一
死に場所くらいは、自分が気に入った所が良い。
きっと多くの自殺志願者がそうであるように、俺もそう思った。部屋で死んだりしたら、闇金業者の人間に見つかって、体をばらばらにされかねない。人目に付くような所では惨めなだけでなく、なんとなく恥ずかしい気もする。
それじゃあ死んでも死にきれない。
死後の憂いなく適切な場所で、かつ楽に死にたいと考えるのは、けして贅沢ではないはずだ。しかし、そんな都合の良い場所を俺は知らない。と言うより、普通は知らないだろう。
知らないなら、探すしかない。
俺はとりあえず駅へとやってきた。
朝も早いというのに、駅は沢山の人が行き交っていた。よれたスーツに極彩色のドレス、ジャージ、軍服、シスター服。黒髪茶髪金銀緑。
歳も性別も国籍も関係ない。ただ入り乱れるために存在しているように、右から左、或いは逆に流れている。そんなこいつらにも人生というものがある。その中で、いったい何人が死ぬほど苦しい人生を送ってきたのだろう。
切符を買うために券売機の列に並ぶ。俺の前では、そんな人生とは無縁そうな明るい声で、女子高生が騒いでいた。
「今回こそは引けますように」
「ねえリョウちゃん、なんでわざわざ切符なんか買うの? 定期持ってるでしょ?」
「ん? それはね、両想い切符のためだよ!」
両想い切符?
聞き慣れない言葉に興味が引かれた。そんな気持ちが伝わったわけではないだろうが、リョウちゃんとやらは両想い切符について話し出した。
「ほら、切符ってさ、四つの数字が付いてるじゃん?」
「付いてたっけ?」
付いてたか?
「付いてるの!」
そうか、付いてるんだな。
「で、その四つの数字の端っこがおんなじ数字で揃ってるやつを、両想い切符っていうの」
「それを引くと良いことがあるの?」
「良いかどうかはこの先」
まだ続きがあるのか。
「残り二つの数字があるでしょ? 真ん中の二つね。それが好きな人と両想いになれるかもしれない確立なんだよ!」
「へー、ってそれどこかで聞いたことある。それもずっと昔に。古くない?」
「古くから言われてるってことは、それだけ効き目があったってことだよ」
なんだ、都市伝説の類か。そんなもの、今さら聞いたってどうしようもない。なにせもうすぐ死ぬのだ。これが超幸運のお守りとかだったなら、最後に大きな勝負でもしてやろうという気にもなるが、恋愛なんぞ何の役にも立たない。
だいたい、俺の人生は恋愛と縁が無いのだ。思えばもう二十歳も過ぎたのに、未だに初恋すら無い。きっと前世はよほどの女たらしだったのだろう。人生においてモテ期は三度来ると、かつてのクラスメイトが叫んでいたが、前世の俺が、今世の俺の分も全て使い果たしてしまったに違いない。
リョウちゃんが券売機の前で指を組み、熱心に祈る。こんなに必死な様子を見せられると、一緒に祈りたくなってしまう。せめて俺の分もあの子が幸せになってくれたら、なんていうのは気障か。
意を決したリョウちゃんが、タッチパネルに触れる。
どうだ?
リョウちゃんの肩ががっくりと下がる。
……駄目か。
「はあ、また駄目だったよ」
「ドンマイ、次は当たるって」
「これ、十日目だよ」
「……」
リョウちゃんが登下校のどちらも電車を使っているとしたら、もう十九回も外していることになる。考えてみれば、両想いとなる確率の部分を無視すれば、両想い切符は十回に一度は出る。残念だが、意中の相手とは到底結ばれそうにない。
「私、諦めた方がいいのかなあ……」
「そんなおまじないで決まるわけじゃないでしょ」
「そうだけど」
リョウちゃんはため息をついて、言葉をこぼす。
「はあ、死にたい」
それを聞いて俺は列を抜け出た。そのままホームに向かおうとするリョウちゃんの肩を引っ張る。振り返ったリョウちゃんは俺を見て顔をしかめた。
「何あんた? 変質者? 超怖いんですけど」
「死にたいなんて……」
「は?」
「死にたいなんて、そう簡単に口にするな!」
リョウちゃんの肩を揺さぶりながら、唾を撒き散らして叫ぶ。
「世の中にはもっともっと苦しいことがあるんだよ。だから簡単に死にたいなんて言うんじゃねえ!」
リョウちゃんの顔が青ざめていく。隣にいる友達も同じような反応をする。そして、
「え、駅員さん! ここに危ない人がいます!」
「助けてー!」
その声にすぐさま周囲の人間の足が止まり、注目が集まる。
「いや、誤解だ! 俺は変質者なんかじゃ」
慌てて手を離すが、全てを言い終える前に、軍服を着た男のタックルを喰らって床に転がった。腕を背中に回されて押さえ込まれる。
「観念しろ、痴漢が!」
「違う! 俺はそんなことしてない!」
「やった奴は皆そう言うんだ」
それじゃあ、なんて言えばいいんだよ!?
しばらくすると笛を鳴らして人垣を掻き分け、駅員が現れた。その顔は険しく、これから電車を利用しようとしている人間に向けるものではない。
「こいつです! この男が女子高生に痴漢をしてました!」
「だから誤解だ! 痴漢なんてしてない!」
しかしこの有様を見て、誰が俺の言葉を信じるだろう。俺の頭を床に押し付けてヒーローぶる軍服。女子高生に優しく声をかけて落ち着かせようとしているシスター。そして、朝からよくもまあこんなにと思ってしまうほどの厚い人垣。
数は力。
当然、駅員が信じたのは周囲の人間達だった。俺の前にしゃがみ、
「君、事務所まで来てもらえるかな?」
疑問系のくせに、拒否するという選択肢は無かった。
「えーと、つまり、最近仕事でうまくいってなくてイライラしていた時に、偶然前に並んでいた女子高生がくだらない理由で死にたいなんて言ったから、腹が立って叱ったと。これでいい?」
「はい」
「本当に痴漢なんてしてないんだね?」
「だから、何度もそう言ってるじゃないですか!」
「その女子高生にも聞きましたが、痴漢は受けていないそうです」
事務所にいたもう一人の駅員が言う。
「そう。じゃあ、何も無かったんだね」
「そうです」
「うん、ならこの話はお終いにしよう。帰ってもいいけど、これからは紛らわしいことはしないように」
こうして、やっと俺は解放された。時計を見ると一時間も経っていた。駅にはさらに人が増えている。もう誰も俺に興味を向ける奴はいない。
これでようやく死にに行ける。
再び券売機の列に並んだ。
前の女性から香水のきつい臭いが漂ってくる。別の列に並び直そうとも考えるが、この列が一番短い。結局、鼻をつまみながら最後まで並んだ。
今日はとことんついていない。こんな日に死のうなんて、いいのだろうか?
いや、かえって死に日和か。
これはきっと、神がそっちの世界には良いことが無いから、早くこっちに来いと言ってるんだ。
臭いの元がいなくなり、俺は深呼吸をした。
どうせ死ぬなら、空気はきれいなところも良いな。
俺が息を吐くのと一緒に、券売機は切符を吐き出した。それを握り締め、列を抜ける。たかだか切符に付いてる数字で、酷い目に遭ってしまった。こんなもの……。
「げっ!」
何気なく目をやった切符。そこにあった数字は『4444』だった。
最悪だ。
目を擦っても番号は変わらない。どうやら、神は手招きどころか、三塁ベース横で元気に腕を回しているようだった。
「リョウちゃん、両想い切符ならこんなのでもいいのか?」
両想い率四十四パーセント。両想いか片想いかしかないのに、五割切ってるぞ。
相手もいないのに、何か落ち込んでしまう。俺と恋愛は、最後の最後まで縁が無かった。
「恨むぞ、前世の俺」
今日は本当に死に日和だ。
切符にまでとどめを刺されて、いっそ清々しい気分になった。ここまで駄目な人生なら、やめてしまってもいいだろう。
改札を抜けてホームに出る。途端に熱気が体を包んだ。
今日も夏日になりそうだ。襟元から送った風が生暖かい。間も無く電車がやってきた。
「うわ」
満員だった。それなのに降りる者は少なく、むしろどんどん乗り込んでいく。すえた臭いがドアから漏れてくる。まさに寿司詰め。変な誤解のせいで、通勤通学ラッシュにかち合ってしまった。乗客を押し込んでいた駅員と目が合い、俺は首を振って後ずさった。
こんなに騒々しく死にに行けるか。
人が空くまで、ホームで待つことにする。
「どっか、椅子は空いてねえかなあ」
そう思って見渡すと、ホームの一番端の椅子に座っていた女性が、ハンカチで額を拭いながら立ち上がった。
これ幸いと俺は早足で向かい腰を下ろす。
「ふう……。……はあ、はあ」
三十秒も経たずに俺も汗を拭って離れた。なぜなら、
「暑い……」
ギリギリこの席だけ直射日光日光が当たる場所だったからだ。
影になる場所は、どれだけ狭いところでも先客がいる。背中を汗が伝う。
くそ、このままじゃ自殺する前に日射病で死んじまう。
そんな情けない死に方じゃ、死んでも死に切れない。
涼を得るべく日陰を探す。すると、代わりに変なものを見つけた。
ホームの端の端。本当に角のところで、女の子が丸くなっていた。セーラー服を着ているから、たぶん中学生か高校生。
さっきのリョウちゃんといい、なんでそんなものばかり目につくのだろう。
もしかして、俺って制服フェ……、いや、これ以上考えるのはやめておこう。死ぬ間際に気付いた自分の本性がそんなものでは悲しすぎる。たまたま、そう、たまたま目に付いた二人が制服を着ていただけだ。大げさに頭を振っておかしな考えを振り払う。
それよりも女の子だ。あれって危なくないか?
完全に線の外側にいるのに、駅員はまったく注意する様子が無い。
まったく、俺を痴漢と誤解してみたり、本当にろくでもない奴らばかりだ。
目の前で何かあったんじゃ後味が悪い。これからすっきりと死ぬためにはしかたない。
俺は暑さに萎えそうな足を女の子に向けた。
近づいてみると、女の子は泣いているようだった。ホームの喧騒に混じって、か細い嗚咽が聞こえてくる。
「なあ」
「ひっく……、うっ、うぇっ」
「そこ危ないぞ」
「うっ、えぐっ……ふう」
「もう少し、せめて線の内側まで下がった方がいい」
「んぐ……ひっ、うぁ、ふ、ふぅ」
声をかけてみたものの、女の子は泣いてばかりで動こうとしない。
困った。泣いている女の子の扱いなんて俺は知らない。教科書にも参考書にも、そんなの書いていなかった。
「どうして泣いてるんだ? あれだ、よかったら教えてくれ。力になれるかもしれない」
「うっ……えぐっ、……ひっ、ひっ、ふう」
ラマーズ法?
産まれそうなのか!?
いやいやそんなわけない。女の子の腹は出産間近の妊婦ほど膨らんじゃいない。むしろ引っ込んで見えるほどだ。ついでに胸も……。
俺は何を考えているんだ。
とにかくどうにかしなければ。
頭を掻きむしって考える。あんなに勉強してばかりだったのに、やっぱり俺の頭は役立たずだ。ちっとも良いアイディアが浮かばない。
なんだかこっちまで泣きたくなってきた頃、ようやく女の子が嗚咽以外で口を開いた。
「ひぐっ、……し……た……」
「え? なに?」
「落と、し、ちゃった、んぐっ、の」
「落としたって、……あ、線路に?」
ホームの淵に立って線路を覗いてみるが、何も見当たらない。それとも見つけにくい、小さな物なのか。
「何を落としたんだ?」
「私の……」
「ああ、お前の?」
女の子が顔を上げる。白いというよりも青白い頬に、充血した目から涙の線が走っていた。真っ赤な目が大きく見開かれる。
「私の体を落としちゃったの」
「え?」
その時ホームに強い風が吹いた。どこからか舞い上がった新聞紙が俺の頬をかすめる。
そして、女の子の体をすり抜けた。
「うわあ!」
大きく跳び退って尻餅をついた。腰が抜けて立ち上がれない。
な、なんだなんだ、なんだ!?
「どうしました?」
満員電車に人を押し込んでいた駅員が駆け寄ってきた。俺は震える指で女の子を指す。
「そそそそそそそそそこ……、女の子が、新聞! すり抜けて……!」
「ちょっと、落ち着いてください!」
「おお、落ちついて、られるっか! そこに、ゆゆ」
舌が別の生き物にでもなってしまったように、全然意思通りに動いてくれない。女の子は尚も涙を流したまま俺を見つめている。
「どうした?」
「あ! 笹木さん」
駅員がまた一人、眉根を寄せて駆けてきた。
「不審者です」
「不審者って、またか。今日は朝から……ってあんた!」
新しく来た駅員は、今朝、俺を痴漢と誤解して事務室まで連れて行った奴だった。部下らしい駅員を下がらせ、俺の前にしゃがむ。
「今度は何? 盗撮? スリ?」
「ち、違う! そこに、ゆ」
「ゆ?」
渇いて張り付く喉を、唾を飲み込んでこじ開ける。そして俺は目の前の異常を指差し、叫んだ。
「幽霊がいるんだ!」
「…………は?」
駅員は口を開けて呆ける。それから長く息を吐き出し、俺の肩に手を置いて諭すように冷静な口調で言った。
「あんたねえ、いくら痴漢に勘違いされたからって、腹いせにいたずらなんかしちゃあいけねえよ」
「いたずらなんかじゃない! 確かにそこに、いるんだ!」
「まったく、……いいかげんしねえと警察呼ぶぞ」
「そ、そんな!」
駅員は立ち上がり、いつのまにか周りに集まっていた奴らに頭を下げる。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。ほら、あんたも」
そう言って俺の頭を押さえつけてから、舌打ちを残して業務に戻っていった。
「……」
駅員の手が離れてからも下げっぱなしだった頭を恐る恐る上げて、ホームの角を見る。
「ひっ」
女の子はまだ、刺すように俺を見続けている。
しかし、その目からは涙が消えていた。
瞳の中にはその代わり、憎しみや妬みを孕んだ闇が粘着質に混じり合い、渦を巻いているようだった。
殺される……!
尻をコンクリートで削りながら後退りするが、女の子が右手を上げた瞬間にそれすらもできなくなった。どれだけ力を入れても体がピクリとも動かない。顔は女の子を向いたまま固定され、目を瞑ることもできなかった。
体中から汗が噴き出し伝い落ちる。
ホームの喧騒が耳から離れていき、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
じわじわと、女の子の表情が変化していった。
目が細くなっていき、口端も吊り上がる。出来上がったのは笑顔。そして、
「きゃはははははははははははははははははははははははははははは」
甲高い笑い声が響いた。
背筋を寒気が走る。
もう、終わりだ。
ガラスを掻き削るような笑声は、それ自体が尖った爪となって俺の精神を掻き毟る。
女の子は恐怖に震える俺を見て笑い続ける。
「きゃははははははははははははははははははうっ、お、おぇ! ごほっ! ごほ!」
……は? 噎せた?
腹を抱えて転げ回る女の子。脚でばたばたと宙を蹴っているものだから、スカートの中が丸見えだった。ついでにホームの向こう側まで透けて見えるせいで、もうわけがわからない。
俺は、どう反応したらいいんだ?
いつの間にか体は自由を取り戻していて、脚の震えも治まっている。目の前にいるのは幽霊なのだから、普通は一目散に逃げるところ。しかし、その幽霊が俺の考える普通の幽霊ではない。まあ、幽霊なんて存在自体が普通ではないが。とにかく殺気を感じていた先程ならまだしも、笑いすぎで噎せ返り、涙目でひーひー言っているそれからは、逃げるほどの危機感を覚えなかった。
これはなんだ?
ホームの端ですすり泣く女の子に話しかけたら、風で飛んできた新聞紙がすり抜けて、逃げようとしたら体が動かなくなって、純白でで半透明で……。
「あ!」
俺の頭の中に、それらの謎を全て解決できる言葉が浮かんだ。
「これはマジックだな? 最近、マジシャンが街角でマジックをする番組とか、けっこうやってるもんな。そうだ、そうに違いない。いやあ、驚いた」
「きゃはははは! マジックとか、言ってるし!」
女の子は一層大声で笑い転げる。マジックなわけが無いだろうといった口ぶりだが、この際どうでもいい。ここはマジックということにして離れるに限る。
軽く脚を曲げ伸ばしして具合を確認。問題無く動くようだ。
「良いマジックだった。カメラはどこにあるかわからないが、もし放送するなら個人を特定できないようにしてくれ」
尻を払って女の子に背を向け、早足で歩き出す。
「待って!」
待たない。待ってなどやるものか。
女の子の声など無視して、むしろペースを上げた。しかし、
「待ってって言ってるでしょ!」
再度の静止の声と同時に、また俺の体は石のように固まった。不自然な格好で固まったせいで、周囲の視線が集まる。
これもマジックだ。
いったいどんな種があるんだ?
種明かしとかしてくれんのか?
「もう、困ってる女の子を放っておくなんて最低だよ」
女の子はローファーで音も立てずに歩いて俺の前に立つと、人差し指を向けながら注意してきた。ただ、その頬はぴくぴくと痙攣しており、未だに笑い出しそうなのを堪えているのがわかった。
どうやら今度は口だけは動くようなので、
「助けて欲しいなら、こっちが助けたくなる態度を取るべきだ」
皮肉だけは返しておいた。
「ねえ」
俺の言葉は見事に無視されたらしい。女の子は俺に向けていた指の向きを百八十度変え、自分へと向け直す。
「あたし、なんだと思う?」
「は?」
突然の意味不明な問いかけに、俺は思わず間抜けな声を出してしまった。目の前の女の子が何か。それがわからないから、早くここから逃げ出したいのだ。仕方なく、適当な答えを返しておく。
「あー、世界的に有名なマジシャン」
「それはもういいから」
女の子は煙を払うように手を振る。やっぱりマジシャンじゃなかったか。
「そういうんじゃなくて、もっと正直に、真っ先に頭に浮かんだものは?」
「真っ先に……」
女の子が俺に言わせたいのであろう単語は、もう喉元まで出てきている。というかさっき駅員に叫んでいた。マジシャンなんかよりももっと、俺の身に起きている怪現象の説明になりそうなもの。それでいて、もし、いや十中八九そうだろうが、ハズレなら恥ずかしさのあまり電車の前に飛び出してしまいそうなもの。元々死ぬつもりなのだから丁度いい気がしなくもないが、その死に方はやたら痛そうだ。どうせなら楽に逝きたい。
「ほらほら、言ってみて」
答えなければ放してもらえなさそうだ。
俺は嫌々ながら口を開いた。
「……幽霊、じゃないよな? 駅員にもいたずらするなって怒られたんだ。この世に幽霊なんているわけないし、ハズレだな。なのにさっきはみっともなく慌てて、ああ恥ずかしい。よし、じゃあそういうことで」
一気に捲くし立てたノリで場を離れようとするが、
「うげっ」
体はまだ、金縛りにあったままでぴくりとも動かなかった。
「勝手に帰ろうとしない」
駄目だったか。
内心、行けそうに思えていただけに非常に残念だった。
「それで」
女の子は器用に右頬だけ上げる。
「幽霊でファイナルアンサー?」
古っ。
あまりに時代遅れな単語にずっこけそうになるが、流石は金縛りだ。リアクションさえまったく取れない。
それにしても、なんでこいつはこんなことを訊いて来るんだ?
自分は何者かなどと。
待てよ。
仮に、そりゃあもう万に一つの確立でこいつが本物だったとしたら?
俺に自分の正体を訊いて、どうするつもりなんだ?
そう思った時、女の子がさっき俺に向けてきた、どろどろに濁った目を思い出した。背筋に悪寒が走る。
今でこそ親しげに話しかけてきてはいるが、あの目は絶対に俺を殺そうとしている目だった。
まさか、油断させておいて……?
そうだ、都市伝説の口裂け女だって、最初はマスクを着けた綺麗な顔で油断させているじゃないか。これもその類だとしたら。
いや、だがしかし、幽霊なんて……。
俺の返答を待つ女の子の、眉間にシワを寄せようとして瞳まで寄せてしまっている顔。その向こうには、ホームの反対側が透けて見える。
幽霊なんて……。
「ファイナルアンサー?」
「……ファイナルアンサー」
このまま黙っていても、どうせ体が動かない限り逃げられないのだ。どんな結果になろうと、例え殺される場合であっても、俺は受け入れることができる。不安と、時代遅れな気恥ずかしさと共に、最終決定の言葉を告げた。
あの色黒の司会者をイメージしているのか、顔中にシワを寄せている女の子。童顔には似合わないことこの上ない。
たっぷりと取られる間。本家ならば、ここで一旦コマーシャルでも挟むところだ。しかし、女の子もそこまでは再現できないらしく、代わりに電車がホームに入ってきた。比較的空いている。是非、これに乗って奇妙な状況から離脱したい。
「早くしてくれ。電車が」
「しっ! 静かに!」
なぜ?
文字通り、女の子に手も足も出せない俺を尻目に、電車はホームを出て軽やかに加速し、すぐに見えなくなった。女の子はそれを見届けた後、ようやく表情を緩める。
「正っ解! いやあ、おめでとう」
何もおめでたくなんてない。
「そう、あたしは幽霊。まごうことなき、正真正銘の幽霊なの! ほら、ここ驚くところ」
そんなこと言われたら、かえって驚けない。
これが、幽霊?
「お前、やっぱりマジシャンだろ。幽霊ってのはもっと、なんていうかこう、おどろおどろしい感じのものだ」
「違う! マジシャンなんかじゃない!」
「マジシャンじゃなかったら、あー、そうだ、一つ選択肢を忘れていたな。お前は催眠術師だ。俺に幻覚を見せてるんだろ。これも十分疑わしいが、幽霊なんかよりはまだ信じられる。ほら、種は見破ったんだからは早く術を解け」
「なんでそうなるの……」
「テレビでやってる催眠術なんて全部やらせだと思っていたが、実際にこうしてかけられてみると、もういちゃもんはつけられねえな。俺もぜひ習ってみたいものだ」
「だから……」
女の子は俯き、両手でスカートを握り締める。
「でもこういうのって素質とかがあるだろうし、俺には無理か? どうせ今から習っても遅いしな。とにかく、早く解いてくれ」
肩を震わせていた女の子はきっと顔を上げると、俺を睨み付けてきた。
「違うって言ってるでしょ!」
女の子の叫び声と同時に、こめかみに衝撃が走った。
「痛っ!」
一拍おいてホームに落ちたのは空き缶だった。
「あたしはマジシャンでも催眠術師でもなくて、ホントのホントに幽霊なの! なんで信じてくれないの……、う、うぅー……」
女の子は顔を真っ赤にして怒ったかと思うと、次の瞬間には大粒の涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
「……」
俺は金縛りで動くこともできず、ただ黙って泣き崩れる女の子を見下ろす。
「うえっ、ふー、あ……あぁ……」
「……」
「ふぅ、ひっく……」
「……」
「ひぃ、ひぃ、ふぅ……」
「……」
そうして三分も経つと、なんだかいたたまれない気持ちになってきた。正体が何であれ、外見は幼い女の子なのだ。それが自分の前でいつまでも泣いているのだから堪ったものではない。
「あー、もう! とりあえず一回泣き止め!」
「だって、信じて……くれないんだもん……」
「わかったわかった、幽霊ってことにしておいてやるから」
「やっぱり、信じてない……」
「はいはい、お前は幽霊だ。これでいいか?」
女の子は少し考えてから、小さく頷いた。それから手の甲で涙を拭うのを見て、俺は安堵の息をついた。死んで楽になろうとしているのに、逆に疲れている気がする。
ホームに電車が入り、出ていく。それを二度も繰り返すと女の子はだいぶ落ち着いてきたようだったが、三角座りで顔を膝に埋めたまま何も喋らない。俺はといえば、金縛りでも立つために必要な筋肉は使われているようで、いい加減ふくらはぎが痛くなってきていた。このままでは動けない状態で脚を攣るかもしれないという危機感から、しかたなくこっちから話を振ることにした。
「幽霊がさ、俺に何の用があるっていうんだ? 単にいたずら目的なら、とっくに俺を解放してくれてもいいはずだが」
「……」
「なあって」
「お願い……」
「ん?」
「お願いが、あるの……」
女の子がようやく顔を上げて、上目遣いに俺を見つめる。
幽霊のお願い。
実に怪しい響きだ。
そして、そう感じたのは間違いではなかった。なにせ次に女の子が口にしたのが、
「死んでくれない?」
という言葉だったのだから。
「は?」
それはとても、見た目幼い女の子の口から出るにはふさわしくないものだった。
「あー、会ったばかりの人間に対して、それは物騒過ぎやしないか」
「そう、かな?」
そうだろ。
家に押しかけてくる借金取りは別として、初対面の女の子に面と向かって死んでくれと言われたのは初めてだ。これが世の常なら、男は皆、女性不審になっている。
「どうして、そんなことを?」
女の子の顔に影が差す。
「……寂しいの」
「寂しい?」
「うん。あたしもね、昔はあんたみたいに生きてたの」
「まあ、幽霊ってのはそういうものだからな」
「幼稚園、小学校、中学校。本当に普通の人生だった。高校もね、平凡レベルの場所に受かったの」
そう言ってセーラー服の胸に刺繍された校章を指した。俺は見たことが無かったが、これが女の子が受かった学校のものなのだろう。
「家から学校まではちょっと離れてて、あたしは電車通学することになった。初めての電車通学って思うと、わくわくしたなぁ」
浮かべた笑顔は、ひどく弱弱しい。
「でも、あたしは一度も学校に通えなかった」
「それって……」
ホームで女の子が泣いていた理由。
「うん。なんでかわからないんだけど、あたし、ホームから落ちちゃって……。タイミングも悪くて、丁度電車が来たところ。即死だった」
言葉が出なかった。
まだ女の子が幽霊だなんて、心底から信じたわけではない。そうではないが、もし本当だとしたら、それはあまりにも酷すぎるではないか。
女の子は自分よりもずっと若い。
普通の人生を歩んできたと言っていたから、普通の女の子のように叶えたい夢も沢山あっただろう。それがすべて、一瞬で奪われたのだ。
世の中はおかしい。
こんな女の子を殺して、夢も希望も無い俺を生かしているのだから。
「よく、倒れている自分の体を空中から見てるっていうのがあるでしょ? ホントにその通りで、すぐに自分は死んだんだってわかった。じゃあ、これからあの世に逝くんだって思ったら、寂しくなっちゃって」
「……」
「あの世がどんなところかもわからないのに、一人でなんて逝きたくない」
だから、と女の子は眉を八の字にした顔を俺に近づけた。
「一緒に逝ってほしいの。今までもずっと一緒に逝ってくれる人を探してきたんだけど、ほとんどの人はあたしのこと見えないし、見えてもまだ死にたくなんてないって」
「幽霊なら、祟り殺すとかできないのか?」
「あたしだって、元人間だよ。自分が死んでるからって、人殺しが平気になったりしない」
「じゃあ、自殺しろってことか」
「うん……。でも、ダメだよね。やっぱり、あんたも死にたくないよね」
自殺という単語に、俺は空を仰いで深々と息を吐き出したい気分になった。実際は金縛りのせいで一センチたりとも首を動かすことができなかったが。とにかく、俺はまるで悟ったかのような心持だった。
俺は、死ぬために生きてきたのかもしれないな。
自分の言葉を無かったことにしようと、ぎこちない、泣きそうな笑みを浮かべている女の子に俺は言ってやる。
「別に駄目じゃない」
「え?」
「俺は、死んでもいい」
この言葉がほしかったのだろうに、女の子は慌しく両手を動かしながら、泣きそうだったり笑いそうだったりと表情を決められずにいた。
「で、でも、死んじゃうんだよ!? もう生き返れないんだよ? おいしいものも食べられないし、好きだった人達とも話せなくなるんだよ?」
「食事の楽しみなんて、長いことろくなものを食ってなかったから忘れちまった。それに、この世には特に話したい人間もいない」
「でも、でも……、今出会ったばかりの私のために……」
「あー、勘違いするな。別にこれはお前のためなんかじゃねえよ」
女の子は複雑な表情のまま首を傾げる。
「俺は今日、死ぬつもりだったんだ。いわゆる、自殺志願者。だから別に申し訳なくなんて思う必要もない。お前の求めていた、あの世への同行者ができたんだ。素直に喜んでくれていい」
俺がそう言って、ようやく女の子の表情が笑顔に定まった。両手を高々と天に突き上げて、ホームを飛び跳ねる。ホームにいる人間の誰もが少女に見向きもしない。
いい加減、小躍りしている女の子が幽霊であることを認めざるを得なかった。まさか、ここにいる奴らが全員エキストラだなんてことはないだろう。
こうして幽霊をお供にした、俺の死に場所を探す旅が始まった。
規則的な揺れと音。
電車を数本遅らせる羽目に合ったのは、結果的には良い方へと転がった。通勤通学ラッシュから外れたおかげで席は空き、立たずに済んだからだ。よく効いた冷房が汗ばんだ体を冷やしていく。むしろ寒いくらいだ。
「気持ちいー!」
「ほう、幽霊にもこの良さがわかるのか?」
「ううん、何も感じないよ」
「は?」
「でも、一応やっておこうかなって」
「そうかよ」
女の子は俺の隣に座り、満面の笑みを浮かべて脚をぶらぶらさせている。隣ではしゃがれると恥ずかしいが、誰かに迷惑をかけているわけでもないから注意もできない。とりあえず放っておくことにして、窓を流れる景色を眺める。
立ち並ぶビルの群れ。
進まない車の群れ。
蠢く人の群れ。
逃げるように家を出て、この街にやってきた。
出る時もまた、「逃げ」だった。
「なんか感傷に浸ってるね。思い入れとかあるの?」
「いや、特に何も。思い入れどころか、ろくな思い出が無い」
「自殺を考えるくらいだもんね」
女の子は腕を組んでうんうんと頷く。改めて他人に言われると、少し癇に障った。しかし、それなら自殺するのはよそう、とは思わない。
今さら戻れる場所は、どこにも無い。
「あのさ」
「ん?」
「名前、教えてくれない? ちなみに、あたしはチカね」
「まあ、確かに同行人の名前くらいは知っておきたいな。俺は秀則だ」
「秀則……」
チカは俺の名前を呟き、頭から足の先まで確認するように俺を見た。
「うん、覚えた。秀則、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
折り目正しくお辞儀するチカに、俺は言葉だけで応えた。
「なあ、ひとついいか?」
「なに? 秀則」
「それだ、それ。お前、たしか高校生だろ? 呼び捨てにすんな」
「えー、なにそれ」
チカは頬を膨らませて抗議してくる。
「さっき会ったばかりの年下に呼び捨てされたら、腹が立つのは普通だろ」
「人間が小さいよ。それに、秀則はいくつ?」
「二十四」
「それなら、あたしは年下じゃないよ」
首を傾げる俺にチカは説明してくる。
「そりゃあ死んだのは高校生の時だけどさ、生まれたのは二十四年前。つまり、あんたと同い年」
「本当かよ?」
「ホント。だから呼び捨てもタメ口もおかしくないの」
「でもなあ、外見は高校生っていうか、中学生、いや……」
胸付近だけなら、間違いなく小学生だ。
俺の視線を感じ取ったのか、チカは非常に隠しやすい胸を腕で覆う。それから、どこか余裕のある笑顔を浮かべた。
「外見で人を判断する、人間が小さくて変態な秀則は何月生まれかな?」
「あ? 五月だ。そして変態って言うな」
俺の返答にチカは白い歯を見せる。
「あたしはね、四月生まれなの」
「なに!?」
「そうだよね、確かにたった一ヶ月とはいえ、年下に呼び捨てされるのはむかつくよね?」
チカが顎を突き上げ、挑むような目を向けてくる。
子供をさん付けで呼べという、耐え難い屈辱をチカは要求している。俺は舌打ちをして、目を再び窓の外に向けた。
「せっかくあの世まで一緒に逝くんだ。さんづけなんて水臭いな」
幽霊というのは、恐ろしいものだ。