第一エピローグ06
「ところでー……」
今晩のメニューは、カレーだった。
宿舎の一人暮らしでは、食事も自分で用意せねばならず、つまり今晩のメニューであるところのカレーは、水月の得意料理の一つであった。
それを、アンネと二人でパクついていたところで、アンネがポツリと話しかけてきた。
「端的な疑問なんだけどー……イクスカレッジって何ー? どこかの大学ー?」
「まぁ……そんなもんだ」
「どこの国ー?」
「どこの国って……あえて言うならどこの国でもない」
「どういうことー?」
「国際化領域って知ってるか?」
「知らないー」
「いわゆる国際法に認知されて、国際的管理下におかれた領域のことだ。有名どころでいうなら宇宙とか南極とか海底とかがこれにあたる」
「国際化領域ねー……」
「国際化領域では、軍事化禁止、平和利用、人類全体の利益追求が原則となっている。直訳すると、どこの国も抜け駆けすんなよ、ってことなんだが……」
「ここもその一つ、とー……」
「そゆこと」
「でー、結局イクスカレッジって何なのー?」
「魔法学校」
「うわぁー……」
アンネの目が、うさんくさいものを見るソレになった。
水月は、スプーンを咥えたまま、思案し、
「例えばだ……」
ティッシュを一枚、箱から取ると、それを天井に放り投げた。
そして、水月は、静かに呪文を紡ぐ。
「――現世に示現せよ、前鬼戦斧――」
呪文の終わりと同時に、風が巻き起こるや否や、それは小さな斬撃となって、空中を舞うティッシュを一刀両断にした。
二枚に分かたれたティッシュが、重力に引かれて、床へと落ちる。
「こういうのなんだが」
「ほー……手品ー?」
「魔術」
「どうなってんのー? どんな仕組みー?」
うーむ、と悩んでから、水月は語りだした。
「アンネ……お前、熱力学第一法則って知ってるか?」
「閉じた系の中の仕事量の総量は変化しないっていう法則ー。エネルギー保存の法則ともー」
「そ。結論から言うと現代魔術における魔法の定義ってのは熱力学第一法則に従わない現象、これに尽きるんだ。例えばそうだな……」
水月は悩んで、それから言葉を続ける。
「四大元素の火のシンボルを顕現して火の魔法を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー」
「五行思想の火気を顕現して火の魔法を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー」
「火の天使の恩恵を受けて火の奇跡を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー」
「ソロモン七十二柱の魔神を召喚して火の魔法を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー」
「神道のカグツチの力を喚起して火の魔法を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー」
「ライターのドラムを回して火を起こすとするだろ? でも火は火なわけよ」
「うんー……うんー? それは魔法じゃなくないー?」
「んで」
会話をぶったぎって、水月は、二つの皿に、一枚ずつティッシュを載せると、
「――現世に示現せよ、迦楼羅焔――」
片方を魔術で、片方をライターで、それぞれ燃やし灰にした。
「それならば魔法の火とライターの火との違いは何なんだってことになるんだが……」
「……その違いっていうのが熱力学第一法則の当否ー」
「そういうこと。お前だって聖書の宇宙観とか四大元素の理屈なんて信じやしないだろ?」
「それはまぁー……」
「つまり古今東西の非科学的自然哲学は普遍性や正当性を失い、説得力を大いに欠いているわけだ。また、その宇宙観を機軸に組み立てられた古典魔術の理論と捻出される結果との関係性ははなはだ疑問視されることとなった。そしてついには現代魔術において、古典魔術の儀式とその結果とは前後即因果の誤謬と認識することになる」
「まぁ当然といえば当然ー……かなぁー……」
「代わりに台頭したのが近代魔術の思想だ。近代魔術において、魔術という出力への過程は儀式の内容如何に関わらず魔力の入力と演算に因るものと定義された。この影響により現代魔術とは、魔力の正体とその入力と演算の方法を解明する学問になったわけだ」
「してー、その魔力の正体はー?」
「現在のところ量子が優勢だな」
「量子ー……」
「質量、仕事量、空間量、時間量、あらゆる物理量の最小単位。質量も仕事も空間も時間も全て量子から生成され量子によって変動すると仮定すれば、もし量子を人為的に入力演算することが出来たら理論上宇宙に起こりうる全ての現象を再現することが出来る……っていうのが今のところのイクスカレッジのもっともらしい仮説」
「要するに言ってる内容はー、風が吹けば桶屋が儲かるー、ってことだねー」
「で、何も無いところから量子を捻出するなんてことは……」
「時間の並進対称性ー、ひいては熱力学第一法則に背いてるとー」
「つまり現代魔術においては、超熱力学第一法則を魔法と、それによってなる私式的技術を魔術と呼ぶことになる」
「私も魔術使えるかなー」
「うーん、トランス状態へのスイッチが必要なうえに、事前に魔術の存在を知ってしまうともろにブリアレーオの法則がかかっちまうからなぁ」
「ブリアレーオってー、あのドンキホーテのー?」
「そ。たとえば火を出す魔術と、人を生き返らせる魔術と、どっちが高度な魔術だと思う?」
「そりゃあ後者でしょー」
「なんで?」
「なんでってー……えー……当然じゃないー?」
「根拠は?」
「根拠って言われてもー、そうだなー、複雑さとかー?」
「炎の中の分子運動は人間にとってなんてことのない演算レベルだとでも言うのか?」
「えーとー、有効性とかー?」
「なら一万度の火を出す魔術と、人を生き返らせる魔術とならどうだ?」
「…………」
「一億度なら? 一兆度なら?」
「…………」
「そうなんだよ。わかんないんだよ。けれど何故か術者が価値を重くおく現象ほど、魔術での再現が難しくなるんだ。強く望んでいる現象ほど、その再現性の難易度を自分自身で引き上げているかのようだろう? まるで、なんてことのない風車を巨人ブリアレーオだと誤認したドンキホーテのように、な」
「だからブリアレーオの法則ー」
「本来は魔術師がよくこじらせる風邪みたいなものだったんだけどな。イクスカレッジにおいて魔術師を志願する生徒の場合、なんてことのない現象でさえ魔術での再現をありがたがってしまって、結果魔術を覚えることそのものが根本から難しくなってしまうんだな」
「気楽に覚えられるわけじゃないんだねー」
「つーか誰もが気楽に魔術が使えたなら人類なんかとっくに滅んでる気がしないでもない」
「ちゃんちゃんー」
*
「あのー、さすがにブリーフってどうなのー?」
風呂に入る前。
着替えを用意した水月に、アンネが、そう呟いた。
「それしかないんだからしょうがないだろ」
「ショーツはー?」
「やもめ暮らしが女用のショーツを常備してたら、それはそれで嫌だろ」
「それはそうなんだけどー」
アンネは、なんともいえない表情で、ブリーフとワイシャツとパジャマ一式を見つめる。
「ブランドもののネグリジェとかはー?」
「居候、三杯目には、そっと出し、って知ってるか?」
「うー、わかったよー……」
言って、しぶしぶ風呂場へ向かうアンネ。
「覗かないでねー」
などと、釘をさすアンネに、
「覗くか」
水月は、興味なさげに呟いた。
「あいにく俺は婚約中だからな。いまのところ他の女に興味はない」
「一途な恋ってわけー?」
「そ」
「水月が惚れる女性には興味あるかもー」
「いい子だぞ。真摯で健気で奥ゆかしくて、花も恥らう大和撫子だ。萌え」
「あばたもえくぼー」
「馬鹿いうな。才色兼備、才貌両全、秀外恵中、雅人深致、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。葛城さくらって言うんだけどな。かっわいいんだ、これがまた」
「そのわりには同居してるわけでもなしー」
「無形魔法遺産に選ばれてな……今は遠くへ行っちまった……」
「無形魔法遺産ー?」
くねり、と、首を捻って疑問を呈するアンネ。
「ああ、そうか。いきなり言われてもわからんわな。無形魔法遺産ってのは魔法メジャーの管理する魔法遺産の一種で、いわゆるユネスコの無形文化遺産の魔法バージョン」
「無形魔法遺産ねー……」
そう呟いて、今度こそアンネは、風呂場に向かった。