第8話 帰るべき森、残したい想い
日本の夜は深まっていた。
ライトアップされた建物の灯りも少しずつ落ち着き、観客の波もまばらになってくる。
会場内のテラス席に腰かけたリリィは、手の中に小さなクリスタルを持っていた。
それは、彼女がこの世界に来るために使った、魔法と技術の融合体——次元を超える鍵。
「……そろそろ、戻らないといけないのかな」
隣で、ミャクミャクはテーブルに肘をついて、じっとリリィの横顔を見ていた。
「迷ってるにゃ?」
「うん……だって、この世界には、知らないことがたくさんあるの。未来の技術、人々の夢、光の中で笑う子どもたち……。見てるだけで、胸がふわってなるの」
「けど……?」
「けど、わたしには森があって、家があって……。おじいちゃんたち、きっと心配してると思う。それに、わたしがここで見たこと、森の仲間にはとても伝えられないような気がするの」
リリィはそっとクリスタルを握りしめる。
ふっと、風が吹いた。遠くで光のドローンが空に舞い、星のように瞬く。
「この世界は素敵。でも、ここにずっといたら、わたしは……“森のリリィ”じゃなくなっちゃうのかも」
ミャクミャクは静かに頷いた。
「どちらかを選ぶのは、難しいにゃ。でも、世界を知ったことは、リリィが“誰かでなくなる”ってことじゃないにゃ。リリィは、森のエルフでもあり、未来を知った旅人にもなれるにゃ」
「……両方?」
「にゃふ。両方知ってるからこそ、できることもあるにゃ〜。帰るのもいい。けど、もう少し残って、知るのもいい。大切なのは、“どっちを選んでも、それはきっとリリィの道”ってことにゃ」
リリィはそっと立ち上がり、万博の海を見渡した。
その向こうには、帰るべき森がある。
けれど、その手前には――まだ、知らない未来がある。
「……もう一晩だけ、ここにいたい。朝になったら、ちゃんと決める」
「にゃふふ、朝までだったら、あと何個か、面白い展示に行けるにゃ〜」
「えっ、まだあるの!? もう、眠いのに〜……!」
でもその声には、少しだけ笑いが戻っていた。
リリィはそっとクリスタルを首からぶら下げ、夜風の中、再び歩き出す。
ミャクミャクに連れられて、リリィは“静かな丘”と呼ばれるエリアに足を運んだ。
そこは会場の外れにある、小高い丘。派手な展示はなく、代わりに草原の上に寝転んで星空を眺められる、静寂の場所だった。
リリィはミャクミャクと並んで、芝生に腰を下ろした。
遠くに見えるパビリオンの灯り。夜風が気持ちよく吹き抜けていく。
「……静かだね」
「にゃ〜、昼のにぎやかさが嘘みたいにゃ」
そんな時だった。
「ねえ、君もここで星を見に来たの?」
後ろから聞こえたのは、優しげな少年の声だった。
振り返ると、そこには不思議な雰囲気の男の子が立っていた。年のころはリリィと同じくらい。
でもどこか――時間の流れがちがうような、不思議な気配をまとっていた。
「うん、少し疲れて……あなたは?」
「僕? 僕は“旅をしてる”んだ。星を見て、世界の音を聞いて、未来を探してる。そんな感じかな」
「……未来、を探してる?」
「そう。だって未来は、ここにはまだないだろ? でも、誰かの“想い”が積み重なっていけば……未来になる。そんな気がしてさ」
その言葉に、リリィの胸が少しだけぎゅっとなる。
さっきまで自分が考えていたことと、どこかで重なっていた。
「あなたも……帰るべき場所があるの?」
「あるよ。でも、今はまだ帰らない。僕は、“旅を終えた”って思えるまで、歩き続けたいから」
彼の目が、優しく夜空を見上げる。
その横顔は、どこか寂しくて、だけど凛としていた。
リリィはふと、首元のクリスタルを握りしめる。
「……ありがとう。なんだか、少しだけ決心がつきそう」
「そう? それならよかった」
少年はにこっと笑って、ポケットからなにかを取り出した。
「これ、あげるよ。僕の旅の途中で拾った、小さな星のカケラ。君がどこにいても、未来を信じられるように」
それは、小さな銀色の欠片。触れるとほんのり温かかった。
「ありがとう……あなたの名前は?」
リリィが聞こうとした瞬間、彼はすでに丘を下りていっていた。
夜の灯りに消えるその背中に、ミャクミャクがぽつりと言った。
「にゃ〜……彼、たまに現れるにゃ。不思議な子にゃ。たぶん“星の子”にゃ」
「星の子……?」
リリィはもう一度、手の中の星のカケラを見つめた。
その輝きは、確かに未来の方向を指し示している気がした。