第36話 深淵
たくさんの話を聞いたせいだろう。
雑念がなかなか俺の頭から消えない。
諸外国とアーヴ国との対立はもうずっと、それこそ昔から続いていて、連戦連勝というか大人が子供の手をひねるように、ごくあっさりと無数の死者を生む。
圧勝に次ぐ圧勝。
そうなるように国が仕掛けたのだし、諸外国も子供の生死がかかっているから戦争はずっと終わらない。
武力で勝てないなら技術をと新たな領域に手を伸ばして、しかし覇権を握っているアーヴ国はそれを悠々と吸い上げる。成し遂げられるのはすべて魔剣という強大な力によるものだ。
そんな構造を思い浮かべるが、しかしそれも結局は単なる机上論に過ぎない。アーイカの話を聞いて、ふむふむ、なるほどねと分かった気になっている気になっているだけなんだよね。
えー、なにそれ知らなーい、実際はこうだよー、と言われただけで簡単に引っくり返るほど信用度は薄っぺらい。
だから俺は答えが欲しい。
真実を一端でも知ることができれば、これから先、俺はずっとブレずに生きていられる。
魔剣士の一次審査で落第をしたような男だけど、信念というのはとても大事だと俺は思っている。そう簡単に形を決めていいものじゃない。
だから俺は普段とまったく違うことをして、確信を得ようと考えた。
いや、正確に言うならば、以前の大失敗をまたしでかそうと思った。
ゆるゆると息を吸い、ゆるゆると息を吐く。
普段通りの瞑想ではあるけれど、しかし今夜だけは絶対的に集中をしなければならない。
誰よりもそばにいるカロンとエリンは、いつになく静かだ。
じっと見守ってくれているかもしれないし、もう遅いから寝ているのかもしれない。
そう思ったときに、やいのやいのと文句を言われる感覚が伝わってきて、つい俺は笑みを浮かべてしまう。
訂正、正座をして見守ってくれています。
彼女たちとはすでに一心同体だ。運命共同体ともいう。
お互いに納得してから行動に移しているのは、いつぞやに初めて出会ったころから変わらない。
息を吸い、息を吐く。
何度となく繰り返したものであり、はるかな地下から無数の生命を感じ取れる。深淵の世界をかいま見て「いまだ」と思った瞬間、まばたきするような一瞬で……俺はひと息にナイフを胸に突き刺した。
大動脈を切断し、肺の側面をかすり、背骨に深々と食い込んで止まる。途中にあった心臓には大穴が開いた。
死の匂いだ。
一瞬で死の匂いが嗅ぎ取れて、死に抗おうと肉体と精神が暴れ出す。
アドレナリンを爆発させて、この危機をどうにかしろとわめきたてる。
内臓を破壊されて脳にまでダメージが及び始めて、見えないはずの幻覚さえちらほらと見える。
斜めに傾げてゆくあいだ、脳裏に映ったのは走馬灯だったかもしれない。
ジロ……仔猫のジロ。
親父さんに預けたお前は、もう立派な毛並みになっているだろうか。
ぢゅうぢゅうと元気いっぱいにミルクを吸い、おなかをパンパンに膨らませて寝ていたっけ。
目がかすむ。
息が止まる。
あいつと遊びたい。
虹色の光彩が飛び込んできて、すぐ目の前に浴室のタイルが迫る。
――――ア゛ッ!
風を切る音にも、悲鳴のようにも聞こえる音を聞き、視界は完全に暗転した。
己の存在も感じられず、息を吸えているのかも分からず、カロンとエリンの存在も感じられない世界。
恐怖と後悔が洪水のように押し寄せてくるなかで、しかし俺はくあっと欠伸をした。
「スピリチュアルな世界だと俺は思いますよ」
「どこまでも懲りないね、君は。君という独創性を思えば、そうおかしなことではないが」
振り返ると魔剣士ヨルがそこにいた。
存在としては感じられるが、しかし俺の視界は「無」でしかない。ここが死者たちの世界だと言われたら納得できるだろう。
「死者は死者だ。丁重に敬い、祈り、ただそれだけでいい。それ以上のことは必要ない。無ではなく、有を失った者たちだろう」
「ヨル様は敵兵の多くを倒したと聞きます。そのときはどう思ったのです?」
「盟約に従い続けることの恐怖を感じたよ。終わりのない旅だ。どこまでも苦しみの声が響くなかを延々と歩かねばならない」
人らしい苦しみを抱えていることに「おや」と俺は疑問に思う。
すると人として生きていた期間があるだろう。親に育てられて、道徳を教わり、人と遊び、そしていまがあるように感じられた。
「タロ。僕のことを知りたくて、あんなに危ない橋を渡ったのかい?」
「いいえ、ただそう思うのは俺の癖です。子供のころからずっとそうで、脇道を一人で歩くのが好きなんです。最近はどうもうまくいきませんが」
くすりと笑われる気配があった。
以前は理由もなく恐ろしい人だと思ったが、己の過去から身体のすみずみまで見透されている感覚に慣れればそうでもない。
「タロ、君に見せたいものがある」
男か女かも分からない声で囁かれて、手を伸ばすとかすかに体温が伝わってきた。魔剣士ヨルのものだろう。子供のように指は小さくて、角度的には俺よりもずっと背が低い。
俺に見せたいものとはなんだろう。
疑問に思っていると、やがて空気が震え始める。
アア、アア、と響くのは甲高い歌声かと思った。
アア、アアア、と尚も続いて旋律の欠片もないことに気づく。
だんだんその音が近づいてきたときに、ふと気づく。
空には満天の星空が広がっていることに。
どこまでも空気は澄んでいるのかわずかにも星はまたたかず、白銀の輝きを見せつけていた。
ゆっくりと上向いていた視線を戻してゆく。
―――ごおうッ!!
ごうごうと燃えさかる炎、それで焼かれている女は甲高い絶叫を放っていた。麻で編んだ衣服は一瞬で燃え上がり、そのまま皮膚や髪を巻き込んでゆく。
そんな光景を間近で見てしまい、俺は言葉を失う。
もうひとつ気づいたのは、俺と手をにぎってくる相手がいたことだ。
横を見ると黒髪を長く伸ばした女性がおり、先ほどの星空よりもずっときれいな瞳をしていた。
忘れようがない。彼女は……。
「フラウデリカ」
ぽつりとつぶやくと彼女はゆっくりと瞳を向けてくる。
唇をゆがめており、指が白くなるまで俺をしっかとつかんで離さない。それでいて涙の一筋も流さないのは彼女らしいと思った。
いま焼け落ちてゆこうとする女性、その人と同じ服を彼女は着ていることに気づいた。いや、それだけじゃない。俺も同じ服を着ていて、また周囲にいる者たちも同様だった。
いずれも年若く、才覚に溢れた者たちだと俺は感じる。
アーヴレイドンの集落には、千人足らずの者たちが住んでいる。大集落だ。幾つかの民族が寄り添い合うように生まれたところで、ここでは狩りがいつもうまくいく。
皆を率いるのは祭祀の女性で、いま赤く焼けた鉄のようなもの泣き叫ぶ女へと近づける。剣の形に見えたのは俺の気のせいだろうか。
「いま、人の魂と肉体を魔剣に与える! 人を形づけるものと合わさり、人ならざるものから生まれ変わる!」
ああ゛ーーーーっ! という耳を覆いたくなるような声を聞く。白煙はもう二度と嗅ぎたくない匂いであり、周囲の者たちは一斉に顔をしかめる。
亡骸と思われた娘は、しかし炭になりかけた腕で魔剣をしっかと胸に抱き、口から白煙を吐きながら刀身に美しい紋様がいま生まれてゆく。それを見て大人たちが一斉に呻いた。
「見よ! 魔剣が姿を変えた! 恐ろしき魔の存在はいま人のための武器となった! 野山を汚し、我らを食おうとする魔物たちを、今宵から打ち倒すのだ!」
おおおおお、という大人たちの大声を聞いて、祭祀のそばにずらりと並べられた剣を見て、フラウデリカはさらに強く俺の手を握ってくる。
顔色は真っ青で、噛んだ唇から血を流している。無理もない。次は俺たちが火にくべられる番なのだから。
こんなにも恐ろしい夜があるだろうか。
こんなにもひどいことがあっていいのか。
俺はただただ無力感に打ちのめされて、だけどこんな場にぜんぜん合わない笑みを浮かべたんだ。
「大丈夫だ、俺たちは死なない。根拠なんてぜんぜんないけどさ、しぶとさだけで俺は生き残れた。神童と呼ばれたお前たちと同格になったんだ。どうだ、すごいだろう」
言葉を半分も聞けていなかったフラウデリカは、かすかなまばたき程度しか反応してくれない。
だけどここで止めたら単なる俺の自慢話だ。苦しかったしすごく悲しかったけど、俺は笑みを強めた。
「だから、俺はだれよりもしぶとい。あきらめないし止まらない。だから……フラウが泣いたら、すぐ助けに行く」
ぐっと下唇を女の子は噛む。
こらえなければ泣いてしまうのだと彼女は分かっており、ぎゅううと痛いくらい俺の手をにぎってくる。喉をふるふる震わせて、大人たちの大きな手で掴まれてゆく俺をじっと見ていた。最後まで。
引きはがされて、腕を縄でくくられて、でもこんなときこそ、なんでもないさって言ってやりたい。
運命なんてクソ食らえだって言いたい。
大人たちが勝手に決めた未来だなんて、そこいらの犬にでも食わせてやりたい。
ごうッと燃え上がっている焚き木を見て、一瞬でまつげなどが燃えてしまって、もう息苦しかったし泣きそうだったけど俺は大声で叫ばずにはいられなかった。
「魔剣なんてどうでもいいだろうがよ!!!」
だって、くやしかったんだ。
ちょっと剣が綺麗になったくらいで、はしゃぐ大人たちは本当にひどいもんだった。
あんなもののためにフラウを焼こうと思うやつらの気が知れない。
死んじまえ。そう心から思ったよ。
ハッと目を覚ます。
花柄のタイルが視界に入る。
いつもの浴室……と思ったが、普段の月明かりよりもずっと暗く青い。
まだ瞑想の世界にいるのか。いや、ヨルの見せる夢か。
そう思いつつ、フラつく足でひたひたと窓に向けて歩いてゆく。
風でカーテンが揺らめいていて、今夜は風があるなと思いながら窓の枠に触れる。そして俺は……燃えさかるアーヴ国を見下ろした。
「これは……!」
ごおおッ!
風に吹かれて勢いを増す炎は、無数の悲鳴を生み出している。
黄金色の火の粉が舞い、見慣れている大通りには死体の山が積まれていた。
夜空を飛ぶ無数の群れは、角度を大きく変えて迫りくる。あいつらは魔物だ。するとさらなる犠牲者を生もうとしているのだろうか。
「タロ、君にはひどいものばかり見せるね」
そう話しかけられても俺は全力で駆けていた。肺の奥まで焼けてしまいそうだったけど、いまは足を止められない。この焼け落ちようとする世界で、どこからか俺を呼ぶ声が聞こえてくるのだ。
「なぜ君は、君だけは魔剣適性が異様に高いのか。そもそも適正とはなにか。あれはね、人が定めたものじゃあないのさ」
魔剣士ヨルの声はなおも鼓膜を響かせる。
絶叫と悲鳴に包まれていても、ヨルの声だけははっきりと聞こえてくる。
「人知れず、朽ちた魔剣があるという。主人を守りきれずに崩壊をした魔剣が。以来、かつての持ち手である魔剣士は、ここではない世界を彷徨うことになった」
より大きな破壊が起きている地区を駆けてゆく。溢れる熱気で息はまともに吸えず、だけど絞り出すように悲痛な声でだれかが俺を呼んでいる。とても大事な人の声な気がした。
瓦礫をどけて、燃えさかる遺体を避けて、やがて開けたところに出る。
魔剣士ナザルがそこにいた。
剣のように鋭い目でゆっくりと振り返り、長い髪は風に舞う。目が青白く染まっているのはどうしてだ。
相対するのは魔剣士アーイカ・ギガフレア。
全身装甲はすでに半ばまで破壊されていて、彼女は憔悴しきった目で俺を見る。
半身となって迫りくるナザルは、神速の振りで俺の元いた場所を断ち切る。遅れてゾキンというあらゆるものを分断するような恐ろしい音を響かせるなか、細かな「絶界」を繰り返す俺に、二手、三手とナザルは剣を振るう。
反撃を狙おうとする手が止まる。
魔剣フラウデリカの魂ともいえる女性が全身を鎖で束縛されており、感情をまったく感じさせないうろんな目をしていたのだ。
「くっ!」
すぐさま「絶界」を使う。ここでは誰にも知覚されることはないはずなのに、魔剣士ヨルの声だけは俺に届く。
「なぜ魔剣適性が異様に高いのか。なぜ君がどこまでも魔剣を追い求めるのか。その理由は、君の本質は――」
辿り着いたその先には、瓦礫のなかにうずくまるギガフレアがいた。
肌を傷だらけにしており、また剥き出しの肩をブルブルと震わせている。
「がんばれ、アーイカ! 立てるか!?」
ゆっくりと見上げてきた子に、俺は息を呑む。
憔悴した表情をしており、その右目はカラットを刻むダイヤモンドに変わりつつあった。
「助けて、タロ……」
「だ、大丈夫だ、まずここを離脱する。やったことはないが、絶界にうまく入れると思うから俺に掴まれ。絶対に平気だ」
他者を同時に「絶界」へ招いたことはない。しかし、できるという確信がなぜかあった。他の人では無理だけど、彼女であればきっと……。
ふと気づく。
すぐそこに崩れている透明な石の残骸はなんだ?
バラバラになっており、人型にも見えるが、もしやあれは……。
コオ……、と大気が震える。
すぐ近くから発せられていると気づき、ゆっくりと視線を戻す。
するとアーイカの半身までダイヤモンドのカラットは広がっており、パキパキと結晶化の音を立てていた。
そして俺に救いを求めるように開かれた唇は、しかしまったく異なることを口にする。
「狂い咲け、ダイヤモンドスカイ」
瞬間、アーヴ国の上空はすべてダイヤモンドに埋め尽くされる。
鋭角で芸術的で完成されたカラットを刻んでおり、その冴え冴えとした輝きは美しいと思うよりも先に恐ろしいと俺は感じた。
空が割れて、無尽蔵のエネルギーを五感で覚える。すべてがただ消え去るであろうと確信するような静寂のなか、魔剣士ヨルの声だけがはっきりと響く。
「君がかつて僕の魔剣であったことを、忘れてはいけない」
ドオ、という破壊の音が世界に満ちた。