プロローグ
静寂の中に二人分の荒い息だけが響いていた。一人分は苦悶の、もう一人分は嗚咽の声だった。
「お父さん、大丈夫、だから……私が、ちゃんと、手当て、するからっ」
街と村を繋ぐ街道沿いの木の下で、天空に浮かぶ月明かりを頼りに、幼い少女は泣きじゃくりながら、歯を食いしばって声を抑えようとしている父の脇腹を手当てしようとしていた。父親の脇腹は肉を深くえぐり取られ、素人の応急処置で何とかなるような怪我ではない。
「サラ……いいんだ。父さんは、もう、助からない。傷が、深すぎる。それに、魔獣の牙には、毒があるんだ。医術師の治療が、必要だけど、父さんは、歩けない……」
「お父さん……っ!」
微かな月明かりで必死に治療箱から薬品を探す少女に、父親は言った。父親は、少女がいくら頑張っても、それが報われないことを知っていた。しかし少女は、その手を止めることができなかった。自分が魔獣から逃げることができなかったから、父が自分をかばって怪我をしたのだ。涙の止まらない目をごしごしとぬぐって、また治療箱をかき回した。
「サラ、お前は怪我をしていないだろう。平気だろう?」
「うん、平気」
「なら、これから父さんの言うとおりにしなさい」
「どうするの?」
娘の目を見据え、父親は話し始めた。
「ここから東、街道沿いに歩いて、一日も無い距離に街がある。そこに行って、父さんのことを知らせるんだ。剣が十字に交差してる建物に行って、ロイドという男の人を探せ。前に連れて行ったことがあるから、あっちはお前のことを知ってるはずだ。父さんがここで魔獣に襲われたと言えば、ロイドは絶対に父さんを助けに来てくれるはずだ」
「ロイドさん?」
「そうだ。銀色の甲冑を着けた金髪の男だ……父さんの鞄を持って行け。それがあれば、父さんからの伝言だとすぐに分かるはずだ」
「お父さんはどうするの?」
「ここで待ってる。心配するな。一日くらいなら大丈夫なはずだ……サラがすぐに行けば間に合う。頼んだぞ」
「うん。分かった。行ってくる!」
「気をつけてな」
鞄を手に走り去った娘を見送り、父親は激しく咳き込んだ。口から血が飛び出す。血にまみれた脇腹からは何か血や肉以外のものまで垂れ流しているように感じた。
「すまない、サラ……お前だけは、無事に生き延びてくれ……」
自由にならない身体を木に預け、父親は長く息をついた。周りに小さく足音が聞こえる。血の匂いが呼び寄せた魔獣の目が月明かりに光るのを見て、父親は目を閉じた。
「お前達の餌食になるのも癪だが、残念だったな……極上の獲物は既にお前達から逃げ出したぞ。血の匂いが酷いから、お前達にももう追えない……お前達が食えるのはこの堅くて古くてまずい奴だけだ……ははっ」
目の前で聞こえるいくつもの唸り声と、近づいてくる一つの足音に囲まれ、父親は小さく笑いをこぼした。脳裏には、十年前に病で逝った妻の面影が浮かんでいる。
「大丈夫、サラは置いてきた……カサンドラ、今行くよ……」
魔獣の遠吠えが遠くに聞こえる。その声がだんだん遠くなるのを感じながら、男は意識を手放した。
「はあ、はあ、はあ……!」
月に照らされた街道を、サラは一人で走った。早く行かなければ、父を助けられない。裏切られることが約束された責任を果たすため、サラはひたすらに走った。
父の鞄は重かった。放り出したらもっと早く走れるかもしれない。考える前にサラの手から鞄が落ちた。手が痛くて痺れていた。それでも、サラは鞄を拾い、また街道を走り始めた。
「お父さん……!」
目がかすみ、肺は焼け付くように冷たい空気を求め、脚は一歩踏み出すごとに苦痛を訴える。それでもサラは、止まることができなかった。自分をかばって怪我をした父のために、サラは立ち止まることはできなかった。
「……はあ、はあ……」
そしてサラは、ついに走れなくなった。視界も、自分の声も、全てが遠のいていった。自分の膝が崩れるのを感じながら、サラは消える意識の淵で呟いた。
――ごめんなさい、お父さん――