第一エピローグ07
役行者は、何をもって、一言主を縛ったのだろうか。
それは、水月にとって、長らく思考の隅に引っかかった小骨だった。
役行者を祖とする役一族……即ち古典魔術師の家系に生まれた水月は、魔術師となるために、育てられた。
魔術師の求めるものは、いつの時代も同じだ。
曰く、全知。
曰く、叡智。
曰く、真理。
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った。
現代魔術において、アークと呼ばれている、宇宙の全ての形相を管理する『記憶装置』にして『入力装置』にして『演算装置』。
それは、時に形を崩しながらも、その一片を宇宙に顕現する。
時代によって変遷し、ときに神と呼ばれ、ときに悪魔と呼ばれ、ときに奇跡と呼ばれ、ときに真理と呼ばれた。
宗教の信徒はそれを神に求め、カバラ学者はそれを王冠の座に求め、錬金術師はそれを賢者の石に求め、プラトンはそれをイデアに求め、神智学者はそれをアーカーシャクローニックに求めた。
あるいは「役行者が示現した」という『金剛蔵王大権現』と呼ばれるそれこそ……アークの一端ではなかったか?
アークに、直接アクセスできうることのなかった水月には、とんと知りえないことだが、「そうなのではないか」との予感はあった。
とまれ、具現したアークの一片を、奥義秘伝として守るため、さらにその先の、完全なるアークへのアクセスへと到達するため、魔術師は日々魔術を研鑽し、なお後継を作り、丹念に育て上げる。
役一族も、そんな魔術師の家系の一例であった。
ただ、役一族が、他と違うとするところがあるならば、それは葛城一族とともにあった、ということだろう。
理由は、祖である役行者と一言主にしかわからない。
わからないが、役一族の祖である役行者と、葛城一族の祖である一言主とは、古い伝説にて、深い主従を持つ。
全てが伝説の通りではないであろうが、少なくとも役行者と一言主とが、「そうなるに至るための何かがあったのだろう」ことは、水月の想像の範疇であった。
よって葛城一族と共にする役一族にて、水月は育つことになる。
そして幼い水月にとって、葛城一族の人間は、兄弟にも等しい感覚だった。
疑問は無かった。
水月にとって、葛城一族の人間というのは、他人という考えさえ届かない、自身の延長だった。
それは、幼すぎる先入観。
伝統と呼ばれるしがらみであり、しがらみと呼ばれる伝統であった。
だから、それは必然だった。
役水月が、葛城さくらと出会うのは、必然だった。
「水月様」
そう水月を呼ぶ……幼いさくらの、なんと愛らしいことか。
そして月日は流れ、水月の中に、常識の濁流が流れ込む。
その時になって、水月は、自らとさくらの立っている場所を省みて、一つの疑問を抱く。
自らの祖たる役行者は、何をもって一言主を縛ったのだろうか、と。
(それを知ったとして、どうなるわけでもないんだがな……)
水月は、皮肉げにそう思う。
たとえ祖がどうであれ、水月が「さくらを求め拘束したい」ということに、何らかわりはない。
さくらのやわらかな笑顔を思い出し……、
「……………………」
と、そこで、水月は、目を覚ました。
辺りを見渡す水月。
沈思黙考。
「夢か……」
先ほどまでの、葛城さくらの映像が夢であることと、自身が慣れたベッドの上にいることを自覚してから、水月は枕もとの目覚まし時計に手を伸ばす。
時計に備え付けられたボタンを押して、目覚まし機能を解除するとともに、時間を確認する水月。
現在、午前五時半。
早朝だった。
「…………」
こたつ机、タンス、テレビ、キッチンへと続く扉、エトセトラエトセトラ。
自身の宿舎のベッドの上だ、と再確認する水月。
「しっかし……」
水月は、全てを察して、頭をガリガリと掻いた。
「馬鹿な夢を見てたもんだ……」
――いまさら昔のことなんて、と続けようとして、水月は言葉を飲み込み、あくびを一つ。
「たしか昨日は……」
アンネ=カイザーガットマンを名乗る少女を家に上げ、カレーを食べ、二人交互に風呂に入り、「ベッドで寝たい」と喚くアンネにパワーボムをかまして、床に予備の布団と毛布をしき、そこに居候を寝かせて、自分は悠々とベッドで眠りについたはずだ……と水月はそこまで思い出してから、つまり「不覚にも、早朝に起きてしまったのか」と自覚する。
「けほっ……」
ひどく渇いた喉を潤すために、水月は、キッチンにおいてある麦茶を飲み、それから夢の名残か、ふとさくらに会いたい衝動にかられる。
水月は、机に置いてあった手紙を、手にとった。
葛城さくらからの、役水月宛の手紙には、
『寄るべなみ、身をこそ遠く、隔てつれ、心は君が、影となりにき。想いに距離はありなどしませんよ水月様。遠くて近きもの、極樂、舟の道、人のなか……などとも言いますね』
そんな文脈が、書いてあった。
水月は、にやける自身を、抑えきれなかった。
「戀という字を分析すれば糸し糸しと言う心」……なんて言ったりもする。
愛する人がいるだけで、多幸感に包まれて、なお苛まれる。
それはまだ、人が解明できていない、脳の形相だ。
きっと今日はいい日なのだろう、と特に根拠もなく、水月は思った。
*
水月は、総合魔術史学の授業の退屈さかげんに、溜息をついた。
「エリファス=レヴィ、アレイスター=クロウリー、マグレガー=メイザース等に代表される新古典魔術は旧来の古典魔術の理論をよりぬき繋ぎ合わせるパッチワークの如きそれであり、これらは古典魔術の理論こそ上辺で認めはしたものの、その背景にある宇宙観をして矛盾たらしめる思想に他なりませんでした。しかして近代ヨーロッパの新古典魔術の隆盛によって現れた新しい魔術師の存在は、皮肉にも新古典魔術の妥当性を肯定し、古典魔術の正当性に疑問を投げかけることとなります……」
人間味も抑揚もない声で、資料に書かれた文章を、忠実に音声へと変換するがごとき、人間再生機と化したコンスタン教授の授業を聞きながら、水月は一つあくびをした。
教卓を最低位置として、階段状に上へとのぼっていくベタな大学講義室のようなつくりになっている教室の、その上段窓側の席を陣取って、水月は肘をついていた。
ときおり、眠たそうに、まばたきをする水月。
自らを包む緩やかな眠気に身を任せてしまおうか、などと学生にあるまじき判断を、水月がくだそうとしていたところに、
「ねえー……水月ー……」
声がかかった。
水月の着ているジャケットの袖を、弱々しく引っぱりながら、アンネが言葉を続けた。
「すっごく場違いな雰囲気ー」
そういって、所在無さげに、辺りを見渡すアンネ。
平均年齢が、優に十八を超える教室の中で、十三歳前後のアンネは、明らかに浮いていた。
水月は、さも当たり前のように、
「場違いだからな」
そう言った。
「まぁ気にすんな。当然みたいな顔して座ってろ。家で留守番してればいいものを学校についていきたいーって言いだしたのはお前だろうが」
「だって水月の傍にいないと不安なんだもんー」
もどかしそうに食い下がって、それからフード越しに頭をかくアンネ。
アンネは服装を、昨日のボロ布ではなく、フード付きジャケットを基本にした、ボーイッシュな装いに変えていた。
白い長髪は、服の中に押し込めて、フードをかぶり、一つの変装だ。
「現在でこそ量子燃料仮説による量子の捻出と決定が、魔力の入力と演算にとってかわっているものの、いまだその論的根拠の発見には至らず、時間の並進対称性のやぶれにおける一仮説でしかないことは……」
コンスタン教授は、無関係者を学校に連れてきている水月を、咎めることもなく、たんたんとテキストを読み進めていく。
水月もまた、無関係者を学校に連れてきていることなど、何処吹く風で、平然と授業を受けている。
「ねぇねぇ水月ー……」
「今度は何だ」
アンネは、コンスタン教授の座っている教卓……その後ろにある黒板を指差した。
「チョークがひとりでに動いてるー」
嘘ではなかった。
コンスタン教授が背にしている黒板では、誰にも触れられていないチョークが宙に浮かび、忙しそうに黒板に文章を書いていた。
まるで、チョークそのものが、意思を持っているかのように、だ。
しかし、そんな異常な現象が起きているというのに、教室の生徒は、誰一人疑問に思ってなどいないような態度であった。
水月は呆れたように、
「コンスタン教授も魔術師だからな」
異常現象を、魔術の一言で片付けた。
ポカン、と、するアンネ。
「じゃああれは、あの先生の魔術なんだー?」
「ああ、自分で筆記するのがめんどくさいからって、あんな魔術を開発したらしいぞ」
「水月もできるー?」
「無理。俺は修験道の思想を骨子にしている古典魔術師だから、修験道の解釈外の現象は再現できん。そういう意味じゃ現代魔術師は思想の垣根なく自身の望む現象を選択し再現できて便利だな」
「じゃあ魔力の入力と演算ができたからって色んな現象をホイホイ再現できるわけじゃないんだー?」
「そ」
と、平坦に肯定する水月。
そんな、水月の額に、コツンと何かが当たった。
「ん?」
額を押さえる水月の目の前を、何かが落下する。
それは紙飛行機だった。
誰の悪戯だ、と多少の憤慨でもって、その紙飛行機を広げる。
そこには、こう書いてあった。
『何でその子と一緒なんですか?』
「…………」
意味がわからず黙り込む水月。
しばしそうやって沈思黙考した後、水月は犯人を捜して、教室を見渡す。
すぐに見つかった。
「……ラーラか」
なにやら不機嫌な表情のラーラ=ヴェルミチェッリが、少し離れた席から睨んでいた。
自身のことを棚に上げ、基本的に不真面目なラーラが授業に出ていることに驚き、そしてメッセージは「おそらくラーラからのものだろう」とあたりをつける水月。
水月は、ペンを持って、
『なりゆき』
と紙面に書くと、それを紙飛行機に戻して、ラーラのほうへ投げる。
ラーラは器用に受け取って、それを読むと、しばし悩み、それからまた何やら記述して、その紙飛行機を投げてくる。
水月も、また、器用に受け取って広げる。
『どういう関係です?』
読み終わると、水月はペンをとって、
『主人と座敷犬、みたいな?』
返事を書き、投げる。
ラーラも、また、読み終えると、返事を書いて、紙飛行機を投げてきた。
あとは紙飛行機の投げ合いだ。
『それは……その……あの……ペット……プレイ……みたいな……』
『下世話な妄想は脳内で完結しろ』
『私、聞いてないですよ』
『言ってないからな』
『一緒に住んでいるんですか?』
『そ』
『昨日から?』
『そ』
『…………』
『わざわざ沈黙を表記するな』
『ずるいです』
『何が』
『何もかも』
「何もかもって言われてもな……」
何もかも、とだけ書かれた紙を睨みながら、水月は返答を迷った。
ラーラの言いたいことはわかっていたが、水月は正直わずらわしくさえ思っていた。
しばし悩んでから、水月は、
『知らん』
そう返事を書き綴り、そして紙飛行機を投げる。
その紙飛行機が、ラーラに届くことはなかった。
それより早く、
「――AlefTav……TheTower――」
コンスタン教授が、魔術を行使した。
ズドン、と、衝撃が生まれる。
水月とラーラの視界を、何かが高速で横切った。
二人が、なんだ、と思うより早くソレは、教室の壁へと深々と突き刺さり、動きを止めた。
装飾剣が、紙飛行機を、教室の壁に縫い付けていた。
「…………」
「…………」
思わず黙る、水月とラーラ。
二人は恐る恐るといったかんじで、装飾剣を放った犯人であろう、コンスタン教授のほうへと、振り向いた。
コンスタン教授は、その冷淡な表情を崩すことなく、おそらく魔術を放ったままの体制であろう……右手を突き出した状態で、ポツリと呟く。
「役先生もラーラさんも授業に不真面目なのは感心しませんね……。次は当てますよ?」
水月は平坦に、
「はあ……」
ラーラは青ざめながら、
「す、すみませんでした……」
それぞれ、コンスタン教授に向かって、そう言った。
コンスタン教授は、微笑した。
「ええ、ええ、分かってくれればいいんです」
総合魔術史学の授業は、それから十分後に終わった。