18話 不吉で不穏
「ミチヒト?」
オレの不安と孤独をかき消す声が一年二組内から聞こえた。
教室後方のドアを開いて、最初に聞こえたのは那谷羅の声とその姿だった。オレが保健室にいたなんて全く知らない様子で、無表情のままオレを見ている。
「遅刻か? どうして連絡しなかった? お前は担任に迷惑をかけるクズなのか?」
ここにいるわけがない教師の声がした。同時に姿が目に入る。
「……なんで先生がここにいるんですか?」
教壇に詰多が立っているのに、騒いでる生徒どころか不思議がっている生徒もいない。詰多の話題は昨日もされていたはずなのに、みんなコレを当たり前のように受け入れている。
どうやらこの教室――いや、淀校の異常に気がついているのはオレだけらしい。
「どういう意味だ? 俺はクラス担任なんだがな?」
「先生は退職したはずですよね?」
「……正義」
教壇から机を掻き分けるようにして、オレの前に詰多がやってくる。
「意味不明な供述は感心せんなぁ!」
詰多はオレの腹を思い切り殴った。
「がふっ!」
胃液が逆流しそうになり、オレは思わずうめき声を上げる。
「教師をナメてる生徒には体罰をくれてやる」
「うぐっ! がっ!?」
腹を殴られて腰が折れているオレを詰多は蹴り飛ばした。
その強烈な一撃にとても耐えられず、オレはまるめられた新聞紙みたいに教室の床に転がった。
「ぐ、ハアッ……ハアッ……」
「なんだ? 生まれたての子鹿の真似でもしてるのか?」
オレはどうにか立ち上がって詰多を睨み付けるも、それが限界だ。詰多からの暴力と体調の悪さもあって、息切れとガクガク震える足が止まらない。
「……気に入らん目だ」
詰多はオレに近寄ると片手で胸ぐらを思い切り掴んだ。
「ぐっ……」
「俺はお前みたいな周囲の評判で自分を守ってるようなヤツを見ると虫唾が走るんだよ。好意的に思われてる自分を攻撃したらあんたの身が危ないよ、って調子に乗ってるからな。ふざけんじゃねぇぞ」
クラスメイトは虐待されているオレを見て「何やってんだアイツ」「まさか正義がなぁ」「こんな日もあるんだね」と呆れていた。
まるでオレが虐待されるのは当然とでもいうように、誰も詰多を止めようとしない。汚物でも見るような、嫌悪まるだしの視線がオレに向けられていた。
それは那谷羅も例外ではない。いつもの無表情ではあるものの、椅子から立とうとせず、詰多に殴られるオレをジッと見ていた。
「俺は久城を好きに生活指導したいのによぉ! いつもテメェは久城を庇いやがるよなぁ! そんなに他人から点数がほしいのか!? 俺を利用して周囲から良く思われたいのか!? 俺はテメェのポイント稼ぎ装置じゃねぇぞ! くそっ! くそっ! くそがぁっ!」
「うがっ!? ぐふっ! がっ!?」
詰多は空いている手でオレの腹をサンドバックのように何度も殴る。
「俺を利用して久城からポイント稼ぐのは気持ちいいか? 目当ての女から好意を向けられるのは快感か? ああッ!?」
殴られる度に吐きそうになるが、オレはギリギリの所で耐える。
それはオレができる数少ない抵抗であり、吹けば飛ぶような意地だった。
「いつも久城といやがって! 久城を教育するのは俺だ! てめぇじゃねぇ! 教師の俺が生徒の久城と一緒にいるべきなんだ! お前より俺なんだ! それが当然なんだぁッ!」
何度も何度も何度も何度も何度も詰多はオレの腹を殴り続け、ボロボロになったオレをゴミのように床へ放り投げる。
「……コイツ」
「どう……したよ? もう終わり……か?」
いくら腹を殴られても吐かない。這いつくばっていても睨み付ける目はそのまま。
心が折れないオレを見て、詰多は驚愕しているようだった。
「そんなにカッコつけたいのか? ここにはお前を評価するヤツはいないんだぞ? 点数なんか稼げん。気持ち悪いと思われるだけだ」
「気持ち悪い? 点数? ああ、そうだな。体調は最悪だし、身体はボコボコにされてたし、同情してくれるヤツだっていない」
オレは無様に床に転がったまま呟く。
「でもな。お前みたいなクソ野郎に屈すれば、もっと気持ち悪くなるし、自分からの評価が下がるんだよ」
「……ああ?」
「そうなると明日からの飯がマズくなる。そんなのゴメンだね」
そう言って強がるも、腹と胃が燃えるように痛い。こりゃ飯がマズかろうとウマかろうと、しばらくはまともに食えそうにないな。
「あと、霧はテメェの所持品じゃねぇし、テメェみたいなクソ野郎を頼る程弱くもねぇ。霧は愚痴しか垂れ流せないクソ教師じゃ及びもつかない凄い女子だよ。おこがましさ全開で喋ってんじゃねぇぞボケ」
「テメェまだそんな口が――」
「開けるね。いくらでも開けるから、要約して言ってやるよ」
オレは詰多を見て嘲笑する。
「生徒の欠点しか言えないクズが好意を得られるワケねーだろ。そんなクセして自分は愛されたいとか、相手に嫉妬するとか、ホント醜いな。下半身でしか考えられないとかキモい通り過ぎて排泄物以下なんだよ。今すぐ息するのやめてくれねーか? 呼吸するだけで周囲を汚すとか終わってんなお前」
「正義ぃ!」
瞬間、サッカーボールみたいにオレの身体が蹴り上げられる。
「がぐうっ!?」
今のはマズい。どっかの骨が折れたかもしれない。
「こんな頭の回らないバカだったとはな。見苦しく命乞いするか「もう二度と久城霧には近づきません仲良くしません」と言えば許してやったのに」
「何を許すんだよ……あと、霧に近づくなとか仲良くしないとか……そんなのありえねぇから……」
「那谷羅ぁ!」
乱暴に名を叫んだ詰多に那谷羅が反応する。
「このゴミを始末しろ。お前ならそんなの片手間だろう?」
「ああ、わかった」
那谷羅は席を立つとオレのそばにやってきた。
「ぐ……那谷羅……」
「ミチヒト……」
那谷羅はオレを見下ろし、僅かに逡巡する。
「詰多教諭。その、始末するとはどういう意味だろうか?」
「あ? そんなの決まってるだろ」
詰多はオレを指差して「殺すんだよ」と言った。
「私がミチヒトを……殺す?」
「そうだ。勇者なら楽勝だろ」
――何だと?
なんで詰多が那谷羅が勇者だと知ってるんだ?
「そこのゴミ(正義)は教師に立てつくという悪いことしたんだ。なら、殺されるのは当たり前だよなぁ?」
「そう……か。教師に立てつくのは悪い……ことだ。だから殺される……殺されるのは仕方ないこと……だ」
那谷羅は言い聞かせるようにブツブツ呟く。
「正義を殺せ那谷羅! お前ならできる! お前にしかできないッ!」
那谷羅の声が震えている。いや、声だけじゃない。震えてるのは身体も一緒で、狼狽しているのがオレに伝わってくる。
間違い無い。那谷羅は今この状況と戦えている。
戦っているのだ。
「私は悪いヤツ……ミチヒトを……殺す」
那谷羅は躊躇っている。
悪意に抗っている。
完全に支配されてたまるかと踏ん張っている。
「なぁ那谷羅……」
意地しか張れないオレの目が那谷羅を捕らえる。
「買い物なんだが……いつ行くか決めてなかったよな。今週の休みにしないか?」
「買い……物?」
ひっかかる何かを思い出すように、那谷羅の手が額に添えられる。
「ゲーセンもまた行こうぜ。あの時は邪魔されちまったしさ。ああ、燕崎も誘わないとな。きっと飛び跳ねて喜ぶぞ。那谷羅のこと大好きだからな。誘ったら鼻血出すかもしれん」
息するだけで苦しいのに、何故かハキハキと喋れている。ロクに声も出せないのに、ツラツラと言葉が出てくる。痛くてたまらないのに、那谷羅と話してると笑みがこぼれそうになる。
「楽しみだよ。こんなに楽しみなの……ああ、そうか。そういうことか」
「ミチ……ヒト……」
正気に戻れ那谷羅。戻ってくれなきゃ、約束がなかったことになっちまう。
「あの那谷羅がまた見たいんだ……ワンピース似合ってたからさ。オレって下世話だったんだなぁ……」
ハハッ、と笑うと咳と一緒に血反吐が出た。喋りすぎた。
「どけ那谷羅! 俺が殺る!」
なかなかオレを殺そうとしない那谷羅に業を煮やしたのだろう。詰多は那谷羅を押し退け、オレに拳を向けた。
「こんだけボロボロなんだ。もう何度か殴りつければ死ぬ――」
ドゴォッ! と音がした。
何の音なのか考えるまでもない。
「ミチヒトに――触れるな!」
那谷羅の拳が漫画みたいに詰多の腹部に深く突き刺ささった。そのまま詰多は黒板に吹っ飛っとび、パズルのピースみたいにめり込む。
叫び声の一つもない。時折身体が痙攣してピクピク動くだけで、白目を向いたまま動かない。見た通り気絶しているようだ。