第9話 夜明け、リリィの選択
リリィが次元の扉を越えてから、森にはぽっかりと風の穴のような静けさが残っていた。
高い木々の間に建つエルフの集会所。
その中心にある水晶の泉を囲んで、長老たちが静かに集まっていた。
「……あの子は、とうとう本当に行ってしまったのか」
「チラシの魔力の残滓と、あの子の技術……。まさか、融合させてしまうとは」
ため息をつく長老たち。だが、誰一人、怒っている者はいなかった。
あるのはただ、驚きと、誇らしさと、寂しさ。
「リリィのことだ。あちらの世界でも、きっと何かを見つけるじゃろう。だが……あの子はまだ若い。夢に迷うこともある」
「……それでも、リリィは“あの場所”を選んだ。なら、我らにできるのは“帰る場所”を保ち続けることじゃ」
その時、集会所の扉がバン! と勢いよく開いた。
駆け込んできたのは、リリィの友達である小さな木霊の少年・ティト。
「リリィの痕跡、まだ消えてないよ! 空に舞った星の軌跡、泉の水面に映ってた!
だから、絶対……帰ってくるよ、リリィは!」
長老たちは顔を見合わせ、そしてふっと微笑んだ。
「……ならば信じよう。森を出た者が、再びこの森に“新しい風”を運んでくれる日を」
「リリィがどんな世界を見て、どんな事を覚えてくるのか……楽しみじゃな」
その夜、リリィの家の前に火が灯された。
それは「いつでも戻ってきていい」という、森の仲間たちからの“合図”。
風が木々を揺らし、
どこか遠い空の下で輝く、星のカケラにそっと想いを乗せた。
朝靄に包まれた万博の会場。
人の気配はまだまばらで、昨日の喧騒が嘘のように静けさが広がっていた。
リリィは“静かな丘”の草原に座って、朝の空を見上げていた。
空はうっすらと茜色に染まり、東の空にはまだ星が一つだけ、名残のように光っていた。
昨夜、星の子にもらった銀色の欠片が、首元で微かに光っている。
それは、まるで自分の中の迷いを、静かに照らしてくれているようだった。
「……どうしよう、わたし」
森に帰れば、安心できる日常がある。仲間たちも、家族も、待ってくれている。
でも、この世界には、まだ見ぬ技術、知らない文化、刺激と発見と驚きがあった。
そのすべてが、リリィの心を強く揺さぶった。
「ミャクミャク……わたし、帰るべきかな。それとも、もう少しここにいていいかな」
隣で、朝の空気を吸い込んでいたミャクミャクが、ふわっと伸びをしながら答えた。
「にゃふ……帰るもよし、残るもよし。でも、リリィがこの場所で得たものは、きっとどこにいても消えないにゃ。だから、選んでもいいにゃ。“心のままに”にゃ」
リリィは立ち上がって、ポケットから魔法と技術で作られたクリスタルを取り出した。
それは帰還のための鍵。ひとたび使えば、森へと帰れる。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて、静かに微笑んで言った。
「……わたしは、帰る。けど、それは“逃げる”んじゃない。この場所で見たこと、感じたこと、全部持って森に帰る。そして――いつかまた来る。もっと強くなって、もっと学んで。次は森のみんなを連れて、見せたいな。世界の光を」
ミャクミャクはニッと笑った。
「いいにゃ、それは“最高の未来予想図”にゃ」
リリィはクリスタルに魔力を込め、空間にきらめく光の扉を開いた。向こうからも自分を呼んでいる力を感じる。道が――繋がった。
朝の光の中、彼女の姿がゆっくりとその中に溶けていく。
最後の一歩を踏み出す前に、リリィは振り返って言った。
それは前から感じていた疑問。それを最後に問いかけた。
「ミャクミャク、あのチラシ……あなたが送ってくれたの?」
その問いに、ミャクミャクは少し驚いた顔をしてから、にっこりと笑った。
「にゃふふ、そうだにゃ!」
「えっ……?」
リリィは目を丸くしてミャクミャクを見つめた。
「あのチラシにはリリィのための“運命の扉”が書かれてたにゃ。それを見逃すことはできなかったにゃ」
リリィは少し考え込む。
「でも、どうしてわたしに? わたしはただのエルフの女の子よ? どうしてわたしを選んで、あんなチラシを送ったの?」
ミャクミャクは空を見上げながら、ゆっくりと言った。
「それは……リリィが、まだ知らない力を持っているからにゃ。君には“未来”を切り開く力がある。でも、それを知らない。だから、手助けをしたかったにゃ」
リリィはさらに首を傾げる。
「未来を切り開く力……わたしが?」
「にゃ〜、そうだにゃ。君は、あの森の中でずっと守られてきたけど、外の世界ではもっと大きな力を持つ者たちがいる。君は“その力を知るべき”だし、その力をどう使うかも、君の選択にかかっているにゃ」
ミャクミャクはリリィの目をじっと見つめ、言葉を続けた。
「それに、君が来ることで、この世界にも“新しい風”が吹くはずにゃ。君がこの世界で得たものを、森にも、他の場所にも伝えることができる。壁を超えて渡ってきた君のその力を借りたかったにゃ」
リリィはしばらく黙っていた。
心の中で、いくつもの疑問とともに、わずかな答えが形を成していくのを感じていた。
「……じゃあ、わたしのことを見守ってくれていたの?」
ミャクミャクはうなずき、にこっと笑った。
「もちろんにゃ! リリィの力が覚醒するその時を、僕たちは待っていたにゃ。
だから、君にはどんなときでも“未来の扉”を開く力を感じてほしかったにゃ」
リリィは少し照れくさそうに笑った。
「なんだか、夢みたいね。わたしはただ、森を出たくて、色んな世界を見たくて来たんだけど」
「それが、君の選んだ“未来”にゃ。大切な一歩だったにゃ」
その言葉に、リリィは心から温かい気持ちが広がるのを感じた。
自分の力を信じること、それが何かを変える一歩だと。
リリィはそっと手のひらを広げ、星の欠片をもう一度しっかり握りしめた。
「ありがとう、ミャクミャク。わたし、これからもっと強くなるよ。森にも、また未来を運べるように」
「にゃふふ、それを聞けて嬉しいにゃ。君なら、きっとできるにゃ」
そして、二人は最後にもう一度、空を見上げた。
その空に浮かぶ星々が、何かを伝えようとしているかのように輝いていた。
「ありがとう、ミャクミャク。また、絶対会いに来るから!」
「にゃふふ、待ってるにゃ〜!」
光の中に消えていくリリィの背中は、小さくても、まっすぐだった。