第34話 ナザル
広間はピリとした緊張につつまれていた。
国宝である魔剣を手に、ナザルという男は平伏する者を眺めている。そして一切の感情を感じさせない声で話しかけた。
「ここまでタロを連れてこい。この邸宅に勝手に招いたのはお前だぞ」
「へ、へえ、そんな男だと思わずに……も、申し訳ございません。どこに行ったかなどとてもとても、私は存じておりません」
庭師のアノルドは顔を真っ青にさせてそう言う。
とあるツテで紹介を受けたので仕事を教えてやったが、主人であるナザルが彼を迷宮に連れて行ってからはどこに消えたのか分からない。てっきり彼が殺したのではと怪しんでいたくらいだ。
しかし以前にも増して広間が冷たく感じられる。
人がどんどん減ってゆき、ナザルの機嫌は悪くなる一方だった、こんなときにあの陽気な若者がいればと思うことさえあった。
「デヴィットとボッゾが死に、リサも行方をくらませている。あの男が来てから立て続けにだ」
淡々とした声でナザルはそう言う。
声に抑揚はなく、聞いているだけで冷汗が噴き出てくる。
また彼らの目には見えなかったが、魔剣フラウデリカもこの場で話を聞いていた。実戦向けの装備をしており、いつでも危機に備えているのだと表情から読み取れる。
「いえ、まさか! あいつは気の弱い青年ですよ! それに、旦那様も使用人として認めると口にして……」
高価なマントを揺らして立ち上がった様子に、アノルドはさらに顔を白くさせる。魔剣を手にしたままであり、平伏しつつ国宝に充血した目を向けた。
「お前が、ここに、呼び寄せた。災いをだ。ならば使用人として責任を取るべき問題だろう、アノルド」
人知れずフラウデリカは冷汗を垂らす。
彼、ナザルという男は、数年前から徐々に変わりつつあると彼女も感じていた。
魔剣士としての力を失い始めたことが原因だろう。
なぜ力を失いつつあるかというと、それもまた彼の……。
「これはなんだ」
静かながらも迫力ある声に、ハッとフラウデリカは我に返る。
見ればナザルは使用人の肩からなにかをつまんでおり、それは動物の毛らしきものの塊に見えた。
「おや、おやめくださいませ、旦那様!」
カツカツと荒々しく廊下を歩いてゆく音、そして必死に止めようとする使用人の声が響く。
しかし魔剣士はまったく耳を貸さず、慌てて押しとどめようとする使用人を無視した。
なぜか緊迫する気配を嗅ぎ取り、フラウデリカはぎゅっと胸の前で手を握る。なにか怖いことが起きそうで、嫌な予感に突き動かされていた。
痛いくらい心臓が鳴っており、彼らの声を聞いているだけで勝手に汗が噴き出てくる。
やがて、ドンと乱暴に扉を蹴られて、薄暗い使用人の部屋に辿り着く。
「だ、旦那様、どうか、どうか乱暴なことは! 私が勝手な真似をして大変申し訳なく……」
「どけ」
命の危険を察しているだろうに、なぜかアノルドは跪いてでも道を譲らなかった。かたくなな態度にフラウデリカは疑問を浮かべて固唾を見守る。
しかし、しかしそのとき、意味が分かってしまった。
なぜそこまで拒むのかと言う意味が。
にううと鳴いたのは一匹の猫だ。
箱からもぞもぞ出てきて、以前見かけたときよりもずっと良い毛並みをしている。ジロと名づけた仔猫であり、それに目を奪われていたとき……しゃらんと鋼が鞘を滑る音がした。
「いや……」
その言葉は誰にも聞こえることはなく、乱暴な足音が響き、そして魔剣フラウデリカは己の五感でまざまざと惨状を知った。
あとからあとから溢れてくる血がまとわりつき、てんてんと床に広がる。
もう一度「いや」とつぶやいたとき、ピシリという音が響く。それは魔剣にかすかなヒビが刻まれる音だった。
§
コウ、と生命のスープを吸い込んでゆく。
満身創痍の身であったが、一晩経つと痛みはほぼ引いていた。
折れたものを元に戻すというのは言葉にできない苦痛がある。だからようやく浴室で目覚めたときには、己の体重が大きく減っていることに気づく。
「タロ君、ちょっといい?」
しかしものの数秒も経たないうちに、リサが覗き込んでそう言ってくる。
なにが? と疑問を口にすることなく引きずられてゆき、俺はパンツ一丁で連れて行かれることになった。
ふむ、と俺とアーイカは難しい顔をする。
その理由はリサがとあることを告白したからだ。
先日の死者数は四十名を超えており、ここまで大規模になると無視をするのも事態を収拾するのも簡単じゃない。
ただ、そこは魔剣士ギガフレアが現場にいたと関係者に伝えてくれたので、詳細の取り調べはまた後日になったためそれは別にいい。
しかし問題は……。
「45点。安易な露出がメイド本来の品格を失っているわ」
「え、俺は90点なんだけど……。アーイカはちょっと点数が厳しすぎない? もっと気楽に行こうよ」
だんっとテーブルを叩かれて「いいから次に行って」というドスの効いた声に……俺とリサは冷汗を流す。
「では着替えて参りますね。すみません、汗っかきだなんていまさら告白するなんて。少し恥ずかしいです」
「いいわよ、それくらい。どうせ格式ばったところじゃないんだし」
「なら点数を甘くしてくれよなぁ」
ぼそりと聞こえないように言ったのだが、ふと顔をあげるとすぐ近くから睨まれていた。うん、胃がキュッと鳴るほど恐ろしいね!
しかしアーイカにも言い分はあるらしく、ビシッと指先をリサに向ける。
「まず太ももまで見せるのは論外。あとこれは声を大にして言いたいんだけど……谷間! 禁止! その乳袋をどうにかしないとアタシはぜーったいに認めない」
「ち、ちちち乳袋って! おほん、アーイカ様、もう少し言葉づかいを丁寧にできませんか。それと申し訳ございません、なんだかお嬢様と比較をしてしまうような形になってしまってぇー」
あかん、バチコンと火花が散った!
こらこら、あえて腕で挟んで谷間を強調しない。うぉっほん、まったく眼福……ではなくて、むあっと立ち上る色気が……ではなくて、ふしだらなんだからー、もー。
あとそのメイド服はきちんと保管しておいてくださいね。捨てたらだめですよ。
しかしリサにもリサの事情がある。
汗っかきなのでひんぱんに拭かねばならず、ただ立っているだけで無意味に疲れてしまう。だったら服装を変えたいと願うのは当然のことだ。俺が肌色成分を求めているという意味ではなく。
「それでは、どこまでの丈なら許していただけますか?」
そう言い、スカートをひょいとたくし上げる。
太ももの美しいラインが丸見えで、あいだの三角形のスペースは……ひかえめに言って尊いのでは? ああ、生きていて良かった。
しかしアーイカは仏頂面で、バッテンマークを両手で作る。
もうちょっと下にずらしても結果は変わらず、もうちょっと、もうちょっとと繰り返しているうちに……。
「そこまでならいいわ」
「足首までって、元と変わっていないのですが!?」
おほー、しびれる。お嬢様とメイドさんが取っ組み合いを始めちゃったよ。ベンベンベンと往復ビンタする様子を見ていると、いたたまれない思いになるのは何故なのか。
「あのう、俺の意見もいいっすか?」
「死ね」
おう、ジーザス。
アーイカはどんどん不機嫌になっていくし、いたたまれないったらない。しかし疑問に思うのは、メイド服に関係なく、家に帰ってからずっと不機嫌であったことだ。
「アーイカ、鍛錬場でなにかあったのか?」
「べっつにぃー、アタシが空気だったくらいじゃないかなぁー」
これだ。とどのつまりぎくしゃくする要因はこれだ。
問題点をがっちりつかんだ俺は、リサと素早く目配せをする。
「まあ、今回に関してはアーイカがこらえてくれて本当に助かった。勘がいいっていうのは本当だな。視野が広くて、やっぱりすごいなって思ったよ」
「うわー、ご機嫌取りが始まっちゃったぁー。たーのしみぃー。来週もまた観てねぇー」
「お、お嬢様、もし良ければ一緒に服を買いにいきませんか? アーイカ様はすごく肌がお綺麗ですので、そのぉ……」
こそこそこそと耳もとに囁くリサ。アーイカはというと「ふん、ふんふん!」とつぶやきながらたまに俺をちらっと見る。
「あっははは! 言えてる! タロちんってそういうトコあるもんね。そうそう、幻想を抱くタイプってやつ」
「こ、声に出さないでください! えっと、悪く言うわけではなくって、女性に夢を見ちゃう男の子って案外と多いですから」
なんなん? 君たちすごく感じ悪くない?
童貞をいじくってそんなに楽しいの? 言っとくけどアーイカだって、うかうかしてたら嫁ぎ遅れ……と考えかけたところでガンッと顔を蹴られてしまい、俺は鼻血を流して崩れ落ちる。
「いってぇー……! なんだよさっきから!」
がばりと顔をあげたとき、視界一杯にアーイカの顔があった。
瞳を細めており、先ほどまでの不機嫌さは消え去っていることに俺は驚く。
「タロちん、アタシたちの下着を選んでくれる? こういうのってやっぱり男の子の目から見たほうが正確だと思うから」
「……はい」
うなずいたのは決してやましい考えによるものではなく、これ以上無駄な喧嘩をしたくなかったのだ。
愛と平和と地球と動物を愛しており、それと老人と子供にも慈しみを与えなければならない。
もちろん戦争は絶対反対だし……。
「じゃ、行こっか、タロちん」
伸ばされた手をつい俺はつかむ。
女の子の手だとわかるやわらかさと小ささで、それが指のあいだにもぐりこんでくるからくすぐったい。もー、女の子ってずるい。
くすくすと笑いながら、ついでのようにアーイカはこう言う。
「それが済んだら、ようやく分かったナザルの思惑ついて話そっか」
は? と俺は固まった。
それ、ものすごく大事なことじゃない?
少なくともメイド服や下着選びよりもずっと本題なのではと思うのはおかしいのだろうか。
比重でいうならばピンク色な下着のほうが……いやいや、ナザルの思惑を聞き出すほうがずっと大事だ! うん!
そう鼻の下を伸ばしながら俺は大きくうなずくのであった。とても男らしく。