第31話 肉体鍛錬
魔剣士を頂点とするアーヴ国には数多くの剣の流派がある。
それらはいずれも人の身で習得することのできる常識的な剣術であり、卒業試験を経てから魔剣士としての素質が試される。
残念ながら、その一次試験で俺は落第した。
届けられた通知には「来年の再挑戦を……」というお決まりの下りはない。一度だけのチャンスをものにせねばならず、そうしなければ掃いて捨てるほどの候補者を審査することはできない。
などと考えていたときに、目の前を歩いていた女性が声を発した。
「そういうわけでさ、この国には鍛錬場が山のようにある。アタシが剣の調整でよく使うのはここかな」
普段着のままアーイカは闘技場のように広々とした場所で振り返る。
腰に差した剣は国宝と呼ばれる魔剣であり、その鞘には美しい花の模様を陽光に輝かせていた。
「よく使うって……ここを?」
「そ、狭いのは嫌いだし。この子も広いところがいいってさ」
ぽんと剣の柄頭を叩いてそう言う。すぐ後方にいる魔剣の本体、ダイヤモンドスカイもうなずいていた。相変わらず彼女たちは仲がいい。
しかしいくら狭いのが嫌だからって、野球ができそうなほど広い場所を借りるのかぁ。お金持ちの考えることはよく分からないな。
「ま、今日はタロの鍛錬を手伝うつもりだけど。それで、どれくらい本気を出していいの?」
「そうだな、受け流しをマスターしたいから、最初のうちは威力を極端に落としてくれないか。パワーよりも回数が欲しい。もっと注文をつけていいのなら……俺を殺さないでくれ」
「いーけどさ、今日も武器を持たないの? アンタが剣を持っているのを見たことがないけど、それで本当に魔剣士を目指してるって言えんの?」
そう言われるとぐうの音も出ない。魔剣士を目指してひた走るつもりだったのに、決意をしてからというもの一度も剣を触っていない。しかし最も可能性が見えているのは体術なのだから仕方ないと思っている。
まあいい。せっかく本物の魔剣士様が鍛錬を手伝ってくれるんだ。この日の借りはいつか返すつもりだし、それまでのあいだは家事でもなんでもいいからお礼をしなくっちゃね。
§
薄暗い廊下に、国の関係者だとわかる紋章をつける男がいた。
モップを手にしており、ふんふんと機嫌良さそうに鼻歌混じりで床を拭く。
散った鮮血をごしごしとこすり、やや雑な拭きかたであるものの満足したのか「うん」と男はひとつうなずく。
閉じられてゆくドアの向こうには複数名の者が床に崩れ落ちているのが見えた。いずれも蝋燭のように肌は白く、ぴくりとも動かない。
「こんなもんか。痕跡を残すとうちの旦那がうるさいからな」
そうボヤきながら歩いてゆくと長い廊下は終わり、外からの陽光が届く。
気候の穏やかな時期だと分かる風に包まれて、ふんと鼻を鳴らすと鍛錬場に殺気混じりの目を向ける。
ややおかしな光景だ。
これだけ広々とした鍛錬場を貸し切るのは値が張るというのに、向き合っているのはひょろりとした男と女だけというのは。
「あいつ、やっぱり早めに殺っておけば良かったな」
なんの特徴もなさそうな男を眺めて、ぼそりと抑揚のない声でそう言う。
あいつと邸宅の廊下で少し話をしたときに、殺すべきだと己の勘が囁いてきた。なぜかは知らない。そうしたほうがいいと告げられたに過ぎず、いまでもそうすべきだと考えている。
もう少し視線をずらすと、椅子に腰かけてお茶の準備を整える女もいた。以前と違い着飾ってはいるが、内側に隠された肉体美は彼の目からは透けて見える。
「いたいた、リサ・オウガスター。新しい主人はずいぶんと変わった趣味を持っているようだな。あいつの肌を隠させるなんて悪趣味だ」
彼の頭のなかではどのような光景が広がっているのだろう。
股間を隆起させて、舌なめずりをする様子は異常であるのだが、それを指摘するような監視者たちはもう一人も残っていない。
人喰いボッゾ。
彼は船乗りであった。
ただし遥かなる海を渡り、命からがら辿り着いた大陸で大虐殺をする船乗りだ。
昔は良かった。
昔はよくそうして仲間たちと戦果を競い合った。
競技のように人の首を転がして、矢の的にして、熊のような体格をした者たちがワハハと笑う。
殺す。奪う。
それが彼ら海の一族のシンプルな生き方だ。
春を迎えれば人里を襲い、金銀財宝をかっさらい、土地を奪い、人をたくさん奴隷にする。そんな生き方を親子数世代に渡って繰り返していたときに、ボッゾはふと興味を覚えるものがあった。
迷宮だ。
そこは魔物で溢れかえっており、財宝のみならず倒すと確実に己が強くなるというのは、彼にとって理想的な新天地でもあった。
殺す。奪う。
そのシンプルな生き方を持ち込める場所は、海を除いてここしかない。
なにしろここは、気づかれなければどんなことをしてもいい。
歯ごたえのある魔物もいいが、人の血はそれに変えられないほど刺激的だ。これまで生きてきて積み重ねてきたものが、どばっと床一面に広がってゆく光景。あれがボッゾにとってひとつの生きがいにもなっていた。
己の強さと勇猛さを神に示すには、それこそが正しい道だと確信もしている。
リサはその点で文句なしだった。
あれは噂によると猛獣に育てられたらしい。だからだろう。怖れを抱きつつも果敢に敵に挑み続ける姿は、ボッゾにとって魅力的であった。
船乗りは荒波を嗅ぎつける。でないと生き残れないからなのだが、鍛錬場で風の流れが変わったときにボッゾがクンと鼻を鳴らすと……。
「おかしな匂いが混じっているな。ふん、用心をしておくか」
危機を嗅ぎ取っても、死神を出し抜いてあざわらうのが海の一族である。だからこそ、わざわざ海から荒くれ者を呼び寄せているわけだ。
彼ら船乗りにとっては、この肥え太ったアーヴ国こそが最も美味そうに見えたことだろう。
大陸のどこを見ても、ここまで裕福な国など存在しないのだから。