六
病院を抜け出した後、真っ先に公衆便所に向かって入院服から着替えた。ありがたいことに洗濯がされていて、微かにラベンダーの香りがする。あの看護師、性格は悪そうだが案外優良物件かもしれない。いくら金を持っていそうでも、自殺志願者と一緒になろうなんて奴はそうそういないはずだ。
やっぱりあの男には同情なんてしてやらない。
看護師に責任取って、何もかも搾り取られてろ。
「さて、これからどうするかな」
飛び降りも投身も練炭も駄目。一体何なら死ねるのか。
もう人混みで死ぬのは嫌だとか、景色の良い場所で死にたいとか、そういう贅沢は言わない。とにかくいい加減死なせてほしい。
偽りだったとはいえ、生きる意味を見つけたあの男とは違う。俺には、本当に何も無い。借金はあるが、あれはマイナスだ。マイナスは実際に目で見ることができない。そんなものは無いのと同じ。だいたい、借金があるから死ねないなんてあんまりだ。返済するまで苦しめというのか。
とにかく、俺は死にたい。
そのための方法を考えながら、適当に歩き回る。
寝ている時間としては一週間は長過ぎた。しかし季節が過ぎるには短く、ラベンダーの香りはすぐに汗の酸っぱい臭いにとって変わられた。
ふらふらと歩いていると、けたたましいクラクションを浴びせられる。
「バカヤロウ! 赤信号なのに出て来やがって、死にてえのか!」
小走りに横断歩道を渡る。排気ガスを吹き掛けて遠ざかるトラックに、俺は呟いた。
「その通りだよ……」
焼死。
凍死。
轢死。
溺死。
爆死。
圧死。
窒息死。
中毒死。
失血死。
感電死。
ショック死。
――死、死、死、死、死、死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死。
世界は死で溢れている。それでも俺の元へは転がってこない。
日本だけでも、交通事故で五十分に一人は死んでいるのに。
高校生になったばかりのチカですら死んだのに。
そういえば、チカはどうしているのだろう?
まだ崖の上?
死んだ駅に戻った?
もしかしたら、先に一人であの世に逝ったか?
「約束したのになあ……」
宛ても無く、前を向くこともなく、地面に転がるゴミを眺めながら歩く。
「お?」
捨てる神あれば拾う神あり。空き缶に混ざって、自販機の下からお札が顔を出していた。それも福沢諭吉だ。すぐさましゃがんで拾い上げる。裏にしても、日に透かしても、紛れもない一万円札。
「おお!」
辺りを伺い、体を壁にして財布に滑り込ませた。何事も無かった素振りでその場を離れる。そのまま細い路地に向かい、再び財布の中身を確認する。
「ははっ、おいおい」
つり銭の取り忘れなら何度か見たことはあるが、万札ともなると聞いたこともない。
俺は真っ先に駅前へ行く。見覚えの無い街でも、駅前なら必ずラーメン屋がある。店の前に立つと、ニンニク、ネギ、醤油やその他にも沢山の物が混じった香りに腹の虫が鳴った。
「そういや、飯を食うのは一週間ぶりなんだよなあ……」
ずっと寝たきりだったから実感が無い。まあ、まともな飯らしい飯は一ヶ月も食っていないが。
油シミの付いた真っ赤な暖簾をくぐり、中に入る。途端に暑気をも凌ぐ熱気に包まれた。
「らっしゃーせーっ!」
頭に白いタオルを巻いた店員が、威勢のいい声を上げる。壁の時計は昼飯時を少しずれていて、そのおかげか待つことなくカウンター席に座れた。
まばらな客が立てる麺をすする音に心が逸る。
お冷やがカウンターに置かれる。注文に備えて水を口にふくんで湿らせる。飲み込むと冷たさで食道のどの辺りを流れているかがよくわかった。
一万円もあるんだ。遠慮しないで腹一杯食べよう。
「すみません」
「はいよ!」
「チャーシュ」
「おっと、注文はちょっと待ってくれ!」
「はい?」
どういうことだ?
別に混んでいるわけでもないのに。
しかたなくもう一口お冷やを飲んで、気持ちを落ち着ける。腹の虫は水じゃ満足せず、低く唸りを上げている。
店員は店の奥に入ると、ものの十秒で戻ってきた。手を後ろに組み、顔には気持ち悪いくらい眩しい笑みを張り付けている。
そして、
パンッ!
「おわ!」
店員は隠し持っていたクラッカーを鳴らした。
「おめでとう!」
「な、なんだ!?」
頭から下がる紙テープを掻き分ける。
「あんたはこの店を開いてから、丁度十万人目のお客様だ!」
「え、え?」
クラッカーの音で注目していた他の客が立ち上がり、手を打ち鳴らす。
「君、おめでとう!」
「さすが大将! よく十万人も数えたな!」
「あと五分遅く来てれば俺だったのか……」
店員は俺の手を取り、上に掲げた。ボクシングの試合で勝ったみたいだ。腕を突き上げたままの俺を客が取り囲み、胴上げまで始まる。
「ワーッショイ、ワーッショイ!」
「近い、天井近い!」
狭い店内での胴上げは、もはや絶叫アトラクションだ。散々もみくちゃにされてから、カウンター席に押し込まれる。
「記念として、なんでも好きなだけ食べてくれ!」
「好きなだけって、タダ!?」
「もちろんだ」
「餃子もチャーシュー麺も!?」
「チャーハンもあるぞ!」
「うおおおっ!」
ようやくテンションが追いついて、無意味に叫び声が出た。
なんでも、好きなだけ、タダで、食べ放題!
「そ、それじゃあ、チャーシュー麺大盛りに餃子二皿、チャーハンも大盛りで、かに玉も!あとビール!」
「はいよっ!」
掛け声と共に、調理場から慌ただしく動く音が聞こえる。手早く麺が茹でられ、米が宙を舞い、卵にあんが絡む。餃子が油を跳ね上げる音に、心も跳ねまわる。タイマーが鳴ると、店員は太極拳のごとき流麗な動作で湯切りをする。麺がスープと一つになり、ネギ、ノリ、メンマ、そして厚切りのチャーシューが五枚も載った。
「お待ちどう!」
もうもうと湯気を立てる料理が目の前に並んだ。唾を飲み込み、割り箸を割る。日本刀で一刀両断にしたような、まっすぐな断面ができた。
麺を挟み、息を吹き掛ける。そして一気にすすり込んだ。
「っ!」
こ、これは……。
「うまい! なんてうまさだ!」
コシの強いちぢれ麺に、トンコツスープがよく絡んでいる。トンコツなのにあっさりしているというのが売りの店もあるが、ここのはそれと対極を成す超濃厚スープ。含んだ瞬間、どろりとした食感さえする。チャーシューにかぶりつくと、あっという間に繊維がバラけ、甘い脂だけが口に残る。スープに脂が混じり、さらに甘美なものに仕上げた。
チャーハンもかに玉も餃子も、サイドメニューなんて言っていいレベルじゃない。
夢中で料理を書き込んだ。
「兄ちゃん、良い食いっぷりだ!」
カウンターにどんどん食器が重なっていく。
こんなに食べたのは生まれて初めてだ。
最後のスープを飲み終わった時、見てわかるほどに腹が出ていた。
「どうだった?」
店員の問いに、俺は心からの言葉を贈った。
「最っ高だ」
店員と、お互い何もかも通じ合っているような笑顔を向け合う。
「あんたのおかげで、決心がついたよ」
俺は腹を擦りながら、立ち上がる。
「この味なら、百万人なんてすぐだ」
「あんた……、ありがとうっしたぁ!」
店員の声は、暖簾をくぐる俺を鼓舞するようだった。
崖から飛び降りた日の朝、部屋を出る時に俺が思ったこと。
それは駅前のラーメン屋でチャーシューメンが食べたいだった。
今、その願いが叶った。もはや思い残すことは何も無い。
もしかしたら俺が死ねなかったのは、神様が俺にチャーシューメンを食べさせるためだったのかもしれない。なんて気の利いた神様だろう。伊達に億単位の信者を抱えていない。
「さあ、逝ってこよう」
晴れ晴れとした気持ちで、駅構内を歩く。ラッシュの時間じゃないから、さして大きくもない駅の人影はまばらだ。いるのは爺さん婆さんばかり。初めて来た駅にも関わらず、迷うことなく、券売機にたどり着いた。
路線図で駅と切符代を確認する。一番高い切符でも、一万円はさすがにしない。この世の金はあの世に持っていけないから、全て使いきってしまいたかった。
「何度か乗り換えて、行けるとこまで行ってみるか」
とりあえず、近くの大きな駅までの切符を購入する。お釣りを財布にしまうと、額は減っているのに財布はさっきより膨れたものだから、思わず顔が綻んだ。
「俺の財布にようこそ。野口さんに樋口さん」
紙幣にあいさつをしてから改札に向かう。この暑い時期にラーメンを食ったばかりだ。電車の冷房が待ち遠しい。
切符を摘まんで改札機に通す。その瞬間、切符ごと大きな手に握り込まれた。
「な」
振り向くと、派手なシャツを着たスキンヘッドの大男が笑っていた。笑顔なのに膝が震えるほど怖い。
「見つけたぜぇ、秀則さんよう」
地獄の底から響くような低く野太い声だ。
「え、えーっと、……どちら様でしょうか?」
自分で言っておきながら、馬鹿な質問だと思った。こんな人の道から外れた目をした人間が俺に話しかける理由なんて、たったひとつしかない。
「なあに、ただの借金取りだ」
「ですよねえ……」
二人で渇いた笑いをこぼす。
「すみません! 俺、急いでるんで!」
咄嗟に駆け出すが、
「おうっ!」
掴まれたままの右手のせいで後ろにひっくり返った。逆さまに見ても、男の顔の怖さは変わらない。
「奇遇だな、俺も急いでるんだ」
「そうなんですか」
「ああ。どっかの馬鹿が、金も返さずに逃げ出しやがってな」
「は、ははは、は……」
腕を引っ張り上げられ、立たされる。切符をもぎ取られ、ポケットに仕舞わされた。
「でもそうだな、どこかに行きたいなら、車で送ってやるよ。電車よりも快適だぞ」
「そんなお手数をかけるわけには……」
男の腕が首に回される。長く、太く、固い。実に男らしい腕だ。俺の両腕を束ねても適わないかもしれない。男が顔を近づける。一瞬で笑みを消し、深く深く眉間にシワを刻む。首にかかる圧力と鋭い眼光に呼吸が止まった。
「そろそろ冗談は終いにしようや」
「は、はい……」
男に引きずられるように駅を出る。すぐそばに、ウィンドウまで真っ黒なセダンが停まっていて、その中にもやはりいかつい男が三人乗っていた。後部座席で男達に挟まれる。
セダンは音もなく走り出した。目的地は間違いなく、地獄だ。
神様、あの一万円はもしかして、手切れ金だったのか?
「到着だぞ、と」
「うわっ! ぐっ」
乱暴に床へと投げ捨てられる。受け身を取り損ねて顎を打ち、痛みで床をのたうち回っていると鍵のかかる音がした。
と、閉じ込められた……。
冷たい床が当たっているのは腹なのに、背筋が凍り付く。錆び付いたブリキのように動きの悪い首を回す。男達に取り囲まれていた。
幽霊に会った。ビルの屋上にも立ったし、山の神も見た。それでも怖いものには慣れないらしい。歯の根が合わず、カチカチと耳障りな音がする。
「あ……、あ、う」
「あ? 何言ってんだよ?」
「別になんだっていいじゃねえか。そんなことより」
「そうだな。金さえ出してくれりゃあ、どうでもいい」
駅で俺をさらった大男がしゃがみ、胸ぐらを掴む。
「さて、どうして連れて来られたかはわかってるよな?」
「あ、あの、う……」
「まあ、てめえが知ってようが知らなかろうが、そんなのはいいんだ。とにかく……」
男達の一人が事務所の奥に走り、クリップで止められた紙束を持ってくる。それを大男が受け取り、俺の眼前に突きつけた。
「これ、お前の債権書。色んな所にあった債権を俺らがまとめて買ったんだ」
確かに、束の一番上の紙には俺の借金総額が書かれていた。
「お前が今まで借りてたような街金融は、まあ慈善事業みたいなもんだ。担保も持たない奴に、帰ってくる当てもない金を貸してやる。取り立てだって、せいぜい家の前で脅すくらい。なんて優しい奴らだ」
あんな奴らに、いったいどうして優しいなんて言葉が浮かぶんだ?
昼夜問わず押し掛けて来ては金を返せと喚き立てる。俺が留守の時にやって来たせいで、帰ることもできずに一晩公園のベンチで過ごしたこともある。
そのあまりのしつこさに、俺は自殺まで考えてるんだぞ?
「なんだ? あいつらが優しいなんてのはおかしいとでも言いたそうな顔だな?」
「なっ!」
「別に驚かなくてもいい。俺は心が読めるエスパーじゃねえよ。ただ、実際にそう口にするやつもいるからわかるだけだ」
大男は債権書を先ほど奥から持って来た男に返す。それから俺のシャツを離して立ち上がった。下から見上げると、尚更大きく見える。
「さて、それじゃあ、ボランティアと俺らの違いをわからせてやるか」
大男のその言葉で、男達が動き出した。
「や、やめろ!」
俺を押さえつけ、その内の一人は不自然に俺の小指を握った。大男は俺の前にパイプ椅子を置き、腰かける。煙草に火を着け、ただくわえた。
「今から俺が聞くことに、お前は素直に答えればいい。それだけだ」
本当に質問するだけなら、俺を押さえる必要がどこにあるというんだ。
「じゃあまずは、お前の親の住所だ。全く、最近は個人情報の保護だなんだって、こんなことも本人に聞かないとわからなくなっちまったからな」
「お、親?」
どうして?
そんなの考えるまでも無い。金を持たない俺の代わりに、親に払わせるつもりだろう。 そうだ、元々俺が借金したのも親父のせいなのだから、何も間違ってはいない。武家の家系だと言って、自分の外聞を良くするために子供を利用しようとしたのが悪いんだ。大学を落ちたくらいで俺をゴミ扱いしやがって。実家にいた頃の、親父と喧嘩ばかりしていた毎日を思い出す。
俺が味わった苦しみを、親父も味わえばいい。
あんな奴ら……。
大人しくというよりは、むしろ進んで住所を教えようとしたその時、
「テストで百点を取ったんだって?さすが俺の自慢の息子だ」
突然、笑顔で俺を褒める親父の姿が思い浮かんだ。
頭を撫でられている俺はまだ小学生で、それを和やかな表情で見ているお袋のシワも少ない。
みんな笑っている。
小学校低学年の頃、算数の抜き打ちテストで、クラスでただ一人俺だけが百点を取ったことがある。これはたぶん、その時だ。
嬉しくて、学校が終わったら家まで走って帰った。とにかく早く褒めて欲しくて。
そうだ、親父に頭を撫でられながら、俺は何か言ったんだ。確か……。
記憶の中の俺が口を開く。
「僕、いっぱい勉強して、立派な大学に入って、すっごく偉くなるんだ」
あ、あああ、ああああああああああああああああ……!
俺は言った。
この、俺が、俺自身が言った!
勉強ばかりを押し付けてだと?
外聞のために俺を利用しやがってだと!?
違う。
それは違うんだ!
全て、俺が望んでいたことじゃないか。
「どうした?早く言え」
大男の声に答えようとするが、言葉が出てこない。
どうしてこんな時に思い出すんだ。
死ぬ間際に記憶が走馬燈のようにって言うが、まさかこのタイミングで、この記憶は無いだろう。
こんなもん見せられたら、言えるわけがない。
どこまでもタイミングが悪い自分が恨めしい。
黙ったままの俺に、大男が舌打ちをした。
「クズが粋がりやがって。やれ」
大男の合図で、俺の小指を握っている男が頷き力を込めた。
パキッ!
板チョコを割ったような軽い音。
しかし、俺を襲ったのはそんな生易しい表現じゃない。
視界が急速に狭まり、無くなる。
全神経が小指に集まったように過敏になり、鋭い灼熱が脳を焼いた。
鼓動のふいごが炎を成長させ、一拍ごとに痛みを爆発させる。
「がっ……あ! くぁあああ、ぎひ!」
汗、涙、鼻水、涎。身体中からあらゆる汁が流れ出る。
床を転げ回りたい衝動は男達に押さえつけられ、体の中で跳ね、暴れる。
瞼がきつく閉まり、小指の現状を確認するのを拒む。
「だから言っただろ。お前が前に金を借りてた奴等は優しかったってな」
大男が椅子から立ち上がる。巨大な足が向かった先は俺の左手。
折れ曲がった指が革靴の底と床で伸ばされた。肉の中を骨が動き、繊維を千切る。
「価値のねえものはゴミだ。お前の体は臓器と血液と角膜と脳みそを除いてゴミ。そこらに転がるゴミなんてのは、道行く奴らに踏みにじられて跡形もないもんだろう?」
大男が足を捻るたびにゴリゴリと折れた骨が擦れる音が耳に届く。
痛みを遮断した脳はそれに対してひたすらな吐き気を催した。
いっぱいだった胃袋が絞り上げられ、消化途中の食べ物だった物が、汚物となって流れ出る。
「ちっ、また仕事を増やしやがって」
大男の足が退けられ、骨が飛び出し、腫れ上がり、血に真っ赤に塗れる指が姿を表した。
それが視界に入った瞬間、精一杯自分の体から遠ざけようとした。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
しかし、それは紛れもなく俺の指で、絶対に腕の長さよりは遠ざけられなかった。
「ひっ、ひっ……」
呼吸もままならず、喉がひきつる。
「自業自得ってやつだ。人の言うことはよく聞け。こんなのは小学校で教わっただろ」
大男は椅子に座り直す。脚を組み、長い腕を伸ばして灰皿を取り煙草を押し付けた。それからジャケットから携帯電話を出して操作する。微かに聞こえる呼び出し音に続いて、大男が誰かと話し始める。
「おう、俺だ。活きのいいのが入った。腎臓? 血液? あー、そんなにちまちましなくていい。今回のは丸々一匹だ」
好きに使え。
大男はそう言って電話を切る。灰皿と一緒に電話をテーブルに置く。
「喜べ、もう終りだ。一時間後には片が付く」
終わり?
擦りきれそうな神経が、その言葉に繋ぎ止められた。
電話の内容からすると、たぶん俺の体をバラバラにして売る手筈だろう。
腎臓はふたつ。
肝臓は切除しても元に戻る。
しかし、心臓や脳はひとつきりだし復元もしない。
取られたら、確実に死ぬ。
死ぬのか?
指が潰されただけでも気が狂いそうだというのに、死ぬ?
死ぬ。
「うぁぁぁぁあああああ!」
怖い。
気持ち悪い。
恐ろしい。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ!
「し、死にたく……ない。死にたくない!」
「ああ?」
「あああ! 嫌だ、俺は死ぬのは嫌だ!」
「今更何言ってやがる。だったら素直に親の住所を言やあよかったんだ。それにお前、自殺しようとしてたんだって? 丁度いいじゃねえか」
「死にたいなんて、本気で思うもんか!」
自分の叫び声に、自身の本心を知った。
本気で死にたかったなら、銀橋さんの社会復帰なんてありえない希望は無視して飛び降りればよかった。
山の神なんか恐れずに、滝壺に飛び込めばよかった。
燃え盛るテントから脱出しなければよかった。
海に飛び込む前に、岩でも抱え込んでおけばよかった。
そうしなかったのは、心の一番根っこのところで抵抗していたからだ。
俺は死にたくない、と。
どれほど痛くても苦しくても、生にしがみついていたい。
普通の人間なら、そんなことは意識しなくたってわかることだ。
今更になって気がつく自分の馬鹿さ加減に、ますます涙がこぼれた。
「はっ、俺は自殺しようとしてる奴は数え切れねえほど見てきたが、結局はいつもこうだ。少し痛めつけてやると、簡単に考えを変えやがる。それからはふたつの言葉しか話さない。『死にたくない』か『助けてくれ』だ。お前もそうなのか?」
大男は口の端を吊り上げて、揶揄するように語る。しかし俺は、それに怒りを覚える余裕すら無かった。死への恐怖は細菌のごとく増殖を繰り返し、痛みで白くなった意識を蝕んでいく。俺の口は、男の言葉をオウム返ししていた。
「死にたくない……、助けてくれ……」
「ったく、誰がお前なんか助けるかよ。働きもしねえで、ギャンブルに負けて借金作って、あげくにそれを返そうともせずに死んじまおうなんて、無責任で性根の腐ったゴミをよ」
男の言うとおり、俺はゴミみたいな人間だ。
それでも、惨めだって生きていたい。
誰だっていい、助けてくれ!
親父の、お袋の、銀橋さんの、キリカちゃんの、その他、俺が出会った沢山の人間の顔が浮かんでくる。
そして一番最後に、誰よりも鮮明に浮かんだのは、ゴミみたいな俺の隣で笑顔を向けてくれた少女だった。
「チカ、助けてくれ!」
俺が出せる限界の大声だった。俺を取り囲む男達が、一斉に眉をしかめる。
それだけだった。
ここで誰かが飛び込んでくるほど運が良い人間だったなら、俺はそもそもこんな所にいやしない。
歯ぎしりの音が聞こえた途端、俺は飛んだ。大男が右足を上げているのを見て、自分が蹴り上げられたのだとわかった。わずか一秒にも満たない飛行を終えて、俺は床に墜落する。息が詰まり、空気を求めて右手を伸ばした。その右手を掴んだのは、酸素でも窒素でも二酸化炭素でもない。本当に物が切れそうなほどに鋭い目をした大男だった。
「左手だけじゃあ足りなかったか」
大男は俺の右手の小指を握った。既に折れた指から寒気が走り、背筋を凍り付かせる。
「や、やめ」
俺の言葉になんて耳を貸さず、大男は小指を握る手に力を込めた。筋が伸び、骨がきしむ。
「あ、ああ……」
小指の反りが大きくなり、限界を迎える。俺は固く目を瞑り、歯を食いしばった。
「ぐああああっ!」
小指を覆っていた無骨な手が開かれる。吹き出た汗が空気に晒されて冷たい。しかし、いつまで経っても、新たな痛みはやって来なかった。恐る恐る目を開く。右手には何の異常もない。五指は向くべき方向を向き、俺の意思通りに動く。
「どうして……」
視線を右手から上げると、さっきまで目の前にいた大男が消えていた。そしてその代わりに、ガラス製の灰皿が浮かんでいた。
「な!?」
誰かが投げたり、糸で吊るしているわけじゃない。灰皿は重力を無視して空中をふわふわと上下している。無事だった右手で目を擦ってみても、それは当然のように存在している。
大男が、灰皿に変身した?
「しっかりしてください!」
野太い声に目を向けると、黒服の男達が床に膝を着いて集まっている。その中心でスキンヘッドの男が抱えているのは、あの大男だった。何故か白目を向いて気絶している。
男達が俺を睨んだ。
「お前、何をしやがった!」
「俺……?」
「シラを切るな! 突然灰皿が飛んできたんだぞ! お前以外に誰がこんなことするっていうんだ!」
突然、灰皿が?
わけがわからない。
俺はそんな超能力に目覚めた覚えは無い。
あるとすれば、どういうわけか手に入ってしまった霊感くらいだ。
「あ」
もしかすると――。
「う、うわあ!」
男達が悲鳴を上げて大男から飛び退る。大男は支えを失って床に頭を打つが、男達はそんなことには構わず距離を取る。薄い眉の下にある目は大きく開かれ、部屋の中を往復している。飛び回る灰皿を追っているのだ。さっきまでは風船のように宙に浮いていた灰皿が、今は猛スピードで旋回していた。
そして、それにつられたように、部屋中のありとあらゆる物が動き出した。
棚が揺れ、テーブルがが震え、壁に掛けられていた日本刀まで剥き身で飛び交った。
「これは、ポルターガイスト」
刀や銃から逃げ惑う男達を見ながら、俺は女の子のように内股で座り込んでいた。
ふと耳に、「かち、かち」という何かがぶつかり合う音が届いた。音の発生源は、どうやらノびたままの大男のようだった。訝しみながら見ていると、大男の体に変化が起こった。
どんどんと、大きくなっていくのだ。
体のほぼ中心にある、あれが!
この状態で、テントなんか張ってやがる。
大男のあれの成長を妨げているズボンは、今にも内側から弾けそうになっていた。どれだけ熱く滾っているのか、股間からは煙まで立ち上っているようにも見えた。
鼻を突く異臭。
まるで、繊維が燃えているような……。
煙は俺の気のせいでは無かった。男の股間からはもくもくと煙が上がり、遂には火を噴いた。
あまりの異常に、開いた口が塞がらない。
大男のズボンには穴が開き、部屋の照明を反射して輝くモノが姿を現した。
黒光りする、ライターが。
ライターは男のズボンから飛び出すと、他の物と一緒に宙を飛んだ。
「う、ううん……って、あっつ!」
燃えるズボンの熱で大男が飛び起きた。慌てて股間の火を払っているが、ズボンには大きな穴が開き、真っ白なブリーフが丸見えになっていた。
「お気づきになったんですね!」
男達が大男へと駆け寄る。
「あ、ああ、これはいったいどういうことだ? 何があった?」
「俺たちにも、何が何だかさっぱりです!」
大男が俺に目を向ける。
「てめえのしわざか!」
「違う、俺じゃない!」
そう、俺のしわざではない。
こんなこと人間にできるわけがない。
俺たちの間を、ライターが通り抜けた。ライターは部屋の中央に向かう。動きを止めたのは、机の上だった。俺が机に置かれている物を確認した瞬間、ライターはまるで吊られていた糸が切れたように落下した。
たちまち火がテーブルの上の紙束に燃え移る。
「うわあああああ!」
男達は慌てて上着を被せたり、息を吹きかけたりして火を消そうとする。しかし、それを阻止する物があった。
男達の背後で、風切り音を立てる刀。それは自分の存在をアピールしているようだった。
「ひい!」
消火活動そっちのけで駆け出す男達。扉へ肩からぶつかり、外へ転がり出て行く。それを見送るように刀は一度閃くと、扉の枠にぶつかって真っ二つに折れた。
折れた上半分は、回転しながら宙を舞う。
一直線に、俺へと向かって。
「うおっ!」
とっさに体をくの字に曲げてかわす。振り返ると、さっきまで俺の頭があった部分に、深々と突き刺さっていた。
「危ねえ……」
安堵の息を吐いて刀から扉に目を戻すと、もう男達の姿は無かった。それに、さっきまでの騒ぎが嘘みたく、部屋の物たちは静けさを取り戻していた。
俺はソファにどっかりと腰を下ろすと、背もたれに体重を預けた。それから、前にある壁に向かって言う。
「お前、俺まで殺す気か」
「違うよ! あれはたまたま」
返事は真後ろからだった。ソファの背もたれを支点にして反り返ると、壁から少女の顔が上下逆さまに生えているのが見えた。いや、逆さまなのは俺の頭か。少女は壁から体を生やして出てくる。俺の隣に座った。
「よお、久しぶりだなチカ」
俺がそう挨拶すると、チカはしょぼくれた顔をした。
「よお、久しぶりだな。じゃないよ!」
もしかして今のは俺の真似か?
「海に飛び込んだっきり全然浮かんでこなくて、勝手にひとりだけ逝ったんじゃないかって不安だったんだから!」
「しかたないだろ、また死に損なってたんだ」
「運が良いのか悪いのかはっきりしてよ!」
「無茶言うな」
一週間ぶりでもチカは相変わらず騒がしくて、感傷に浸る暇も与えてくれなかった。
まあ、下手に真面目な雰囲気よりかは、言いやすいか。
頬を膨らませるチカに、俺は頭を下げた。
「ありがとう。助かった」
「うわあ、秀則が素直になってる! 何? 何が秀則をそうさせたの!?」
「命の恩人にくらいは、ちゃんとしねえとな」
「寒気がするよおお!」
「失礼な奴だ」
しかし、俺だって素直なチカを見たら似たような反応をするだろう。
「それとチカ、もうひとつ。すまない」
嫌悪を表していたチカの表情が、穏やかなものに変わっていく。
「俺、自殺するのやめる」
「うん、さっき聞いてた。やっぱり、死にたくないよね」
「あいつらに殺されるって思ったら、堪らなく怖かった。もう理性で物事を考えられなくなったら、死にたくないって叫んでたんだ。それが、俺の本心」
チカは顔を伏せる。
せっかく見つけたあの世への同行者が、こんな臆病者ですまない。
でも、俺は生きたい。
これからの人生に希望が差したわけじゃないけれど、それでも俺はまだ、生きていたい。
チカが顔を上げる。俺を目を逸らしたくなるのを必死に堪えた。
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
チカが浮かべていた表情は、満面の笑みだったからだ。
「秀則は、二十四歳でしょ?」
「あ、ああ」
「それじゃあ」
「それじゃあ?」
「あと五十年、ううん、おまけで六十年くらいなら待っててあげる」
「それって、つまり」
チカは立ち上がると、ソファの後ろに回って、俺の首に抱き付いた。
「約束は守ってよね」
俺が背後霊に憑かれた瞬間だった。