プロローグ1
長い夢から覚めるように、徐々に意識が戻る。
最初に感じたのは冷たさ、そして頬を支える固さ。どうやら床で眠っていたらしい。
もう少し、あの優しい微睡みを味わっていたかったけれど、
全身に纏わりつく気怠さが意識を現実に引き戻した。
目を開ける、ゆっくりと。
———薄暗い。
床のタイルは水晶のようにピカピカで汚れひとつない。仄かに発光しているようにも見える。
にもかかわらず薄暗い。恐らくこの空間には照明がないのだろう。
(無風だし、野外ってことはないな。どこかの建物の中かな)
ぼんやりそんなことを考えているうちに意識がはっきりとしてきた。
寝ていても仕方が無い。起きよう。
指先に力を入れる。緩める。力を入れる、緩める。よし、体は動く、正常だ。
体を起こす。次に周囲を見渡す。
薄暗い。そして広い空間だと———思う。
目の前に広がるのは純粋な闇、そして不気味な輝きを放つ水晶の床が遠くまで続いている。
さて、どうしてこんな場所にいるのか。現状がさっぱり把握できない。
どうやらまだ意識が曖昧なようだ。
んーっと息を絞り出し腕を天に伸ばす。よし、起きた!
まずは現状の把握に努めよう。
ここがどこなのか → わからない。
何故こんな場所にいるのか → わからない。
ここに来る前のことは → わからない。
そもそも自分はどこの誰で何者なのか → ……。
いや、そんな、まさか。
わからないって事はないだろ、自分の事だろうに。
ほら、頭の奥に何か引っかかっている。もう少しで出てきそうだ。
思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ、思い出して!
私は……
視線を下げる。水晶の床は鏡のように自身の姿を映し出している。
今にも不安で泣き出しそうな顔をした燕尾服姿の少年と眼が合った。
初めて見る顔だ。
それが自分の姿であると理解した時、言い知れぬ恐怖が込み上げてきた。
(私は……誰だ?)
記憶がない。
何もない。
自分が何も持っていないという事が、
空っぽの人間であるという事が、こんなにも恐ろしいなんて。
小刻みに震えた体から力が抜けていく。
(あ、ダメだ。立ってられな……)
「グッモーニン、良い夢は見れましたか」
「っっっっっ!?」
すぐ背後から聞こえた声に驚き振り返る。
そこには奇妙な仮面で顔を隠した道化師が立っていた。
声と背格好からしておそらく成人男性だろう。
まったく気配など感じなかったが、いつからいたのだろうか。
最初から?
得体の知れない者を前にし、体に力が戻ってくるのを感じた。
警戒は必要だ。
「いやぁーははは、どうやらすぐにお友達とはいかないようで」
「何者ですか」
言うや否や、彼はパチンと指を鳴らした。
すると真上からスポットライトの光が降りてくる。
この空間に照明があったのか?いや、光源にそんな物は見当たらない。というか何そのシステム!必要なの!?もう訳がわからない。
「わたくしですか?そうですね、Mr.ジ☆エンド!とでも名乗っておきましょうか。あぁ、どこぞの宇宙海賊じゃありませんよ?」
宇宙……海賊?元ネタがあるのだろうか?よくわからないが、胡散臭い。
警戒心は深まるばかり、気がつかないうちに身構えていた。
そんな様子を見てか、道化師は残念そうに肩をすくめると言葉を続ける。
「えーごほん。失礼ですが、貴方は何故ここにいるのかお分かりですか?」
「いいえ」
「ここがどこかお分かりか?」
「……いいえ」
「ではあなたが何者なのかは?」
「…………わかりません」
「存じております(笑)」
よし、次やったら殴ろう。
絶対殴ろう。仮面をカチ割ってやろう。
「まあまあそんな怖い顔をするのはやめましょう。ご自分のお名前くらいはわかるでしょう?」
「……エクトル」
不思議と、言葉はすんなり出た。
あれだけ脳をフル回転させても自分が何者か分からなかったのに。
名前は?と聞かれて、まるで用意されていたかの様にすぐ口からこぼれた。
この道化師は何かを知っている。
少なくとも私に関して、名前以外の記憶が一切無いことを「存じている」と答えた。
私がこの場所で記憶を失い存在している原因、それが彼にある可能性は高い。
しかし直球で疑問を投げても、この道化師からまともな返答はこない気がした。
彼は登場から今まで、道化としての役割を終始徹底している。
ならば投げるのは変化球、どんな言葉を返すのか様子を見よう。
「あなたは物知りだ、私の知らない私の事を色々知っている」
うん、あんまり変化球っぽくない気がするけど、まあいい。
念のため怒らせない様に言葉は選んだつもりだ。どうだ?
「ええ、貴方の事はなんでも知っていますよ」
乗ってきた。よし、ここから情報を引きずり出そう。
私は乾いた唇を舌で舐め、平静を粧い言葉を投げ返した。
「なんでも知っている、なんて何にも知らない詐欺師の常套句じゃないですか」
挑発的過ぎたかな?いや、怒っている様子はない。
「詐欺師、酷いですねぇ。
人を踊らせる事なんてできませんよ、道化師は常に踊らされる側、
しかしそこまで言われては、わたくしの道化師としての沽券に関わります。
道化師として、貴方の事を答えない訳にはいかない」
少しわざとらしい挑発だったが、どうやら正解だったらしい。
道化師は歌うように語り始めた。
「貴方は小さな島国の港町で生まれました。
両親は漁師。父は仕事柄家に居ることが少ないため祖母が家事を手伝いに来る、そんな家庭。
家族の仲は良好、あなたは成長と共に学び舎に通うこととなり友人にも恵まれとても幸せでした。
まあ、駆けっこは苦手だったためあまり女の子にはモテなかったみたいですが……。
しかし10歳の誕生日、悲劇は起きました。
バースデーケーキを買いに出かけた両親は、二人とも二度と返らぬ人となりました。
通り魔により刺殺された死体が発見されたのは3日後の事、
あまり泣かない子供だったあなたはこの日一生分の涙を流しました。
犯人はあっさり捕まりあっさり死刑になりました。
ましたが——憎しみが消える事はありませんでした。
その矛先はこの世の中の全ての悪意へと向かいました。
そして復讐を誓うのです。いつの日か犯罪者を裁く立場になり、そして」
ごくりと喉を鳴らし、言葉の続きを待った。
「というのは嘘でーーーーす(笑)」
迷わず殴った。
避けられた。避けるなよ!
「危な!!急に殴るとかどんな神経してるんですか」
「よくもこう長々と適当な言葉が吐けますね」
「言ったでしょう。道化師として答えると」
つまり最初から真面目に答える気などなかった、ということか。
「だけど良かったですね」
何をもってどう良かったのか、糾弾しようと口を開きかけた、が出来なかった。
仮面の奥の瞳がニチャリと陰気に歪むのを感じ、思わず言葉を呑んだ。
「もし私が詐欺師だったら、もっと言葉巧みに嘘を吹き込み、信じさせることも出来た、
仮想の敵を用意された貴方は私の言葉を鵜呑みにして、こう思ったでしょう。
——復讐してやると。
利用されているとも知らずに。
記憶が無い、つまり今までに培ってきた人間性が無い。
という事は即ち、他者に簡単に操作されてしまうという事なのですよ、自分の在り方を」
ぞっとした。
背筋が寒くなり額から汗が流れる。
この道化師のどこか気の抜けた態度に当てられて、すっかり忘れていた事を、
この道化師の言葉で再び思い出した。
そう、今の自分はどうしようもなく空っぽだったのだ、と。
何が「踊らせる事なんてできませんよ」だ、充分に踊らされっぱなしではないか。
そして私は確信した。この道化師は絶対に味方などではないと。
であるならばこの道化師は何者なのか。
何が目的で私の前に姿を現したのかわからない。
というか、そう目的だ。
何故今まで疑問に思わなかったのか、この道化師の目的について。
自分の事で精一杯だったが、こいつについても何一つわかっていないじゃないか。
正直まともな会話ができるとは期待していないが、
それでも聞かずにはいられなかった。
「あなたは、結局何が目的なんだ」