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彼は、彼女の言葉が理解できなかった。否、正確には、理解したくなかった、と言うべきかもしれない。
今の言葉は、まるで彼女が婚約解消を望んでいた、と。それどころか、そのために二人で、あの事件を起こした、そう言っているようではないか。
「こうなると知ってたら、協力なんかしなかった」
不貞腐れたように言った後、
「わっかんないよなー。仲よさそうだったのに」
心底不思議そうな青年―――オスカー・ラドクリフの声。
それは、彼の言いたいことでもあった。
――――――そうだ、自分たちは仲の良い婚約者同士だった。何の問題もなく数年後には結婚すると、少なくとも自分はそう信じていた。なのに、どうして――――――?
「理由を知りたい?」
「まあね。俺は、結構危ない橋を渡ったと思うけどな」
「そうね・・・あなたには、迷惑をかけたわ」
ごめんなさい。そう小さく言うと、少しだけ迷うように黙ったあと、言葉を続けた。
「ロンサール様は、申し分のない婚約者だったわ」
「だったら・・・」
「私をないがしろになんて、しなかった。三人でいる時は、私を優先してくれた」
「三人?」
「ああ、私には妹がいて、よく三人で過ごしたのよ」
「・・・・・・」
沈黙が、庭園を支配した。
彼女は、微笑みを浮かべ、無言でオスカーを見つめている。
❝この先を聞く気があるのか❞
その瞳は、雄弁に彼女の問いを物語っていた。
沈黙を是、ととったのか、彼女は、話を続ける。
「妹は、心臓が弱くて、発作を起こすと、それはもう苦しそうなの。真っ青な顔で胸を押さえて。横になっていても、今にも死んでしまいそうで、いつも怖かった。鼓動が止まってしまって、マッサージすることも珍しくなくて」
それでね、と彼女は、何でもないことのように続けた。
「あの子、発作を起こすと、ロンサール様の名前を呼ぶのよ」
「苦しくて、ほとんど意識もないのに、家族ではなく、ロンサール様の名前を呼ぶの―――セルマン様って。私の前では、絶対言わないのに」
オスカーが知る限り、彼女が婚約者―――今となっては、元、だが―――を名前で呼んだのを聞いたことはない。一度も。いつもロンサール様、と家名で呼んでいた。
名を呼ぶことを許されない婚約者。そのせいで、仲睦まじげでもどこかよそよそしいと、不仲説まで囁かれていたほどだ。
彼 女 の 婚 約 者は、妹を何と呼んでいたのだろう――――――?
「・・・・・・・・・」
「顔色が悪いわ、大丈夫?」
彼女が、心配そうに覗き込む。やっぱり、やめた方がよかったかしら、と言いながら。
「大丈夫、だ。ここまで聞いたら、気になってどうしようもない」
「男性が聞きたいような話かしら?」
「アンタが嫌でなけりゃ、だ」
意外な言葉を聞いたというように、彼女は目を見張る。
「優しいのね」
そりゃ、アンタだろ、オスカーは、口の中で呟いた。
オスカーは、商会を運営する子爵家の次男だ。
半年前、貴族令嬢が誘拐され、王都の中心街から離れたところにある家で、発見されるという事件がった。攫われたのは、アマンダ・クロエ・シュタイナー。裕福な伯爵家の長女で、幸いなことに、その日のうちに救出された。今、オスカーの目の前にいる女性である。
彼女は、王国で大きな権力を持つ、侯爵家の嫡男の婚約者だった。誘拐が発覚した後、すぐに厳しい情報統制がとられ、スキャンダルになることはなかった。
本来ならば攫われた令嬢などは、傷物として扱われ、社交界で生きていくのは難しい。
そのため、ロンサール侯爵家の婚約者の位置が空く、そう考え、様々なアプローチを試みた家も多かったと聞く。だが、侯爵家の意向により噂は封じられた。
二人はそのまま婚姻を結ぶのだろう、誰もがそう考えた矢先、いきなり、婚約者が、伯爵家の長女から次女に代わったと発表されたのだ。
経済が発展してきた現在、如何に貴族と言えど、無難に領地を経営するだけでは追いつかず、各家は様々な試行錯誤を始めている。
中でも、隣り合った領地を持つ侯爵家と伯爵家の繋がりは強く、共同での事業を多数展開していて、大きな業績を上げていた。婚約の続行は特に不思議ではない。
だから、婚約者に恋をした妹のために、自ら傷物になった姉を演じて身を引いた―――そう、オスカーは考えた。若干の違和感はあるが、つまるところ、話を聞いてほしいのだろう、と。
それがまさか、後々まで尾を引くことになろうとは、この時は全く考えもしなかった。