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美形だけどケチで細かすぎるちょっと残念な腹話術師「日花風人」が人の言葉を話すトイプードル「リョーコ」とともに謎を解く

○プロローグ

 夜の海岸沿いの道路

雨が車のフロントガラスをたたく。

 ドイツ製の車のフロントガラスに落ちた雨はワイパーにより勢いよく左右に拭かれ、しずくとなって飛んでいる。

 ハンドルを握っているのは女だ。カーブの多い道路を結構なスピードで車が走っていた。

 助手席に座る男が、運転している女にスピードを落とすように促すが、女はいうことを聞かない。声の調子から、女の方が男よりも上の立場にあることがうかがえる。

本来ならば、男が運転するところであるが、会社で出張用に購入した車の運転を、女がやってみたいといい、半ば強制的に運転席に座ると宣言し、ハンドルを握っていた。

 大柄な車が、ハンドルの操作に遅れることなく車体の向きをひらりと変える。

 突然、コマ落としの動画のように、視界に何かが現れた。女は床が抜けるような勢いでブレーキを踏むが──。

 ドギャッ

 柔らかいものと硬いものが高速でぶつかる音がして、大きく重く長い肉の塊が回転しながら雨を裂いて宙を舞い、濡れ雑巾のように路面に落ちた。

 それが落ちた位置から数メートル離れたところに車が停まった。

 ドアが開いて、女と男が降りてくる。

 「これは」

 ソレを見て、男は言葉を失った。

 「どうして、急に道路に人が」

 女はうろたえた。

 「だからスピードを落とせとあれほど」

 男が震える口で言う。

 「病院に」

 男がそういうと、女は首を横に振った。

 「駄目よ、もう息していない」

 「警察に電話を」

 男がガタガタ震えながら胸ポケットから携帯電話を取り出した。

 警察に電話をかけようとするが、

女がその携帯を雨で濡れた手で叩くように押さえた。

 いったい何を、と男は女を見るが、女は首を何度も横に振った。

 前髪から雨がしたたり落ちる。

 「誰もみていない―――」

 降りしきる雨の中、男と女は何かを話したが、路面で雨粒の砕ける音にかき消される。

男が路面に横たわる遺体の背後から抱き起すように持ち上げ、女は脚を持ち、車のトランクに載せた。

 雨は更に強くなり、路面に散らばった車の小さな部品や遺留品、血液を洗い流した。


〇日花風人

尾道市土王小学校の体育館の床に、小学生が40人ほど並んで座っていた。

その後ろに、パイプ椅子が並べてあり、保護者たちが座ったり、椅子の間に立ったりして大人の壁が出来ている。

親も子も、皆小さなステージを見つめていた。今夜は劇団ナークの人形劇「三匹の子豚」が上演されるのだ。

人形劇の舞台のケコミは設置されているが、今はその前に黒いタキシードを着た青年が立っていた。

背はそれほど高くなく、ほっそりとした体形だが、ホールの天井から照らす照明のなかに浮かび上がるように見えるその肌は、まるで大理石のように白く滑らかである。額には一本一本が光沢を放つ黒い絹糸のような前髪が垂れており、その下には黒い大きな瞳があった。

青年が一礼して頭を上げ、その顔に笑顔が浮かぶと、まず子供たちの後ろに立って舞台を見ている保護者、とくに母親たちからホーッとため息が漏れた。

青年の横にはキャスターが付いた背の高い台があり、その上には茶色い巻き毛の小さな犬がお座りの体勢で客席の方を見て座っていた。犬種はトイプードルであり、首に細い鎖のチョーカーをして、金色のコインに似たペンダントが光っている。ペンダントには「RYOKO」と浮彫が施してあった。

劇団ナークは少数精鋭、その演技の質は高いが、それでも子どもたちの集中力を上演時間である40分も持たせるのは難しい。

どんなに良質な人形劇でも、20分もすれば並んでみている子どもたちがむずむずし始める。

そのため、始まる前の掴みが実に重要だ。

青年、「日花風人」の仕事のひとつは、この掴みである。

風人は特殊な腹話術を会得していた。その腹話術は実に巧みに子どもたちの心をつかむ。

風人の横の台の上に座っているトイプードルが、子どもたちに向かって挨拶をする。

「みんなー、こんにちはー!」

トイプードルの口からカン高い女性の声がする。

子どもたちの目が丸くなる。

風人が、客席の中頃に座る子供が抱きかかえているウサギのぬいぐるみを指さすと

そのウサギが

「今夜は劇団ナークの人形劇に来てくれてありがとう」

と話し出す。

子どもたちから歓声があがり、後ろに立つ保護者たちからどよめきがあがる。

風人は天井にある大きな照明を指さす。

「みんな、いまから始まる人形劇、静かに観れるかな?」

照明からスピーカーのように声がする。

横の壁にかけた大きな時計を指さすと

「劇はちょっと長いので、トイレに行きたくなった人は静かに席を立つようにね」

と声がする。

それぞれ、少しずつ声色が違う。

目を丸くしていた子どもたちは、既に青年の腹話術の世界に引き込まれてしまって、

「はーい!」

と従順な声をあげた。

保護者のなかの、30代半ばの母親が驚いて、風人を撮ろうとスマホをかかげると、

「上演中、撮影はご遠慮ください」

とスマホから風人の声がした。

保護者達からも驚きの声が上がる。

「何これ、マイクが仕込んであるの?」

自分のスマホをまじまじと見つめる母親。

風人は隣に立つ保護者を指さした。

するとその保護者の髪飾りから

「マイクじゃないですよ、腹話術ですから」

という声がして、会場内は笑い声と歓声に包まれる。

ひと呼吸おくと、風人自身が大きな声で

「それでは人形劇団ナーク、三匹の子豚上演開始です!」

と叫び、会場が沸くと同時にトイプードルを乗せた台を引きながら舞台下手の袖に下がっていった。


人形劇団ナークの公演が終わった。

詰めかけた親子劇場の保護者のお母さんたちや、学校関係者から花束をもらい、舞台上に一列に並んだ団長を始めとする3人の劇団員が客席に向かって礼をすると、客席から可愛い拍手が巻き起こった。

風人ふうとも下手の舞台袖から舞台に出て礼をすると、人形劇が始まる前の腹話術に感心した親子たちからまた拍手が起こった。

深々と礼をする風人。


子どもたちと保護者が退場するのを見計らい、人形劇の舞台ケコミを解体し、大道具とともに片付けてトラックに乗せ、小道具をトランクケースに詰め終わると、団員5人は車座に座り、順番に小さな反省と大きな満足を口にした。そして最後に団長の砂川が

「みんなご苦労様だった。見てのとおり尾道での公演は無事成功。次の公演まであと4日あるから、各自観光を楽しむなり自宅に帰るなり好きにしていいぞ。ただし、4日の正午には愛媛の松山市民会館に集合するように」

と頭の上で手をパンパンと打った。

劇団といっても、客が払ったお金がそのまま劇団員に渡るわけではない。劇団を迎える地元の組織や会館、教育委員会などと劇団との契約となる。劇団ナークは人形劇を専門とする親劇団である劇団オリオン座のなかの一組織だ。ナークは子供たちの情緒を醸成する質の良い人形劇ということで今年の3月には再来年の年末までスケジュールが埋まるほどの人気を得ていた。全国から上演の依頼がひっきりなしで、劇団員は一年中ほぼ旅をしながら上演する旅芸人一座に近かった

「皆さんにちょっとお話があります」

風人はスクラップブックのようなノートを取りだした。

「ええと、劇団の経費で落とせるのは、上演当日の食糧費、つまりお弁当ですね、と、それぞれの経由地から上演地までの交通費のみです」

風人が話し始めると、また始まった、と、ほかの団員は渋い顔をした。

「お弁当は一食1000円が上限です。1500円のステーキ弁当買っても1000円しか対象になりません。おやつデザートの類は対象外です。一緒にチロルチョコとかうまい棒とか買っても対象外ですからね、団長」

「おお、」

「領収書のあて名書きは空欄か上様でお願いしますね。機材が破損した場合の補修材料は直接買わずにいったん僕を通してください」

「わかった」

砂川団長は身長185㎝ほどの大きな体で、筋肉質。角刈りで人相もあまり良くなく、10年前に大道具の留め金が落ちて来た時に、隣にいた劇団員の女性をかばって顔に大きな傷が出来て、まるでどこかの組の大親分みたいな風貌だ。ちなみにそのときかばった女性が今の奥さんであるから傷を作った甲斐はあったのかもしれない。

副団長の太田さんは団長より背が低いがそれでも170cm後半で、眼鏡をかけたおかっぱ頭のひょろっとした男だが、「人形使いにかけては国宝クラス」と団長がいうほどの腕前だ。セリフも台本を一回読んだだけで覚えてしまうつわものである。

 もう一人は人形使いの砂川莉子。団長の奥さんである。身長は150㎝ほどで小柄であるが、人相の悪い砂川団長をしっかり尻に敷いている。

風人は3年前に入団した新人で、役割はほぼ雑用だ。雑用と言っても地元の団体との打ち合わせ、契約、箱付き(会館の舞台装置を管理している技術者)との舞台上での動きの確認、舞台の組み立て分解、客席の子供が泣き出した時の対処など多岐にわたる。

紗枝は風人とほぼ一緒に入団した美術担当だ。八王子の有名私立美大を卒業してそのまま入団したが、背景や小道具の整備、人形の補修、なんでもこなす有望株だ。少し小柄ではあるがなかなかの美形である。

しかし芸術関係の人間にありがちな自己表現が強いタイプで、髪は鮮やかな金髪であり、我が強く風人にしてみればとっつきにくいところであった。

団長ほか三人はすでにはけて、第二ホールに残っているのは風人と紗枝だけだった。

紗枝はにっこり笑って手を振ると、体育館の動きが硬い大きな戸を、体全体で引き開けて出て行った。

風人は劇団員全員が会館から出たことを確認すると、校舎の職員室の隣にある事務室に入った。黒いブロッコリーみたいにボリュームのあるヘアスタイルの事務員に挨拶をして、トイプードルのリョーコを小脇に抱えて学校施設使用届の写しを受け取った。風人の車を明日の朝まで停める許可も得ているのだ。

 「今日は遅くまでありがとうございました。もう施錠してもらって大丈夫だと思います」

 通り一遍の挨拶をしたが、事務員は小さな会釈をしたあと、食いつくように風人に訊いた。

「私、最初だけ見てたんだけど、あの腹話術ってどうやるんですか?小型マイクを仕込んでいるわけじゃないんでしょう?」

風人は自分の特殊な腹話術の仕組みを説明した。風人の口と舌は少し特殊な構造をしており、音声の射出を絞り、狭い範囲で遠くまで飛ばすことが出来る。花に水をかけるホースの口を絞るのと同じだ。通常の会話はシャワーの状態であるが、風人の腹話術は水を細くして遠くまで飛ばす状態に似ている。保護者のスマホから声がしたのは、細く絞った声がスマホにあたり、スマホから反射した声を会場の来客者が聞いたというわけだ。

管理人のブロッコリーみたいな女性は目を丸くして、「そんなことができるんですねえ」

と感心した。

風人は管理人の背後、事務室の机の上にあったパソコンのモニターを指さす。

モニターから、

「わかります?こんな感じです」

と風人の声が聞こえ、管理人は驚いて振り返った。

「じゃあ、行こうか姉さん」

風人はトイプードルに語り掛ける

「もう、待ちくたびれちゃったよう。お腹も減ったー」

トイプードルが抱えられた風人の腕の中で不満そうな声を出した。

管理人がまた目を丸くする。

「ええとワンちゃんのお名前は?」

「私、リョーコよ。この子の姉なの」

管理人は風人に問いかけたのだが、トイプードルが答えたので目をぱちくり。

「それも腹話術なんですよね?」

風人とトイプードルの会話を不思議そうに見ていた管理人がさらに尋ねた。

「何言ってるんですか、腹話術じゃなくて姉さんが話しているんですよ。ねえ」

「うんうん」

トイプードルが頷きながら返事をした。

(このひと、おかしい)

美形な風人に向けて放たれていたうっとりとした視線が、瞬間的に怪訝なものに変わった。

女性はあることを思い出していた。

演劇が始まる前に、劇団の団長と名乗るゴツい男が耳打ちするように

「手続きにくる腹話術師の兄ちゃんは、こまめで仕事はきっちりなんだが、ちょっと変わった所があるんだ。だからあんまり突っ込まないでくれ」

そう言ったことを思い出し、

「美形なのにねえ」と小さくつぶやくとあさっての方を見てゆっくり二回頷き背中を向けた。

「あれ?」

女性は両手を服のポケットに差し込み、何かを探しているが、みつからないようだ。

「おかしいわ。確かにこのポケットに入れたはずなのに」

カーディガンのポケットを探し、スカートのポケットを探し、机の引き出しを探し始めた。

「どこに置いたのかしら、ないわ」

「ひょっとして、探してらっしゃるのはこの体育館と校舎の鍵ですか?」

風人はリョーコを抱いたままブロッコリーみたいな髪型の女性に尋ねた。

「よくおわかりになるわね。そう鍵がないの」

「いえ、この時間で、僕との会話が終わって必要なものと言ったら鍵かなと」

「そうなんですよ。鍵をかけないと私帰れない」

ブロッコリーは困った顔をした。

風人は、ふっと息を吐いてあと、彼女の方を見て、

「僕の質問に答えていただけますか?」

と言った。

「え?」

「みっつの質問に答えてもらえれば、鍵がどこにあるかわかりますよ」

風人は能面のような美しい顔でにっこりと笑った。


○シンプルな推理

「質問1、この校舎の閉めなければならない扉って何か所ありますか?」

「東側の扉と、西側の扉と、正面玄関と、職員室の勝手口の4か所かしら」

「質問2、その扉は全て貴方が閉めたのですか?」

「東側と西側と正面玄関は私が閉めます。職員室の勝手口はいつもなら教頭先生が閉めるのですけど、今日は用事があるからって先にお帰りになって、今日はそこも私が閉めました」

「質問3、鍵の大きさは?」

「えーと、これくらいのキーホルダーに体育館の鍵と校舎のマスターキーがふたつつけてあったんだけど」

両手の指だいたい直径5センチくらいの円を描いてキーホルダーの大きさを示す。

風人は顎に指を当ててリョーコに話しかけた。

「姉さん、もうわかりましたよね?無くなった鍵はどこにあるか」

「そうね。今日は夕方ちょっと冷え込んでたからね」

「?」

風人は事務室の中を見回した。

ひとつ向うの机の島に、ベージュの薄いコートが無造作に置いてあった。

「ありましたね」

「ほんとほんと」

ブロッコリーヘアの事務員さんはきょとんとしている。

「あのコートはあなたのものですか?」

風人が指さした。

「そうだけど。あ!!」

女性がコートのポケットを探すと鍵がみつかった。

「なんでわかったんですか?」

「今日、夕方少し寒かったじゃないですか。だから、上に何か着てらっしゃったと思ったんです。鍵を探し始めて最初、ポケットを探したでしょう?あれって、直近の記憶をさぐったわけだから、あまり間違えない。あなたはこの正面玄関以外の扉を閉めて回ったわけだから、ここに帰って来たら暑くなっててコートを脱いじゃったのではないかと。鍵の大きさを聞いたのは上着のポケットには入らず、コートのポケットに入る大きさなのかの確認です。今この部屋暖かいですからね。だから、脱いだ服のポケットにあるか、もしくは同じ所においたかと想像できるわけです」

「へええ、腹話術も凄いけど、頭もいいんですね」

「頭は良くないですよ。ただ物事って難しいようで実はシンプルですから、起こったであろうストーリーを順番にたどり、質問をすることで確信を得たのですよ」

「風人の言う、『物事はシンプル説』ね」

「『シンプル論』と言ってください」

「あなたそういうとこが面倒くさいのよね」

遺跡発掘現場から掘り出された土偶の様に、目と口をぽかんと明けた事務員を背に風人は事務室を出ると、駐車場に止めた白い小さなキャンピングカーの助手席を開け、リョーコをそっとおろした。

風人が運転席側から乗り込むと、リョーコは風人の胸に飛び込む。

丸い目を更に丸くして、リョーコは風人の顔を舐めた。

「さて今夜はここで過ごすよ姉さん。学校の駐車場って、料金かからないからもう最高」

そういうとリョーコを助手席におろした。

リョーコは軽キャンパーの後席にあたる小さなリビングのソファに寝転んだ。

風人はリョーコをひと撫でして、親子劇場の人たちが作ってくれた小夜食をパッカーから取り出し、車載の小さな電子レンジで温め、テーブルの上に置いた。

リョーコがソファから立ち上がり、前足をちゃぶ台ほどの小さなテーブルにかけて風人の食事を覗き込んだ。

「美味しそうねそれ」

「でしょ。しかも差し入れなのでタダ!余計美味しく感じます」

「風人は見た目は美形なんだけど、このせこさがねえ。これがなければ彼女も出来るだろうに」

「彼女?人語をしゃべる犬を連れてる段階でアウトだと思いますけど」

「えー?風人に彼女が出来ないのは私のせいだっていうの?」

「一般的ではないと言ってるだけです」

「ふん。あ、ちょっと、私のご飯は?」

「姉さんのはこっちですよ」

風人は公演が始まる前にコンビニで買ったわんこ用の無添加おやつを小さな皿に乗せて、顔を斜めにして風人のお食事を覗き込んでいるリョーコの前に置いた。

リョーコがぱりぱりと小さな口でおやつを食べる。


風人はこの車を軽キャンパーと呼んでいる。軽のワゴン車を改造して、小さなキャンピングカーに仕立てたものだ。風人は仕事でトイプードルのリョーコとともに全国を旅しているが、動物を同伴して泊まれる宿と言うのは数えるほどしかない。

しかしこの軽キャンパーならば、駐車場さえ借りられれば宿泊できる。

風人は人形劇を上演する会場が決まると、事務仕事の傍ら、まずその近くに車を停める場所があるかを確認する。

たいていはオートキャンプ場を選ぶのだが、今回は学校側の好意で職員用の駐車場に停めても良いと許可をもらった。ただし、周辺に民家があるのでエンジンをかけるときは気を遣いそうだ。

楽しい晩餐のひと時を過ごす一人と一匹を乗せた軽キャンパーが停まる小学校の駐車場を、上弦の半月が煌々と照らしていた。


翌朝、小鳥の鳴く声に混じって、カリカリという小さな音がする。窓ガラスをリョーコが爪でひっかいているのだ。風人はその音で目を覚ました。

明け方少し冷え込むので、少しだけエンジンをかけ暖房を入れたまでは良かったが、その後深く眠ってしまったようだ。

時計は7時を少しまわったところだ。

風人は鏡を見ながら手櫛で髪を粗く整えると、上着を羽織り、棚からリョーコのハーネスを取り出して装着し、リードの金具を取り付けた。リョーコが窓をカリカリ掻くのはトイレに行きたいということなのだ。

風人はスライドドアを開けて、リョーコを駐車場にそっと降ろし、リードをいっぱいに伸ばして細い路地を北へ歩いた。

小さなトイプードルがちょこちょこと走る姿はとても愛らしい。風人はエチケットシートが入った布製のバッグを肩から斜めにかけている。

ひんやりとした朝の空気が気持ちよく、昨夜親子劇場の人たちに教えてもらった児童公園にすぐに着いた。公園の芝は朝露で少し濡れていた。

ちょこちょこと走るリョーコが急に止まり、芝の上でおしっこをした後、大の方も始まったのでバッグからエチケットシートを取り出し拾う。

最近のエチケットシートはよくできており、ビニール袋と紙袋の二重構造になっている。

ワンコと散歩のおり、大の方をビニール袋ごと紙袋で取ることができ、包んだ紙袋ごと流せるのだ。

風人はそのまま公園のトイレまで行き、流した。

「ふう、今日もたくさん出たね姉さん」

ウンチを流し終わった風人がリョーコの顔をまじまじと見て呟くと

「そういうことは黙っておくのがエチケットよ」

とリョーコがキッとした顔で睨んできたので風人は頭を掻いた。

散歩を再開し、小学校の横を通り、山陽本線をまたぐ陸橋を渡り、尾道商店街のモールを歩いた。まだ朝早いのでどの店も開いてはいない。商店街を途中で抜け、「海の見える公園」に着いた。中央に金色の女神の像があり、花壇に色とりどりの花が咲いている。防波堤はタイル張りのように整えられていて青い空にとても映えていた。

防波堤の外は海だ。向島が比較的近くにあるので、大きな河の様に見える尾道水道だ。

向島の港には船荷を積み込む大きな水色のクレーンが立っている。

風人はベンチに座った。潮風が気持ちよく、行きかう小さな船の音に混じり海鳥の鳴く声が遠くに聞こえる。

リョーコは風人の膝の上だ。

「今度はあの海を渡って行くの?」

リョーコが顎の下から風人を見上げて言った。

ベンチの上から陽の光をキラキラと反射する尾道水道を見て風人は目を細めた。

海の小さな波が金色の鱗の様に朝の日差しを反射していた。

東、風人からは左のはるか遠くに新尾道大橋と尾道大橋が重なって見えている。そこを指さし、

「あっちに見えている大きな橋を渡って四国の愛媛松山までいきます。ここからは見えないけど、因島、生口島、大三島、伯方島、大島という島々を渡って。それぞれの島の間に綺麗な橋がかかっていて、とてもいい風景なんですよ。姉さんに見せたいと思っていました」

「へー」

風人にとっては思いがけない、抑揚のないリョーコの返事だった。美しい風景はリョーコにとってさほど興味がないようだ。

「食べるものも美味しいんですよ」

「へー」

「松山の手前の今治に、評判の道の駅があって、美味しいローストチキンが売っているそうです。調べたところ添加物使ってないから姉さんもまるかじり出来るはずです」

「へええ?え?ローストチキンまるかじり?!行くいく!!」

ぴょんぴょん跳ねるリョーコ。

「やる気出てきましたね」

「行くいく、今治に行く」

「やる気になってくれたのはうれしいですが、道の駅にいくのは松山で演劇ひとつ終わらせてからだから三日後ですね。それに、今日は出発までに尾道を少し歩きますから」

「えええ?三日後?まじ?まだ歩くの?」

 ぴょんぴょん跳ねていたリョーコは日向に干した白菜のようにしんなりと萎れてしまった。

「尾道に来て、街並みとお寺を観ないわけにはいかないでしょ」

「ちょっと歩くのならいいけど、たくさんはやだなあ」

「姉さんが歩くのしんどくなったら、僕が抱っこして歩きますから心配しないでください」

「風人って、ほんと観光地歩くのが好きだよねー」

「歩くのはタダですからね」


風人は駐車場まで戻ると、学校に来ていた教頭先生に挨拶をして、軽キャンパーで浄土寺へ向かった。しかし浄土寺の近くに駐車場を見つけることがなかなか出来ない。うろうろ探しているうちに尾道駅の近くまで来てしまい、やっと停める事が出来た。

駐車場から歩いて10分ほどかかり、浄土寺に着いた。

「ここって、聖徳太子が作った寺だそうだよ」

「聖徳太子って誰?あ、昔の日本でを食べてたひとだ」

「姉さんの思考のマイルストーンは食べ物ですよね」

「こんな体だから、食べられるものは限られるけどねー」

「酥って確かヨーグルトですよね。コンビニで甘味料入ってないやつ買いましょうか」

「え?このお寺もう出ちゃうの?風人が好きそうな作りの建物だから中に入るのかと思ってた」

「こういうところって、ほんとはわんこを連れては入れないんですよ」

「えー、そりゃ悪かったわね」

「いえいえ。ここから観れるだけで十分です。姉さんと一緒にね」

風人はリョーコを抱き上げ、顔を並べて浄土寺を背景にスマホで自撮りした。

風人が自撮りしている横を、お坊さんを先頭に数人のツアーらしき列が通過する。

 話を聞いていると、どうやらお坊さんの案内で七つの寺を解説付きで巡る「七佛めぐり」なのだとか。

 風人はお坊さんに許可をとって、その一行について歩くことにした。各お寺での解説が面白かった。

浄土寺から徒歩1分で海龍寺へ、そこから次の西國寺までは15分ほど歩いた。リョーコは早々にギブアップしたので、ぱっと見は赤ちゃんの前抱きハーネスに見える布製のケージで前抱きにして歩いた。わんこ連れだと入れない施設は多いが、ケージに入れていればOKの場合も多い。そうこうして、大山寺、千光寺からロープウェイを使って天寧寺へ、持光寺を見て回った。持光寺でお坊さん一行ツアーの人たちに手を振って別れ、尾道駅へ向かった。一通り寺は見終わり、抱っこされているとはいえリョーコはヘトヘト。気が付けば、正午を過ぎていた。

「さて、それじゃお楽しみの食べ物いきましょうか?」

「ああもう、へとへとよ。あたしが食べられる美味しいモノありますように」

「無かったらプレーンなパンでも買ってあげますよ」

「いろんな観光地のいろんな土産屋さんに行くけど、私が食べるものって八割がたプレーンなパンよね?」

ブツブツ呟くリョーコを布製ケージで抱いたまま、風人は今朝歩いた商店街モールへ向かった。

大きな土産物屋で定番の瀬戸内レモンケーキと八朔ゼリーを買い、お店の中で劇団本部事務所に送る手続きをした。

お土産を本部に送ることも経理担当の仕事の一つでもある。

「このお土産っていう風習にどんな意味があるのかしら」

自分が食べられそうなものをなかなか風人が買わないので、リョーコは巻き毛の頬をぷーと膨らませて嫌味をひとつ吐いた。

「派遣された地域で無事上演出来ましたよっていう報告書みたいなものなのですよ。本部とのコミュニケーションにもなりますし」

「ふうん。じゃあ経費で落ちなくても買う?自分のお金で?」

風人はスンとした顔になりリョーコを見た。

「買うわけ無いですよ」

「秒で否定したね」

「あ、そうだ。酒匂先生にも何か特産物を送らなきゃですね。何にしましょう」

「あの飲んだくれに送るものってお酒に決まってるじゃない」

風人はお店のレジの前に貼ってある酒の広告を見て、

「すみません、このお酒を東京まで送りたいのですが」

と店員さんに話しかけた。

「申し訳ありません、その商品は在庫が切れていて、発送は明後日になります」

「明後日ですか、ぜんぜん構わないです」

風人はリョーコに同意求めたのか、顔を覗き込んだ。

「いいんじゃない?美味しいお酒さえ飲めたら文句言わないわよあの人」

リョーコと風人が話すさまを、レジにいた店員は目を丸くしてみていた。

「でも」

 リョーコが何かを思いついたようにつぶやく。

「でも何です?」

「あさって発送だったら、送り状もあさっての日付けでしょう?私たちがずっと尾道にいたみたいじゃんね」

「なるほど、でもその頃は松山にいますけどね」

風人が笑った。

「さて、では姉さんの食べるもの探しましょうか」

食べ物の話をしたら少し元気を取り戻したリョーコを、布製ケージから降ろし、リードを引いて商店街を歩いた。

 土産物屋を出て歩道を歩く一人と一匹。

「あのパン屋さんに行ってみましょうか。なんだかお得そうな匂いです」

「美味しそうなでしょ?さあ行くわよ!!」

リョーコは薄いオレンジ色の四角いコンクリート板が敷き詰められた歩道でくるくる回り、後ろ足で立ち上がってぴょんぴょん跳ねた。

食べ物や土産物屋の試食コーナーの良い匂いが漂い、リョーコの黒く小さな鼻がくんくんと動く。

歩道を歩く二人はパン屋に向かって加速しはじめたが、スーツ姿の男女の十数名の行列とすれ違う。

狭い歩道では、行きかう人の邪魔になるので、風人は再びリョーコを抱き上げ、前抱きにして歩いた。

先頭の「XXウォーターセミナー」というプラカードを持った女性がどこかの建物を指さした。すれ違った先で、

「今回のセミナーはこちらです」

という声が聞こえた。行列の一番後ろから少し離れたところを、男が歩いていた。黒っぽい服の上に表情が見えにくいフードをかぶり、救命胴衣に似たベストを着ていた。

 風人はその男が妙に気になった。

不意に歩を止める男。その視線の先には、バス停でベンチに座っている10歳ほどの、小学生の男の子がいた。

灰色の薄い上着を着て、デニムのズボンをはいている。青いプラスチックのベンチに腰掛け、バスが来るであろう方向を見ている。

普通ならここで何気なく通り過ぎるところなのだが、ベンチに座った少年が振り返り、フードをかぶった男に気がついた。すると男を見た少年がひどく怯え始めた。男はふらふらと少年に歩み寄った。

その光景は風人に不穏な何かを感じさせた。

不意に、男は少年に向かって手を伸ばした。延ばされた手が少年の肩を掴もうとする。少年は蛇に睨まれた蛙のように動けない。

その一刹那、風人はバス停の時刻表を指さした。

「何をしているんですか!」

遠隔腹話術で時刻表から風人の声がする。男にしてみれば、時刻表がしゃべったように聞こえただろう。男はゆらりと少年から離れた。まるで金縛りにあったように動けなかった少年は、この声をきっかけに解き放たれ、風人の方に逃げて来た。

少年の顔は怯えている。

男は空洞のような目で少年が走り去った先にいる風人を見た。フードのせいで表情がよく見えない。風人は背中のうぶ毛がちりちりと逆立つ感覚を憶えた。


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