第一エピローグ11
「お前……まさか……」
「できるんだよ。僕は……反量子の捻出が」
皮肉げに笑いながら、マリーはそう告げる。
「質量、仕事量、空間量、時間量、あらゆる物理量の最小単位である量子。質量も仕事も空間も時間も全て量子から生成され量子によって変動すると仮定すれば、もし量子を人為的に入力演算することが出来たら理論上宇宙に起こりうる全ての現象を再現することが出来る………………ならば、その量子と対を成す反量子を入力することができたなら質量も仕事も空間も時間も理論上宇宙に起こりうる全ての現象を対消滅させることができる。違うかい?」
「……っ!」
それは、驚愕に値する事実だった。
虚無から捻出された量子と反量子は、互いに接触すると、対消滅を起こして、虚無に還る。
もし反量子を、量子宇宙に持ち込むことができる者がいるのなら、その者は「宇宙に存在する全てを消し去ることができる」ということだ。
質量、仕事、空間、時間の分け隔てなく、全てを無に帰すことが出来るということだ。
それは『宇宙の終焉の縮図』とでも呼ぶべき現象。
「もしかしてホールで呪文を唱えたのは……」
「二人の下着を消しただけだよ?」
「なるほど、魔術結社から狙われるわけだ。量子燃料仮説の一根拠になる可能性か……」
「僕とてこんな大技を覚える気はなかったんだけどねぇ」
「馬鹿だな」
「……馬鹿です」
一刀両断な水月の言葉に、しぶしぶ同意するマリー。
「しかしまぁ確かにお前が暴れだしたら誰も止められはしないだろうな。なんたって虚無の力だ。エクスデス様もかくやの無敵っぷりじゃないか?」
「僕が表に出ているときは、ね」
「あ、そうか。アンネ……」
「そ。君も知っているだろうけどアンネは魔術のまの字も知らないポンコツだから。彼女のときに狙われたらドナドナを歌うはめになるのさ」
「うまくいかないもんだ」
「そこで、だ。君に、水月に僕らの護衛を頼みたいんだよ。アンネの記憶から鑑みるに君、相当戦闘に特化した魔術師だろう?」
「嫌」
「…………」
「匿うくらいのことならしてやるがな。いくら何でも魔術結社と事を構えるつもりはないぞ。そんなのは命知らずのすることだ」
「悪の秘密組織に追われて逃げる儚げで薄幸の少女を君は見捨てるというのかい」
「んなこと言われたって俺にどうせいっつーんだ。別に正義の味方を気取るつもりもないしな。だいたいマリー……お前、どこの魔術結社に狙われてるんだよ? イルミナティか? シオン修道会か? ゴールデンドーンか?」
「……魔法メジャー」
「魔法メジャー!」
躊躇いがちに呟いたマリーの言葉に、驚いてオウム返す水月。
「知っているみたいだね」
「魔法メジャーを知らない魔術師がいるとしたらそりゃモグリだ。魔法市場の流通関連を牛耳ってる魔術結社で、こと資金面においては一人勝ち。魔法メジャーがくしゃみをすれば世界恐慌が起こるとまで言われてる一大魔術結社だぞ。……しかしなんでまた魔法メジャーに?」
「魔法メジャーが洋の東西を問わず優秀な魔術師を集めているのは知っているだろう?」
「まぁそれくらいは……」
愛しい、さくらの顔を思い出しながら、頷く水月。
「僕はね、無形魔法遺産に選ばれたんだ」
「そりゃめでたい。まぁ考えれば当たり前だわな。反量子の捻出なんて大技もってりゃスカウトも来るに決まってる」
「……君は昨日アンネにこう言ったね。無形魔法遺産はユネスコの無形文化遺産のようなものだ、と」
「言った。違うか?」
「当たらずとも全然遠いよ」
「じゃあ何だってんだ」
「……文字通り、遺産にすることだよ」
「わからん」
「昨日君が説明した通り、魔力の入力演算に儀式の如何は直接的には関係ない。……ならば魔力の入力演算の、その根幹はどこにある?」
「脳だろ」
「その通り。魔術において人の脳こそ魔力の入力演算を執り行い魔術という出力をはきだすアクチュエータだ。つまりね、無形魔法遺産に選ばれた人間は脳をえぐりとられて保存されるんだ。優秀な魔術師の持つ脳の形相を文字通り遺産にしてしまうんだよ。魔法メジャーが行なっている叡智の収集、その実態だね」
「……は?」
それは、
「何言ってんだ……お前?」
世界の壊れる音だった。
パキン、と、澄み切った破砕音が……鳴る。
あるいは、幻聴かもしれないその音を、水月は聴いた気がした。
「脳を……保存する……だと?」
「そうさ。どんなに優れた魔術も脳に依存している以上一代限りの代物だからね。術者が死ねば人類は貴重な技術を失うことになる。そうならないために脳を保存して後世に遺すんだとさ。言いたいことはわからないでもないけど当人にしたらいい迷惑だよ、本当に……」
「ちょ、ちょっと待てよ……そんなの……聞いたことないぞ……」
「それは表向き大々的にやれることじゃないさ。キリスト教圏内での魔術は局中法度だし、それに順ずる非人道的な行為は教会協会だって知れば黙っていないはずだし。まぁ君の言った通りマキャベリズムな魔術結社ならではの所業だよ」
「……冗談だろ?」
渇いた笑みをうかべながら、否定する水月に、
「冗談なら僕は逃げてないよ」
ニッコリ笑って、事実を突きつけるマリー。
「あー、あー……あのさ……昨日も言ったかもしんないけど……俺の婚約者の……葛城さくら……無形魔法遺産に選ばれて魔法メジャーに行っちゃったんだけど……」
「それはご愁傷様」
にべもなかった。
「あはは」
水月は笑った。
「あはは」
マリーも笑った。
「あはははは」
水月が笑う。
「あはははは」
マリーも笑う。
「あはははははは」
「あはははははは」
ブチン、と、水月の、堪忍袋の緒が切れた。
水月は怒りに任せて、マリーの胸倉を掴み、無理矢理引き寄せ、反対の手は、激情のままに拳を固めた。
「冗談ごとじゃねえぞ! ふざけたこと言ってると……!」
「ぶっとばす、かい? いいよ。気が済むまで殴ればいい」
どこか投げやりに言うマリー。
遠くを見つめているようなマリーの瞳は、今ここにある危機に、価値を置いていないようだった。
「……っ!」
カッとなって、握り拳を振り下ろす、水月。
その拳は、食堂のテーブルに打ちつけられて、止まった。
不思議そうに、その拳を見つめるマリー。
「殴らないのかい?」
「……てめぇの話を聞き終えてからだ」
「意外に冷静だね」
「冗談だろ」
「まぁ……いいけどね。つまりそんなわけで僕は僕の脳髄を狙う魔法メジャーから逃げ回っているのさ。僕であるときは苦もなく一蹴できるんだけど、アンネに交代したときは無防備の極みでね。そこで君にアンネの護衛を頼みたいんだ」
「いい天気だな~……」
「……ところによって血の雨が降るでしょう」
「冗談だろ?」
「本気だよ。重ね重ねこっちも必死でね。今の僕には余裕も猶予もないんだ。みすみす追っ手に捕まるくらいなら藁をも掴むよ。それとも水月……君は四肢の一つくらい失わないと僕のさしせまった現状と、それにともなう焦燥感を理解してはくれないのかい?」
「……火中の栗拾いじゃねーか」
「必死だって言っただろう? 魔術師に冗談は通じないからね。あいつらは本気で僕の脳をえぐりとるつもりだし、僕も本気で逃げ切るつもりさ。アンネは……状況をよく理解していないみたいだけど」
――それはアンネを魔術に関わらせなかった僕にも原因はあるんだけどね、と補足するように、呟くマリー。
水月は、ひどく渇いた喉を押さえながら、必死に思考を整理していた。
「じゃあ冗談じゃなくて、さくらは脳をえぐりとられたってのか……」
「さくら……? ああ、葛城さくら? その人を僕は君の言葉でしか知らないけど……無形魔法遺産に選ばれたのなら、きっとそういうことなのだろう」
「なんでだよ……」
「叡智の収集のため……っていう答えが聞きたいわけじゃ……ないんだろうねえ」
「は、ははは……今頃さくらは脳みそだけのホルマリン漬けになって標本みたいに並べられてるってわけかよ」
「魔術による重力凍結って聞いたけどね。重力と時間には密接な関係があって、擬似的に時間の流れを止められるんだそうだ。保存にはうってつけだよね」
「……冗談だろ?」
「つくづく本気だよ?」
マリーは、一切配慮しなかった。
水月は、笑っている自分を、今、ようやく自覚した。
「は……はは……ははははは……」
壊れたお喋り人形のように、声だけで笑う。
自身の慕った葛城さくらが、一年も前に殺されていた、などと容認できるほど、水月の理性は寛容ではなかった。
あまりに具体的過ぎて、非現実的なマリーの言葉を、並べて、揃えて、組み立てては崩す、水月。
「で、護衛の件。引き受けてくれるかい?」
聞くマリーに、
「…………」
水月は答えなかった。




