蛇足Ⅰ
水月が目を覚ませば、そこは白い空間だった。
「…………」
言葉を失う水月。
どうやら先ほどまで意識を失っていたらしい、ということを自覚してから、水月は、キョロキョロと周りを見渡す。
辺りは、どこまでも白かった。
水月自身が立っている以上、足場があるのは確かだが、足場も天空も白すぎて、地平線の境界が、まるでわからなかった。
結果、ただただ白い、としか言いようのない場所に、水月は一人立っていた。
「俺は……ああ……」
何をしてたんだっけ、と思索してから、そういえばブラックホールに飲み込まれたんだった、と思い出す。
「死んだのか?」
と首を傾げる水月。
(死んだにしては意識がありやがるな)
水月は、霊魂の信仰を、真に受けていない。
よって、死んだら魂が体から抜けるだの、死後の国に行くだの、天国か、地獄か、極楽浄土か、奈落か、黄泉か、はたまたタルタロスか、なんてことを水月は心の底から信じていない。
両手を、広げて握って広げて握ってみて、
「体は……ある……」
確かめるように、そう言う水月。
「ううむ、こりはいったい……」
悩む水月に、
「水月様……」
後ろから、声がかかった。
それは……水月の心の琴線に触れる、鈴を振るような声だった。
水月は、その声に、存分に聞き覚えがあった。
「っ!」
水月が弾かれるように振り向いた、その先には、一人の少女がいた。
烏の濡れ羽色さえ道を譲る艶やかな漆黒の長髪。
珠玉さえ陰る麗らかな瞳。
白磁器を想わせる白い肌。
蛇目蝶をあしらった着物。
まるで大和撫子の理想をかたどったような、その少女を、水月は知っていた。
「葛城……さくら……っ!」
水月の、初恋にして婚約者が、そこにいた。
「さくら……さくら……さくらぁ……っ」
水月の中で思いが、想いが溢れ出す。
この異常な状況さえ、思考の隅においやって、水月の知覚は、さくらだけを捉える。
さくらが柔和に微笑んだ。
「水月様、お懐かしゅうござ……」
「世界で一番愛ラブユウぅぅぅぅぅ!」
さくらの言葉を遮って、感極まった水月が、さくら目掛けて飛びついた。
が、抱きつこうとした体勢のまま、すり抜けて、
「ぅぅぅぅぅ?」
水月は、盛大にずっこける。
言葉の余韻を残しながら、水月は目を白黒させた。
おずおずと立ち上がって振り返り、同じく振り返ったさくらが、困ったように微笑むのを見て、それから首を傾げる水月。
「……あれ?」
「すみません。接触判定は組み込んでいませんので、触ることはできないのです」
わけのわからないことを言われる。
さくらへと歩み寄り、ペタペタと触ってみる。
水月の手は、さくらの体を、てごたえもなくすり抜けた。
「……おお?」
「当然私も水月様に触れませぬ」
言ったさくらが水月の胸に手を当てると、ずぶずぶとその奥へ沈みこむ。
さくらの手の感触を、水月は感じなかった。
ううむ、と、水月が首を傾げるのは三度目。
「そういえば、さくらはいるし、体は透けるし、背景は真っ白だし……もしかしてここは死後の世界?」
「まさか、ですよ水月様。形相は質料なくして表記できはしません。同じように自我も回路なくして表現できはしません。魂などという質料に依らない意思なんて存在しませんよ。引いては魂の行く末だって存在しません」
――それを模した異空間となれば、それはあるやもしれませんが、と付け足すさくら。
「じゃあ……ここは何だ?」
「ここは……そうですね。もしも事象の地平面が割れて膨大な量子が八方四散し、その後にエントロピーが高まって量子の一部が安定すれば、その辺境に新しい生態系ができるのかもしれませんね。ルメートルも宇宙卵とはよくぞ言ったもの。ようこそ水月様。ここはアークのはずれの一丁目にございます」
「アーク……ここが……」
キョロキョロ、と、あたりを見渡しながら、感嘆の溜息をつく水月。
「なんか思ってたよりつまんないところだな……」
「ええ、まぁ……とりあえず地の環境光と空の天空光を安直に白にしてみましたらば、このようなセッティングに」
「ということは俺の体は……」
「水月様の情報を汲み上げて、モデリングした立体映像……のようなものです」
「ということはお前は……」
「ええ、お察しの通り……水月様の望む葛城さくらそのものズバリではありません。これまた誤解を承知で言うならば葛城さくらの一面たる葛城さくら、といったところでしょうか」
「あーはいはい。なんとなく状況がわかってきた……」
頭をガシガシと掻きながら、状況を整理する水月。
「っつーことはやっぱりさくらは……」
「それは私には存じ上げぬことにございます……」
はは、と疲れたように、水月が笑う。
さくらは、あくまで静かに微笑みながら、
「ここではなんですから場所を変えましょうか……」
そう言って一拍する。
景気のいい破裂音とともに、風景が一変した。
水月の立っている足場に木目が走り、それはたちまち縁側になる。
見る間に日本家屋が一棟建ち、縁側から山桜の咲き誇る庭が見えた。
水月に馴染みの深い風景だ。
「実家か……懐かしいな……」
呟く水月。
葛城山の頂上から繋がる異空間。
鬼ヶ島や黄泉比良坂に比べれば、知名度は劣るが、そこも日本に点在する異空間の一つ。
「水月様、どうぞこちらに。接触判定は施しております故……」
言って縁側に座ったさくらが、ポンポンと自身の膝を叩く。
水月は言われるまま、さくらに寄って、膝枕をしてもらった。
長く広い縁側に、遠慮なく足を伸ばして、さくらを見上げる。
「昔はこうやって庭を眺めてたな……」
「ええ、お懐かしゅうございます……」
悲しげに笑う水月に、さくらが微笑み返す。
想い出は、掘り返すだけ、溢れ出るものだ。
子供のように熱心に語り続ける水月の思い出話を、さくらは穏やかに聞き続ける。
「うふふ、そんなこともありましたね」
「一番印象的なのはやっぱりあれだな。本物の淡墨桜の風景!」
「あれで水月様は木花開耶をお覚えになりましたもの」
「んだんだ」
にはは、と水月は笑って、それから疲れたように溜息をつく。
「……………………」
「……………………」
無言の空白。
どれだけそうしていただろうか。
おずおずと、さくらがきりだした。
「もし、水月様。もうお帰りになりませんか……」
「やだ」
拗ねたように、水月が答える。
「だって俺もう死んだもん。肉体ないもん。人体復元できないもん」
「ここは恣意的にいえば水月様の世界です。水月様自身を復元することなど造作もありません」
「やーだー」
足をバタつかせる水月。
もはや単なる駄々である。
さくらにしか見せない、水月の一面だ。
「では葛城さくらの一面である私を使って永久に一人遊びをなさいますか?」
「…………」
「千代に八千代に、ただただ自らを慰め続けるのですか? まるで世を捨て花を愛で詩を詠み酒を呑む仙人のように。それでは私たちは何のために家を出たのです。時の止まったあの場所でなら人の世の荒波に傷つくことものうございましたのに」
「だって、あれはさくらがいたから……!」
「散ればこそ、いとど桜は、めでたけれ、憂き世になにか、久しかるべき。しょせん人は木花開耶姫の末裔……八千代に輝く月の如く不変というわけにはまいりません。散ることを惜しめばこそ、人は咲く花の趣を儚めるのですよ」
「だから……! お前が散ったから……! 俺も……」
それ以上は、言葉にならなかった。
さくらが続ける。
「この世の全ては演算可能な決定事項。でもそれは悲しいことなんかじゃありません。全てが運命だからこそ、全てのことには意味がある。全ての意思には無駄がない。だからこそ水月様には自身の幸せも不幸せも誇ってもらいたいんです。涙も絶望も大事にしてほしいんです。きっとそれは叡智よりも何よりも、きっともっと大切なことだから」
「でも……さくらがいないんだ」
「いますよ」
さくらは水月の額に手を添えて、慈しむように、微笑んでみせた。
「水月様が観測しつづける限り、葛城さくらはそこにいますよ」
心の染み入るような、優しい声。
「水月様が想ってくれるかぎり葛城さくらの生も死も水月様の中で生き続ける。なぜなら形相は質料が表記するかぎりそこに在りつづけるから……。だからそれは……きっと何より光り輝く水月様だけの真理であり水月様だけの魔法です」
あやすような慈愛の言の葉。
「なんで先に行ったんだよ……。俺は、さくらがいれば十分だったのに……」
「であればこそ、葛城さくらにとっても水月様が生きることこそ意味あることだと申し上げます。何も、人の命は何より尊重されるべき、全ての人間は平等に価値がある、などと申しているわけではございません。一刻に一人が死んでいくこの世界で全ての死者に涙する器量もありません。ただただ何を犠牲にしても水月様に天寿を全うしてもらいたいのでございます」
「俺は……俺はよぅ……」
水月の表情が、くしゃりと歪む。
さくらは、困ったように微笑んだ。
「もう……本当に仕様のないお方……」
その瞳が、悲しげに揺れたのは、水月の気のせいばかりではなかったろう。
だが、さくらは、微笑を崩すことのないまま、やおら呪文を唱え始めた。
「――吾は一言にて放つ――」
一言主を祖に持つ、葛城一族の呪文を。
「――イキテ――」
それはきっと、魔法ではなく願い。
言霊の呪を繰る神格、かの一言主が言い放った言の葉は現になるという。
水月は、ふいに、急速な眠気に襲われた。
重く閉じていく目蓋の向こうで、さくらは変わりなく微笑み続ける。
「互いに慈しみし日頃の恩を別るる後にもやよお忘れにならなければ、葛城さくらという形相は水月様という質料の中に刻まれ続けますゆえ。身をたて、名をあげ、やよ励んでくださいまし。お休みなさい水月様。今こそ別れめ……いざ、さらば」
そして水月の意識は、闇に堕ちた。




