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「奥さん……、あなたが犯人なんでしょう」

 大きな波が崖に当たって砕け散る。

「……ええ。そうよ、私が殺したの」

 夕陽が照らす顔は、憂いを帯びていた。

「どうしてこんなことをしたんだ?」

 叫びとも嘆きとも取れる声が、小さな口から漏れる。

「憎かったのよ! あいつが、あいつが憎かったの……。家のことは全部私にまかせっきりで、息子の授業参観にも出たことが無い。そのくせ出世するでもなく、暇さえあれば酒にギャンブル。将来のために必死にやりくりして貯めたお金も、隠れて使い込んで……。もう、殺すしかなかったのよ!」

 煌めく涙が頬を伝った。

「奥さん、何があったとしても、人を殺していい理由にはならないんだよ。お前ら、逮捕しろ」

 こうして、一つの事件が幕を下ろした。と言うか、

「お前は一人で何をしてんだ?」

「サスペンスごっこ」

「バカヤロウ」

「それはツッコミじゃなくて、単なる悪口だよ!」

 チカにはこう言ったが、あながちサスペンスごっこをしてみたくなる気持ちはわからなくもない。俺達が立っているのは、まさにサスペンスドラマのラストシーンに出てくるような崖っぷちだった。半分沈んだ太陽に照らされる、崖に砕かれた波の飛沫が体を濡らす。水平線は僅かに曲線を描き、地球は確かに丸いのだと教えてくれる。丸い地球はその中心へと、あらゆる物体を引き寄せる。俺が崖から飛び降りれば、当然その力で海に真っ逆さまだ。四度目の正直なんて言葉はなくとも、今度こそは死んでやる。

 崖の縁のチカと並ぶ。しかし下は見ない。飛び降りも三度目の挑戦となれば、何が失敗の原因になるかはよく知っている。

「また盛り上げてあげようか?」

「いらねえよ」

 そんなもの無くても、今なら飛び込める。何度も何度も死ぬのに失敗して、いい加減この繰り返しには飽き飽きだ。さすがにもう、俺の人生全ての運も使い果たしだろう。不運を望むというのはおかしな話だが、それも状況しだいだ。

「チカ、もう少しだけ待ってろ」

 海に背を向け、両手を広げる。縦に長い、歪で黒い十字架ができあがった。それはゆっくりと短くなっていき、俺の視界から消える。代わりに昼と夜の間の、朱とも藍とも言えない空が見え、遠ざかっていく。

 体を包む浮遊感。

 風を切る音で、波の音がかき消えた。

 チカがあっという間に小さくなって、もうどんな表情をしてるかもわからない。まあ、あいつのことだから、たぶん笑っているはずだ。

あと五分も経てば、二人であの世行きか……。

 時が漸進する錯覚の後、全身を衝撃を襲った。

「――っ!」

 口から大量の空気が漏れ、海面を目指して上昇していく。

 海の中は暗い。

 あー、しまった。

 海面に叩きつけられた時、意識を手放すのを忘れていた。

 何で耐えちまったんだよ俺。

 靴の中に海水が入って気持ち悪い。

 塩分で目が痺れる。

 鼻の奥が痛む。

 肺が酸素を求めて痙攣を始めた。

 開いた口から入るのは海水。

 気管に入り込んで蒸せる。

 残り少ない空気が吐き出される。

 代わりに再び海水が入る。

 エラなんて付いていないから、酸素不足は解消されない。

 水の元素構成は水素と酸素なのに、不便な体だ。

 視界が狭くなっていき、意識が遠のく。

 こんな時、普通は走馬灯が見えるらしいが、俺の脳は代わりに溜め込んだ知識をちらつかせた。

 海水に溶けている酸素量は1リットル中に三ミリリットル。

 地球上の海水の総量は約十三垓二千京リットル。

 よって海水に溶けている酸素の総量は約三百九十六京リットル。

 塩分は一リットルあたり三十五グラムだから、約四千六百二十四トン。

 俺一人飛び込んだところで、この数字はほとんど変わりはしない。

 この辺りでは、夏場の海の平均水温は二十度くらいなのに、体中が焼けるように熱い。

 胃は海水で満たされて、図らずも満腹になっている。

 この調子で肺も海水で満たされれば終りだ。

 さっきから耳鳴りが煩い。

 いつの間にか視界は黒一色で塗り潰されている。

 なるほど、これは確かにブラックアウトだ。

 チカの顔が見える。

 もうすぐ一緒に逝けるぞ。

 もうす――



 白い。

 さっきまでは真っ暗だったのに、今は白い。

 ここが、あの世なのか?

 心地よい、柔らかなものが俺の体を支えている。

 これはいい。

 安らかな眠りとはよく言ったものだ。

 これは、享受しなければ。

「いやいや、二度寝はいけねえよ」

 突如聞こえた声に、意識が眠りの海から引き上げられた。

 真っ白だったのは壁と天井、それにシーツだ。

 体はベッドに包み込まれ、窓から差し込む光が暖かいというより、もはや暑かった。現状を理解したくてしきりに首を動かしていると、一人の男性と目が合う。年齢は顔で判断すれば俺と同じくらいのようだが、派手な金髪をカラフルな髪留めで留めていて、ずっと若そうにも見える。

「やっと目覚めたな」

「えっと……、ここは、天国じゃねえのか?」

「この俺が天使に見えるか?」

「いや、全然」

 翼も無ければ、頭の上に輪っかも無い。

「ここは病院だ」

「病院……ってことは」

 ああ、俺はまた死に損なったのか。

 右手で目を覆って溜め息をついて。

 吐き出した分、新たに空気を取り込むとき、体が勝手に躊躇った。海水の塩辛さと苦味が蘇る。ゆっくり、慎重に空気を吸う。当然、気管に入っても蒸せたりはしなかった。

「あんたが、海岸に打ち上げられてんのを、俺が発見して救急車を呼んだんだ」

「……余計なことを」

 そのままにしておいてくれたら、低体温症で死ねたかもしれないのに。どうしてこうも邪魔ばかり入るんだ。俺の自殺現場なんかよりも、孤独死寸前の老人にこそ人が立ち会ってやるべきだろう。

 俺の言葉に、男はいぶかしむでも怒るでもなく、くつくつと笑った。

「やっぱりあんた、死ぬつもりだったんだな」

「ああ」

「なら、やめとけ」

 そう言う男の声はやけに力強い。他人事としてかける、上部だけの言葉じゃないと感じた。目を覆っていた手を外し、もう一度男のことをよく見てみる。頭ばかりに目が行って気付かなかったが、男はベッド脇にあるパイプ椅子ではなく、車椅子に乗っていた。夏だというのに、引き摺りそうなほど長い膝掛けをしている。

「もしかして……」

「ああ、俺も『元』自殺志願者だ」

 男は膝掛けを外す。

 その下には、何も無かった。

「昔、仕事で酷いスランプに陥ってな、何もかもが嫌になってた時期があったんだ。そのうち酒に溺れて、意識も無いまま街を徘徊した。そういえば、目覚めたらゴミ捨て場に寝てたなんてことが本当にあって爆笑したなあ」

 男が笑い顔には話のような陰が無かった。

「もう半分死んでたようなものだったから、あっちの奴らに引き込まれるように、電車に飛び込んだ。で、これ」

 男はももを手で打つ。

「電車って実は結構遅いのな。跳ね飛ばされたけど即死はできなかった。そのくせ急には止まれないから、俺の脚の上を横断して、切断だ。あの痛みは堪ったもんじゃねえよ」

 麻酔も無しに脚を切り落とされるなんて、想像するだけでも吐き気がする。思わず擦って、自分の脚が付いていることを確認した。

「でもな、俺は生きてるんだ」

 男は子供のように無邪気な笑みを浮かべた。

「どうして……、笑ってられるんだよ」

 死にたくなるくらい苦しんだくせに。

 脚を二本とも失ったくせに。

 自殺志願者のくせに。

 その時、病室の戸が開き、看護師が入ってきた。

「あ、目が覚めたんですね」

 看護師は別名、白衣の天使と言う。俺はその意味を一瞬で理解した。

 磁器のように肌が白く、ナース服に溶け込んでいる。

 薄く化粧が載った顔は整っていて、右目の下にある泣きぼくろが艶かしい雰囲気を醸し出す。

 はっきり言って、綺麗だった。

「具合はどうですか?」

「え、いや、その」

「まぁ大変! 言語野に後遺症が残ったのかしら?」

「いやいや、大丈夫ですよ! ちゃんと喋れますから!」

 看護師は良かったと胸を撫で下ろす。チカはなんて慎ましやかだったんだろう。それに比べて、こちらの胸はとても自己主張が激しい。

「でも、検査はしないといけませんので、先生を呼んで来ますね」

 二つの山を揺らして病室を出ていく。

 ここは本当に病院か?

 コスプレ系のビデオで似たような女性を見たぞ?

 看護師は戸を閉める直前、男に手を振っていった。男はそれに笑顔で答える。

 この反応、まさか……。

「どうして笑ってられるかって? そんなの今が幸せだからに決まってるだろ」

 男の笑顔の輝きは、もはや直視できない。

「彼女とは、俺がここに入院してたときに知り合ったんだ。脚は無くしたけど、彼女を手に入れた。それからは仕事もうまくいくようになってな、今が人生の幸せ絶頂期」

 さらに男がのろけようとしたところで、看護師が初老の医師を連れて戻ってくる。これ以上聞かされたら、怪我人を増やすところだった。

 医師の言われるままに、服を脱いだり関節を曲げたりする。聴診器が冷たくて、心臓発作を起こすんじゃないかと思った。酸素欠乏で脳に障害があるかもしれないと、いくつか簡単な質問がされる。

「名前は?」

「秀則」

「歳は?」

「二十四」

「住所は?」

「あー……、××市チカ」

 もう帰るつもりの無い、あのアパートの住所を言うと、医師は「遠いね」と驚いていた。

「利き腕を上げて」

「はい」

 右手を挙げる。

「今日は何日?」

「……わかりません」

「そうだろうね。今起きたばかりだし」

 じゃあ、聞くなよ。

「ちなみに、今日は○日ね」

「なっ!?」

 俺が海に飛び込んでから、もう一週間も経っていた。なんで俺は目覚めてしまったんだ。

 そのまま死んどけよ。

 途中からは医師が俺をからかっているだけのようだったが、医師は何か納得したように頷いた。

「大丈夫そうだね。ただ、一応精密検査は受けてもらうよ。あ、今日じゃなくて明日ね」

「そんなもんいらねえ。体はちゃんと動くし、さっさと退院させてくれ」

「馬鹿言っちゃいけないよ。何かあったらどうするんだい?」

「知らねえよ」

 何かあるというなら、それこそ望むところだ。

「おいおい、あんまりわがまま言って医者を困らすなよ」

 男が口を挟んだ。看護師の手を握っているあたり、質の悪い患者をなだめて、良いところを見せようとしているのだろう。しかし、そんなものを見せつけられて、言うことを聞く気なんて起きるわけがない。

「うるせえっ! 俺の体だ! 精密検査なんかしなくても、自分の体は自分が一番よく知ってる!」

「ああ、精密検査なんかは俺だってどうでもいいと思う」

「だったらなんなんだよ?」

「自殺志願者を一人で帰せるわけがねえだろ」

「ぐっ」

 もっともな意見だ。

「お前が寝てる間に身元を証明できるもんを探したけど、免許証も保険証も入ってない。携帯も持ってないから親を呼ぶこともできなかった。記憶障害は無いんだったら、実家の電話番号は覚えてるだろ? 帰りたいなら、親を呼べ」

 もう、六年も会ってないのだ。それなのに急に自殺するかもしれないから迎えに来いなんて、あいつらはいったいどう思うだろう。たぶんお袋は泣く。親父は顔を真っ赤にして怒るはずだ。何より、俺自身が恥ずかしさで死んでしまいたくなる。いや、元々死ぬつもりか。まあ、とにかく親を呼ぶのは嫌だった。

「べ、別に俺が一人で退院したって、死ぬとは限らねえだろ!」

「いいや、絶対にまた自殺しようとする。俺だってこいつと出会う前、脚を失った直後は階段から転げ落ちて死のうと思ったからな」

 男は看護師と繋いだ左手を前に出す。

 この男は自慢したいだけじゃないのか。

「もし俺が死ぬとしても、お前らには関係ない!」

「関係ないことあるか! 現にたった今、こうして話してる! 名前も知った! そんな奴が死んだら、気分が悪い!」

「知ったことか! どうせ心を痛めてる俺ってかっこいいとか思うんだろ!」

「だから、そうやって物事をひねくれた目で見るな! それが自殺の原因だ!」

「元自殺志願者が上からもの言ってんじゃねえ!」

「先輩として助言してやってんだろ!」

「その言い方が気にくわがっ!」

 俺の言葉は突然伸びてきた手に遮られた。口を押さえるなんて優しいものじゃない。顔を鷲掴みにされている。細い指が顎関節に入り込み、鋭い痛みが襲う。

 一瞬の出来事に、俺も男も全く動けなかった。

 顔を掴む腕の先には、看護師の深く眉間にシワを寄せた顔があった。その目は天使どころか、完全に借金の取り立てにきたチンピラのそれだ。看護師は息を大きく吸い込む。そして、

「じゃかあしいわこのボケ! いいから言うこと聞かんかい!」

「ひ、ひい!」

 関係ない医師が椅子から転げ落ちる程の剣幕で怒鳴った。

「え、いや、え……?」

 男も看護師の顔と床に尻餅をついた医師を見比べて、パニックになっている。怒鳴られた俺はと言えば、看護師の鋭い視線に金縛りにあっていた。

「あんまりしつこいと、……ってやだ、私ったら」

 看護師は俺の顔から手を離し、頬を赤く染める。楚々とした態度をとるが、俺の顔に残る痛みはそんなものには騙されない。

 こいつ、白い悪魔だ!

「……ねえ、今のは?」

「そんなこと聞いちゃいや。ね?」

「今のはなんだって、聞いてるんだ!」

 男が声を荒げて問い詰めると、舌打ちが聞こえた。そして看護師の表情が一変する。細く垂れていた目は吊り上がり、眉間にシワがよる。気だるげに頭を掻きながら、ため息混じりに答えた。

「はー……、聞いて後悔すんのはてめえだぞ?」

 白衣の天使が、低くドスの利いた声を放つ。やっぱり、さっきのは聞き違いじゃなかった。

「ずいぶん変わったからな、驚いたろ? だけどな、これがアタシの素だ」

「そんな……」

 男の強ばっていた顔が萎れ、がくりと頭を垂れる。

「……騙してたのか?」

「ああ」

 言い訳ひとつしない、実に潔よい答えだった。

「アタシは昔、レディースの頭を張ってたことがあるんだ。なよなよふわふわした女は嫌いだけど、聞けばあんた、なかなか有名なインテリアデザイナーらしいじゃないか」

「じゃあ、それ目当てで……」

「今更気づいたあんたが悪い。恨むなら、その馬鹿な脳みそを恨みな。言っとくけど、逃がしたりはしないよ。もう、やることやっちまってるんだからね」

 男の肩が震える。そして、先の無い膝に涙が落ちた。

 さっきまではあんなに腹が立つ男だったのに、ざまあみろとは思えなかった。むしろ同情さえ感じてしまう。

 男の生きる希望は、偽りだった。

 やっぱりこの世には、希望なんて存在しないんだ。

「……やる」

 男が涙と一緒に言葉を溢す。

「あ?」

 看護師の態度には、愛情の欠片も無い。男は爆発したように叫んだ。

「死んでやる!」

 車椅子を反転させ、凄い勢いで開けっ放しだった入口から出ていく。数秒遅れて看護師が続いた。

「さ、させるかよ!」

遠ざかっていく足音に、残された俺と、まだ床に座っている医師は呆然としていた。

 散々人に死ぬなと言っておきながら、今度は自分も死ぬだなんて。さすが元自殺志願者だ。嫌なことがあれば思考が「死」に一直線。いや、今は元じゃないのか。帰ってきた自殺志願者とでも呼んでおこう。

「あ」

 ついでにあることを思い付いた。あの二人がどこまで行ったかはわからないが、もしかするとこの状況は、チャンスかもしれない。

ベッドから足を下ろし立ち上がる。男の話では一週間も眠っていたと言うだけあって、脚の筋肉はすっかり萎えていた。床と足が馴染まないような感覚。二、三歩足踏みをして様子を見る。

 よし、歩けなくはない。

 椅子の上に置かれた俺の少ない荷物を腕に抱え、何事も無い風に入口から出る。廊下を曲がる前に、まだ混乱から立ち直れない医師に、首だけで礼をした。

「お世話になりました」

 少し遅れて、俺の背中に医師の声が届いた。

「あ、お、お大事に!」

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