第2話「オーバー・ザ・ディメンションⅡ」
地獄の宣告から一週間――俺は朝から晩まで勉強漬けの日々を送っていた。
朝は六時に起床して朝食まで前日の復習、電車での登校時間は英単語の暗記に費やした。
学校に到着すればすぐさま小テストの対策をした。
昼休憩中も弁当を右手の箸で口内にかきこみながら、左手で社会系の参考書を持っていた。
下校中はうとうとしながらイヤホンから英語の音声を流し、それを聞き流していた。
駅からは走って家に向かって眠気を覚ました。
帰宅すると先に風呂と夕食を済ませてから、就寝時間の1時までひたすら明日の予習と当日の復習を行った。
こんな勉強漬けの生活を送ったのは、中三の受験期ぶりだった。
その並々ならぬ辛さから、これまでの怠惰の程を悟った。
ここまでとは、正直思っていなかった。
しかし、少し続ければ段々と慣れていくだろうとも思っていた。
崩壊は、予想だにせぬほど早かった。
終日勉強漬け生活が始まってから二週間がたったある水曜日のことだ。
俺の鬼気迫る表情を見て距離を取るようになっていた勇人が、朝会の前にぬるっと近づいて話しかけてきた。
「お、おっすセイ。お前……大丈夫か?」
「なんだ勇人。自分から勝手に距離を取るようにしておいて、今更なに急に近づいてきてんだ?」
俺は、勇人の「大丈夫か?」という言葉に少々腹を立てた。
心配するなら最初からさっさと声かけてこいよ。
「それは……すまん。セイが大好きなほむらちゃんを奪われて、必死に勉強している様子を見ていたら、なんか邪魔しちゃ悪いなぁと思っちまって」
「なに? そんな理由で俺を避けていたのか? 俺が、大切な友人が声をかけてくれているのにそれを邪魔だと唾棄する――そんな人間にお前に見えているのだとしたら、それは心外だな」
「す、すまん」
勇人は俺への理解が少々足りてないようだから、少し厳しく言っておいた。
「それに、俺は奪われたんじゃない。奪わせてしまったんだ。そもそも俺があんな成績を取らなければこうはならなかった。すべての原因は、俺にあるんだ」
「……そうか」
母さんにも優しさはあった。
母さんはオタク文化に対する肯定的立場にいないというのに、あんな成績をとってなお捨てようとはせず、あえて没収という形をとった。
それは、まぎれもなく優しさである。
「すまん。そこの認識については改める。でも、本当に大丈夫か? お前、高校入ってからこんなに勉強したことなかっただろ?」
「大丈夫に決まっているだろ。第一、こんなに勉強したのは初めてじゃない。中三のときはもっとやっていたから」
「でも俺、こんなに負のオーラが全身から溢れてるセイ、初めて見たぞ」
「負のオーラだと? そんなもの見えないけど」
「うん、見えないよ。でも感覚でわかる。セイはよくないものを体に溜め込んでる。そして臨界点を突破したそれが、あふれ出しているんだよ」
「…………」
――「わけがわからない」……そう一蹴すればそこまでだ。しかし、勇人は人間の感情について敏感なことがある。
俺は反論したい気持ちをぐっと飲みこんで、一度最近の自分を振り返ってみた。
そして気づいた。
俺はここ最近――ことさら三日ほど前から一切人と会話していなかった。
学校で普段話す相手は勇人しかいないから、その勇人が話しかけてこなければ誰とも話さないのは自然なことである。
しかし自宅ではどうだったか。
帰宅すれば風呂に直行。
夕食中は頭を少しでも休めるために脳内を空っぽにして黙々と食物を半ば作業のようにかきこんだ。
無論、俺の向かいに座って一緒に食事をしている母さんとの会話はない。
そして食べ終われば「ごちそうさま」とだけ言い残して自室に直行した。
今思い返してみれば、食事中に対面に座っている母さんの顔は少し寂しげだった。
そして、最近の俺自身の思考回路のおかしさにも気づいた。
「確かに、最近の俺は何かおかしかった」
「そうだろう? やっと気づいたのか」
「ああ。だが何が俺をこんなに狂わせていたんだ?」
「そりゃお前、決まってるだろ。それは――」
俺は、学校から最寄り駅へ一人で向かう途中で、勇人の言葉を反芻していた。
『それは、失恋だよ』
小五の夜にたまたま出会ったほむらちゃんに、その時から俺は恋をしていた。
次元の壁を超えることは不可能だ。それをわかったうえで、俺は彼女に思いを馳せ続けていた。
部屋に彼女が増えるたびに、少しでも彼女と近づけたような錯覚に陥っていた。
彼女への恋心は膨らみ続けるばかりだった。
でも二週間前、初めて出会ってから数年間、一度たりとも離れたことのなかった俺と彼女はお互いを視認できないように引き離されてしまった。
学力という名の不可視境界線によって、俺たちは隔てられてしまった。
失恋――というと少し意味合いは変わってくるが、辛い勉強を乗り越えるためのよすがを失ってしまい、心に隙間が生じて空虚さを感じるようになってしまったのだ。
そこに、高校入って以来自分に課すことのなかった勉強量が重なることによって、俺は精神を摩耗させていたのだ。
「どうすりゃいいんだろうなぁ」
あれこれ考えているうちに気づかぬうちにたどり着いていた駅のホームで、俺はひとり空しく呟き、感傷に浸るのだった。
電車の中でもあれこれ考えていたが、特に何か案が浮かぶことはなかった。
普段は走り抜ける家に近い駅も、今日は歩いて通ることにした。
急いで勉強を始めるよりも、この難題の答えを見つけることの方が優先度が高いと考えたからだ。
何かを考えていると、自然に視線は下を向く。
視線が狭くなって、進む先が見えなくなる。
垂れる前髪で、視界の明瞭さが損なわれる。
悩めるとき、人は景色を普段より暗いと感じる。
――光はないのか。
進むべき先を、追うべきなにかを照らしてくれる――そんな光はないのか。
その光はどこだ。どこにある。
見えない見えない見えない見えない見えない見えない見えない見えない見えない見えない。
どれだけ探しても、俺がいままで過ごしてきた日常の中にその光は見つからない。
――いや、本当にないのか?
探すんだ。
もっと、日常に紛れる蛍のようにわずかな一縷の光を――
そして、何かこの世の理を超越した力に導かれるように偶然上げた視線の先に……それは映った。
「ユビキタス・セイレーン?」
そこにあったのは、二週間ほど前にふと目にしただけで歯牙にもかけなかった宣伝看板だった。
概要を読んでみると、それは先週デビューしたアイドルグループでデビュー日から毎日駅前でライブをしているらしい。
メンバーの名前も、運営団体の名前も、全く聞いたことがないものばかりだ。
それに彼女らは三次元アイドルだ。
本来ならば、俺は見に行かないどころか記憶にとどめることすらしなかっただろう。
だが、今の俺は普通ではなかった。
何かの呪いにかけられたかのように、俺はそのライブ会場に向かって駅外を駆けていた。
――俺はこのライブを見なければいけない。
どこから湧いたともしれないこの使命感が、俺を突き動かしていた。
そしてたどり着いた会場には、先週デビューしたばかりとは思えないほどの人だかりができていた。
小さめのホールなら余裕で満席になりそうなほどだった。
俺は、その衆人環視の対象を確かめようと、迷惑を承知で人混みをかき分けていった。
そして最前列まで半分ほど進んだところで、ようやく彼女たちの姿を視認することができた。
そして俺は、息を忘れた。
まだ無名のグループ故、衣装は単調、ステージも機材もどれも企業所属のアイドルグループとは思えない代物だ。
しかし、彼女たちのダンスが、歌声が、笑顔が、僕の心をスーッと満たしていった。
まだ慣れきっていないのか若干震えているが堂々として芯の通っている声が、汗を滴らせながらステージを強く踏みしめ、そして高く舞うダンスが、彼女たちのひたむきさを、努力を、何よりアイドル活動への思いを俺に刻みこんだ。
そして俺の目を釘付けにしたのは、センターではなく一番右の女の子。
金髪ショートの美少女だった。
彼女の軽やかなダンスが、鈴のように透き通った声が、俺の意識を彼女から引きはがさせなかった。
俺は――恋に落ちたのだ。