第一エピローグ16
恋の魔法なのだろう。
役水月は、そう反芻する。
役一族と、葛城一族は、千年以上も昔から、関係を結び、離るることのないしがらみを抱えていた。
だから、それは運命であり、必然であり、予定調和であった。
役一族の子として産まれた水月と、葛城一族の子として産まれたさくらが、巡り会ったのは、運命であり、必然であり、予定調和であった。
二人は、物心のつく前から、互いに互いを知り、そして育った。
『幼馴染』という言葉をあてるのは、水月には気恥ずかしかったが、まさに言葉通りの関係であった。
水月は役一族の魔術を授かり、さくらは葛城一族の魔術を授かり、魔術師として両家によって創られた。
純粋なさくらに水月は惹かれ、無邪気な水月をさくらは慕い、そして二人は御家のしがらみを嫌って家を出た。
引き抜かれたのは、イクスカレッジ。
もう御家のしがらみはない。
「大きくなったら結婚しよう」
と水月が言った。
「喜んで」
とさくらが言った。
そして今から一年前、葛城さくらは、魔術師として、これ以上考えられないほどの名誉である『無形魔法遺産』に名を連ねることになった。
喜ぶと同時に、寂しがった水月に、
「すぐに戻ってきますから」
と笑ったさくらは、魔法メジャー本社に身を置くために、ヨーロッパへと飛んだ。
一人は、イクスカレッジが誇る古典魔術師であり、一人は、無形魔法遺産。
しかし、歪が目に見えるようになったのは、それからだった。
『葛城さくら』という幼馴染であり、意中の人であり、婚約者であった対象を失くし、水月は愕然とした。
途方にくれたのだ。
自分は、何をすればいいのか。
隣にいるべき人間が消失することは、自らもまた消失にあう…………ということを、水月はこの時初めて痛感した。
魔術に対しても、勉学に対しても、ありとあらゆる事柄に対しても、そこに向ける熱意と言うものが消失してしまったのだった。
無気力な、落ちぶれ学生の出来上がりである。
それほどの影響を、葛城さくらから受けていたことに、ショックを隠せない水月だった。
だから、これが恋の魔法なのだろう。
水月は、そう思うことにした。
そして、それは、どうしようもなく正しい認識だった。
*
水月は、目を覚ました。
目蓋を開き、視覚情報を整理する水月。
水月の目の前には、ラーラ=ヴェルミチェッリの顔があった。
ラーラが、自分の瞳を、覗きこんでいることを、うっすらと水月は理解する。
「あ、起きた……。よかった……」
ラーラが、ほっとしたように、吐息をついた。
「大丈夫ですか、先輩……? 最初倒れてるときは殺されたのかと思っちゃって慌てたんですけど、先輩の心臓動いてたから私ほっとして、それから……」
とりとめのないことを、あせくせと喋るラーラを見て、
「ラーラなりに慌てているのだろう」
と結論付ける水月。
それから、水月は、もう一段階意識を覚醒させて、状況を読む。
ラーラに、膝枕をしてもらっていた。
水月は、腹筋運動の要領で、上体を起こす。
「お、起きちゃ駄目ですよぅ。まだ意識が……」
「大丈夫だ。だいたい明瞭になってきた」
あわあわと、ふためくラーラに、そう言って、あたりを見回す。
場所は、黒衣仮面と戦った場所から、変わっていない。
水月は、自身の魔術による破壊跡を、ビルの各所に見てとった。
(迦楼羅焔を使ったから騒ぎになっているはずだ。なのに警察が来てないってことは……)
気絶から覚醒まで、さほど時間が経過していない、ということだ。
「何分経った……」
「え……?」
「お前が俺を介抱してから何分経った?」
「ええと十分くらいです……。多分、ですけど……」
(ラーラがここにいてアンネがいないってことはあいつをどっかに預けて戻ってきたか、あるいは……)
黒衣仮面に拉致されたか。
「アンネはどうした?」
「あ、うん……それよりもうすぐ救急車が来ますから、あんまり動かないほうが……」
「アンネはどうした?」
「あ、うん……」
気まずげに、ラーラは、目を逸らした。
(さらわれた、と……)
溜息をついて、水月は頭を掻いた。
ラーラが、薄っぺらい作り笑いで、微笑んできた。
「それよりもうすぐ救急車が来るからあんまり動かないほうがいいですよ。頭を打ったときは感覚が麻痺している可能性があるから異常を感じなくても危ないときがあるんです……」
ラーラの表情は笑っているのに、心が笑っておらず、話を逸らそうと必死になっている。
ラーラの何が、そんな言動に駆り立てるのか?
水月には、おおよその予想がついた。
ポンポン、と、安心させるように、ラーラの頭をたたく水月。
「大丈夫だ。アンネが拉致られたのはお前のせいじゃねぇ。気に病むな」
「あ、うん……」
やはり気まずげに、ラーラは目を逸らした。
水月は、気にせず言葉を続ける。
「それよりもうすぐ警察が来るだろうから保護してもらっとけ。何があったかって聞かれたらあいつがやってくれましたって警察には言っとけ。それで通じるはずだから」
てきとうに流して立ち上がると、水月はやおら歩き出そうとして、
「待って!」
ラーラに止められた。
グイ、と、襟を引っぱられて、水月が体制を崩すと、それを受け止める形で、ラーラが抱きついてきた。
「何? 急いでんだけど?」
「……どこに行くんですか?」
「はぁ? そりゃお前アンネを助けにいくに決まってるだろうが」
「……なんで?」
「なんでってお前……罪悪感とか面倒くささとか後悔とかを引きずらないためだろ」
「……そこにアンネちゃんはいないですよ」
「あ?」
「アンネちゃんのためじゃないですよ……! それ全部、先輩自身のためです……」
「当たり前だろ。何だ、お前。俺に爽やかな笑顔で、この世の悪は捨て置けぬ、とか言ってほしいわけか?」
「そうじゃない……そうじゃないですけど……! でも……行かせません!」
「…………」
「また行くってことはあいつと戦うんですよね……? 駄目……それは駄目……」
「別にお前に戦えなんて言ってないぞ」
「先輩に戦って欲しくないんです!」
「……なして」
「あいつの目……見ました? やばいですよ……。命をなんとも思ってない。アンネちゃんがどうなろうと関係ないって目をしてました……」
震えた声を出すラーラ。
水月は意識を失う寸前の、仮面からこぼれた、黒衣仮面の視線を、思い出していた。
何の感情もあらわさない、無貌の瞳。
「あれだけは駄目……。先輩……次は本当に殺されちゃいますよ……」
「ああ、あの目な……」
水月は、あの目に、心当たりがあった。
「なぁラーラ、人が一番残酷になれるときってわかるか?」
「先輩……」
「金のために人を傷つける。快楽のために人を傷つける。いやいやまったくの見当外れだ。どれもこれも結局自分ありきだろ? 自分のために行なう善行を偽善と言う様に、自分のために行なう悪行もまた偽悪と呼ぶべきだ。だから本当の残酷はそうじゃない。隊長に命令されたから。組織の下した判断だから。国を挙げて行なっているから。そういう自分のない残酷こそ真に悪と呼ぶべきものなんだよ。人は自己を他人に仮託したとき、最も残酷になれる」
ミルグラム実験……と呼ばれる心理実験がある。
残酷な指示を受けた人間がどこまでそれを遂行できるか、という人の心の闇を覗き込む、この実験は当初「最後まで遂行しきる人間はごくわずかであろう」と予測した心理学者たちの度肝をぬいた。
なんと最後まで遂行した人間が、実に半数をこえたのだ。
後に、この実験は、ナチスの一員であり、ユダヤ人虐殺をおこなった人物の名をとり、アイヒマン実験と呼ばれることになる。
「あいつの目はそういう目だ。魔法メジャーに言われるまま任務を遂行しているだけ。これっぽっちの自覚もない残虐だよ」
「だったらなおさら……!」
行かせられない、とラーラが叫ぶより早く、
「あいつは……さくらの魔術を使った……」
水月の絶望が、会話を塗りつぶした。
「……っ!」
ラーラが、言葉に詰まる。
「はは……なぁおい……こりゃいったいどういう類の冗談だ……?」
水月の渇いた笑いが、裏路地に溶ける。
「魔法メジャーの手先が葛城一族の魔術を使いやがったんだよ……。これが魔法メジャーに行った葛城さくらとは無関係だって……お前、思えるか……?」
「先輩……」
「正直なところ……お前の言うとおりだよ。アンネとか実際どうでもいい……俺はあいつの正体を確かめなきゃならねぇ。あいつが葛城さくらなら……あんなことしている理由を聞かなきゃならねぇ。あいつが葛城さくらじゃないなら……葛城一族の魔術をどうして扱えるのか聞かなきゃならねぇ」
一つ、水月のもっとも冷静な部分が、理にかなった推測を導き出していたが、水月はそれを理解することを拒否していた。
それでも、ひとかたならぬ不安が、水月を暗いほうへと、引っぱり続ける。
それは、そういう最悪の想像だった。
「アンネを助けるなんてのはそのついで……恰好つかねえことなんざ承知だ……」
「笑えませんよ……」
ギュッと、ラーラがより強く抱きしめる。
「嫌ですよ……行かないでください……」
「…………」
「甘んじちゃえばいいじゃないですか。アンネちゃんは昨日会ったばかりなんですよね? 葛城先生は殺されてるかもしれないんですよね? アンネちゃんを助けたのは偶然なんですよね? あいつの正体はまだわかってないんですよね? だったら甘んじちゃえばいいじゃないですか。そしたら先輩は安全だし傷つかなくていいじゃないですか。また明日からにっこり笑って学校で会いましょうよ。明日も講義サボって……私も先輩と同じ講義を狙ってサボりますから……一緒に甘んじましょうよ……。私と……私と……」
「……嫌だ」
水月を抱きしめるラーラの腕は、震えていた。
「恋人なら私がなってあげますから……。何だってしてあげます……。先輩の望むことは何だってきいてあげます……。私だって出会った時から先輩のこと……!」
「っ!」
それ以上聞いていられず、水月はラーラを振りほどいた。
振り返って、ラーラを抱きしめる水月。
「……ありがとう。……嬉しいよラーラ」
水月はいっそう強く、ラーラを抱きしめる。
「……でもな」
水月は抱きしめたラーラの首筋に、
「俺には好きな奴がいるんで謹んでごめんなさい」
手刀を埋め込んだ。
それから水月は、表通りに出ると、黒衣仮面を追いかけた。
 




