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壁一枚隔てた、君との恋。  作者: 一ノ瀬


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1/1

第一話 隣の部屋の、高嶺の花

 高校二年生になって、一週間。

 新学期特有の落ち着かない空気も、少しずつ薄れてきた頃だった。

 四月。

 桜の花びらが風に舞う季節。

 俺――柏木蓮は、教室の窓際の席で頬杖をつきながら、校庭を眺めていた。

 昼休みの校庭には、何人かの生徒が出ている。

 サッカーをしている男子。

 ベンチで話している女子。

 ただ歩いているだけの生徒。

 それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。

 俺は、そのどこにも混ざっていなかった。

 別に、一人でいることが嫌いなわけじゃない。

 友達がいないわけでもない。

 去年から付き合いのある友人も何人かいるし、話しかけられれば普通に会話もする。

 ただ。

 俺から積極的に誰かと話しかけに行くことは、あまりなかった。

 特に女子とは。

 苦手なのだ。

 嫌いというわけではない。

 ただ、何を話せばいいのか分からない。

 男子同士なら、適当にスポーツの話をしたり、ゲームの話をしたりすればいい。

 でも女子相手となると、どうしても言葉を選んでしまう。

 変なことを言って引かれたらどうしよう。

 会話が続かなかったら気まずい。

 そもそも、何を話せばいい?

 そんなことを考えているうちに、結局話しかけない。

 俺は昔から、そんな感じだった。

「……柏木くん?」

「……ん?」

 突然、名前を呼ばれた。

 俺はゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、一人の女子だった。

 肩より少し長い、さらさらとした髪。

 整った顔立ち。

 柔らかな雰囲気。

 そして。

 誰が見ても分かるような、明るい笑顔。

「一条……?」

「うん」

 一条華怜。

 今年、初めて同じクラスになった女子。

 俺にとっては、それだけの関係だった。

 顔と名前を知っている。

 去年までは別のクラスだったから、話したことはほとんどない。

 それなのに。

 彼女のことを知らない人は、この学校にはほとんどいないだろう。

「柏木くんって、去年の体育祭でリレー走ってたよね?」

「ああ」

「やっぱり! すごく速かったから覚えてる」

「……そう?」

「うん。私、てっきり陸上部の人だと思ってた」

「違うよ」

「そうなんだ」

 一条は少し意外そうに目を丸くした。

 そして、また笑った。

「じゃあ、何部なの?」

「……運動部」

「それ、答えになってないよ」

「……まあ、いいだろ」

「ふふっ」

 楽しそうに笑う。

 俺は少しだけ戸惑った。

 こんなに自然に話しかけてくるものなのか。

 一条華怜は、学校ではかなり有名な存在だ。

 成績は良い。

 運動もできる。

 誰に対しても優しい。

 いつも笑顔。

 男女問わず友達が多い。

 いわゆる――。

「……高嶺の花」

「え?」

「…………」

 しまった。

 口に出ていた。

「今、何か言った?」

「いや」

「高嶺の花って聞こえた気がするけど」

「……気のせいだろ」

「そうかな?」

 一条が首を傾げる。

 俺は目を逸らした。

 自分でも分かる。

 こういうところだ。

 余計なことを言う。

 だから女子と話すのは苦手なのだ。

「まあ、いいや」

 一条は気にした様子もなく笑った。

「じゃあ、またね。柏木くん」

「ああ」

 一条が自分の席へ戻っていく。

 俺はその背中を見送った。

 そして。

 ふと、思った。

 ……そういえば。

 一条華怜は、誰に対してもあんな感じなのだろうか。

 男子にも。

 女子にも。

 先生にも。

 誰にでも、同じような笑顔を向けている。

 だからこそ。

 俺は、彼女のことを少しだけ不思議に思った。

     ◇

「蓮」

「ん?」

 昼休みが終わる頃。

 俺の机の横に、友人が立っていた。

「さっき一条と話してなかった?」

「話したけど」

「マジか」

「何が?」

「いや、珍しいなって」

「何が?」

「お前が女子と話してるの」

「……別に普通だろ」

「いやいや。去年のお前、女子に話しかけられても最低限しか返事しなかったじゃん」

「……そうだったか?」

「そうだよ」

 友人は呆れたように笑った。

「で? 何話してたんだ?」

「体育祭の話」

「それだけ?」

「それだけ」

「ふーん」

 友人が俺を見る。

 何か言いたそうな顔。

「何だよ」

「いや」

「…………」

「もしかして、好きになった?」

「は?」

 思わず声が大きくなった。

「何でそうなるんだよ」

「いや、一条だぞ?」

「だから?」

「一条華怜だぞ?」

「知ってる」

「学校一の高嶺の花だぞ?」

「それも知ってる」

「じゃあ、好きだろ」

「話が飛躍しすぎだ」

 俺は呆れて息を吐いた。

「そもそも、今日初めてまともに話したんだぞ」

「でも、可愛いと思っただろ?」

「……まあ」

「ほら」

「誰だってそう思うだろ」

「それはそう」

 友人は納得したように頷いた。

 俺は再び窓の外を見る。

 校庭には、まだ何人かの生徒が残っていた。

「でもまあ」

 俺は呟く。

「俺には関係ないだろ」

「何が?」

「一条のこと」

 学校で一番人気の女子。

 俺みたいな普通の男子が関わるような相手じゃない。

 それに。

 一条には、一条の世界がある。

 俺には俺の世界がある。

 それでいい。

 そう思っていた。

 このときの俺は。

 まさか。

 その日の放課後。

 俺と一条の世界が。

 壁一枚を隔てて繋がっていることを知るなんて。

 思ってもいなかった。

     ◇

 放課後。

 俺は部活動を終え、学校を出た。

 夕方の空は、薄いオレンジ色に染まっている。

 春の風が少しだけ冷たい。

 俺は鞄を肩にかけ直しながら、いつもの帰り道を歩いていた。

 駅前を通り過ぎる。

 コンビニを通り過ぎる。

 交差点を曲がる。

 そして。

 俺が住んでいるマンションが見えてきた。

 駅から徒歩十分。

 高校からもそれほど遠くない。

 去年から、俺はここで一人暮らしをしている。

 両親は仕事の都合で遠くに住んでいる。

 最初は一人暮らしなんてできるのかと思ったが、やってみれば意外と何とかなる。

 洗濯。

 掃除。

 料理。

 どれも最低限はできる。

 料理は簡単なものしか作れないが。

 そんなことを考えながら、マンションのエントランスを抜ける。

 エレベーターに乗る。

 目的の階に到着する。

 廊下を歩く。

 そして。

 自分の部屋の前まで来たところで。

 俺は足を止めた。

「…………」

 隣の部屋の前に。

 一人の女子が立っていた。

 長い髪。

 制服。

 その後ろ姿には、見覚えがあった。

「…………」

 いや。

 まさか。

 そんなことがあるはずがない。

 俺はゆっくりと近づく。

「……一条?」

「え?」

 女子が振り返った。

 目が合う。

「…………」

「…………」

「柏木くん?」

「……一条」

 間違いない。

 一条華怜だった。

 俺は自分の部屋を見る。

 そして隣を見る。

「……何でここに?」

「それは……」

 一条が自分の部屋のドアを見る。

「ここ、私の家だから?」

「…………」

「…………」

「…………え?」

「だから、ここが私の部屋」

 一条が指を差す。

 俺の隣の部屋。

「…………」

 俺は何も言えなかった。

「……柏木くん?」

「…………」

「どうしたの?」

「いや」

 俺はもう一度、自分の部屋を見る。

 部屋番号。

 間違っていない。

 隣の部屋を見る。

 やっぱり、一条の部屋。

「……隣?」

「うん」

「俺の?」

「そう」

「…………」

「…………」

 沈黙。

 俺たちは、しばらく何も言わなかった。

 まさか。

 こんな偶然があるとは。

「……世間って狭いな」

「何それ」

 一条が笑った。

「柏木くんも一人暮らしだったんだね」

「ああ」

「知らなかった」

「俺も知らなかった」

「そっか」

 一条は少しだけ嬉しそうに笑った。

 それから。

 自分の部屋の鍵を取り出した。

「じゃあ、また明日」

「ああ」

 俺も自分の鍵を取り出す。

 そして。

「…………」

「…………」

 なぜか。

 二人とも同時にドアを開けようとした。

 俺は少しだけ気まずくなって、先に部屋へ入る。

「じゃあ」

「うん。また明日ね」

 ドアが閉まる。

 俺は靴を脱いだ。

 鞄を置く。

 そして。

 数秒後。

 隣の部屋から。

 何かが倒れるような音が聞こえた。

「…………?」

 ドンッ。

 少し大きな音だった。

「一条?」

 俺は思わず声を出した。

 返事はない。

「大丈夫?」

「…………」

 静かだ。

 気のせいだったのか。

 そう思ったとき。

「…………もう無理」

「…………」

 声が聞こえた。

「疲れた……」

「…………」

 俺は固まった。

 この声。

 間違いない。

 一条華怜。

「…………」

 さっきまで。

 学校で。

 笑顔で。

 誰とでも話していた。

 あの一条華怜が。

「……疲れた……」

 壁の向こうで。

 完全に力の抜けた声を出している。

「…………」

 俺は壁を見た。

 何だろう。

 妙に気になる。

「……一条?」

「…………」

 返事はない。

「大丈夫か?」

「…………」

 やっぱり返事はない。

 少し心配になった。

 俺は玄関を出る。

 隣の部屋の前まで行く。

 そして。

 インターホンを押そうとした。

 その瞬間。

「…………誰?」

 中から声がした。

「……柏木だけど」

「…………」

「さっき、音がしたから」

「…………」

「大丈夫?」

「…………」

 沈黙。

 そして。

「…………帰って」

「…………」

 俺は固まった。

「いや、ここ俺の家なんだけど」

「そういう意味じゃなくて!」

 声が大きくなった。

 俺は思わず笑ってしまった。

「……何笑ってるの?」

「いや」

「笑わないで」

「ごめん」

「絶対反省してない」

「してる」

「嘘」

 学校では。

 こんな会話をしたことはない。

 そもそも。

 一条と俺は。

 今日まで、ほとんど話したことがなかった。

 それなのに。

 今。

 俺たちは。

 隣の部屋の前で。

 こんなくだらない会話をしている。

「……ねえ」

「ん?」

「柏木くん」

「何?」

「今のこと」

「今の?」

「……聞かなかったことにして」

「…………」

「お願い」

 声が小さくなる。

「誰にも言わないで」

「…………」

 俺は少し考えた。

「別にいいけど」

「……本当に?」

「ああ」

「理由、聞かないの?」

「聞いてほしいの?」

「…………」

 沈黙。

「……聞かなくていい」

「そう」

「…………」

 また沈黙。

「……柏木くんって」

「ん?」

「変な人だよね」

「何でだよ」

「普通、もっと気になるでしょ」

「まあ、気にはなるけど」

「ほら」

「でも」

 俺は壁を見る。

「別に、言いたくないなら言わなくていいだろ」

「…………」

「誰だって、家では気を抜くだろ」

「…………」

「俺だってそうだし」

 壁の向こうから。

 小さな音が聞こえた。

 たぶん。

 華怜が何かに座った音。

「……私」

「うん」

「学校では、ちゃんとしてるでしょ?」

「ああ」

「誰にでも笑って」

「そうだな」

「困ってる人がいたら助けて」

「うん」

「先生にもちゃんとしてて」

「そうだな」

「……疲れるんだよね」

 その声は。

 今まで聞いたことのないものだった。

「……何が?」

「全部」

 少しだけ。

 華怜の声が震えた。

「みんなが思ってる一条華怜でいるの」

「…………」

「別に、嫌いじゃないよ」

「うん」

「みんなと話すのも楽しい」

「…………」

「でも」

 少し間があった。

「ずっと笑ってるのって、結構疲れるんだよ」

 俺は何も言えなかった。

 何て言えばいいのか分からない。

 でも。

 何となく。

 今の彼女を否定したくなかった。

「……じゃあ」

「うん」

「ここでは、笑わなくていいんじゃないか」

「…………」

「家なんだから」

「…………」

「誰も見てないし」

 壁の向こう。

 しばらく静かだった。

「……柏木くん」

「ん?」

「今」

「うん」

「……私のこと、変だと思った?」

「いや」

「本当に?」

「ああ」

「…………」

「むしろ」

「むしろ?」

「普通だと思う」

「…………」

「疲れたら疲れたって言うだろ」

「…………」

「俺だって、家に帰ったら何もしたくないし」

「…………」

「だから」

 俺は少しだけ笑った。

「別に、学校の一条じゃなくてもいいんじゃないか」

 壁の向こうから。

 小さな声が聞こえた。

「…………そっか」

「うん」

「……柏木くん」

「何?」

「今の」

「うん」

「もう一回言って」

「何を?」

「…………」

「?」

「……やっぱりいい」

「そう?」

「うん」

 何だかよく分からない。

 でも。

 さっきより。

 華怜の声が少しだけ柔らかくなった気がした。

「……ねえ」

「ん?」

「柏木くん」

「何?」

「ここで話してもいい?」

「ここって?」

「……壁越し」

「…………」

「嫌?」

「いや、別に」

「本当?」

「ああ」

「……じゃあ」

 華怜の声が少しだけ弾んだ。

「今日から、ここで話そ」

「今日から?」

「うん」

「何を?」

「何でもいいよ」

「何でも?」

「今日あったこととか」

「…………」

「学校のこととか」

「…………」

「……愚痴とか」

「それは聞くの?」

「柏木くんが聞いてくれるなら」

「別にいいけど」

「……やった」

「そんなに?」

「だって」

 華怜が少し笑った。

「学校じゃ、こんな話できないから」

「そうだな」

「だから」

 少しだけ間が空く。

「……ここだけの秘密ね」

「分かった」

「絶対だよ?」

「分かったって」

「……約束」

「約束」

 俺は壁に手をついた。

 もちろん。

 向こう側にいる華怜には見えない。

 それでも。

 なぜか。

 そうしたくなった。

「……柏木くん」

「ん?」

「今日の昼」

「昼?」

「私が話しかけたとき」

「ああ」

「何考えてたの?」

「…………」

 まさか。

 高嶺の花だと思っていた。

 なんて言えるわけがない。

「……別に」

「嘘」

「本当」

「絶対嘘」

「何でだよ」

「顔に出てた」

「…………」

「私のこと、どう思ってるの?」

「どうって」

「学校の私」

 俺は考えた。

「……すごい人だと思う」

「すごい?」

「何でもできるし」

「…………」

「誰にでも優しいし」

「…………」

「人気あるし」

「…………」

「高嶺の花って言われるのも分かる」

「…………」

「でも」

「でも?」

「……まあ」

 俺は言葉を探した。

「俺には関係ないかなって」

「…………」

「俺は俺だし」

「…………」

「一条は一条だろ」

「…………」

 返事がない。

「一条?」

「……柏木くん」

「ん?」

「……やっぱり変な人」

「またそれ?」

「うん」

「何でだよ」

「…………」

 華怜の声が。

 少しだけ笑っていた。

「……私のこと」

「うん」

「特別扱いしないんだね」

「…………」

「みんな、私のことを特別扱いするから」

「そうなのか?」

「うん」

「……面倒じゃない?」

「え?」

「特別扱いされるの」

「…………」

「俺だったら嫌だけど」

「…………」

 壁の向こうから。

 小さな笑い声。

「……ふふっ」

「何?」

「ううん」

「…………」

「……嬉しいなって」

「何が?」

「何でもない」

「そう」

「……ねえ、柏木くん」

「ん?」

「夕飯食べた?」

「まだ」

「…………」

「一条?」

「……私もまだ」

「そう」

「…………」

「…………」

「……柏木くん」

「何?」

「今日、何食べる?」

「何だよ急に」

「いいから」

「……生姜焼き」

「…………」

「食べたいの?」

「…………」

「一条?」

「……何でもない」

「そう」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ねえ」

「ん?」

「私にも作ってよ」

「…………」

「……ダメ?」

 その声は。

 今日、学校で聞いたどの声よりも。

 ずっと弱々しくて。

 ずっと素直だった。

 俺は少し考える。

「……別にいいけど」

「本当?」

「ああ」

「やった」

「そんなに食べたいのか?」

「……柏木くんの料理が食べたい」

「…………」

「…………」

「……何?」

「いや」

「何か言いたそう」

「別に」

「…………」

「じゃあ、今度作る」

「今度?」

「うん」

「いつ?」

「…………」

 俺は少し考える。

「明日?」

「…………」

「嫌ならいいけど」

「ううん」

 返事が早かった。

「明日がいい」

「分かった」

「約束だからね」

「ああ」

「絶対だよ?」

「分かったって」

「……ふふっ」

 また。

 笑った。

 学校で見るような笑顔ではない。

 誰かに見せるための笑顔でもない。

 ただ。

 楽しくて笑っている。

 そんな笑い方だった。

「じゃあ」

「うん」

「明日ね」

「ああ」

「おやすみ、柏木くん」

「おやすみ、一条」

 俺は自分の部屋に戻った。

 ドアを閉める。

 そして。

 静かになった部屋の中で。

 俺は壁を見た。

 この壁一枚の向こうに。

 一条華怜がいる。

 学校では。

 誰もが憧れる。

 誰にでも優しい。

 いつも笑顔。

 完璧な少女。

 でも。

 俺だけが知ってしまった。

 その彼女が。

 家に帰ると。

「疲れた……」

 と言って。

 ベッドに倒れ込んで。

 料理も面倒くさがって。

 俺に夕飯をねだる。

 そんな。

 どこにでもいる普通の女の子だということを。

 ……いや。

 普通ではないかもしれない。

 少なくとも。

 俺にとっては。

「…………」

 俺はベッドに腰を下ろす。

 スマホを見る。

 時刻は、午後九時を過ぎていた。

 明日は学校がある。

 早く寝た方がいい。

 そう思って。

 スマホを置こうとした。

 そのとき。

 ――コン。

「…………」

 壁から音がした。

 俺は顔を上げる。

 ――コン。

 また。

「…………」

 何だ?

 そう思った。

 すると。

 壁の向こうから。

「……柏木くん」

「……何?」

「…………」

「どうした?」

「…………」

 少しの沈黙。

「……おやすみって言ったけど」

「うん」

「…………」

「…………」

「……やっぱり、もう一回言って」

「…………」

 俺は思わず笑った。

「おやすみ、一条」

「…………」

「これでいい?」

「うん」

 壁の向こうから。

 小さな声。

「……おやすみ、柏木くん」

「…………」

「…………」

「…………」

 会話が終わる。

 俺はベッドに横になった。

 目を閉じる。

 さっきまで。

 ただの壁だった。

 何の意味もない。

 毎日見ていた。

 ただの壁。

 それなのに。

 今は。

 その向こう側に。

 誰かがいる。

 俺が知っている。

 でも。

 学校の誰も知らない。

 彼女の秘密。

 そして。

 俺だけの秘密。

 壁一枚。

 たったそれだけの距離。

 なのに。

 不思議と。

 今までよりずっと近く感じた。

 この日。

 俺はまだ知らなかった。

 この壁越しの会話が。

 これから毎日のように続いていくことを。

 学校では。

 今まで通り。

 ただのクラスメイトとして過ごすこと。

 でも。

 家に帰れば。

 壁一枚隔てて。

 彼女がいること。

 そして。

 その距離が。

 少しずつ。

 少しずつ。

 俺たちの心の距離まで近づけていくことを。

 俺はまだ。

 知らなかった。

 ――これは。

 学校では「高嶺の花」と呼ばれる少女と。

 どこにでもいるような普通の男子高校生。

 そんな二人の。

 壁一枚隔てた。

 秘密の恋の物語。

 その。

 始まりの一日目だった。


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