第32話 ナザルの追っ手
さて、一方でリサ・オウガスターはというと、ハンカチを口にくわえながらトイレで手を洗っていた。
ここアーヴ国は大陸中の技術が集う地であり、いわば世界の中心だ。上下水道などのインフラ整備も進んでおり、裕福な者たちにとってはすでに当たり前の生活となっている。
水を止めてハンカチで手をぬぐっているとき、鏡に映るリサの表情は呆れ混じりのものだった。
「ふう、まだまだドレスというのを着慣れないわね」
以前は肉体美を見せつけるように肌を露出していた彼女だったが、実のところはというと暑がりという体質に由来している。
本当かどうかは知らないが、なんでも他の者よりも火の精霊が多いらしい。その情報源は道端のどこにでもいる占い師なのだから極めて眉唾だ。
しかし困ったことに、肌をほとんど見せない服というものにまったく慣れない。汗っかきというのは軽いコンプレックスとなっており、たまにこうして汗を拭きとるという苦労を人知れず行っている。
「あの子、悪い人じゃないから文句はないんだけど……」
口をへの字にさせてリサはボヤく。
秘密だろうに魔剣士であることを明かしてくれたし、給金もナザルの元にいたときよりもずっと高い。これまでに身の回りの世話というのはしたことがなく気がかりであったのだが、アーイカは元々一人で生きていたのでそう手はかからない。
だけど、彼を独占しようとするのは気に入らない。
配下でもないというのに、いつもそばに置こうとする。そして牽制するような視線を向けられるたびに、なぜかムカッとする。
「まあ、こちらのほうが先ですけれど、お嬢様。残念ですわね」
口元をハンカチで隠して、にんまりと瞳に笑みを浮かべた。
実際、感覚としては「悪くない」だった。
タロは女に慣れておらず、一緒に同行しているときもしばしば己の肢体に熱い視線を感じていた。女というのはそういう目にとても敏感であり、普段は気持ち悪かったのに彼相手だとなぜかゾクゾクする。
「発情してんのか。色気があっていい女だなぁ」
笑みがこわばる。
近くから聞こえてきたのは男の声で、しかし己の視界にも鏡にも相手の姿は映っていない。また先ほどの声と共に、全身を舐め回すような視線を感じ取った。
ゾククと引きつるように腰が震えて……。
――どだんッ! だんッ!
騒音が終わったとき、リサの背後には肘を折られたヴァイキングと、手から滑り落ちた斧が深々と男の腹に刺さっている光景があった。
「…………ッ!」
くぐもった声を男は発して、血走った目を向けてくる。
腹部の傷は即死に至らない。それもあってかリサは洗面台に両手を置くと、全身のバネを理想的に操って両足で斧を踏み抜く。
バアンと反対側の壁に叩きつけられた男は、上半身と下半身でお別れすることになりそのまま床に転がった。
わずかに粘度のある血がタイルに広がってゆくなかで、じっとリサは冷静な目で見下ろす。
視界で得られる情報をすべて調べ終えてから、そのままドアとは正反対、外と繋がっている窓に向けて全力で駆けだした。
数歩で矢のような速度に変わり、バガンッとドアを粉々に破砕して現れる物々しい集団を背後にして、リサ・オウガスターは十メートルもの高さを飛んでいた。
「……ナザルの追っ手!」
ここは戦場だと悟ったのだろうか。
殺気を帯びた目で彼女は睨みつけていた。
着地地点で待ち構えている複数名の男たちを。
§
訓練を始めて間もなく、アーイカは動きを止める。
俺の目からは魔剣ダイヤモンドスカイがそっと主人に囁いている姿が見えており、彼女とまったく同時に視線を横に向けた。
互いに押し黙ることしばし。
遠く離れた場所から、パンというかすかな破砕音が聞こえてくる。
「ここ、安全なんじゃなかったの?」
「安全よ。普通なら」
わずかな言葉で読み取れる。
異常事態が起きており、いま俺たちの唯一敵対している相手、魔剣士ナザルがごく自然と浮かび上がる。その理由は言うまでもない。配下であったリサを引き抜いたことが原因だろう。
先ほどの音に向けて駆け出しながら思うのは、なぜそこまでして口封じをしたいのかという点だ。
すると彼女はまだ俺たちの知らない重要情報を抱えている可能性が非常に高い。
「ま、聞き出すのは相手を叩きのめしてからだな。襲ってきた連中の口を割ってもいい」
「そうね。ところでタロ、ここに置いて行ってもいい?」
「ダメだ。いや、俺の命が惜しいとかじゃなくて……つまり、ここで襲ってきたということはまだアーイカの正体を知られていない」
魔剣士ギガフレアのいるようなところで襲うか? ありえないだろ? だからまだ正体を知られていない。
一瞬だけ俺は感知に集中すると、魔剣士としての白金色の輝きはやはりアーイカしか感じ取れなかった。
「ナザルはいない。だから俺だけでまず対応しよう。でないとあとで必ず面倒なことになる」
しばらく俺をじっと見ていたアーイカは「分かった」と答えてくれた。
せっかく信用してくれたんだし、ここでいいとこを見せなきゃな。どんな相手なのか、まだぜんぜん分かってないけど。
足をゆるめるアーイカとは対照的に、俺は速度を増してゆく。カロンに鍛えられた体内は常人の比ではなく、トップスピードを維持し続けていても新鮮な酸素を身体のすみずみまで送ってくれる。
しかし救いなのは、リサが強者であるということだ。そう易々と捕まらないだろうし、すでに何人も打ち倒している可能性もある。
そう算段をつけていたとき、戸口にのそりと現れる影があった。
「細いガキだな。俺が……あれぇ?」
アディオス・アミーゴ。
お前みたいに斧をブラ下げた脳筋がさ、俺の「絶界」に対処できると思う? 無理でしょ? 耳元に「バーカ」と囁いてから通り過ぎた。
問題はリサのいる位置だ。
俺が気配を探知できるのは、他の人よりも特徴的なやつだけだ。魔剣士は独特のオーラを放っているし、魔物たちは迷宮から発せられる黄金色の光に影響を受けている。
では普通の人間はというと、相手次第という他ない。
たとえばちらほらと見える連中は、恐らく迷宮で長年やってきたのだろう。迷宮で過ごしていたぶん、わずかな黄金色を見て取れる。魔物の生命を吸ったからだ。
目をつぶるとそいつらが向かっている先、かつ交差している場所が浮かび上がる。そこを目指して俺は速度を増してゆく。
たぶん鍛錬を続けたおかげだろう。四肢は以前よりもずっと力強く、身体を理想的に操れるようになっていた。
強力な心肺機能を与えるカロン、四肢を支えるエリンという連携もあって、物々しい男に放った単なる前蹴りは鎧を貫通して十センチほど沈み、唸りを上げて飛んで行く。アディオス。
「誰じゃあ、おどれッ!」
「ブッ殺……」
ふわりとやさしく斧を受け止める。両手にそれぞれ一本ずつ。
俺が怪力だからとかそういうことじゃなくってさ、エネルギーを余すことなく受け止めて、そして意図的にズラす。
これは最近になり猛特訓をしている技であり、会得しかけている俺にとってはちょうどいい実験台だったのかもしれない。ボコンという骨と筋肉を破砕する音が、そいつらの肘あたりから聞こえてきた。
おぎゃあああという赤ん坊のような鳴き声を背後に、再び猛ダッシュだ。
先ほどのリサがいるであろう予測地点までもう少しだと思い、角を曲がった先の光景を見て俺はびっくりしたね。仰天もした。
なぜならそこには人による円形の輪ができており、オウ、オウ、と周囲の者たちが熱気のこもった声を発しているのだ。
中央に立つのは返り血まみれのリサで、敵から奪ったらしい手斧と円形の盾を身に着けている。
ドレスは既にズタズタで、脚の両側を裂いているから前掛けのようになっていた。敵に切られたわけでなく、自分でやったのだろう。
「殺れええーーーっ!」
相対する者は果敢な突進を見せて、直後、金属で覆われた箇所に火花を散らすや、バガンッと上半身が五条に裂ける。リサが一瞬だけ筋力を爆発させて、嵐のように切り裂いたのだ。
その神がかった技を見ても、足元に仲間の遺体が散らばっても勇猛なヴァイキングはまったく動じない。すぐに次の屈強そうな男が首をゴキンと鳴らして、人垣による即席の闘技場へと足を踏み入れた。
ぜええーーっとリサは苦しそうに息をする。
やるね、あれが演技とは。
人体の構造に詳しくなった俺は、まだ彼女は余力充分だとすぐに見抜ける。だが男たちはというとそうもいかない。勝利はすぐ目の前にあるのだと信じており、勇猛果敢であり無謀な一騎打ちは延々と続く。実際は一人ずつ崖から飛び降りているのとなんら変わらないというのに。
「いい女だよな。殺すのはもったいない」
すぐ隣でそんな声が聞こえて、遅れてしゃくりと林檎を齧る音がする。びびったね。まさかこの俺が気づけないとは。
横目に見ると屈強な男が丸太に座っており、しかしまるで植物のように気配を感じない。眺めているうちに迷宮の覇者だと分かる黄金色のオーラを発し始めて、意図的に彼はそれを隠したていたのではないだろうか。
「ああ、ボッゾさん。いつぞやはお世話になりました」
「いや、俺も雑用だったし礼はいい。それでお前、なんでこんなところにいる。金持ちの女に、リサと揃って気に入られでもしたのか?」
目元までの兜をかぶった男は、じろりと俺を見る。
近くに置かれた斧は独特の形をしていて、恐らく空気抵抗を考えて調整したのではと推測する。
「はい、おかげさまで。ナザル様の邸宅で働かせていただいた経験が役立っています。以前は無給でしたけど」
「人生はどう転ぶか分からんからな。それで、ここに駆けつけてどうするつもりだったんだ。俺たちと戦おうと思ったのか?」
「ええ、実はそうなんです。ここで男を見せないと、どうやら今後の査定に響くらしくて」
爽やかに笑ってみせる。敵意の欠片もなく、しかし挑発的でもあっただろう。あなたの睨み、まったく怖くないですと態度で示したんだ。
人喰いボッゾは有名だ。
攻略者で知らぬ者はいない……いや、知っておかなければならない。
というのも、ときおり迷宮で高レベルの者たちが死ぬという事件が頻発している。現場の目撃者によると周囲に魔物の痕跡はなく、ただ彼らの死体だけが雑に散らばっていたらしい。
恐らく相手は人だろう。
傷跡から見るに一方的な虐殺だった。
どの切り口も一緒で、恐らくは斧じゃないか。
などという証言が積み重なってゆくのに、容疑者をまったく特定できない。それは国の調査が甘いせいなのだが、しかし最前線にいる命懸けの攻略者たちはというと、証拠もなく犯人を特定しようとした。
人喰いボッゾという名は隠語だ。
あいつに近づくなという新人向けのレクチャーであり、今日もまことしやかに迷宮で囁かれている。
その男がいま俺をじろりと見て「へえ」と口にした。
ただそれだけだというのに、背筋から冷汗がとめどなく流れる。
俺が最も信用しているもの、己の第六感によると「いざというときは自害をしろ」という温かいお言葉だった。笑えるね。
リサに次いで、どうやら俺も闘技場に上がることになったらしい。