シュタイナー伯爵 セルマンとヴィアンカ 2
「良かった。じゃあ、私のことは、セルマン、と呼んでくれないか」
「え。・・・でも、お姉さまも呼んでいなかったのに――――」
「そうだね。実は、それも間違いだったと思っている。――――だから、今度は間違えたくない」
セルマンは、アマンダの希望を最優先に叶えてきた。それが悪かったとは思わないが、納得できないことまで彼女の希望通りにしたことは、明らかに間違っていた。彼は、もう二度と、同じ失敗は繰り返さないと誓ったのだ。
「急かすつもりは無いけれど、近いうちにそう呼んでもらえると嬉しいね」
だから、決して無理強いをすることなく、それでもちょっとした圧をかけながら、頼みごとをする時のように微笑んだ。
優しく微笑みかけられて、ヴィアンカは、頬に熱が登ってくるのを感じる。ずっと、恋してきた男が、自分に名を呼んでほしいと強く望んでいる。それは、確実にヴィアンカの感情を揺さぶり、幸福感を齎した。次の言葉を聞くまでは。
「できれば、母に会う時までには」
「・・・ロンサール侯爵夫人、ですか?」
「そう。母が君に会いたがっている。パーティではあまり話せなかったと、残念がっていてね」
ロンサール侯爵夫人。彼女に物申すことができるのは、国王夫妻と王太子殿下、それと夫である侯爵だけだと言われる、名実ともに社交界の実力者。―――――そして、姉に未来の侯爵夫人としての知識、教養、振る舞いを教示した人。理想の貴婦人として社交界に君臨し、侯爵領と候爵家の事業を、並外れた手腕で切り盛りする、姉が、お手本としてきた女性。
姉を高く評価していて、とても仲が良い。話を聞いていただけでもわかった。そんな人が、何もかも足らない自分をどう見るのか――――そう思ったら、胸が詰まり、息苦しくなってきた。いけない、こんな時に、こんな話題の時に発作を起こしたら、どう思われるか――――。
呼吸が乱れ、目の前が暗くなる寸前。
「ヴィアンカ嬢!」
ふいに強い手が、ヴィアンカを引き寄せ、優しく手を握りこんできた。
「大丈夫だ。ゆっくり呼吸をして―――こっちを見て、落ち着くんだ」
「そう、目を開けて―――」
宥めるように声をかけられ、優しく背中をさすられて、徐々に呼吸が落ち着いてくるのがわかる。大丈夫だ――――そう言われると、不安と怯えに固く凝っていた心が解れてくる。心配そうに自分を見てくる、深い瑠璃色の瞳。いつも、包み込むように姉を見ていた眼が、今は、心配そうに自分を見ている。
ふいに、涙が出そうになって目を閉じた。
ずっと焦がれていた。眼があってすぐに逸らされる度、姉と見つめ合うのを見る度、悲しくて胸が引き裂かれそうだった。こっちを見てほしかった。話しかけてほしかった。二人だけで普通の会話がしたかった。なのに。
――――すべて叶った今、どうして、
こんなに哀しいんだろう―――――?
「ご心配おかけして、すみません」
ヴィアンカは、溢れそうになる涙を懸命に押しとどめ、渾身の力を込めて微笑む。
声が、震えないように。
自然な笑顔に見えるように。
ともすれば、臆して引き攣りそうになる唇を叱咤して、言葉を形作る。
「もう、大丈夫です」
「私も、侯爵夫人にお会いできるのが、楽しみです」
そう言うと、花のようにふんわりと微笑んだ。




