二
少し考えただけでも、死ぬ方法は沢山思いつく。
チカが死んだように電車への飛び込み、首吊り、入水、飛び降り、焼身、大量服薬に練炭。変わり種では、送電線を切断しての感電死なんてのもある。楽に死ねそうなのは服薬や練炭だが、準備するのが手間だし部屋でもできる。せっかくあの街を出た意味が無い。
それから首吊りもしたくはない。脳に血液が行かなくなると、全身の筋肉が弛緩する。そのため、腹に溜まっている汚物がすべて外に出て、死体が発見される時には酷い有様になっているのだ。
焼身はとにかく苦しそうだし、チカの前で電車に飛び込むなんてのは笑えない冗談だ。
思いつく方法に比べて、実際に俺が行えるものは案外少ない。
「それで、結局どうやって死ぬの?」
幽霊のくせに二本の足で俺の隣を歩くチカが聞く。
「そうだな……、飛び降りがいいかもしれない」
「どうして?」
「死にたいって言っても、できることなら、苦しまずに済む方法を選びたい」
「うん」
「飛び降りなら、大抵の人間は落ちてる間に失神するから、痛みを感じずに済む。下がコンクリートの場所を選べば、まず失敗することも無い。それに、途中で覚悟が揺らいでも、落ちてしまってからなら後戻りはできない」
「へえ、頭いい!」
「あー、そんなことねえよ」
自殺を考えてるくらいだからな。
適当にあの街から五つ目の駅で降りて、高い建物を探してみる。ただし、単に高いだけではいけない。もう一つ重要なのは、無許可で入れるかだ。死にたいから登らせてくれと言って、誰がそれを許すだろう。
高くて、誰でも入れる建物。
幸い、ここはオフィス街らしく、高いビルが立ち並んでいる。あとは入れるものを選ぶだけだ。首を巡らせて通りを歩く。
すれ違うのはスーツ姿の人間ばかり。寝巻きにしているシャツにジャージの俺は、だいぶ浮いているはずだ。
「なんか辛気臭い場所だね」
「そうか?」
通りにはきっと営業で外回りの最中であろう者たちに溢れ、むしろ活気を感じる。
チカは近くの者を指す。
「だって、みんな疲れた顔をしてる」
見てみれば、確かに誰もが今すぐため息をこぼしそうな顔をしている。スーツの似合わない新人らしい青年ですら、携帯を耳にあて、眉間にしわを寄せていた。
「こんなに嫌そうなのに、どうして働いてるの?」
「あー、金がほしいんだろ。金が無いと生きていけないからな」
「じゃあ、死んでる私は働かなくてもいいんだ?」
「そもそも、幽霊なんてどこも雇ってくれねえだろ」
そうだったと、チカは笑う。
どうして働くのか。俺は生きるために仕方なくと言った。アルバイトをしていた頃の俺はそうだった。ここにいるやつらも、同じなのだろうか。だとすれば、どうして生きていられるんだ?
考えようとして、やめた。勤労の義務を放棄した俺にわかるはずがない。
しばらく歩いていると、チカがすれ違う人にあだ名を付けて遊び始めた。
「黒縁」
「二十点。見たまんまじゃねえか」
「ぬるま湯」
「まあ、そんな雰囲気してるな」
「北風と太陽」
「もちろん右が太陽だろ」
「佐藤・ストロガノフ」
「八十点! 悪くねえが、俺としては井上・ストイコビッチを押す」
着実に腕を上げていくチカのネーミングセンスに俺は次を期待した。しかし、すれ違ったのはどこにでもいそうな、一切の特徴を排除したような男。果たして、こんなのにあだ名が付けられるのか?
チカは顎に当てていた人差し指を離す。
「あれ」
「来た、百点だ! そう、あれはあれだな。もうあれ以外に呼びようがねえ」
「ううん、そうじゃなくて」
「あ?」
テンションの上がっていた俺とは対照的に、チカは落着いた様子で指を差す。その先にあったのは、緑色のシートに囲まれた建物だった。建築中のビルだろうか。周囲に作業員や重機が見当たらない辺り、不況の煽りを受けて計画が中断しているのかもしれない。
「あれがどうしたって?」
「どうしたって、探してたんじゃないの? ああいうやつ」
「あ」
そういえばそうだった。ここに来たのはあだ名付けで遊ぶためじゃない。
死ぬためだった。
チカな怪訝な顔を向けてくる。
「まさか、忘れてたの?」
「い、いや、そんなことねえよ。ちょっと油断してただけだ」
「油断って……。秀則 、本当に死んでくれるの?」
「あるある。もう死ぬ気満々」
「むしろ活き活きとしてるじゃん」
「だー、もう! 忘れてただけだ。とにかく、死ねば良いんだろ、死ねば」
浮かれていた自分が恥ずかしくて、チカから逃げるように早足でビルに向かった。
ビルの前には看板が立っていた。予想通り、完成予定はとうに過ぎている。路地の方へと回り込み、誰も見ていないのを確認してシートの中に入る。建設途中だというから鉄筋むき出しのものを想像していたが、外見はしっかりビルだった。建築には詳しくないが、完成間近での中断だったのだろう。ビルを見上げていると、チカが先にエントランスのガラスをすり抜けていった。俺の中で、チカの幽霊ポイントが少し上昇した。
ビルの中に明かりは無く薄暗い。空気はひんやりと冷たく、別世界に来たように感じた。
「うわっと」
床に散らばった資材に足を取られて転びそうになる。
「チカ、足下に気を付けろよ……ってそんな必要はねえか。幽霊が躓いて転ぶのなんて、想像できない。お前だって、見たこと無いだろ?」
返事は無い。
改めて中を見回すが、そういえばチカの姿がどこにも見当たらない。
入り口から風が吹き込み、肌を撫でる。
街の音が遠く聞こえる。
この雰囲気は……。
「きゃああああああああああああああああああああああ!」
「うわあっ、出たああああああああああああああああああ!」
叫んで振り返ると、チカが腹を抱えて転がっていた。
「きゃはははは!」
転ぶ幽霊は見たことは無いが、転がる幽霊を見たのはこれで二度目だ。
「うわあだって。だっさ」
「うるさい。後ろで大声出されたら、誰でも驚くわ!」
「いやいや、思いっきり『出た』って言ってたじゃん。まあ、確かに出てるけどね」
「なに、どこだ!?」
「おーい、あたし幽霊」
「あ、あーはいはい」
「なんで投げやりなの」
どっと疲れた気がする。早いところ、死んでしまおう。
エレベータなんて動いてるわけもなく、奥にある階段で屋上を目指す。今度は肉体的疲労だ。最近はアパートから出るのが近くのコンビニか、パチンコ店に行くときくらいだったせいか、半分も登り切らない内に息が上がった。
運動不足には気をつけよう。健康にもよくない。
……体を気遣ったって今更か。
十階分の階段を登り終えたときには、脚の震えが止まらなくなっていた。膝に手を当てて息を整える。
「やっぱり死ぬのが怖い?」
「違う。運動不足な、だけだ」
意地で顔を上げて屋上へ出る。途端に日差しが目を焼いた。太陽はさっきよりも高くにあった。暗転した視界が徐々に慣れていく。中と違って、資材が散らばっていたりはしない。
ただ、先客がいた。
「だ、誰だい? どうしてこんなところに?」
屋上の縁は柵が無く、見晴らしが良い。といっても、見えるのは青い空と緑のシートくらいだが。
とにかく、そんな屋上の縁に作業着姿の中年男が、脚を宙に投げ出すように座っていた。
これはつまり、そういうことだろうか。
「あー、まさか、ねえ。……だったりします?」
「だったり……?」
「ほら、その、自殺とか」
男の目が大きく見開かれる。
「止めようとしたって無駄だぞ!」
何か勘違いしたようだ。
「私は、ここから飛び降りるんだ!」
「別に止めるつもりは無いです。だいたい、そんな資格ありませんから」
「それは、どういう……?」
俺は気まずさもあって、苦笑混じりに答えた。
「あなたの、同類です」
「はあ? えっと……もしかして、君も?」
「はい、そこから飛び降りるつもりです」
不思議そうに俺を眺める男の方へと歩を進める。隣に腰掛けた。
真下には鉄骨があり、背中、脚、頭。どこから落ちても間違いは無いだろう。
「どれくらいここにいたんですか? 今日は暑かったでしょう」
俺の問いに、男は顔を手で拭った。そうして初めて自分が汗みずくであることに気づいたらしく、袖で執拗に顔を擦る。
「あ、いや、これはその……」
「別に焦って隠す必要はないですよ。どうせ俺もすぐに死ぬんですから」
男の腕が止まった。それからたっぷりの間を置いて、
「それも、そうかな」
と返ってきた。
「朝からずっとここにいるんだ。気温を感じてる余裕も無かった」
男の顔に疲れ果てた笑顔が浮かぶ。ここに来るまでにすれ違った誰よりも、疲労の色が濃い。
「君、すぐに死ぬんだろ?」
「はい」
「なら、私の恥ずかしい話を聞いていってくれないかな。つまらなかったら途中で逝ってくれてもいい」
「まあ、別にいいですけど」
「そうかい。ありがとう」
それから、男は自分の身の上を話し始めた。
男は銀橋と名乗った。名前を聞いて、初対面なのにどこかで見たような気がした。
「私はね、このビルを建てていた銀橋建設の社長だったんだ」
そういえば、ビルの前の看板にそんな社名が書いてあった。
「うん、だった。でもね、三ヶ月くらい前にこのビルを依頼してきた企業が倒産しちゃって、建設費用を支払ってもらえなかった。ウチも経営に余裕があったわけじゃないから、不況とも相まって倒産。妻も子供も出て行って、私の手に残ったのは借金だけ」
重いため息が吐かれる。
「今日、遂に家にもいられなくなって、気がついたらここにいた」
銀橋さんは手の平を握り、開く。
「でもね、どうしても最後の一押しができないんだ。体が震えて、力が入らない」
俺は慎重に下を覗いた。建築資材がミニチュアだ。背筋に寒気が走る。銀橋さんが怖じ気づくのも無理はない。
もうこうするしかないと頭ではわかっていても、実際にここに座ってみると、体が全力で否定してくる。あとほんの十数センチ尻を動かすのが大岩を動かすくらいに難しく感じられる。動物の生存本能というのはたいしたものだ。
銀橋さんはしばらく尻を行ったり来たりさせてから、頭を抱えて叫ぶ。
「私という奴は、どうしてこうも駄目なんだ!」
「わっ、いきなりどうしたんですか? 驚いて、危なく落ちるところでしたよ」
「あ、ああ、それはすまなかったね。いや、なに、改めて自分の駄目さ加減に嫌気がして」
俺は尻を戻して耳を傾けた。
怖いからとか、そういうのではなく、死ぬ間際の言葉が誰にも聞いてもらえなかったのでは、銀橋さんが不憫だからだ。
そう、銀橋さんのため。
他意はない。
俺が自分に言い訳し終えると、丁度良く銀橋さんが続きを口にした。
「私は優柔不断で、職も妻も、周りに勧められるまま決めたんだ。このビルの建設もそう。依頼してきた企業の経営が良くないのも薄々感づいていたんだ。だから本当は受けたくなかったんだけど、はっきりと断れなくて、その間に社の者が……」
銀橋さんの目から涙が溢れた。
中年男性が泣く姿は実に惨めで、それなのに、強く胸を撃つものがある。
俺は銀橋さんの肩に手を置いた。銀橋さんは涙と鼻水で汚れた顔を向ける。
「まだ、挽回する機会はありますよ」
「どういう、ことだい?」
「銀橋さんは今、人生最大の決断を下そうとしています。しかもこれは、ほとんどの人間が神に委ねてしまうほど大きな。だから、ここから思い切って飛び降りれば、銀橋さんは誰よりも決断力のある人になれるんじゃないですか?」
「私が、決断力のある人間に?」
銀橋さんが小さく繰り返した言葉に、俺は頷いた。暗く陰った顔に、光が灯る。顔中の汁を袖で拭い、銀橋さんは立ち上がった。
「君、ありがとう。おかげで勇気が湧いた。私はここから飛び降りて、うじうじと悩んでばかりの、優柔不断な自分と決別するよ!」
拳を固めてそう言う姿には、初めて見たときにあった淀んだ倦怠感が綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
俺も立ち上がり、拳を握る。それを銀橋さんの拳と打ち合わせた。
「最期に君と会えてよかった」
「そう思ってもらえると、俺も嬉しいです」
銀橋さんは男らしい笑みを浮かべる。俺も、そういう顔ができているだろうか。
最期の最期に、人の役に立つことができて、俺は堪らなく嬉しかった。
もっと早くにこの気持ちを持てていたなら、もしかすると――。
そう思ってしまうくらいに。
「それじゃあ、逝くよ」
銀橋さんが屋上の縁ギリギリに足を揃える。この人が逝くところを、しっかりと見届けよう。力強く踏み切って、鳥のように飛ぶ銀橋さんの姿を目に焼き付ければ、きっと俺も飛べる。俺の頭にその光景が浮かんだ。
銀橋さんが両手を広げ、全身で風を切る。重力に引かれて、落ちて……。
下で待ち構えるは無骨な鉄骨。
頭から行って、逝って、――飛び散る。
ちょっと待て。
ドラマチックな展開に興奮していた脳が、急速に冷静さを取り戻す。
銀橋さんの体がゆっくり前傾する。
「さようなら、この世」
「戻ってこい、この世!」
ジャンプした銀橋さんの服を思いっきり引っ張り、屋上へ連れ戻す。勢い余って二人で転がった。銀橋さんが腰を擦りながら身を起こす。
「何をするんだい? せっかくいいところだったのに」
「俺にとっては悪いところでした」
「君にとって……? ああ、もしかして君も、死ぬ前に言っておきたいことがあったのかい? だとしたらすまなかった、自分のことばかり考えていて」
「いえ、そうじゃないんです」
「それじゃあ、なんだい?」
「飛ぶ順番を逆にしましょう」
「順番を?」
「はい。考えたんですけど、先に誰かが飛び降りるのを見てしまったら、かえって怖くなって自分が飛び降りられなくなりそうなんです。だから、まずは俺に飛ばせてください」
銀橋さんは腕を組んで考え始める。みるみる青ざめていく顔。おそらく、辺り一面に崩れて飛び散ったトマトを想像したのだろう。
俺が立ち上がり縁へと進むと、今度は銀橋さんが俺の服を引っ張った。
「待ちなさい。私の方が先にここへ来たのだから、先に逝く権利は私にあるはずだ」
「早い者勝ちが通用するのは小学生までです。世の中そんなに甘くないのは、銀橋さんだってよく知ってるでしょう。どんな手を使ってでもやった者勝ち、いえ、逝った者勝ちです」
銀橋さんの手を払い、縁に立って息を呑む。恐怖から、真夏の炎天下だというのに体が震える。歯の根が合わず、耳障りな音を立てる。下を見たら、もう飛べない気がして、目を瞑った。
ゆっくりと体を倒す。
後は重力に引かれるままだ。
一瞬の浮遊感。
そして、脇腹への衝撃。
「げっふぅ!」
思わず目を開いてしまう。見えたのは銀橋さんの背中と、遙か下方の地面。
再び二人で屋上を転がる。
どうやら銀橋さんが横からタックルして、俺が飛ぶのを妨害したらしい。
しかし、俺の体は中途半端に宙に投げ出していたせいか、完全には屋上に戻りきらず、上半身が縁からはみ出していた。
人間の上半身と下半身の重量比は六対四。
もちろんそれは俺にも当てはまり、頭から地面にずり落ちていく。
途中で邪魔が入ったが、問題なく逝ける。
引かれるままの体が、遂に真っ逆さまになる。
「さようなら、この世!」
「戻りなさい、この世!」
宙吊り状態で下降が止まる。
「なに!?」
銀橋さんが俺の右足を必死の形相で掴んでいた。
「若い人間が自分よりも先に死んでいくのを、黙って見ているわけにはいかないな。あの世行きは、年功序列であるべきだ」
「くっ、しつこい」
残った足で銀橋さんの顔を蹴ろうとするが届かない。
「そんなに暴れるんじゃない。ほら、下を見てごらん」
銀橋さんのあまりも自然な指示に、俺は言われるまま下を見てしまった。小さな鉄骨に、潰れたトマトが脳裏をよぎる。体が強張り、動けなくなる。
「今だ!」
銀橋さんが叫ぶと同時、一気に俺の体を引き上げた。鉄筋コンクリートのどっしりとした安定感を尻で感じる。
『ふう』
二人で胸を撫で下ろした。
「って、安心してる場合じゃねえ!」
俺たちは何をしているんだ。
互いに死ぬのを邪魔しあって。先に死なれては、次に自分が飛ぶ勇気が出なくなる。ならば自分が自分がと、これではキリがない。
どうすればいいんだ?
すると、俺たちの茶番劇を見ていたチカが、呆れ混じりに言った。
「同時に飛べばいいじゃん」
「それだ!」
「え? どうしたんだい、いきなり大声を出して」
銀橋さんが若干、俺から身を引く。
そういえば銀橋さんにはチカが見えていないのだ。急に誰もいない場所に叫んだ俺は、さぞかし奇妙に見えただろう。
だが、今は銀橋さんにどう思われようがどうでもいい。
「銀橋さん、どちらかが先に死ぬのが嫌なら、一緒に飛べばいいんですよ」
「ああ、その手があったか。確かにそれなら不公平は無いし、誰かと一緒という安心感も生まれて飛びやすくなる。一石二鳥、君は天才だ!」
「いやいや、それほどでも。では早速」
俺と銀橋さんは並んで縁に立った。一人のときと比べたら、幾分か気が楽に思える。
これなら飛べる。
銀橋さんと頷き合い、深呼吸。
「じゃあ、『いち、にの、さん』で飛びましょう。いきますよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか」
「なんですか?」
「それは、『さん』で飛ぶのかい? それとも、『さん、はい』で飛ぶのかい?」
「あー、ちゃんと決めます? 銀橋さんはどちらがいいんですか?」
「そうだなあ、『さん、はい』の方がいいかな」
「なら、それで逝きましょう」
もう一度心を落ち着け直す。今度こそ、こんな世界とはおさらばだ。
思い切り息を吸い込み、声を張り上げる。
「逝きますよ! いち、にの、さん――」
軽く膝を曲げ、力を溜める。銀橋さんは両手を高々と上げた。
二人で青空に向かって叫ぶ。
「はいっ!」
――――っ!
………………。
…………。
……。
足下には、相変わらずの安定感があった。
「えっと」
「あの」
銀橋さんと目が合った。互い頭を掻いて苦笑する。
飛ぶ瞬間、トマトが見えた。
簡単に言えば、怖じ気づいて体が動かなかった。
「は、ははは、銀橋さん、やっぱりあれですか? ……トマト?」
俺の問いに銀橋さんは頷く。
なんというか、とても気まずい。二人とも飛ばなかったから笑っていられるが、もしも片方が飛んでしまっていたらと考えると、これ以上会話が続かない。
微塵も気持ちの籠もっていない笑顔を向け合う。
さて、どうしようか。
チカは気味悪そうに俺たちから距離を取っている。このままではチカから、やっぱりあんたと逝くのは嫌だと言われかねない。俺だってどうせ逝くなら、こんなおっさんと二人でよりも、だいぶガキ臭くても女の子と逝く方がいい。早くこの状況を打開しなくては。
「今のは、そうですね……練習。そう、練習です!」
「そ、そうだね。練習は大事だからね」
互いを納得させるように言い訳し合い、なんとか変な空気を誤魔化そうとする。むしろ余計に変になってしまった気もするが、とにかく今のが無かったことにできればそれでいい。銀橋さんも同じ考えであることは、目を見ればわかる。
ひとしきり言い訳をし終えると、共に息が上がっていた。
もう何度もしているように、屋上の縁に足を揃えて立つ。緑色のシートが風に揺らぐ景色が、すっかり慣れ親しんだもののようになっていた。これ以上ここにいたら、地縛霊にでもなってしまいそうだ。
「今度こそ逝きましょう」
「う、うん。いや、ちょっと待って」
「どっちですか?」
「待ってくれないかな。その、ずっとここにいたものだから、小便をしたくなっちゃって」
「あー、それは済ませておきましょう。死体が小便まみれになったら惨めすぎます」
「そうだろう? じゃあ、すぐ済ませるから」
銀橋さんは言うや否や、作業服のチャックを下ろす。
「待って待って」
「何かな?」
「ここは俺たちが死ぬ場所でしょう。するなら別の場所、ほら、反対側で」
「ああ、それもそうか」
銀橋さんと二人で屋上の反対側へ。そこで並んで用を足す。恐怖で縮み上がっているのではないかと思ったが、むしろ高いところからの用足しはすばらしい開放感があり、気持ちよく済ませられた。
定位置に戻る途中にチカを見ると、顔を赤くして俯いていた。そんな反応をされると、こっちまで恥ずかしくなってしまう。
俺たち専用の飛び込み台に着き、最期の確認。
「大きい方は大丈夫ですか?」
「そっちは毎朝快調だよ」
「それはなによりです。じゃあ逝きましょう」
「よし、逝こう!」
息を整えるのもだいぶ早くなった。脚の震えも消えている。気持ちの準備は充分すぎるほどだ。いい加減、このやりとりにも飽きてきた。
「それじゃあ、いち!」
右足を半歩、後ろに引く。
「にの!」
両膝を曲げ、腰を落とす。
「さん!」
上半身を前傾させ、地面を睨む。
さようなら、この世。
待ってろよ、あの世。
「は――」
ぐ~~~~。
気の抜ける音が耳に届き、飛ぶタイミングを見失った。見れば銀橋さんが腹に手を当て目を逸らしている。
「……ごめん。朝から何も食べてなくて」
その一言は、俺の中の何かを、おそらく理性とかそういう類のものをぶち切った。俺は銀橋さんの胸倉を掴んで引き寄せる。
「あんた、いい加減にしろよ」
「いや、だから、ごめんね」
この期に及んでまだへらへらしている銀橋さんの顔を、空いている手で殴った。銀橋さんが屋上に倒れ込む。
「な、何を」
「決まってんだろ。本気で死のうとしていないあんたを、ぶっ殺してやるんだ」
倒れたままの銀橋さんの腹を全力で蹴る。予想よりもずっと重い、生々しい感触が返ってきた。銀橋さんは腹を抱えて丸くなる。
「俺はな、おっさんとコントするためにここに来たんじゃねえ。本気で死にに来たんだよ。それなのにあんたは邪魔ばかりしやがって」
「も、もうやめてくれ……」
「うるせえ!」
苦しげな顔を蹴り上げる。
「あんた、本当に死ぬ気あんのか?」
銀橋さんの短く薄い髪の毛を掴み、強引に顔を上げさせる。鼻からは盛大に血が流れ、顔一面を紙くずのようにしわしわにして泣いていた。
「……死にたく、ない」
「あ? じゃあ何のためにここに来たんだよ? 死ぬためじゃなかったのか?」
「本当は、死にたくなんて、ない。……生きていたい」
それから銀橋さんは死にたくないと繰り返すだけになった。
俺はため息を吐き、階段を指差す。
「死ぬ気の無いやつはさっさと帰れ」
「帰る場所が、無い」
「俺が言ってるのは家とかそんなんじゃねえ。さっさと目を覚まして、みんなが生きてる社会に帰れって言ってるんだ」
「みんなが生きてる、社会……」
髪を離してやると、銀橋さんは何度か咳き込んでから立ち上がり、鼻を押さえながら屋上から去っていく。屋内に入る間際、こっちに向かって深々と頭を下げていった。
最後に見えた銀橋さんの顔は、笑っていた。
恥ずかしさを誤魔化すための苦笑でも、疲れ果てた自分を卑下する嘲笑でもない。心の底から歓喜しているのがわかる、満面の笑みだった。
残された俺はしばらく呆然とし、仰向けに倒れた。
どうして笑うんだよ?
夏の太陽が肌をじりじりと焦がしていく。
銀橋さんを殴った拳が痛む。
「秀則って、実は怒らせちゃいけないタイプ?」
視界に、チカが逆さまに入ってくる。そういえば一人ではなかった。
「さあな。少なくとも、人を殴ったり蹴ったりしたのは初めてだ」
「初めてなのに、いきなり顔を殴ったりするかな」
「初めてだから顔を殴っちまったんだ。頭蓋骨ってのはかなり固くて、素手で殴ったら拳を骨折や脱臼することもある。そこまではいかなかったけど、痛い」
「そんなこと知ってるっていうのは、ますます素人っぽくないよ」
チカは俺の隣に腰を下ろし、風でなびくはずのない髪を押さえた。
「銀橋さん、笑ってたね」
「ああ、どうしてだろうな?」
俺も体を起こし、二人で緑色のシートを眺める。
「もしかしたら、ね」
チカが自信無さ気な声で呟く。
「銀橋さんが朝からここにいたのって、誰かに止めてほしかったからじゃないかな」
本当のことはもうわからない。
俺は立ち上がって、屋上の縁に背を向けた。
「悪いチカ、もうちょっと待ってくれないか。なんとなく、ここでは死にたくない」
チカは黙って付いてきてくれた。
「気持ちー!」
「それ、必ずやらなきゃいけねえのか?」
ビルを出た俺は、再び電車に乗った。あの街には、他にも飛び降りができそうなビルが沢山あった。しかし、また銀橋さんみたいなのがいたら堪ったものではない。そう考えると、もうあの街で死ぬ気にはなれなかった。
他の死に方にするか。
場所と方法は変えても、自殺そのものをやめるつもりはない。銀橋さんのように中途半端な覚悟ではないのだ。
幾つかの駅を過ぎた頃、窓から見える景色が一変した。高い建物が無くなり、畑と田が広がる。乗客も減った。レールの継ぎ目を過ぎる音だけが耳に届き、眠たくなってきた。どうしてこんなに静かなのかと考え、チカが電車に乗ったときに一度叫んだきり、黙りこくっていることに気づいた。何をしているのか見てみると、「にひひ」と外を眺めてにやにやしていた。若干、気持ち悪い。景色はひたすらに田舎風景で、別段おもしろそうなものはない。
「何をにやけているんだ?」
「えー?」
チカは俺に顔を向けると、更に目を細めた。一体、何だっていうんだ。
「ちょっとね、さっきのあんたのこと思い出してたの」
俺を?
「銀橋さんを殴った後にさ、なんか言ってたじゃん。えーっと……」
あのときは我を忘れていて、自分が何を口にしたのかよく覚えていない。
チカはわざとらしく手を打った。
「そうだ『さっさと目を覚まして、みんなが生きてる社会に帰れ』だ。――ぷっ、熱苦し!」
「な!?」
座席を叩きながら――といっても、幽霊だから座席をすり抜けているが――チカは大口を開けて笑う。その仕草がやけにガキっぽくてむかついた。
「今時そんな熱血バカ一代みたいなこと言うやつがいるなんて、おかしくておかしくて。『なんのためにここに来たんだよ?』……きゃははははははは!」
わざわざ似ていない声真似までしてくれる。耳障りな甲高い笑い声が鼓膜を削り、俺の中で見えないゲージが急上昇していく。そして、
「あと、あとはなんだっけ? あ、『決まってんだろ。本気で死のうとしていないあんたを、ぶっ殺してやるんだ』だっけ。はは、むちゃくちゃ言ってる!」
ゲージを振り切った。
「黙れっ!」
俺は力の限り叫んだ。その瞬間、ぴたりと止まる笑い声。チカは首を縮めて固まる。
さっきと同じように、カタンカタンと規則的な音が流れ出す。それなのに、空気はまるで違った。チカが膝を抱き、小さく丸くなる。
怒りのゲージが別のゲージにすり替えられた。
これは、罪悪感のゲージだ。
胃と肺の中間辺りがどろどろにかき混ぜられて気持ち悪い。
チカの表情は膝に埋められていてわからない。体の向こう側は見えるくせに。
「あー、その、なんだ……」
銀橋さんのときもそうだった。俺は怒るとやり過ぎてしまうようだ。今までの人生でこんなに感情的になったことがなかったから、自分のことだというのに今更になって知った。
ここは謝っておくべきだろう。叫ぶ必要なんて無かったのだ。適当にあしらう程度でよかった。
「少し、言い方が悪かった」
背筋を伸ばし、真っ直ぐにチカの方に体を向ける。そうして頭を下げようとしたとき、斜向かいに座る子供が俺を指差した。
「お母さん、あの人なにしてるの?」
「しっ! 見ちゃいけません!」
隣の母親が目を塞ぐように子供を抱きしめる。周囲を見ると、数少ない乗客は、誰もが不自然に俺から目を逸らしていた。
「くくっ……」
チカの背中が小刻みに震え始める。そこで俺はようやく気づいた。
丸めていた体を思い切り伸ばし、チカは再び笑い出した。
「きゃははは、駄目、もう限界。我慢できない。みなさーん、ここに変質者がいますよー!」
騙された。
拳を固く握りしめる。しかし、幽霊のチカには殴ることも、ビンタも、デコピンも通用しない。騙されたが最後、反撃の手立ては無い。
俺は苦し紛れに呟く。
「こんなに性格が悪くちゃ、生前はさぞ友達が少なかっただろうな」
そう言う俺自身、友達と呼べる人間はほとんどいなかったが、そんなのは棚に上げておく。
「そんなことないよ。中学生の頃はもう取っ替え引っ替えって感じ」
「遊び人か」
実に飄々としたものだ。しかたなく、気晴らしのために少し眠ることにする。腕を組み、目を閉じる。少しして微かな言葉が聞こえた。
高校でも、友達を沢山つくるはずだったのに、と。
また俺をからかうつもりか?
だとしたら、絶対にひっかかってたまるか。
沈黙。
レールの継ぎ目。
沈黙。
レールの継ぎ目。
騙されるとわかっていて騙されるのは本物の馬鹿だ。
だから騙されたりなんか……。
沈黙。
レールの継ぎ目。
自慢じゃないが、俺はパチンコの必勝法を三十万で買ったことがある。それを試して十万スッた。
しかたない。それが俺だ。
「あの世にだって、きっと物好きなやつが学校くらい作ってるだろうよ」
「秀則……」
ああ、俺はやっぱり、
「あの世でまで、学校で勉強したくないよ」
馬鹿なんだろうな。