『NTRだと思ったら兄だった』
夏休みの午後は、音が少ない。
蝉の声だけがやたらと元気で、校舎の影はぐったりと地面に伸びている。
文芸部の部室を出たあと、僕は一人で校門へ向かっていた。
僕の名前は綺羅末光。
高校2年生、17歳。
クラスでも学校でも目立たない存在で、誰かの記憶に残るようなことはほとんどない。文芸部に所属しているのも、静かな場所が好きだからという、それだけの理由だ。
それでも。
僕には、恋人がいる。
夏盛夏音。
一つ下の後輩で、明るくて、素直で、感情がすぐ顔に出る女の子。
付き合い始めて、もうすぐ2年になる。
どうして彼女が僕を選んだのか、今でもよく分からない。
隣を歩くだけで、不釣り合いだと思ってしまうくらいには。
校門を出て、いつもの帰り道を歩いていると、前の方から見覚えのある姿が近づいてきた。
白いワンピース。
少し弾むような歩き方。
夏音だ。
声をかけようとして、僕は止まった。
彼女の隣に、知らない男がいる。
背が高くて、髪は明るい色。
服装も軽くて、雰囲気がやけに陽気だ。
距離が縮まる。
「あ、オタクくん元気ー?」
男の方が、先に声をかけてきた。
「ちょ、ちょっとやめてよ……」
夏音は困ったように顔をしかめる。
その瞬間、胸の奥が冷えた。
誰だ。
どうして、こんなに距離が近い。
どうして、夏音は否定しない。
頭の中で、最悪の文字が浮かぶ。
NTR__
心臓が一気にうるさくなって、視界が狭くなる。
声を出そうとしても、喉が動かない。
「……もう。ほんとに。やめてよ、お兄ちゃん」
その一言で、世界が止まった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
男は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「あー、悪い悪い。自己紹介してなかったな」
親指で自分を指す。
「俺、夏盛颯斗。こいつの兄」
「……え?」
理解する前に、颯斗さんは僕をじっと見た。
「で、君が彼氏?」
「……は、はい」
「ふーん」
値踏みするような視線。
「今から、うち来い」
「……え?」
「俺に認めさせてみろ。妹の彼氏として」
「ちょっと!?」
夏音が慌てる。
「大丈夫だって言ったでしょ……」
彼女は僕を見る。
不安と、信頼が混じった目。
逃げられなかった。
逃げたくもなかった。
家事テストは、思ったより厳しかった。
洗濯。
色分けを間違えそうになり、何度も確認する。
料理。
包丁を持つ手は震えたが、火を止めずに最後まで作った。
片付け。
一つ一つ、元の場所を考えながら戻す。
上手じゃない。
でも、投げ出さない。
「……ふーん」
颯斗さんは腕を組み、最後に言った。
「悪くない」
少しだけ、救われた気がした。
「で、最後だ」
「……まだあるんですか」
「一晩、泊まれ」
空気が変わる。
「何もしないかどうか」
その言葉に、夏音の顔が一気に赤くなる。
「べ、別に……私は……」
声がしぼむ。
夜。
客間に布団が二つ並べられた。
電気を消すと、暗闇の中で互いの存在だけがはっきりする。
近い。
思っていたより、ずっと。
「……眠れない?」
夏音が小さく聞いてくる。
「……うん」
正直すぎたかもしれない。
「私も……」
少しの沈黙。
布団が、わずかに軋む。
彼女が寝返りを打つだけで、意識がそちらに引っ張られる。
触れたい。
でも、それ以上に__
壊したくなかった。
「末光くん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
「……ちゃんと、信じてるから」
その一言で、全部が鎮まった。
目を閉じる。
呼吸を整える。
長い夜だった。
何度も目が覚めて、そのたびに彼女がちゃんとそこにいることを確認した。
朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
「……起きてる?」
「うん」
何も起きなかった。
それが、すべてだった。
「合格」
颯斗さんは短く言った。
「妹を頼む」
深く、頭を下げる。
外に出ると、夏音が少し照れた顔で言う。
「だから大丈夫だって言ったじゃん……」
少し間を置いて、ぼそっと。
「まぁ、別に……襲われても、良かったけど……」
語尾が弱くなる。
「……そういうのは」
僕は顔が熱くなるのを感じながら答える。
「ちゃんと、順番で……」
夏音は一瞬きょとんとしてから、笑った。
この夏は、きっと忘れない。
勘違いから始まったけれど。
信じてもらえた夜として。




