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ヤモリマンの誕生

 この違和感はなんだ。おれはあの夜以来、食欲に駆られるままに、蠅やクモ、小さなアブなどを捕らえては飲み下してきた。それがどうだ。さっき、それまでと変わらぬ調子で捕食しようとしたとき、なぜだか食欲がそれまでのように湧き起こらないのだ。


 とてもじゃないが蠅など、虫など、食っちゃいられない。

 この変化が何なのかはわからない。が、もしかしたら歓迎すべきことのようにも思う。


 そもそもどうしておれは、まるで爬虫類か何かのような生活をするようになったのだろう。ある時は屋根裏部屋に潜み、またある時は物置の隅でじっと息を凝らしている。


 事の発端を考えれば簡単なことだ。


 おれはあの、ヤモリの悪魔のような奴に、流星群を見ることと引き換えに、人間であることを売ったのだ。そしておれはヤモリになってしまったのだ。


 ヤモリになるまでわからなかったことがある。

 人間はずいぶんとゲテモノ食いをしているものだ。


 豚肉を腸詰めにしてソーセージなどと呼んだり、魚の肉を醤油とわさびにつけて刺身などと言って食している。牛肉にいたっては挽肉にしてパンで挟んでハンバーガーだ。生で虫を食うヤモリの方がよっぽど自然で、シンプルだ。


 それにしても、さっきから、なんだか全身がゴワゴワとしてきて、ひどく落ち着かない気分だ。おや? 指先の皮が脱げてゆく。


 わかったぞ! これは脱皮だ。どおりで食欲がなかったわけだ。驚いたな。ヤモリ人間が脱皮したらいったい何になるのだろう。ああ……、今度は頭の皮が、顔の皮がゆるんでくる。おッ! 背中の皮が裂けたみたいだ。いよいよおれは皮を脱ぐぞ!


       *


 そこは東京から遠く離れた長野県の山中であった。彼は流星群の夜から十日をかけて、ときにフラフラと行く当てもなく彷徨いながら、ようやく身を落ち着けることのできる場所を見つけたのだった。滅多に人が訪れなくなった丸太小屋……人の気配が絶えて久しいその小屋に、彼はそれまでにない安息を覚えた。


 そこには蠅やクモ、アブ、蚊が豊富にやってきて、彼の腹を満たしてくれたのだ。


 彼は涙すら流した。


「ヤモリも泣くことがあるのか……」


 すると彼の中に、いやおれはヤモリではない、人間だから泣けるんだ、といった強い思いがふと蘇るように湧いてきて、


「正真正銘の人間に戻りたい」


 という気持ちを新たにする。


 そんなことがあったから、いよいよ脱皮する段になって「ヤモリ人間から普通の人間に戻れる」という期待に胸ふくらませるのは、当然のことであった。


 脱皮を始めて小一時間、彼はじっと〝その時〟を待っていた。


 人間に戻ったら、どれだけ嬉しいだろう。家族に会うときにはどんな顔になるだろう。おれがあんまりにも喜ぶ様子に、きっと家族も「心配していたんですよ……」と、嬉し泣きをするだろう……


       *


 脱皮は無事、終了した。


 彼は自分が本当に人間に戻れたのか、あるいは別の何かになったのかを確かめたくなり、駆けるようにして山を下り、民家を探した。


「おれは人間だ、きっとそうだ、人間に戻れたんだ。だからこんなに流暢に話すことができるんだ!」


 彼の目指す民家、それは民宿のようなものであったが、その建物は彼を迎え入れるように、暗くなりつつある戸外に向けて、明るい灯火を投げかけていた。


 ふと、彼は自分の手を見つめた。


 もう、あの呪われたようなヤモリの手ではなくなっている。


 食欲も、ごく当たり前のものに戻り、蠅やクモなど食う気も起こらない。食べたいものは何かと問われれば、パンに目玉焼きとか、味噌汁に納豆ご飯とか、それまで虫を消化した臓器をすっかり浄化してくれそうなものを、あれも食べたいな、これも食べたいな、と、思い巡らすのであった。


 よし、これならもう、どこをとっても人間だ、門前払いを食らうこともあるまい……


「りんごジュースか何かが飲みたいな。そのくらいなら、分けてもらえるかもしれない」


 ……と、まずいことに気がついた。服を身につけていないじゃないか。今ごろ、そんなことに気づくというのも、ずいぶんとおかしな、呑気な話だが、ヤモリの暮らしに慣れたせいか、裸でいることに違和感を覚えなかったのだ。しかし、このまま民宿の門をくぐったら、痴漢か何かと誤解されてしまう。どうしたものか……


「どうされました?」


 いきなり後ろから声をかけられたので、一瞬、心臓が止まりそうになったが、思い切って打ち明けることにした。相手は女だったのだ。変な行動をしてはかえって怪しまれる。


「じつは山で遭難して……」


「服も着けていらっしゃらないなんて、さぞお困りでしょう。どうぞ、中へ」


 空いている部屋へ案内されると、民宿であることが幸いし、着るものには不便しないのだった。気になっているところなので、早速、テレビのニュースを点ける。


「おれの行方不明に関するニュース……、捜索の様子とかやっていないかな」


 チャンネルを民放に回したときだった。


「続報が入ってまいりました。十日ほど前から東京で行方不明になっていた彼は、長野県の山中で脱皮した抜け殻を発見された模様です。現在、捜索範囲を広げて、捜索隊による周辺地域での聞き込みがなされている状況です。……」


 気になる番組だったが、ちょうどそのとき、無遠慮な音を立てて、部屋の襖が開いた。視線をテレビから部屋の出入り口に向けた。


「お風呂が沸きましたが、いかがなさいますか」


 先ほどの女だった。彼女は女中、いわゆる接客係なのだった。


「んーと……、どうしようかな」


 彼はちょっと考えてしまった。もしもまだ、彼の本質がヤモリのままだったとすると、湯船の湯でその身を煮てしまうおそれがあった。あるいは湯殿で湯気の熱にやられて、ヤモリの姿をあらわにし、この民宿であわれな死にざまをさらすことになる、そんな危惧があった。彼は丁寧に断るとふたたびテレビに見入った。すると、先ほどのチャンネルでは彼にまつわる速報特別番組が組まれていたことがわかった。


「これまで番組では彼にまつわる噂を、投稿されたハガキ、メール、また、インターネットの書き込みなどから収集してまいりました。そこで、明らかになってきた事実をひとまず時系列に従って整理してみました。それがこちらのボードになります。……」


○月○日、○○○流星群が日本各地で観測される。このとき、夜空を見上げた多くの人が、ヤモリの手を買わないかという謎の声からの勧誘を受けている。そのうちの一人、大阪市在住のAさんは家族に「通天閣にのぼる」と言ったきり帰らなくなり、三日後、右手のみヤモリと化した異形の姿で発見され、以来、Aさんは某病院にて治療中。


○月○日、○○○流星群の翌朝、東京タワー直下で人間大のヤモリの死体が発見されたが、警察車両によって搬送中に息を吹き返し、信号待ちの際に車外へ逃走、その姿は、六本木から渋谷まで断続的に目撃されている。おそらく、このヤモリの化け物が行方不明となった彼の、変わり果てた姿ではないかと推測される。○○○流星群の夜に行方不明となったのは、彼のほかに大阪市のAさんしかいなかったのである。

 その後、彼はヤモリの姿のまま、甲州街道を西へ突き進むところが目撃されている。この時点で警察は捜査の方針を次のように決定した。


一.甲州街道沿いの市区町村にて重点的な聞き込み捜査を行う。


二.ヤモリの走る能力を人間大に換算、また、人間の走る能力との平均値を考えに入れ、日々、捜査範囲を広げてゆく。


三.彼の目的はいまだ明確ではないが、その身柄を確保することを第一とする。


「これは大変な騒ぎになったな」


 彼には事態の深刻さが今の今まで飲み込めていなかった。

 警察が動いているのはしょうがないとして、テレビ局までもが大々的に特番を放送している……彼はすっかり有名人になってしまったのだ。


 彼には二つの選択肢があった。


 一つはこのまま、わけもわからずに、いや、今テレビを見たことで少しはわけがわかったが……このまま逃走を続けることだ。

 もう一つは今すぐにでも申し出て、家族の元へ帰ることだった。


 しかし、三つ目の選択肢があった。


 彼は自分の手を、両のてのひらを見つめて考えていた。


 ――ヤモリの手……あれはうまく使えば大金を稼ぎ出せるかもしれない……


「ヤモリの手は黄金の手になり得るぞ」


 さっそく彼は民宿を出ようと、身支度を済ませ、部屋を出た、そのとき、さっきの女の話し声が聞こえてきた。


「……ええ……、はい……、はい……、そうなんです。今うちの旅館に泊まっているんですけれども、あの目はまるで、ヤモリそのものですよ。もう、怖いのなんのッて……。何をされるかわかりませんもの。……ええ……、はい……、はい……、お願いしますよ。サイレンは鳴らさずに来てくださいね……」


 ――くそッ、通報されたッ。

 ……警察に捕まったらどういうことになるか、わかったもんじゃない。


 彼のなかに突如、恐怖の念が湧き起こった。


 ――大阪市のAさんと同じように、病院に入れられて、治療と称して人体を徹底的に調べ上げられて、あげく、ヤモリ男の人体実験記録を取るべく、手術台の上で解剖されて……、殺されてしまうかもしれないじゃないか……


「そんなのはごめんだ」


 彼は一声、恐怖の叫びを上げると、旅館から飛び出して、闇に落ちた世界へその身を投じ、夜の底から底への逃走に運命をゆだねていくのだった。今、彼が運命をゆだねる相手は、その体に埋め込まれたヤモリの能力、それ以外になかった。


 そう思考した刹那――


 彼は至極自然にヤモリに変身していた。


 意のままにヤモリに変身する男、ヤモリマンの誕生、その瞬間であった。



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