第一エピローグ10
イクスカレッジ教育棟の学食は、ゆったりと広い。
ガラス張りの天井から陽光が射し、どこかで聞いたことのあるクラシックが流れるこの空間が、水月は嫌いではなかった。
とまれ、水月はステーキセットを二つ頼み、窓際の席まで運ぶと、アンネと対峙するように席に座る。
どこか気品を感じる仕草で、ナイフとフォークを操るアンネを、恐る恐る観察しながら、水月は躊躇いがちに切り出した。
「あー、こんなこと聞くのも変なんだろうが、お前アンネだよな? あのアンネだよな?」
どのアンネかというと、
「そうですねー。自信はないですけど多分そのアンネですー」
などと、どこか覇気のない喋り方をする、ぽやぽやしたアンネのことであるのだが、
「何を世迷言を。僕はまごうことなきアンネだよ」
目の前の少女は、アンネらしからぬ、ハキハキとした喋り方で、自分を肯定した。
しかも、顔も姿も、以前のアンネそのままで。
ますます思考が、こんがらがる水月。
「いやしかし……なんかさっきまでと雰囲気が違うなぁなんて……」
「当たり前さ。別人格なのだから」
「……ん?」
ごく自然に……あっさりと言ったアンネの言葉を、水月は、とっさに理解できなかった。
アンネが、手に持ったフォークを、教鞭のようにふるいながら、細く笑う。
「水月、君はDIDと呼ばれる疾患を知っているかい?」
「DID?」
「Dissociative、Identity、Disorder……日本語でいうところの解離性同一性障害と呼ばれる精神疾患の一種だ」
「さあ? 聞いたことないな」
「僕はその患者だ。多重人格……といえばわかりやすいかい?」
「多重人格……」
「そう。多重人格。僕の場合人格は二つだから、二重人格になるのかな。君と出会ってからこれまでの僕と、今の僕は別の人格だ」
「…………」
「だから再度お礼を言いたい。昨日は匿ってもらったね。心から感謝する」
「ん、ああ……別にいいんだが。それほどのこっちゃない」
「あっちの僕は危機対処能力が大いに欠落していてね。チンピラに追いかけられた程度であのザマだ。正直君が匿ってくれなかったらあのまま捕まっていただろう」
「まぁ……たしかにあんまり争いごとが得意そうではなかったな」
ぽーっとした、昨日のアンネを思い出して、そんなことを言う水月。
「改めて名乗らせてもらおう。僕の名前はアンネマリー=カイザーガットマンだ。よろしく」
「アンネ……マリー……」
「しかし基本人格の僕と、交代人格の彼女を、区別する記号は必要だろう。彼女がアンネと名乗っているのだから……そうだな、僕のことはマリーと呼んでくれ」
「アンネとマリー……二人合わせてアンネマリーってことか?」
「シンプルでいいだろう?」
「まぁ複雑よりはよほど」
そこで、水月は、ふと閃いた。
「ってーことは、あしながおじさんってのは……マリー、お前か」
「話がはやいね。そうさ。彼女は僕と記憶が繋がっていないからね。筆談でしか現状を伝えられないのさ」
「で、マリーがドイツからわざわざイクスカレッジくんだりまで逃げてきたところでアンネと人格が入れ替わった」
「そう、後は君も知ってのとおりだ。はるばるイクスカレッジまでさしむけてきた刺客と鬼ごっこをしていたところで君に保護された。いや助かったね。正直アンネのままでは勝算は高くなかった。水月というイレギュラーがなければそのまま捕まっていただろうよ」
「なるほど……」
いやそうな顔で、納得する水月。
マリーは、ステーキを、ひとかけら口に入れて、嚥下した後、切り出すように言った。
「それで、ものは相談なんだが……」
「嫌」
笑顔で、つっぱねる水月。
「…………」
さすがに、この反応は予測していなかったのか、押し黙るマリー。
しばし沈思黙考した後、マリーは言葉を選ぶように、聞き返す。
「えーと……何故?」
「修羅場の匂いがするから」
水月は、ステーキを切りながら、平然と言う。
そんな水月の態度に、マリーは諦めたように溜息をついて、
「――SicutEratInPrincipio――」
魔術の呪文を唱えた。
水月たちから、少し離れた場所にあった照明が落下し、窓ガラスが粉々に砕け散り、テーブルが二つに分断されて崩れ落ちる。
学食にいた人間が、それらの怪現象にざわついた。
水月が、マリーを睨んだ。
「……てめぇ」
「はっきり言ってこっちも必死でね。今の僕には余裕も選択肢もないんだ。みすみす追っ手に捕まるくらいなら荒っぽいことの一つや二つ、せざるをえないと思わない? あるいは、どうせ自分も不幸になるんだから見ず知らずの他人も不幸になってしまえ、って考えるのは自然だと思わない?」
つまり、
「水月が話を聞いてくれなきゃ暴れるよ」
と、マリーは言っているのであった。
水月は、少し逡巡した後、
「……話くらいなら聞いてやる」
テーブルに、肘をついて、先を促した。
ニッコリ笑うマリー。
「そう言ってくれると信じてたよ。君は優しいから」
「どの口がいけしゃあしゃあと……」
「とまれ、今僕は追われる立場にあるんだ」
「それは聞いた。アンネが世界征服を企む悪の秘密結社に狙われてるって言ってたからな」
「まぁ……世界征服なんか企んじゃいないし悪でもないけど秘密結社であることは確かだね。より正確に言うならば……」
「魔術結社」
水月が、マリーの言葉を、代弁した。
マリーは、驚いたように、水月を見やった。
「……知ってたのかい?」
「別に。だがアンネとマリーの話を総合したらそういうことになるだろ」
当たり前のように言う水月。
「たしかに魔術結社に狙われてるなら社会機構に助けを求めても無駄だわな。アンネあてに書いたお前の文面……ありゃ正しい忠告だ。西洋の魔術結社は東洋のそれと違って儒教的価値観がないから一種マキャベリズムなところがある。俺がアンネを警察に保護させてたら今頃追っ手は警察署を強襲してアンネを強引に拉致ってたってわけだ」
「そうさ。素直にアンネを信じてくれた君に感謝を」
「それについては紙一重だから別にいいんだけどな。それよりも……なんで魔術結社なんかに追われてんだ?」
「ああ、そうだね……。それも説明しないといけないね……」
ためらいがちにそう言うと、マリーは手に持ったフォークを、水月に見せつけるように持ち上げて、
「――SicutEratInPrincipio――」
呪文を唱えた。
同時に、マリーの持っていたフォークが、跡形もなく、音もなく、消えた。
手品では、当然ない。
「対象を不可視の状態に相転移する魔術か?」
「ボッシュート。僕のこれは魔力の演算を必要としない」
「ちょっと待てと……」
おいおい、と、水月が呆れる。
「魔力の入力だけで魔術が発動するもんか。捻出された魔力に、方向付けを施して、初めて魔術は物理現象へと昇華されるんだぞ」
「でも僕のコレは魔力の演算を必要としないんだ」
「んなわけ……」
「あるのさ。魔術の基本的な理論に関しては、昨日君がアンネに一通り講義してくれたよね。魔術は虚無から魔力……量子を捻出して利用するものだ、と」
「まぁな」
「なら……量子燃料仮説を肯定した上で、僕の捻出したコレが量子じゃなかったと仮定したならば?」
「……ありえない」
「でも僕は魔力の演算もなく対象物を消してみせた」
「っ!」
そこで、ようやく水月は、マリーの言いたいことが飲み込めた。




