張り紙
「羊男 飛び出し注意」
一度通り過ぎた宇井は、道を引き返した。そして電柱に貼られた紙をもう一度見る。
「羊男 飛び出し注意」
白い紙に黒い手書きの文字ではっきり書かれている。周りを見渡すと静かな住宅街が続いている。電柱の前の家は洋風のきれいな家だ。庭には木が生え、道路に出ないよう、きちんと手入れされている。玄関の足元には植木鉢が並び、白い月の光に当てられ色鮮やかな花が咲いている。
宇井は「羊男」に注意しながら、夜の住宅街を進んでいった。
宇井が喫茶店の扉を開けると、店主の男が「お疲れさま」と言いながら、六つあるカウンター席の一番奥の席におしぼりを置いた。カウンター席に客はおらず、二人掛けのテーブル席に若い男が一人、カウンターに背を向ける形で座っている。宇井はおしぼりの置かれた席に座り、ホットココアを注文した。
「さっき、変わった張り紙をみたんですよ」
店主は宇井と目を合わせると小さく頷き、続きを促す。
「羊男飛び出し注意って。住宅街の電柱に書かれていて。だから、注意しながら来ました。変わった人もいるんですね」
後ろのテーブル席に座っていた若い男が突然立ち上がり、宇井の隣に肘をついた。
「変わった人って、ドッペルゲンガーとかか」
若い男は眠そうに目を掻きながら嫌そうな顔をした。宇井は突然のことで返事に困っていると、店主が「この人、ドッペルゲンガー見たんだって」と笑って言った。
加々見と名乗った若い男は、看護師らしい。最近、ドッペルゲンガーを見たという患者が増えてきて疲弊していたところ、とうとう本人も医師のドッペルゲンガーを見たらしい。
「そのこと、医者には言ったんですか」
気付くと隣の席に座っていた加々見の話に、宇井は聞き入っていた。
「いや、言えないよ。俺が診察される側になっちゃう」
そう言うと、大きくあくびをした。
「それから神経質になって、夜も眠れなくて、ここで時間をつぶしてんの。家にいると、自分のドッペルゲンガーが帰ってくるんじゃないかって不安でさ」
「加々見さんのドッペルゲンガーが現れたって話はないんですよね」
「ないね。でも、いないとも限らない。実際に身に起こるまではわかんないんだよ」
諦めたように、大きくため息をついた。
「そういえば、宇井君はなんでこんな夜に来てるの」
「僕は、住んでいるアパートの住人がうるさくて。毎晩歌ったりライトを持ってアパートの周りを歩いたり。僕にも参加するように押しかけてくるんですよね。だから、避難しているんです」
加々見は声を出して笑った。
「ドッペルゲンガーも羊男も奇行ばかりの隣人も、この店の中まではこないでほしいものだね」
この町の住人は不可解なことが起きても、不審を感じるだけで、追及しようとは思わない。それがこの町なりのバランスのとり方なのだ。