかじゃないんだヨ」


 今のは嘘だったんだ?何の話かニックには全然意味が判らなかった。


 戸惑うニックを置いてケントは言った。


「ボクとしては天狗とか呼ばれたかったけどちっとも迫力ないからネ、ボクの顔は。せめてウソップぐらい呼んでくれてもいいのにネ。木が下に向いて生えてたら、、、ックション、、、禅智内供みたいでさ、アクタガワの世界が体験できてそれはそれで良かったんだけど」


ケントはどうやら本気で状況を楽しんでいたらしいとニックは呆れた。


「でもさっきまでマスクで隠してたじゃないか。もっと皆に見せびらかしたらよかったのに」

本当は恥ずかしかったんじゃないのか?いくら陽気なケントでもこの格好を見られて平然としてはいられなかったろうとニックは疑った。しかし、


「そうしたかったんだけど、この木に虫が止まりにくるのが鬱陶しくってネ。それで隠しちゃった」

ケントの答えはまったくニックの予想外だった。


「なんだか妙なことになったもんだ。それにしてもドクター、一体これはどういうことデスカ?」

当事者のケントよりもニックは原因究明に真剣だった。


「さあ、わたしにもさっぱり判らんよ。ただ言えるのは、間違いなくこれは杉の木の幹だということだね。普通、杉の幼木といえばもっと葉が広がっとってこんな幹だけで生えてはこないんだが、この樹皮は間違いなく杉の木だな」


「ということは?」

ニックが先を促す。


「仮説も仮説だが、君の話だと杉の枝が鼻に入ったと言っとったな。その時、枝先が鼻の粘膜に傷を付けて雌花が擦り着き、そこに枝を振りまわして吸いこんだ花粉が付着して見事受粉したんだろう。場所が場所だけに特殊な生え方をした、まぁそんなとこじゃないかな」


 また乱暴な見解を、と思ったが否定する根拠もまたニックにはなかった。


「これからどうしましょう」

まるで他人事のようにケントが聞いた。


「さぁなあ。皆目見当がつかんよ。まあ大きくなって持て余すようなら当医院自慢の高枝伐りバサミで剪定してさしあげるよ。もちろんたっぷり麻酔をかけるから痛みは感じないさ」

ドクターも文字通りの他人事に呑気な返答をするだけだった。


「途中で枯れかけたりしたら植木職人に診てもらった方がイイデスカネ?」

ケントが笑いながら尋ねた。


「そうかもしれないな。或いは樹木のドクターがいいかもな。はっはっは」


「藪じゃなければイイデスネ。アーハッハッハ」

ドクターの冗談をケントが混ぜっ返した。


 二人のあまりの適当ぶりにニックが少し声を荒げ先程発しかけた抗議の言葉を改めて投げかけた。


「ドクターは問診だけで花粉症って仰いましたけどホントにソウナノデスカ?こんな木まで生えてもっと重篤な病気だったら責任問題デス」


 だがドクターは平然と答えるだけだった。


「こんな立派な杉の木が生えてるんじゃぞ。杉花粉のアレルギー以外ありゃせんて」


 それ以上は取り付く島もなく薬を貰うと二人は交互にクシャミをしながら家路を急ぐのだった。




 鼻に幹を生やした男の噂は瞬く間に町中に広まった。


 日々成長する幹はマスクでは覆うことが出来なくなってきた。ケントは防虫スプレーで虫除け対策を施すと鼻を隠すことなく出歩いた。


 もとが陽気で細事に無頓着なケントは町内の人々の好奇な視線を感じると自分から近寄って話しかけた。誰にでも気軽に鼻を見せ、一緒に写メに納まったり請われれば喜んで鼻先の杉に触れさせた。


 いつしか呼称も本人の希望通り「ピノキオ」から「クシャミ天狗」あるいは「杉の精霊」などと渾名されるようになり益々ケントを調子づかせた。



 ある日ニックが夕飯を食べているとケントが興奮気味に訪ねてきた。


「ニック、聞いてよ!凄いんだ、ビッグニュース!、、、ックション、、、テレビだよテレビ」


「落ち着いてケント」


「落ち着いてるよ。おや?いい匂い。ひょっとして晩ご飯の最中だったかい。おかずはニクジャガ?ニックだけに?」


「チガ~ウヨ!なんだい突然訪ねてきてテレビテレビって。ひょっとして、、、ハックション、、、『突撃!隣の晩ご飯』かい?ヨネスケが来たのかい?」


「そうじゃないんだケント。ヨネスケよりもっとグレートなんだ。ぴょ、、、ックション、、、ぴょこたんだよぴょこたん!」


「ぴょこたんってひょっとするとケントが大好きな女性タレントのぴょこたんかい?」


「そう、そのぴょこたんだヨ。彼女はアイドルだけどオタク文化にも造詣が深く自らアニソンや声優もこなす女神みたいな人だヨ」


「そのぴょこたんが、、、ハックション、、、晩ご飯を見に来るのかい?」


「ぴょこたんは晩ご飯は見ないヨ。彼女が出演している夕方の情報番組でボクを取材したいって。彼女本人がレポーターとしてやってくるんだ」


「凄いじゃないかケント。取材はいつなんだい?」


「確か明後日の夕方、生放送って言ってたネ。場所はマ、、、ックション、、、マンション前の公園だって。ニックも一緒に来てくれヨ」


「いいのかい?ボクが一緒でも」


「もちろんさ。キミはボクの杉仲間じゃないか」


 そんな繋がりでテレビに映るのは嫌だと思ったニックだったがケントは意に介することなく用件だけ言うと「ぴょこたん!ぴょこたん!」と跳ぶように自室へと戻って行った。


 どうやら彼の人生は目下のところ己の鼻同様に最高に盛り上がっているようだった。




 それから当日まで彼は浮かれ続けていた。


 壁越にぴょこたんの歌が大音量で響いたかと思えばクシャミの合間に何やら話し声が聞こえることもあった。


 (来客の様子も無いのに? )とニックが聞くとはなしに聞いているとどうやら一人でインタビューの受け答えの練習をしているらしかった。



 そんな彼のハシャギぶりが促進剤となったのだろうか。

彼の鼻先の幹に変化が起こっていた。


幹の周囲から何本もの柔らかく細い幼木が芽吹きだしたのだ。

それらは幹を螺旋に伝って先端へと集結し一本の束となった。

やがて針状の葉を線香花火のように茂らせながら更に先へ先へと伸びていき棒状だった幹は放送当日には小さいながらハッキリと杉の木とわかる形となりケントの鼻から真っ直ぐ突きだしていた。



 当日昼過ぎ、夕方の放送を控えテレビ局から依頼され体調のチェックにやってきたドクターはケントの鼻の成長に驚いた。


「一週間足らずでよくもこんなに成長したもんだな。脈拍、聴診に異常は無しと、まあ相変わらず花粉症の症状はあるとして、君自身、他に体調に変化はないかね」


「トクニカワリマセンヨ。、、、ックション、、、これは治りませんけどネ。」

相変わらず充血した眼でウインクしてみせた。


「約30cmあるな。これだけ成長して重くはないのかね」

茂った葉を弄りながらドクターは尋ねた。


「意外と軽いデスネ」

ケントの答えも実に軽かった。


「どうですか、先生。出演に問題は?」

噂以上の鼻の様子にディレクターが興奮気味に尋ねた。


「うん、問題なかろう、、、ただ、、、」


 ドクターの言葉が終わらないうちに「そうですか。ではケントさん、行きましょう」大反響を確信したディレクターは急かすようにケントの腕を取ると撮影準備の進む公園へと連れ去った。


「タダ、ドウシタノデスカ?」

あっさり取り残された杉仲間のニックがドクターに先程の言葉の続きを促した。


「うん、ただな。小さいながらも杉が開花しかけていたような気がしたもんでな。ちょっと嫌な予感がしたんだが。興奮が木の成長を促してるようだし、、、まあ彼があんまりはしゃがなければ良いのだが、、、今日は風もいささか強いようだで」


 そう言われてニックが窓から覗くと街路の樹木が風で揺れていた。帽子を飛ばされたあの日のように。


「ックシュン」

思いだしたらクシャミがでてきた。



 いよいよテレビ中継の本番。

ケントのはしゃぎっぷりは半端なかった。


 もとが陽気でフレンドリーな性格に加え、憧れの人を真横にしケントは大興奮だった。


 ぴょこたんの困惑をよそにいきなり彼女を讃えまくったかと思うと強引に手を取って握手を求めたり写メを撮ったりとカメラなどお構いなしに弾けていた。


苦笑いでなんとかその場を収めた彼女は不思議な鼻について矢継ぎ早に質問し、その問いの一つ一つにケントはオーバーなリアクションを交えて応えていった。


 ときおり発するクシャミがうっとおしかったが、アイドルをたじろがせる外国人のハイテンションはテレビ的には大成功となるはずだった。


 

しかし、ケントの過度な興奮は鼻先の杉にも多大な影響を与えていた。



 インタビュー中に杉の花はすっかり開花し彼が大きくリアクションを取る度に葉は揺れて周囲に黄色い花粉を飛散させた。


 花粉の威力は強大だった。


「、、、ックシュン」

最初に反応したのはずっとケントの側にいたぴょこたんだった。


 最初は可愛らしいハプニングも「ックシュン、クシュン」と止まらなくなりレポートに支障をきたした。


 続いて撮影スタッフが、更には周囲で観覧していた町の人々が口々にクシャミを発し始めたのだ。


 公園周辺は花粉症の症状を訴える人で溢れた。


 ついにぴょこたんがクシャミとともに二つの鼻腔からつららのように鼻水をズズッと垂らしアイドルにあってはならぬ面相となるに至ってはもはや中継の続行は不可能であった。

 早々に放送は中断され番組スタッフは撤収していった。


 憧れのぴょこたんもクシャミと鼻水の止まらぬ顔をタオルで抑えマネージャーに支えられながら去って行った。


茫然と佇むケントの脇を彼女が足早に駆けていった際、抑えたタオルから彼女の嗚咽が漏れ聞こえてきてそれが放送の中断以上にケントにはショックだった。




 人気者の凋落はあっという間だった。


 あの中継の日、風に乗って飛散したケントの花粉は町中へと拡散し、公園に集まった人たちのみならず当時外出していた町の多くの人に花粉症を引き起こさせたのだ。


テレビを見ていた人たちは花粉症の原因のすべてをケントのせいにした。


 やがて動くたびに花粉を散らしてしまうケントは町中の人から疎まれた。

それまで物珍しがって一緒にはしゃいでいた人たちも彼を遠ざけ、なかには石を投げる者までいた。


 ついには彼自身、ちょっとしたことで黄色い粉を飛ばしてしまうため周囲に気を使い外出することができなくなった。


 

 しかしその頃は時すでに遅くケントの飛散させた花粉をこの町の殆ど全ての人が浴びていたのだった。



 更に事態は深刻な展開をみせた。



 ケントの花粉を浴びた人達は次々と彼と同じ状態、つまり鼻から木が生える症状に陥ってしまったのだ。

これには町中がパニックになった。

町は怒声と泣き声とクシャミで満ち満ちた。


 命に別状はないので落ち着くようにと町中に告げて歩くドクターの訴えも虚しく響くだけだった。

もちろんそのドクターの鼻にも小振りの杉がしっかりと根付いていた。


 ケントの家の電話は連日抗議と怒りで鳴りっぱなしだった。

直接訪ねて来る者もおり喧嘩腰の相手を納得させる術もなくさすがのケントも対応できず居留守を使う他なかった。


 逆に頻繁に出入りしていた彼の友人たちは誰一人訪ねてこなくなっていた。


 見かねたニックは管理人から合鍵を借り、人目を忍んでケントの部屋を訪ねた。

部屋中のカーテンを閉め切りケントは布団に仰向けに寝ていた。


「どうしたケント。具合が悪いのかい?」


「やあニック、来てくれたんだ。花粉症は相変わらずだけどそれ以外はいたって健康だヨ」


「だったら寝こんでなくてもいいじゃないか。かえって不健康だ」


「横になって色々考えていたんだ。町の人たちはなんであんなに怒るんだろうって。町中のみんなが鼻に杉を生やしてるなんてとっても面白いのに。最近じゃあハロウィンにはみんな頭をカボチャにしてるっていうのにネ」

この期に及んで呑気なケントに驚いた。


「カボチャはいつでも脱げるから。身体の一部から木が生えるなんて普通の人は誰だって嫌だよ」


「でも日本には頭から桜の木が生える話だってあるんだヨ。昔からそういう体質の人間もいたんじゃないのかな」


「話のすべてが現実なわけないだろ。でもまあ事態をキミ一人のせいにして責め立てる人たちの行為もどうかと思うけど。初めは面白がって一緒に笑ってたのにさ」


「仕方ないヨ。害がなければ異質な者にも親切にできるのが日本人の性質だけど自分を異質にさせる者や害を与える者を徹底して拒否するのも日本人だからネ」


「それは日本人に限ったことじゃないと思うけど」


「この国のコミュニティーのうわべに馴染むのは簡単でも深いところで受け入れられるのは難しいんだヨ」


「お気楽な癖に深く考察してたんだ」


「この国が心底好きなだけだヨ」

力なくケントは笑った。


この隣人はこんな目に合ってもまだニッポンが大好きだと言う。なのにその国の住人たちは彼に、、、ニックは切なくなった。


「ねえニック、お願いがあるんだ」


「なんだい。帽子のことだったら気にしなくていいんだ。こんな状況だし」


「え?帽子?ああ、ごめん。そうじゃないんだ」

その態度にケントが帽子のことなどまるっきり忘れていたのだとニックは知った。


「このままどんどん杉が大きくなるようだったらボクの身体も危ないんじゃないかと思うんだ」


「死ぬなんて何を弱気なことを言ってるんだ、キミらしくもない」


「いや、死ぬっていうか、今はまだ杉はボクの一部でしかないけどこのまま杉が大きくなったらボクが杉の一部になってしまうんじゃないかってことさ」


「冬虫夏草みたいなことかな」


「もしそうなってボクが動けないほど杉が育ったら、ボクを公園の一本杉の近くに植えて欲しいんだ」


「そんなことをしたら生き埋めになっちゃうじゃないか」


「多分その頃には意識もないと思うから」


「そんな命にかかわること約束できないよ」


「だったらいいよ植樹は他の人に頼むから。でね、ボクが植わったらその脇にそこにある札を立てて欲しいんだヨ」


 ケントの視線の先を辿ると壁に大きな板が立てかけてあった。

ニックが寄って見るとタンスと同じぐらいの白い板だった。立ち上げると板の上半分に2行に渡り文字が書かれていた。


「ナンだい?これは」


「立て札だヨ」

なるほど板の下半分の余白は地面に埋める為のようだ。


ケントは布団から上半身を起こした。


「『杉の精霊 クシャミテング』って書いてあるんだ。せっかく天狗杉の隣に並ぶんだからボクも後世までカッコイイあだ名で呼ばれたいと思ってさ。この前まで皆が呼んでくれていたのが気にいってたんでネ」


 黒い墨を使い筆で殴るように書かれたそれはいつものシャツのデザインとは異なり随分乱雑に思えた。


「自分で書いたのかい」


「うん。さすがに事務所に行ってきちんとデザインすることは出来なかったけどネ。ちょっと字が汚いだろ。それに天狗の漢字がわからなかったからカタカナになってしまったのもちょっと残念だけど」


いや、残念なのはそれだけではないだろうとニックは思った。


「ケント、言いにくいんだけど後世に残したくて書いたのなら敢えて指摘させて貰うけどいいかい?」


「そんな改まらないで素直な感想を言ってヨ」


「じゃあ、遠慮なく。まず1行目の『杉の精霊』だけど。杉の字がバランス悪くて木三って読めるんだ。人の名前みたいだろ。それに精霊はたぶんランプの精とか木の精って意味の精霊を言いたかったんだろうけどキミが書いた字は生霊だ。これだと(せいれい)ではなくて(いきりょう)だよ。『木三の生霊いきりょう』、なんだかおっさんの怨念みたいじゃないか」


 ニックの指摘にケントはきょとんとするばかりだった。


 ニックは更に続けた。


「そして2行目の『クシャミテング』だけど。まず最初と最後の「ク」だ。キミの書く「ク」は横の棒が伸びすぎて「ケ」に見えるんだ。「シ」は字が滲んでしまって「ジ」に見える。「ャ」は「ラ」と書き間違ってるし「テ」の字は縦の棒が一番上の横棒にくっついてるから「チ」になっちゃってるよ。それを踏まえてこれを読んでごらん。『ケジラミチンゲ』なんだか股間がむず痒くなってこないかい。もしこのまま立て札にしたら、おっさんの怨念が股間を苦しめる呪われたスポットになりそうだ」


 痒いのか涙ぐんでいるのか俯いて目を擦りながらケントは言った。

「怨念のスポットじゃ誰も近づいてくれないネ」


「そうだよ。それでなくたって今キミは町の人から逆恨みされてるんだ。ただでさえ忌々しい杉にこんな札が立ってたら速攻切り倒されるさ」


「ニック、教えてくれてありがとう。それにしても、、、木三って誰だよなあ。ケジラミって、、、アハ、アハハ、アハハハ、、、ハーックションハーックション、ックション、ックション」

自虐的に笑うとつられるように、いつになく大きなクシャミが続けて何度もケントの口から飛び出した。


 次で21回目だ、思わず数えてしまっていたニックの指が3回目の往復にかかった時ひと際大きなクシャミとともにケントの鼻から杉の木が飛んだ。


 杉はまるで矢のように真っ直ぐニックの頭上スレスレを掠め飛び、後ろに置いた看板に当たりボテッと落ちた。


「ケ、ケント?危ないじゃないか」


「ごめんニック。いやー、まるでウイリアムテルか那須与一だネ」


「何言ってるんだい。たまたま頭に当らなかっただけじゃないか。それにしてもケント、鼻、大丈夫なのかい?」


「鼻?、ああそう言えば、痛くもなんともないや。むしろ凄くすっきりした気分だ。やっぱり鼻はこれ位の高さが丁度いいネ。へへへ」

ケントは鼻を撫でながら童顔に爽やかな笑みを浮かべた。


 まったくケントときたら、人が散々心配したっていうのになんだいこのマイペース振りは、というニックの想いをよそにケントは取れた杉の木を拾ってまじまじと見つめていた。


「これ植えたら根付くかな?」


「ケント、この木には残念ながらまだ町の人の怒りが向けられたままなんだ。植えて根付かすなんてもっての外だよ。処分するにしても燃やして有害物質がでたりしたらいけないし、繁殖が怖いから埋めるわけにもいかない。暫くは厳重に密封して保管しておくしかないんじゃないかな」


「そうかなぁ。まるで放射性物質だね。ボクにはただの杉の木にしか見えないけどなあ」

杉の木を両手で掲げ繁々と眺めていたケントが小さく叫んだ。


「あれ?」

突然、杉の木は急速に萎みだした。同時にパラパラと葉が枯れ落ちた。


 異変はあっという間に進行し、ケントの手の中で杉は薄っぺらな棒になっていた。


そしてパサパサとケントの手から崩れ落ちた。先に落ちた葉も同様に形を無くし、畳の上には細かく砕けた木屑の小さな山が残った。


「崩れ散ったネ」

掌に付いた細かい木屑を払いながらケントが呟いた。


「どうしよう」

処理に困るニックに構わずケントは木屑を箒で掻き集めビニール袋に入れた。




 真夜中を過ぎるのを待って二人は公園へと出かけた。

夜の公園とくればもちろんケントは忍者服を着用していた。


「元はこの木の一部でござるからネ」

そう言ってケントは袋の中の木屑を大杉の根本に撒いた。


 夜風を受けて大杉の葉がわさわさと揺れ闇の中に花粉が舞った。気のせいか二人にはキラキラと金色に輝いて見えた。


「ハックション、ハーックション」

静かな夜空にニックのクシャミが響いた。




 その後、事態は瞬く間に収束を迎えた。


 ひと際大きなクシャミが出るのを合図のように人々の鼻から杉の木は飛び落ち崩れ去った。

 

 ケントの杉が落ちてから1週間の間に町の人全ての鼻から杉の木は消えた。


 そしてもう一つこの町から消えたものがあった。


 杉の木が消えると同時に人々は花粉症の苦痛からも解放されていたのだ。


 二重の苦しみから解放された人々はこれを「鼻杉の奇跡」「杉の精霊の悪戯」などと呼称し町は喜びに溢れた。


 もう誰もケントを恨む者も憎み悪く言う者もいなかった。それどころか皆ケントに非礼を詫びると、彼を花粉症根絶の立役者と讃え再び町の人気者として笑顔で迎えたのだった。


 むろん彼も今までとなんら変わらぬ屈託ない笑顔で町の人たちとの交流を楽しんだ。


 ニックはげんきんな町の人々の態度とケントのお人好しさに呆れつつ、皆と談笑する彼にそっとミネラルウォーターのペットボトルを手渡した。


「ん?」

不思議そうな顔をするケントに

「ミズニナガス、だネ」と笑って見せた。




「偶然、杉が落ちたのと花粉の時期の終りが重なったっていうだけではないのデスカ?」


 診療室でニックの問いにカルテを書きこみながらドクターは首を横に振った。


「花粉の飛散はまだ終わっちゃいないよ。公園に行ってごらん。大杉はまだ黄色い粉を撒き続けとるだろ。シーズンが終わってないのは君もよく判ってるはずだ」


「だったら何故みんなの花粉症が治まったのデスカ?」


「これまた仮説だがね。杉が成長する過程で人の体内にあるアレルギー要素を取り込んでいったのかもしれん。実際鼻水はみな養分として杉に吸われとったわけだし。杉の木が落ちた人は皆、花粉症だけでなく体調が良くなったというから体内の他の毒素も杉が吸収したんじゃないかな。言わばデトックスだ。その毒素が逆に杉の体内に蓄積されて結果杉の崩れ落ちる原因になったのかもしれん。もっとも落ちた杉も屑と消えホントのところは調べようがないがね」


「ナゾ、デスネ。生物の不思議ってやつデスネ」

両手の掌を上に向け肩の高さまで上げてお手上げのポーズを取ってみせるニックにドクターは言った。


「ニック、わたしにはお前さんの方がもっと謎なんだがね」


「ボクが謎デスカ?」


「そうだよ。ニック、君だ。ケントの側にいた者はほんの僅かな時間だったぴょこたんでさえ、いやそれどころか、まったくケントと接触していない町の人々まで鼻から杉を生やす程にケントの杉花粉の影響を受けたんだ。なのに誰よりも彼の側にいたニック、君だけは杉を生やすことがなかった。いったい何故なんだ?わたしにゃそのほうが気になって仕方ないよ」


「でもこれから生えてくるのかもしれません」


「いや、さっき君の鼻の穴を内視鏡で覗いたけれど至って普通だった。杉の木の形成の前兆である固い鼻毛もまるでなかったよ。なんで君一人なんともなかったんだろうな」


「さあ、それはボクにもまったく心当たりがありませんし皆目見当もつかないコトデス。ただ一つ言えるのは、いまではボクがこの町ではたった一人の貴重な花粉症患者だっていうことデスネ、、、ハーックション、ハーックション、ハーックション、、、それにしてもドクター。ドクターの出してくれる薬、あんまり効かないデスヨ」


「いやあ薬のせいではなかろう。それこそ君だけ感染しなかったことと関連あるんじゃないのかい?一度鼻を切って構造をみてみようか」

そう言ってメスを手に迫るドクターにニックは慌てて「結構デス」と叫ぶと診察室から飛び出した。

中からドクターの笑い声が聞こえた。



「ハーックション、ックション、ックション」

今診察を受けたばっかりだというのにクシャミが止まらない。


 ホントにこの藪ドクターは口先だけ妙に達者だ、とニックは心の中で舌打ちしながら薬を受け取るとクリーム色のソフト帽を被り足早に病院を後にした。


 帰り道、ニックは公園に立ち寄ると遠目に大きな杉の木を見つめた。


 言われてみれば確かに自分だけ杉が生えなかった。生えればこの煩わしい花粉症ともサヨナラできるのだろうか。


 ケントから感染しなかったのなら彼のように直接杉の枝を鼻に突っ込んでみたらどうだろう。

今夜あたり人気の無い時にでもこっそり、、、大杉を眺めながらそんなことを考えていたら横で袖を引っ張る者がいた。


 振り向けばケントだった。


「やあ、ニック。こんなとこで何してるのさ」


「ケ、ケント!キミこそなにをやってるんだい」

まさかキミの真似をしようと思ってたとは言えずニックはドギマギしながら聞き返した。


「いやあもうすぐ花見の季節だろう。今度は杉じゃなくて桜を鼻から生やしたら受けるかと思ってネ。それとも松だったらミニ盆栽みたいでクールかなあって考えてたんだけど、ニック、キミはどう思う?」

悪戯な笑顔で小首を傾げるケントにニックは開いた口が塞がらなかった。


「まったくキミって奴は懲りない男だな。桜は毛虫が付くし松は枝で顔中チクチクするから止めておくがいいさ」


 ニックの真顔の忠告にケントは目を細めて「ソウダネ」とひとこと言うと杉の木に背中を向け鼻歌交じりに歩きだした。


 そんなケントの後ろ姿を見ながらニックは一瞬でも彼と同じことをしようと思った自分を大いに恥じたのだった。


「ハーックション」

一つ大きくクシャミをすると「おーい、待ってくれ~」と小走りにケントを追った。


 気分良さげな鼻歌としかめっ面のクシャミ。

賑やかな外国人が二人肩を並べて古くて小さなマンションへと消えていった。



-おわり- 

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