第5話 朽ちぬ火竜
その夜、俺は猛烈な食あたりを起こした。
全身の震えが止まらず、汗が流れ落ちるごとに身体はどんどん冷たくなってゆく。
ああ、火竜の肉を食べたせいだ。胃の辺りがずっと痙攣していて、異物を吐き出そうとやっきになっている。
吐いたら楽になるだろう。だが何日ぶりかの貴重な食料であり、胃のなかのものをぜんぶブチ撒けたらまた栄養不足に逆戻りだ。
――消化してやる。
竜の肉だろうと何だろうと、俺の栄養に変えてやる。
だってさ、お肉なんて何日ぶりだったのか分からないよ?
ワーイとはしゃいだし、それを吐き出すなんてヤダヤダもったいない!
そのような決意をしたせいで、思考の半ばまで悪夢に浸かるような夜となる。
魔剣が欲しい。
俺だけの魔剣が欲しい。
もはやそれだけが俺の原動力だ。
輝かしいあの剣をこの手に掴み、美しい刀身を陽光にかざす。
鞘走りをする清々しい音を聞いたと感じたのは単なる幻聴であり、現実の俺はというと迷宮の片隅でイモムシみたいに転がってピクピクしている。
――ああ、身体が竜の肉を受けつけられない。
だけど、迷宮に足を踏み入れたときから、これまでのようにはやっていけないと俺は理解した。
剣の才能がない以上、魔剣を手にする資格をどうやって得たらいいのか分からない。だからさっきの一戦みたいに、常識外れでふざけたことをしてでも……人を超えたい。
がんばれ、俺の胃袋。
覚悟を決めて、消化することに全力を尽くせ。
魔剣を手に入れると決めた瞬間から、ここから先の道はもうずっと「どうやったら死なずに済むか」という選択肢の連続になるだろう。それに順応できなければいずれは朽ちてしまうんだ。
ずぐっ、と体内に入ってくる感覚がある。
気のせいかと思ったが、それは尚も浸食を続けており、俺の血管とか内臓とかを通じて入り込もうとしていやがるのを感じた。
おいおい、冗談だろう。お前は蜘蛛に蹴散らされた雑魚なんだぞ。今さら「復活する魔王」みたいな演出してどうすんの? お願いだから、空気くらいは読んでくれよ!
竜の生命力はこれほどかと舌を巻くものの、もはや吐き出すこともできない段階になったのだと悟る。これが食い意地をはりすぎた結果なのだからまったく笑えない。
まるで力の入らない身体に鞭を打ち、狭い空洞のなかで身を起こす。
それから足を組み、両手をそれぞれ膝の上に乗せる。
ここに至って寝ているだけでは無理だと悟った俺は、修行僧のように目を閉じて集中力を研ぎ澄まそうと考えた。
まず体内の異物がじっくりと領域を広げてゆくのを感じ取る。
赤黒い溶岩のように感じるそれは、胃や腸など手っ取り早く乗っ取れるところを占拠しつつあった。
――化け物め。
そう舌打ちしつつ、俺はより集中を高めようと考えた。
なぜ竜は死なないのか。
さっさと死ねと切に願ってもそうはならない。
バラバラの肉片にされて、なぜ存在し続けられているのだろうか。
生物として考えるならば朽ち果てていておかしくない。料理にされてしかるべきだ。しかしそうはならず、いまだに活動できていることが俺にとってものすごく不思議だった。
なぜ死なないのか。
どうやって生きているのか。
気になって気になって夜しか眠れない。いや、お腹が痛くて眠るどころじゃないけどさ。
意識を竜にどんどん集中させてゆく。
普通であれば絶対にできないことだけど、いまは命がかかっており、かつ竜は半ば俺に同化をしつつある。
だからできたのかもしれない。
まず、それは黄金色のなにかに見えた。
目を閉じているのに、金色に光ってゆらゆらと揺れる水面を俺は感じたんだ。
太陽光と似た輝かしさなのに、万物の祖である海のようにたゆたう。
竜の感覚を通じて見たものは、俺のまったく知らない何かだった。
そろそろと息を吐きながら目を開く。
ゆっくりと、この感覚を決して逃してしまわないように集中しながら。
すると真っ暗な迷宮の足元が、先ほどのイメージと同じように輝いているのを感覚で捉えた。
うっと息を呑む。
一週間前、潜入を開始するときに、俺はこのどこまでも続く迷宮が奈落のように感じられた。足元は頼りなく、どこまでも沈んでゆくような場所だと思った。
そのときとまったく同じ感覚だ。
黄金色のなにかは底がまったく見えず、たゆたいながらも常に変化をし続けている。
「竜が死なないわけだ。まだこいつと繋がっていやがる」
ぼそりと死人になりかけの力無い声でそう言う。
とはいえ今の最優先事項は竜の死滅だ。なので黄金色の正体を突き止めることは早々に諦めて、繋がりに対して干渉しようと俺は試みる。
ゆらゆらとたゆたうものに、そっと指先を近づけて「切る」イメージで動かす。
すると初めて体内にいる竜がビクンと震える。
ん、いい感じだ。感覚をより鋭敏にしてみよう。
これまでの五感をすべて忘れて、いま生まれたばかりのように物事を見よう。
嘘だと否定をせずに「ほーん、こういう感じなんだ」と理解するところから始めよう。すべてはここから始まるのだと信じよう。
足元にたゆたうものからは、無限に近しい生命力を感じ取れる。
それに比べたら体内にいる竜など子供同然で、さっきまでビクついていたのがお恥ずかしいくらいだ。
仮にこれを「生命のスープ」と名づけよう。
生命のスープは栄養満点だ。
新たな生命を生み出すし、その生命が死んだらまたスープに戻る。
万物の祖であるかどうかはともかく、これまでとまったく違うことをしたいと願い続けてきた俺にとって、この新たな発見は歓喜で身体が震えるほどだった。
だが問題は使えるかどうかだ。
役立たなければおばあちゃんの知恵袋レベルにしかならず、そもそも竜に喰われて死んでしまう。うまくできるかどうかはすべて俺の集中力にかかっていた。
ふわんと黄金の波を漂わせる。その先には俺の耳があって、粒子となって溶けるに従い、破れていた鼓膜が元に戻る。じゅおおおと猛烈な蒸気が吹き出すのを感じつつ、意識をまた竜に戻す。
大丈夫、怖いことはしないよ。
痛いこともしない。
ほら、俺ってすごく優しいって評判だからさ。
胃はさ、とても大事なんだ。
ご飯を食べて消化しなきゃいけないし、美味しいお酒も楽しみたい。それよりもほら、身体の外のほうが住みやすいって。
嫌々をする様子に苦笑して、それから優しく笑いかける。
「じゃまだからどけっつってんだよ!!」
俺はどなった。
あっ、くっそこいつテメェ! 不動の構えをしやがったぞ!
え、もう定着しているからムリ? ムリってなに? 俺のことバカにしてんの? ン?
え、なになに? どういうこと? え?
あー……、どうしようコレ。
がっつり浸食されたせいで、元の胃とかがほとんど残ってない。
生命のスープに干渉できるようになり、そこを栄養源としていた火竜の命運を俺は握った。そのためようやく降参したらしく浸食は止まったけれど、まさかねぇ、食い物に喰われるなんて思わないよ。
そのように頭を抱えてうなだれたが、まあ…………死なずに済んだ。それが一番大事じゃないかなぁ!
「そんなことよりもだ。さっきの感覚を忘れないようにしておきたい」
さっさと気持ちを切り替えて、また俺は足を組み直す。
まだ身体の違和感は残っているが、座って集中するくらいなら問題ない。
すると黄金色にたゆたう液体、生命のスープをすぐに感じ取ることができた。
五感を研ぎ澄ますと先ほどよりも正確に感じ取れる。
どうしてなのだろう。
なぜ存在を見ることができるようになった?
その疑問はすぐに解ける。俺の身体から伸びている線が、その黄金色のものと繋がっているのだ。
恐らくは火竜を通じてこの迷宮と繋がれたのだろう。先ほど鼓膜を癒したのもその一環だ。
もうひとつ、先ほどと違って気づくものがある。
周囲に散らばるゴミのようなもの、これまでの道中で拾っていた魔物の破片もまたかすかに繋がっているようだった。
ふうむ、ふむ。
生命のスープは巨大だ。俺がいじってどうこうすることはさすがに無理そうだが、こいつらはどうだろう。
試しに水筒の蓋を外して、トポトポと地面に流してみる。すると足元を中心に黄金色の膜が広がってゆく。円形をしており、色づいていることからスライムの生命はまだ尽きていないのだと分かった。
手で触れてみる。
かすかに繋がる感覚がある。
舐めてみる。
喉を通り抜けるとき、途中でグイと引き寄せられて火竜と同一化を済ます。
「ん、喰われたか。大きい方が小さいほうを呑み込むんだな。これで食物連鎖の仕組みがだんだん分かってきたぞ」
強い者が弱い者を従える。
そうやってこの混沌極まりない迷宮では、少しずつ秩序を生みつつあるのではないだろうか。
駆逐して、呑み込んで、やがてすべてを従える存在が現れる。カウントダウンがどれくらい進んでいるかは知らないが。
その日を迎えたら人間は絶望に叩き落とされるだろうけど、いま俺が気にすることじゃない。そういうのはお偉いさんに頭を使ってもらわなきゃ。
「考えてもしょうがない。俺ができたんだから、他の人でもそういう奴がいるだろうしさ。もしかしたらいないのかもだけど。とにかく、理解が進んできたし、ようやくこれで宿題を片づけられそうだ」
パキパキと指を鳴らしてから、溜まりに溜まっていた宿題、魔物の残骸を活用する方法を探り始めることにした。
謎のスライムは大人しい。
こいつを俺の大好物である食べ物、エリンギと名づけよう。
エリンギは俺の命令をじっと待っている。こいつの特徴は自在に形や色を変えて、相手に見つからず体内に入ることだ。
いま知ったことだが、体内に入ったあとはずっと居座り続けて、敵を倒したときの生命力とかを吸い、やがて十分に力をつけたあと「乗っ取り」をするらしい。
発症するかどうかは相手次第で、敵に勝てば勝つほど寿命が確実に減る。
「……ヤバくない? ああ、その代わりに守ってくれたりもするんだ。まあ、感謝されるかどうかは微妙なとこだろうな」
ふんふんと納得しつつ、特性を把握した俺はスライムを腕にまとわりつかせる。すると薄い膜が広がって、動きの邪魔をしないように切れ込みをいれたり調整すると、手甲のような形になった。
試しに腕を思い切りガツンと瓦礫に叩きつけてみると、半ばまで食い込みはするがダメージは分散される。腕全体にかすかな静電気みたいなのが走るくらいで痛いとはまったく感じなかった。
「へえ、ふうん、こりゃあ便利だ」
これ凄いなぁ。もっとエリンギが欲しいなぁ。
どこにも売っていない防具だ。そう思うのは当然のことであり、だんだんソワソワしてきた俺は病み上がりにも関わらず勢いよく立ち上がった。