心の声が聞こえる伯爵令嬢は、不器用な侯爵令息に恋をする
クレメンタ家の伯爵令嬢ルーシーには、誰にも言えない秘密がある。
――それは、人の心の声が意図せず聞こえてしまうこと。
いつも聞こえるわけではない。意識して耳を塞ぐようにすれば問題はない。
ただ、体調が悪い時や心が弱っている時。
その瞬間だけは、誰かが押し込めていた声がさらりと漏れてきてしまう。
その力を知っているのは、両親だけ。もう一人の家族である弟のレイモンドにも知らされていない。
幼い頃、両親が考えていることを何度か言葉にしてしまった。
それにより彼女の能力を知った二人は、ルーシーを抱きしめこう言った。
「その力はお前を救うこともあるだろう。だが――聞きたくないことを聞いてしまってお前自身が傷付く可能性がある」
「ええ。だから、あなたの為にも、このことは誰にも言わないこと。それに、聞こえないように練習もした方がいいかもしれないわ」
だからルーシーは、心の声が聞こえないように練習を重ねた。
おかげで平常時であればそれが聞こえることはなくなった。
それでも体の調子が悪い時にはやはり、不意に聞こえてしまうことがあった。
けれどもルーシーは、聞こえなかったふりをしてそっと他人の心の言葉を胸の内にしまった。
勿論勝手に人の心を覗くことはしない。
婚約者である伯爵令息オスカーに対しても同じことだ。
ランフォード家の跡取りであるオスカーは、穏やかな人だった。
優しく微笑み、いつでも言葉は丁寧で、ルーシーに婚約者として最大限敬意を払ってくれている。
当然彼の心を探ることもなかった。
ルーシーは燃えるような恋をしているわけではないが、彼と過ごす時間は心地よかった。
オスカーとの穏やかな未来がやってくることを、彼女は信じて疑わなかった。
そんなオスカーと婚約をして二年。
二人は婚約してから二週に一度は、邸を交互に訪ね合っていた。
定期的な顔合わせだが、それでもルーシーにとっては幸せな一時だった。
◆
その日の午後は、季節の移り変わりを知らせるように冷たい風が吹いていた。
ランフォード家の庭では、咲き残った最後の薔薇がその風にそっと揺れている。
「最近、気温が下がったね。風邪を引いたりしていないかい?」
そう尋ねられ、ルーシーは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですわオスカー様。お気遣いありがとうございます」
――その一瞬。
胸の鼓動が跳ね、視界が揺らぐ。
昨夜あまり眠れていなかったせいだろう。
その、ほんの一瞬の隙間に――聞こえてしまった。
初めて、オスカーの心の声が。
(……ルーシーは結婚相手としてはちょうどいい。家柄も礼儀も文句はないし)
何かが胸の奥でざわりと揺れた。
やめないと。そう思った。
けれど、遮ろうとしても、解放された力は容易に収まらなかった。
まるで堰を切った水のように、ルーシーの意識の奥に、オスカーの嘘偽らざる声が流れ込んでくる。
(でも地味でつまらないんだよな。悪くはないんだけど)
冷たい指先で胸をなぞられたような感覚だった。
オスカーは穏やかに紅茶を飲んでいる。
その表情はいつも通り優しく、何ひとつ変わらない。しかし声は容赦なく続いた。
(キャロルとの関係は続けたいよな。性格も明るいし、可愛いし)
キャロル。
確かそれは、オスカーの家に仕える侍女の名だ。
彼の邸で何度も面識がある。今日紅茶を淹れてくれたのも彼女だ。
彼の言う通り、愛嬌のある女性だった。
ざわりと嫌な予感が胸をかすめる。これより先は聞きたくない、そう思った。
だが声は止まらない。
(キャロルは距離も近いし男受けする。ああいう子がそばにいると楽なんだよな。息抜きにもなる)
その瞬間、カップの持ち手がわずかに震えた。
「……?」
オスカーが気づく。
「大丈夫? もしかして具合が悪いんじゃないの?」
ルーシーはかろうじて微笑んだ。
「少し、眠気があるだけですわ。昨晩あまり眠れなくて」
オスカーは優しく頷く。
「無理はしない方がいい。今日はもう切り上げよう。部屋に戻って温かくしてゆっくりすべきだよ」
――優しい。
声色も、言葉も、泣きそうになるほどに。
だけど。
胸の奥に広がった痛みは、その優しさをまるで薄い紙のように破り捨てていく。
気づきたくなかった。
知らなければよかった。
自分は、都合のいい婚約者でしかなかったのだ。
――彼の隣に立って微笑む未来を、信じていたかったのに。
その日の別れ際、オスカーは変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。
しかしルーシーはもう、その笑顔を見ることができなかった。
自分に向けられた優しさが、本物ではなかったということを、知ってしまったから。
◆
二週間後、今度はオスカーがクレメンタ家の屋敷を訪れた。
玄関先で形式的ながら丁寧な挨拶を交わし、ルーシーは彼を応接室へ案内する。
いつもと同じ穏やかな笑顔。
変わらない声色。
けれどそれを見るだけで、胸の奥がきゅっと軋んだ。
だから――ルーシーは膝上で組んだ手をそっと握り、静かに頭を下げた。
「オスカー様、申し訳ございません。実はあの日以来、体調が優れず……。こうしてお越しいただいたのに、十分なおもてなしができそうにありませんの」
嘘ではない。
あの日以来、眠りは浅く、呼吸は浅く、胸元は重石が落ちたように重い。
オスカーは柔らかく微笑む。
「そうだったのか。それはゆっくり休んだ方がいいね。僕のことは気にしなくていい」
――優しい。響きだけなら。
頷こうとした時、ふっと遮っていた扉が開いた。
押し込めていた彼の声が入り込んでくる。
(なんだ、今日は無駄足だったな。まあ、体調を気遣うところを見せられたし、婚約者としての義務は果たした。悪くはないか)
声は尚も続く。
(今日はキャロルが休みだったよな。いい機会だ。誘ってみようか。ルーシーが体調不良になってくれてむしろ都合がいい)
胸の奥が冷たく沈む。
それでもルーシーは微笑みを崩さず答えた。
「ありがとうございます。お気遣い、大変嬉しく存じます」
本心ではない。
しかし婚約者として言わねばならない言葉だった。
オスカーは和やかに微笑む。
「落ち着いたらまた知らせてね。ルーシーとの時間は、僕にとっても楽しみなんだから」
その響きだけは、美しい。
「……はい。その折にはぜひ」
穏やかな声が自分のものではないように思えた。
玄関まで見送りに行く。
彼は手を軽く上げ、まっすぐな姿勢でルーシーに背を向けた。
「それじゃあまた」
「ええ」
扉が閉まる。
音の余韻が消える前に、ルーシーはそっと息を吐いた。
――優しさは変わらない。
――扱いも丁寧なまま。
それでも彼女の中では、何も知らなかった頃のように、胸の温度が上がることはなかった。
……けれど、この関係を壊すつもりはない。
家と家の結びつきは変わらず、ルーシーは婚約者として振る舞う。
そう決めたのだから。
クレメンタ家は現在領地の南の街道整備を進めている途中で、そこにランフォード家の資金協力が入っているのだ。
この婚約は、両家の共同投資の証明でもある。
――だからルーシーは、そう決めるしかなかった。
彼女の想いとは裏腹に、胸元には冷えた痛みだけが残った。
そして婚約は何事もなかったかのように、外側だけ穏やかに続いていく。
◆
季節が静かに移ろい、空気が更に冷たくなり始めた頃。
ルーシーの姿は、以前よりほんの少しだけ細くなっていた。
母のミーアがふとため息をついた。
「最近あなた、顔色が優れないわ。何かあったの?」
父のロイターも新聞を閉じ、険しい顔つきで問う。
「体調を崩す時期なのかもしれない。眠れているのか?」
その言葉にルーシーは微笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し疲れているだけだから」
本当の理由は言えない。
婚約者の心を知ってしまったことなど――言葉にした瞬間、戻れなくなる。
二人とも鋭い人だ。
声や表情のわずかな揺らぎで、すぐに察してしまう。
だからこそ口にできない。
家族に余計な不安を背負わせるわけにはいかなかった。
眠りの浅い夜は増えた。
胸の奥に薄い痛みが沈む日も増えた。
けれど、ルーシーは表情に影を落とすことなく、淑女として礼儀正しく微笑み続けた。
数日後。
ルーシーの心はひび割れたまま、王宮の夜会の日が訪れた。
王宮で年に数度催される、格式高い夜会だ。
今の心の状態であまり出席したくはなかったが、これも貴族の娘として、そしてオスカーの婚約者としてルーシーが、果たさなければならない義務だ。
大広間では幾十もの蝋燭が吊られた巨大なシャンデリアが光を放ち、磨き上げられた床に淡く反射する。
弦楽器の澄んだ旋律が空気を柔らかく満たし、笑い声や談笑が花のように咲いていた。
ルーシーはオスカーから贈られた青灰のドレスに身を包み、静かに立っていた。
ドレスは上質な布地が贅沢に使われ、細工も精巧。見目には申し分ない。
しかし――彼女に似合ってはいなかった。
淡いアッシュブラウンの髪。
白く透ける肌。
花弁のような薄紫の瞳。
そのどれにも合わず、彼女を青白く沈ませてしまう色だった。
――この違和感は今に始まったことではない。
オスカーから贈られる物はいつも似た色調で、彼女自身に似合うかどうか、彼女が好きなものかどうかより、『贈った事実』が重視されているようだった。
以前のルーシーなら、婚約者だから、という理由で喜べた。
しかし今は違う。
オスカーは贈ることで婚約者としての義務を果たした つもりになっただけ――そのことに気づいてしまったから。
纏う布地の冷たさが、心にまで張り付くようだった。
隣で柔らかく微笑むオスカーは、そんなことに何一つ気づいていない。
「今日の夜会は人が多いね。疲れたら席を取るよ」
表面は優しく、誰が見ても理想的な婚約者の言葉。
ルーシーの胸はもう何も揺れず、痛みだけが増していく。
そうして彼と会話を繋いでいると、人々が両端へ避けるようにして道が開く。
現れたのは、侯爵家の令息――ヒューゴ・アシュフォード。
背は高く、均整の取れた端正な顔立ち。
だが眉は鋭角に整えられ、視線は真っ直ぐで、彼は近づきづらいと噂される気配を纏っていた。
ヒューゴは侯爵家の跡取りであり、アシュフォード家は資金繰りも順調で王家の覚えも悪くない。
にもかかわらず、未だに彼には婚約者がいない。
その理由として囁かれているのは、二つ。
一つは、その冷たく見える印象的な表情。
もう一つは――言葉があまりにも真っ直ぐすぎること。
婉曲に包むのが礼儀である貴族社会で、それは欠点とみなされた。
本来なら、彼はオスカーやルーシーと深い接点はない。
だが今夜は、顔見知り程度の相手に挨拶をするために歩み寄ったのだろう。
ヒューゴは二人の前まで来ると、視線を丁寧に下げた。
「ごきげんよう。オスカー殿、ルーシー伯爵令嬢」
低いわりに通る声で述べられた、必要な敬意だけを含んだ挨拶。
ルーシーも裾を摘み上げ礼を返す。
「ごきげんよう、ヒューゴ様」
するとヒューゴはふと、ルーシーを見つめた後――。
ヒューゴは彼らしく、直球で述べた。
「君は以前より頬が削げている。その上、その色のドレスは顔色を悪く見せる。他の色の方がいい」
空気が確かに止まった。
美辞麗句のない直言は彼の本音そのまま。
礼儀と気遣いを思えば、その欠片もない。
ヒューゴの言葉が聞こえていたらしい周囲の令嬢の息が、わずかに乱れた。
対してルーシーは、気にすることなく微笑む。
「お気遣いなく。体調は問題ありませんわ。それに、このドレスはオスカー様が贈ってくださったのです」
それに便乗するようにオスカーが笑った。
「僕が好きな色を贈るのは悪いことじゃないだろう? ヒューゴ様にも悪気はないと思うけど……相手を思うなら、もう少し柔らかい言い方があるはずじゃないかな」
声音は柔らかい。
ただ、優しさの形に見せかけた薄い言葉。
ヒューゴは一瞬だけ視線をオスカーへ向け、低く返す。
「柔らかく言い換えることで伝わらないなら意味はない。事実が不快なら、それは言葉のせいではない」
彼の言葉で空気が再度揺れた。
遠慮はない。
言い換える気もない。
しかし筋だけは通っている。
「ではまた」
ヒューゴは頭を下げると、通路の先にいた別の令息へ向かい、形式的な挨拶を交わしながら去っていった。
彼の背筋は伸び、迷いはない。
本当に、欠片ほども失礼を働いたと思っていないように。
オスカーは小さく肩をすくめ、ルーシーの耳元に囁いた。
「噂は本当だろうね。だから誰も彼を選ばないんだよ。言い方がああだと、相手は疲れるだけだろう? 本当に惜しい人だ」
オスカーは笑っている。そこにはヒューゴへの慈しみも庇護もない。
その言葉はヒューゴに向けられたもののはずだった。
けれど体が弱っているルーシーは、また制御ができず、周囲の人間の心の声を意図せず取り込む。
いくつかの人間の声が頭の中を駆け巡る中はっきりと聞こえてきたのは、オスカーの声だった。
(まあ、疲れると言えばルーシーも同じだな。もっと軽い会話を楽しみたいのに、堅苦しくて息が詰まりそうだ。僕好みに着飾らせてもいまいち映えないし……)
(そうだ、今度はキャロルに服を贈ろう。あの子のほうが似合うし、きっと彼女は喜んで抱き着いてくるだろうな。……このくらいの楽しみがないとルーシーとの婚約は続けられない)
見た目も、表情も、言葉も、正しく振る舞っているのに。
努力して笑い、体調を隠し、婚約者として立っているのに。
(私は……そんなにあなたを疲れさせる存在なの?)
ルーシーの胸の奥が静かに軋み、心が押し潰されそうになる。
その瞬間、近くでこちらを見ていたヒューゴと視線が交わる。
きっと彼も自分に対してよくは思っていないのだろう。
そう思ったルーシーだったが、彼女の心の隙間に入り込んできた彼の声は、意外なものだった。
(あの色は最悪だ。合わせるなら白金か淡い紫色……その方が彼女の瞳にも映える)
(それにしても痩せ方が不自然だ。疲れなのか? 明らかに消耗している。今だって倒れそう見える)
(婚約者なのに気づかないのか――)
声は粗く不器用なのに。
オスカーより何倍も優しかった。
その後もルーシーの心にはたくさんの人々の心の声が流れ込んでくる。オスカーの自分勝手な気持ちも。
だが同時に、事あるごとにルーシーを見つめているのか、ヒューゴの声も聞こえてくる。
例えばオスカーが席を外してルーシーが一人になった時。
酔った令息がルーシーへふらりと近づいた。
そして肩に触れられそうになった瞬間、ヒューゴが自然な動線でその間に入り込み、低く言う。
「邪魔だ」
酔った男は慌てたようにすぐに退き、何事もなかったように去った。
ルーシーが驚く間もなく、ヒューゴは彼女を一瞥し、彼女の存在もまた邪魔だと言わんばかりに、
「ここは通り道だ。君はそこの端で座っていろ」
とだけ告げて歩き去る。
きつい表情と言葉――だが、心の声だけは違った。
(あの男はどこに行ったんだ。こんな無防備な彼女を置いて……)
(ここにいたら妙な男に絡まれる。あの端の席ならご婦人方が多いから心配はいらない)
(少し座って休憩すべきだ)
厳しい表情の奥にひそむ真っ直ぐな温かさが、そっとルーシーの胸に落ちた。
夜会の間中、ヒューゴはずっと変わらず、ルーシーを心配してくれていた。
ルーシーの胸の奥に熱が生まれる。
不器用な言葉の下には、ずっと彼の丁寧な気遣いが眠っていた。
優しい言葉だけを並べる人と、きつい物言いでも偽らない心を持つ人。
どちらが誠実なのか――考えるまでもなかった。
胸が痛むのではない。温かさでルーシーの心が揺れた。
オスカーの心を知ってから弱り切っていたからこそ、余計にヒューゴの不器用な優しさが身に染みた。
それからもルーシーはオスカーといくつかの夜会を共にする。
オスカーはルーシーの顔色に気が付いた様子はない。
あの衝撃的な心の声を聞いた日以来、ルーシーはヒューゴと顔を合わせることはなかった。
――そのことが、ほんの少しだけ彼女の気持ちに影を落とした。
◆
今日はオスカーとのいつもの面会予定日だった。
しかし――。
『どうしても外せない用事が出来てしまったんだ。だから三日後に変更してほしい』
という手紙を彼からもらっていたため、ルーシーは侍女を伴って街へと繰り出すことにした。
オスカーの用事が何か――もしかすると例の彼女と会っているのではと、一瞬だけ気になったが、考えても仕方がないとすぐに頭の隅に追いやった。
現在ルーシーは、街路沿いの宝飾店を訪れていた。
友人への贈り物を選ぶためだったが、店内は濃く甘い香りに満ちていて、ふっと頭が霞む。
――理由は分かっている。
その香りは、オスカーが好む侍女キャロルの香水とよく似ていたのだ。
足取りが少しふらついたルーシーに気づいた侍女が声をかける。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
侍女がそっと腕に触れる。
「平気よ。少し疲れただけだから」
そう言った瞬間だった。
視界がふっと揺れた。
足元の力が抜け、支えを求めて手を伸ばしたが、空を切る。
――倒れる、そう思った瞬間、誰かに腕を掴まれた。
顔を上げると、そこにはあのヒューゴ・アシュフォードが立っていた。
「ヒューゴ、様……?」
久しぶりに会った彼の姿に、わずかにルーシーの心臓が跳ねる。
だが、ヒューゴの顔は相変わらず険しい。
「……何をしているんだ君は」
一瞥したあと、低い声でそう言い放つ。まるで責め立てるような言い方だ。
空気が二度ほど下がった気がした。店内の客達が息を呑み、二人に視線を向けている。
彼らの心の声がルーシーに届く。
(なんてひどい言い方だ)
(もっと優しく言ったって)
すると侍女が慌ててヒューゴに頭を下げた。
「ひ、ヒューゴ様! 本当に申し訳ございません、ルーシー様は――」
「先にどこかへ座らせろ」
一言。
抑揚のないその声は、侍女だけでなく周囲の人間も委縮させるほどで。
侍女が店の人間に休憩できる場所はないか確認するために走る。
だが同時に、ルーシーの耳には別の声が落ちてくる。
(なぜこのように顔色が悪いのに外へ出る。倒れるのは当然だろう)
(来たのは妹の祝品を探すためだが……偶然とはいえ助けられてよかった。店の床にでも倒れたら悪目立ちもするし、怪我をしていたかもしれない)
ひどく素っ気ない声なのに、内側は正反対だった。
ヒューゴはルーシーの腕を支えたまま、店員が用意した奥の部屋へ導いた。
そして椅子に座らせると、侍女を見て短く言う。
「彼女に水を」
侍女は慌てて持っていた冷たい水を差し出す。
ルーシーは俯きながら礼を述べた。
「ご迷惑を……おかけしまして、申し訳ありません」
「謝罪は必要ない」
言葉は相変わらず空気を切り裂くように鋭く、顔色一つ変わらない。
でも――声の奥底は違う。
(先ほど体に触れた時熱はないようだった。だが力はまだ抜けている)
(今はゆっくりと気にせず休んでほしい。ここなら人の目もほとんどない)
胸がきゅう、と痛くなり、しかし同時に温かかった。
ルーシーはほんの少し笑って答える。
「……お気遣い、ありがとうございます」
ヒューゴは表情を変えず、顎を引くだけだった。
「すぐに馬車を呼べ」
侍女が再度、慌てて店員に頼みに走る。
(帰宅したあとはしっかりと休むべきだ。やはりあまりにも細すぎる。無理を続けたらもっと彼女はひどくなる一方だ)
その声音は粗削りで、不器用なほどに真っ直ぐだった。
ルーシーの心に小さな明かりが灯る。
だが、少し回復したルーシーが、もうまもなく馬車が来ると報告を受け、店先の椅子へ移動した、その時だった。
店先の通りを、見慣れた姿が通る。
淡い銀の髪を風になびかせて颯爽と歩く、穏やかな笑みを浮かべた青年。
間違いなくルーシーの婚約者のオスカーだ。
そしてその隣に、腕を絡めるように寄り添う女がいた。
明るく笑い、オスカーの肩を軽く叩き、耳元に口を寄せた──紛れもない、彼の浮気相手と目される、キャロル。
二人は誰がどう見ても親密な距離にあった。
二人がルーシーに気づいた様子はない。
人目を気にするそぶりすらなく、キャロルの腰に手を添えたオスカーは、甘い笑顔を浮かべ、キャロルもまたそれに応えるように微笑む。
そのまま二人は街の雑踏の中へと消えていった。
ルーシーの隣にいた侍女が息を呑み、おずおずとルーシーに視線を向ける。
「ルーシー、様、あれはもしかして」
「そうね、私の婚約者に見えたわね」
初めて二人がいる現場を目にしたが、ルーシーには動揺も悲しみもなかった。
けれど実際は、そう思おうとしたかっただけなのかもしれない。
体にはしっかりと動揺が出ており、体温が下がり、手の甲がわずかに震える。軽い頭痛も覚える。
(なんてひどい……! ルーシー様のことを大切にされているように見えたのに)
侍女の心の声が聞こえてくる。それがルーシーの体調が乱れている証拠だった。
だが、同じくその光景を見ていたヒューゴは、明らかに不快だと言わんばかりに眉を跳ね上げ、言った。
「……何だ、あれは」
小さく、低く、冷たい音。
「婚約者がいる身の上で、一体何をしている」
ルーシーの代わりに怒ってくれているかのように、強い怒気を含んだ声。
思わず侍女が怯えたように身を縮めて視線を落とす。
(ルーシー様の為に怒っていらっしゃる……? だけどやはりこのお方は怖いわ)
だが侍女の心の声とは裏腹に、ルーシーは、怒りを見せるヒューゴに対して顔を伏せることもなくしっかりと目線を向けながら、かすかに笑った。
「……私、実は知っていましたの」
ヒューゴは一瞬言葉を失った。
「……知っていた?」
「偶然本心を知ってしまったことがありまして。その時に、彼女のことを……。私のようなつまらない女性ではなく、彼女といる方が楽しいと」
ルーシーは整えた笑顔のまま、息を落とす。
「オスカー様は私がこのことを知っているとはご存じありません」
「なぜそのことを伝えない。これは立派な婚約破棄の理由になる」
「……ですが、婚約が破れれば家族は困りますわ。共同投資の証としての婚約ですもの。破棄すれば、ランフォード家の資金が引き上げられ――」
ヒューゴはそこで遮るように言った。
「あり得ん」
「……え?」
「向こうが有責だ。契約は婚約とは別に成立している。資金の撤回を申し出れば、非を認めたも同じ。そんな真似がランフォード家にできるはずがない」
瞬きするルーシーを前に、ヒューゴは続ける。
「君の家が不利益を被る可能性は低い。むしろ撤回すれば向こうの信用が失墜するだけだ」
その冷静な断言に、胸の奥が揺れた。
けれど、それ以上に揺れたのは――自分の口からこぼれた言葉だった。
「……でも私は、見た目も中身も地味でつまらない女ですわ。次の婚約など、きっと――」
その瞬間、ヒューゴがはっきりと顔をしかめた。
「馬鹿を言うな」
声は低く、怒りを帯びていた。
そして心の声が落ちる。
(つまらない? 君が? どれだけ人を見ていないんだ、あの男は)
(礼儀正しく、優しく、誰より気遣いができる。夜会のダンスで転んだ夫人に真っ先に救いの手を差し出したのも、心無い言葉で傷付けられ涙を流す令嬢にすぐに駆け寄り、ハンカチを渡したのも君だった)
ルーシーは知らなかった。
彼がそんなところまで見ていたことを。
(見た目が地味だと? ふざけるな。美しさは表面的なものでは決まらない。それにこの外見も、私はとても好ましいものだと思う)
(自分を卑下するな。そんな必要はない)
ルーシーの胸がじん、と温かくなる。
ヒューゴが静かに問いかける。
「それで、君は本心ではどうしたいんだ」
その直後、声が落ちた。
(それでも尚あの男を好きだというのなら、私にはできることはない。だが――もしもそうでないのなら)
その背中を押されたように、ルーシーは小さく息を吐いた。
「本音を言えば……もう、オスカー様とは別れたいと。そう思っております」
ヒューゴは短く頷いた。
「ならば動くべきだ」
「ですが、証拠もありませんし――」
「証拠集めなら私がやる」
「! あの、それは……そこまでヒューゴ様にしていただくわけには……」
ヒューゴはわずかに視線を逸らし、淡々と言った。
「……君のためではない。見て見ぬふりをするのは私が気分が悪いだけだ」
しかし心の声は真逆だった。
(本当は――君がこれ以上、傷つくのを見たくないだけだ)
(君には、君の未来がある。こんなところで止まる必要はない)
ルーシーの胸がまた熱を帯びる。
「……ご迷惑をおかけしてしまいます」
「迷惑ではない」
食い気味に返された。
「傷ついた相手を放っておく方が不誠実だ」
その時、ちょうど店先に馬車が横付けされる。
ヒューゴはそちらへ視線を向けながら言った。
「今日は休め。また明日連絡する」
言葉も表情も、固さは相変わらずだ。
それでも――真っ直ぐだった。
ルーシーは静かに頷く。
「……はい。分かりました」
ヒューゴは満足したように、ほんのわずかだけ頷いた。
が、背を向けかけた時、ふと足を止める。
そして、彼らしい無骨な優しさのこもった一言を落とした。
「……泣きたくなったら泣け。泣く必要がないなら前を向け。そして――君の歩きたい道を選べ」
「……!」
――ルーシーは、婚約してからずっと、家のため、両親のため、婚約者のため、誰かの期待と体裁を優先し続けてきた。
悲しんではいけない。
弱音は吐いてはいけない。
嫌だと思ってはいけない。
貴族なら、令嬢なら、そうあるべきだと――いつの間にか、自分自身にも言い聞かせていた。
なのに、ヒューゴの言葉はそれをあっさりと覆した。
泣いて悲しんでもいい。
泣かないのなら、前を向いて進むべきだ。
彼は泣くことを、悲しむことを、否定しないし責めない。
貴族としての正しさを押し付けない。
その上で、ルーシーの心に選ぶ自由があると、そう言っているようだった。
その意味が分かり、ルーシーの胸が熱くなり、けれど同時に、ふっと軽くなった。
そう、誰かの決めた道ではなく、自分の足で選んだ道を歩いていい――そんな当たり前のことを、誰にも言われたことがなかった。
(ヒューゴ様……あなたはやっぱり、不器用なのに……とても優しい方だわ)
夕日に照らされ、長い影を落としながら去るヒューゴの背中を、そう思いながらルーシーはいつまでも見つめ続けた。
◆
侍女から事情を聞いたクレメンタ家は、その夜、大きく揺れた。
報告を受けた母ミーアは、蒼白になりながらルーシーの手を握った。
「……あなたに、こんな思いをさせていたなんて。どうして気づけなかったのかしら。ごめんなさい……」
父のロイターは強く拳を握りしめ、深く息を吐いた。
「ルーシーがこれ以上傷つく理由はない。ランフォード家が不誠実な態度をとっている以上、婚約は即時に破棄すべきだ」
そして弟のレイモンドは憤然と告げた。
「姉さんを泣かせるようなヤツ、こっちから願い下げだよ! もうあんな婚約なんてやめようぜ!」
家族全員が、揃ってルーシーの味方だった。
ロイターはすぐに側近を呼び寄せ、ミーアは証言として残せる情報を集め始め、レイモンドは「俺も姉さんのために誰かに話聞いてくる!」と飛び出していきそうになり母に止められた。
――家族が総出で動き出した、その翌日のことだった。
昼過ぎ、屋敷の家令が駆けてきた。
「アシュフォード侯爵家令息、ヒューゴ様がお見えです!」
応接間に緊張が走る。
昨日ヒューゴが一緒にいたこと、そして彼とルーシーとのやり取りを侍女から聞いていたため、ヒューゴの訪問は不自然ではなかった。
だが、まさか本当に翌日に来るとは思っていなかったので、皆が驚いていた。
しばらくして、家令に案内され、ヒューゴ・アシュフォードが姿を見せた。
全員が慌てて立ち上がる。
「ヒューゴ様、昨日は娘を助けてくださったとか……本当にありがとうございました」
「礼を言われる筋合いはない。たまたま居合わせ対処しただけだ」
淡々と返し、すっと視線をルーシーへ向ける。
彼の瞳が、昨日より少し顔色が戻ったことを確認するように細められた。
ヒューゴの心を知るルーシーは、その視線に優しさが滲んでいることに気づいた。
そのことにルーシーの胸が嬉しさでいっぱいになり、思わず微かな笑みが浮かぶ。
彼女の顔を見たヒューゴは安心したように小さく頷くと、持参した鞄を机の上に置き、短く言った。
「昨日の件については、既に調べを終えた。これだけあれば、ランフォード家有責での婚約破棄は容易だ」
ヒューゴ以外の皆が、一斉に息を呑む。
その空気の中、ヒューゴは書類を広げ、順に並べていった。
「まず、昨日の街路での目撃証言が三件。二人が腕を絡め、親密に歩く姿を見た者が複数いる。別日の証言もある」
次に差し出されたのは、領収書の写しだった。
「これは……」
ロイターの言葉に対し、ヒューゴは淡々と答える。
「アクセサリー店の購入履歴だ。ランフォード家の跡継ぎが、一緒に来店した女性に渡した贈り物のだ。この半年で五回購入。店の者の証言もある」
ミーアが息をのむ。
さらに、ヒューゴは封筒を置いた。
「キャロルへの書簡の写しだ。『昨日は楽しかった』『また二人で会いたい』と」
ロイターが眉をひそめる。
「……どうやって、この書簡を?」
「私の手の者の中に、人の懐へ入るのが得意な人間がいる。彼にランフォード家の侍女達に探りを入れさせた。キャロルと同室の侍女がその手紙を密かに持ってきて彼に渡した」
レイモンドが証拠を目にして思わず叫ぶ。
「……うわっ、これ完全にアウトじゃないか!」
最後にヒューゴ自身の言葉が置かれた。
「そして私の目撃証言。侯爵家の跡取りの証言となれば、社交界でも軽視はできないはずだ」
ロイターは深く息を吸った。
「ここまで……ここまで調べてくださったのですか……?」
ミーアは震える声で、
「あなたは……本当に、ルーシーのために……?」
ルーシーもまた、言葉を失っていた。
こんなにも迅速に、ここまでの証拠を揃えてくるなど考えもしなかった。
ヒューゴは相変わらず表情を変えず、何でもないように言う。
「昨日のうちに動ける者を動かしただけだ」
ロイターが深く頭を下げる。
「ヒューゴ様……このご恩は、生涯忘れません」
「礼は不要だ。私は不実な行いを偶然見た。故に、あの男と別れたい彼女の手伝いをした。それだけだ」
と、ここでヒューゴはわずかに目を伏せると、小さな声で呟いた。
「私はただ――彼女に以前のような笑顔を取り戻してほしいと思っただけだ」
心の声ではない、彼自身の口から放たれた言葉。
ルーシーだけでなく、その場にいた者達が驚いたように息を呑む。
けれどそれに気づいていないようにヒューゴはすくっと立ち上がり、コートを手に取った。
「これだけ証拠が揃えば、婚約破棄は避けられまい。あとはクレメンタ家が正式に手続きを進めればいい」
そして、部屋を出る間際、わずかに振り返る。
「ランフォード家と婚約破棄の場を設ける日時が決まったら――私を呼べ。侯爵家の後継として、証言は惜しまない」
淡々とした口調だが、その声音には、確かにルーシーの手助けになりたいという意志が宿っていた。
◆
証拠は揃った。そして、ルーシーの意志も固い。
三日後には、ランフォード家とクレメンタ家との間で緊急の話し合いが行われることになった。
会場はランフォード家の応接室。格式ある重厚な部屋に、両家が向い合って座る。
ルーシーは静かな面持ちで席につき、その隣にはロイターとミーアが控えていた。
レイモンドも参加したいと言っていたが、感情のままオスカーに殴りかかりそうな勢いだったため、現在は留守番を命じられている。
訪問の理由を知らされていないランフォード伯爵夫妻も困惑気な表情で席につき、当のオスカーはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「今日はどうしたのかな? 急にみんなで集まるなんて」
軽い調子の声。
彼は自身の浮気が露呈したことなど、露ほども思っていないのだろう。状況を甘く見ているのが明らかだった。
ロイターは表情を固くし、静かに口を開いた。
「単刀直入に言わせてもらう。ランフォード家の跡継ぎであるオスカー殿の不誠実な行いによりこの婚約を破棄したい。そのことについて、本日は正式に話し合いにきた」
オスカーの笑みが一瞬揺れた。
「婚約破棄だって……?」
「オスカー、あなた一体何をしたの!?」
「……不誠実? え、一体何のことだか――」
動揺を見せるランフォード一家をよそに、ロイターは冷静な面持ちで書類をテーブルに置く。
全てヒューゴが揃えた証拠の束だ。
「まず――複数の目撃証言。数日前街路にてキャロル殿と腕を絡め歩く姿が見られた。しかしこれは二度三度ではない」
オスカーが息を呑む。
しかしロイターは気にする様子はなく、次々と証拠を提示する。
やがて全てが出揃うと、初めて事実を知ったらしいランフォード伯爵夫婦の顔は青ざめる。
そしてオスカーは、それに唇をわななかせ、脂汗を流す。
「オ、オスカー、お前は何ということを!」
「ち、違う! これは、その……誤解だ!」
「これだけ証拠を提示されておいて誤解も何もあるか!」
「っ!」
オスカーは蒼白になり、言葉を失う。
彼の顔を見て、ルーシーは前までは心が沈み、わずかにでも痛みを覚えていた。
だが今の彼女には、もはやなんの感情の揺らぎもない。
ルーシーはまっすぐにオスカーを見据えると、静かに口を開いた。
「私は、オスカー様とキャロル様が街でご一緒にいる姿を拝見いたしましたわ。ですがそれ以前より……ずっとお二人の関係には気付いていたのです。そしてオスカー様が私のことを、地味でつまらない女だと思っていることも」
「ル、ルーシー、それは違う! 僕は、君を――」
「けれど私は黙っておりました。婚約という両家の結びつきを崩さぬよう、家族が困らぬよう、そしてあなたの名誉を守るために」
そこでルーシーは、吹っ切れたように微笑んだ。
「……ですが、もう我慢する必要はないと。そう判断いたしましたわ。過去にはオスカー様に恋心を持っておりましたが、今はもう何もありません。私は私の幸せのために生きたいと思います。ですので、私は貴方との婚約を破棄させていただきます」
オスカーの口から、乾いた音が漏れる。
「待ってくれ……ルーシー。彼女はただの遊び相手だ! 結婚するならば僕は君以外にはいない! それに君を傷つけるつもりは……」
「既に私は傷付きました。不誠実なあなたの行いに。もう元には戻れないのです」
その瞬間、オスカーの表情が歪んだ。
「……っ、勝手なことを言うな! 浮気相手の一人や二人くらい、正妻となる君が認められずしてどうするんだ」
激昂するオスカーを見て、ルーシーは小さくため息を吐く。
やはり彼の優しさは表面上のものだったと、心を読めない両親も十分に分かったことだろう。
既に彼に何を言われても、やはりルーシーの心は揺れなかった。
そんな彼女に更に怒りが湧いたのか、オスカーは甲高い声でなおも続ける。
「君は本当に面白みがない! それに地味でつまらない人間だ。そんな女に次の縁談なんて来るわけが――」
パンッ。
ロイターが立ち上がり机を叩く音が響いた。
「私の娘に向かって、その言い草は……!」
空気が凍りつく。
その時――慌てるようなノック音が響いた。
続けてランフォード家の使用人の、
「ア、アシュフォード侯爵家令息、ヒューゴ様がお越しです!」
という声と共に扉が勢いよく開く。
全員がそちらへ視線を向ける中、ヒューゴが静かに入室する。
立っているだけで、空気が張り詰める。
その気配は、冷たくも美しい刃のようだった。
ヒューゴは形式的に一礼すると、冷えた静けさをまとった声で告げた。
「街で君の行いを見た証言者として、この場に来た」
その場の空気が一段階引き締まる。
オスカーはわずかに後ずさる。
「ヒューゴ様……誤解なんだ。あれは――」
ヒューゴの瞳がわずかに揺れた。普段と変わらぬ冷静さの奥に、微かに怒気が宿る。
「誤解?」
その声音は静かだったが、刃のように鋭かった。
「君は婚約者がいる身でありながら、人目も憚らず侍女と親密に歩いていた。その姿を、この目で見た。その上机の上にある証拠の数々。誤解で済むと思っているのか」
オスカーの喉がひくつく。
ヒューゴは一歩、前へ進む。ほんの一歩なのに、圧が部屋を満たした。
「それに――」
視線が、真っ直ぐオスカーを射抜く。
「先程の言葉。彼女が地味でつまらない女……だと? 己の愚かさを晒すのも大概にしろ」
オスカーが息を呑むが、ヒューゴは続ける。珍しく、その声には熱が宿っていた。
「彼女は誰より礼節を守り、気遣いができる。黙って耐え、家を思い、君の名誉まで守っていた。そんな女性をつまらないと切り捨てるとは――」
ヒューゴの眉がきつく寄る。
「……君には、もったいないにもほどがある」
その言葉は大きなものではなかったが、確かにこの場にいた誰の心にも強く響いた。
「加えて、ランフォード家は今回の件で信用を大きく損ねた。婚約破棄は君の有責。社交界ではすぐに噂が広まる。伯爵家の跡継ぎが侍女に入れ込んだ――それだけで君の価値は大きく下がる」
「っ……」
「君は彼女より先に己の心配をするべきだ。君に次の縁談が見つかるかどうかは……運が良くて、というところだろう」
オスカーの唇が震えた。
「や、やめてくれ……そんな……」
ヒューゴは淡々と告げた。
「これは報いだ。己の撒いた種が、自らに返ってきただけだ」
その瞬間、オスカーの膝ががくりと折れた。
彼は床に手をつき、肩を震わせる。
「……ルーシー……僕は……僕は……!」
泣き出しそうな声で絞り出すが、ルーシーはその哀れな姿にも揺れなかった。
彼女は、静かに立ち上がる。
たとえ地味で面白みがないと言われようとも、淑女としては完璧なルーシー。
彼女は微笑みをたたえ、気高く、揺らぎなく、貴族の令嬢として美しいカーテシーを披露する。
そして最後に別れの言葉をオスカーに送った。
「さようなら。どうぞ、キャロル様とお幸せに」
◆
婚約破棄の場を後にし、ルーシーの両親はそのままランフォード伯爵夫妻と残り、今後の処理や手続きを進めることになった。
ルーシーだけが先に帰ることになったが、彼女を送り届ける役目を当然のように買って出たのはヒューゴだった。
「一人では帰せない」
断りの余地など最初から与えない声音だった。
二人を乗せ、侯爵家の馬車が静かに動き出す。
カーテン越しに夕暮れが揺れ、車輪の音がかすかに響く。馬車の中は、しんと静かだった。
オスカーとの婚約に終止符を打ったからだろうか。
ルーシーの胸は不思議と軽い。
隣に座るヒューゴは、腕を組んだまま窓の外に視線を向けている。
その横顔は険しく、まだ僅かに怒りを残しているようだった。
「……あれほど無礼な男だったとは」
ぽつりと零れるような声。
ルーシーは小さく首を振る。
「ヒューゴ様、先ほどは私のことを思ってくださっての言葉……ありがとうございます」
するとヒューゴがわずかにルーシーへ目線を向ける。
「私が不快に思い、腹を立てただけだ」
まるで自分の為に怒ったと言いたげな言葉だが、その裏に隠された彼の本音を、ルーシーはもう知っていた。
微かに微笑んで彼を見つめると、ヒューゴはすぐに視線を逸らし、また窓の外へ戻した。
しばらく沈黙があった。
けれど今のルーシーには、静けさが苦ではなかった。
ふいに、ヒューゴが低い声で呟いた。
「……私は、よく言葉が足りないと言われる。冷たいとも」
ルーシーが目を向けると、ヒューゴは珍しく迷いがちに言葉を続けた。
「事実を端的に伝えられればそれでいいと、そう思っていた。そのせいで婚約者がいないと言われているのも、あながち間違ってはいない」
最後は自嘲のような、乾いた響きだった。
ルーシーは慌てて首を振る。
「いいえ、そんなこと……」
「気を遣う必要はない。……いや、私がそう言えば君はそう返さざるを得ない。すまなかった。今言ったことは忘れろ」
けれど、忘れることはできなかった。
ルーシーははっきりとした口調で言った。
「私は知っております。ヒューゴ様は、とても優しい方です。お世辞ではありませんわ。本心からそう申し上げております」
ヒューゴがわずかに目を見開きルーシーを見つめる。
今は彼の心の声は聞こえない。聞くつもりもない。
それでも彼女は、純粋な自分の言葉をそのまま口にした。
「確かにお言葉は少しきつく聞こえるかもしれませんが……その奥にあるお気持ちは、ちゃんと伝わっています。だから私には、ヒューゴ様が誠実で、優しい方だと分かりますわ」
ヒューゴの喉がわずかに動く。
そして――不用意だったかもしれない。
ルーシーの本心がふと溢れた。
「……もし、私の婚約者がヒューゴ様のような方だったなら……きっと、私は幸せだったと思います」
沈黙。
数秒後、ヒューゴがゆっくりと顔をそらす。
「…………そういうことを軽々しく言うな」
声は低く、いつもより少し荒い。
しかしその横顔の耳朶は、夕日に照らされて赤く染まっていた。
ルーシーはそれを目にして思わず一人微笑む。
馬車がクレメンタ家の門前に止まる頃、ヒューゴは顔を横に向けたまま小さく言った。
「……君はもう自由だ。次は、幸せを選べ。誰に遠慮することなくな」
その声音には、いつもの硬さの奥に、ルーシーの未来を願う静かな温かさがあった。
ルーシーは胸の奥に灯った熱をそっと抱きしめながら答えた。
「……はい。ありがとうございます、ヒューゴ様」
馬車の扉が開き、冷たい空気が流れ込んでくる。
だがルーシーの心は、不思議なほど温かかった。
◆
婚約破棄が公に発表された後、ランフォード家の評判は目に見えて揺らぎ始めた。
侍女キャロルとは、驚くほどあっさり破局したという。
それどころかキャロルはオスカー以外にも複数の男と関係を持っていたらしく、そのうちのひとり――とある商家の跡継ぎとの結婚を即座に決め、今では国外へ旅立ってしまったそうだ。
その一方で、オスカーはというと。
見目は悪くないにもかかわらず、愛人にも見捨てられた愚かな跡継ぎとして痛烈な評価がつきまとい、新たな婚約者もなかなか現れないらしい。
今になってルーシーを蔑ろにした過去を悔やんでいる――そんな話も耳にした。
けれど、もう彼女が戻ることはない。
なぜならルーシーは、すでに新たな婚約を結んでいたからだ。
ルーシーの婚約者――その名は、ヒューゴ・アシュフォード。
きっかけは、教会で開かれた慈善バザーにルーシーが顔を出した時のことだった。
街の子どもたちが作った小さな工芸品が並び、孤児院に収められる寄付金を集めるため、他にも手伝いに訪れる貴族が何人かいた。
そこでルーシーがシスターと話していると、近くで大きな子どもの笑い声が上がった。
その中心にいたのは――まさかのヒューゴだった。
彼は大きな荷物を運ぶ手伝いをしていたらしく、腕まくりをしながら木箱を抱え、困っている子どもに手を貸していた。
顔立ちは相変わらず鋭く、言葉もぶっきらぼうだ。
「おい、そこを持つな。落とすぞ」
「こっちに並べろ。乱雑に置くな」
ところが子どもたちは怯えるどころか、むしろ嬉しそうに彼へ集まっていく。
「ヒューゴ様、見て! これ、ぼくが作った木の馬車!」
「車輪が緩んでいる」
そう言いながらも器用に直してやり、子どもの頭をぽんと軽く叩く。
「だが、よくできていた」
その不器用な優しさに、子どもたちはたまらなく安心するのだろう。
その光景を黙って眺めていたルーシーに気づき、シスターが笑顔で教えてくれた。
「ヒューゴ様は毎回足を運んでくださっていて……。初めは子どもたちも緊張していたんですけど、今ではすっかり懐いているんですよ」
ルーシーの胸が温かくなる。
彼の優しさを知っているルーシーには、何も意外なことではなかった。
すると、ヒューゴがふとこちらを振り向いた。
「ああ……君も来ていたのか」
いつもの低い声。
けれど、どこか柔らかい。
子どもがルーシーの腕を引っ張る。
「お姉さん、この人ね、すっごく優しいんだよ!」
「……どこがだ」
ヒューゴは小さく眉をひそめる。しかし表情はわずかにほころび、照れているように見えた。
その姿を見て、ルーシーは自然と笑みをこぼす。
その日のバザーでは、二人は隣に並んで会計を手伝い、子どもの工作に感想を述べ、時に目を合わせて微笑み合った。
その後も二人は何度もバザーで顔を合わせ、自然と距離を縮めていく。
そんな日々を過ごしていれば二人の婚約話が持ち上がるのに時間はかからなかった。
後日、アシュフォード家より正式な婚約の申し込みがあった。
使者ではなく、本人が直接書面を携えやってきたのだ。
応接室へ通されると、ロイターとミーアは息を呑み、レイモンドは目を見開いた。
ヒューゴは深々と一礼し、低く澄んだ声で告げた。
「……ルーシー伯爵令嬢との婚約を、正式にお願いしたい」
両親は思わず顔を見合わせ、胸に手を当てたミーアが涙ぐむ。
「まあ……なんて真摯な……」
レイモンドはヒューゴに詰め寄り、
「絶対、姉さんを泣かせるなよ!」
と真剣な顔で言い放った。
ヒューゴは一瞬だけ目を見開き、すぐに静かに答えた。
「……当然だ」
その声音には、揺るぎない誠実さが宿っていた。
ぶっきらぼうなのに、どこか深くあたたかい。
その時、ヒューゴとルーシーの視線がふと重なる。
ほんの一瞬のはずなのに、時間が静かに止まったように感じられた。
ヒューゴはわずかに視線をそらし、小さく咳払いした。
「……申し出を受け入れてくれれば、嬉しい」
その一言に、ルーシーの胸がきゅっと締めつけられる。
(こんなに誠実に、真っ直ぐに私を選んでくれるなんて)
ルーシーは目を細め、花がほころぶような笑顔を浮かべた。
「はい。……ありがとうございます。私でよければ、どうかよろしくお願いいたします」
ヒューゴの瞳が、静かに細められる。
「……こちらこそ」
こうして――ルーシーの新しい未来は、ヒューゴ・アシュフォードと共に歩みはじめた。
◆
婚約が決まってからしばらくして、アシュフォード家の庭を散策していたルーシーは、ふとこんな問いかけを口にしてみた。
「……もし、私がヒューゴ様の心を聞けたとしたら……どうなさいます?」
ルーシーはヒューゴに心の声が読めることを伝えるつもりはない。
それでももしもそうだと知ったら彼がどう思うのか、聞いてみたくなった。
するとヒューゴはすぐには答えず、眉をひそめて短く息を吐いた。
「非現実的な話だ。考えるだけ無駄だ」
ぶっきらぼうな返し。
だが、ルーシーが静かに見つめ続けると、ヒューゴはふいに目をそらし、少しだけ声を落とした。
「……だが……そうだな。もし本当にそんなことがあるのなら……私は困る」
「困る……のですか?」
やはりそのような人間が近くにいるのは、気味が悪いのだろう。当然の反応だ。
だが、そうではなかった。
ヒューゴは、いつになく慎重に言葉を探すように沈黙していたが、不器用な正直さはそのままにゆっくりと口を開いた。
「……君も知っての通り、私は言葉を尽くすのが得意ではない。だが心の中では、君のことを……」
言い淀んだあと、ほんのわずかに肩が揺れる。
「……君を想う言葉を、いくつも、何度も言っている。それを全部……聞かれるのは、さすがに困る」
ルーシーの胸が温かく震える。
「だから……もし君が心を読めるのだとしても……今は読まないでほしい」
ルーシーの瞳が驚きに揺れる。
ヒューゴは、夕陽に照らされた横顔のまま続けた。
「私は……君に伝えたいことを、ちゃんと言葉にする。誤魔化さず、濁さず……自分の口で。その時が来るまで……待っていてほしい。必ず私の言葉で、君に伝える」
ルーシーは柔らかく微笑む。
その瞳には、もう迷いも不安もなかった。
「……はい。お待ちしておりますわ、ヒューゴ様」
夕風が二人の間をそっと撫で、その風に揺れた髪の間から、ヒューゴが贈ってくれた白金の髪飾りが柔らかく光を返す。
ルーシーの好みのもの、そして、彼がその方が君に似合うと選んだものだ。
心を聞かなくても届くほどの彼の温かさだけが、ルーシーの胸を静かに満たしていた。




