第30話 精神鍛錬
ざぱりと水をすくい、それをタイル製の床にまく。
耐水性にすぐれた浴室に、水が円形となり広がってゆく。
衣服を脱ぎ、下着だけとなった俺はそこに腰を降ろす。冷たい水を肌で感じつつ、足を組むとすぐに呼吸法を変えてゆく。
「カロン」
そう名を呼び、俺は呼吸に全神経を注ぐ。
深く深く息を吸い、浅く浅く息を吐く。
普段よりもゆっくりと、睡眠時よりもゆっくりと。
もっともっと、それこそ植物になったように。
新鮮な酸素をよこせという身体からの訴えは、ある一点に達するとやがて遠ざかってゆく。
すると感覚が広がり、円形にじわじわと広がってゆくものを俺の五感として捉えることができた。
「エリン」
静かにそう呼びかけると、水は逆流を始めて全身を覆いだす。
表面に数ミリほどの均等さで覆ってゆくものは単なる水ではなく生命体だ。透明に見えるものには確かな意志があり、かすかな温もりさえある。
ふうう、と息を絞り出す。
そのとき、とぷんと沈む感覚があった。
身体から気泡が浮いてゆき、世界はゆっくりと色彩を暗いものに変えてゆく。
本で読んだことのある海底のようにそこは穏やかな場所で、己以外はどこまでも静けさに満ちている。
しかし無などではない。
真下からはたゆたうものを感じられるし、宇宙に似た輝きを秘めている。
黄金色の波動を覚えつつ「目を閉じたまま目を開ける」という感じで第三の目ともいえる別の感覚を開放する。
「ん、入れたか」
そうつぶやいた己の声は水中で発するような響きだった。
普段とは異なる知覚領域で見てみると黒色で覆われており、見上げたずっと先は濃い青へと変わってゆく。
ここは俺の日課であり、かつ鍛錬の場でもある。
あの日、迷宮で人には決して知覚できない領域を感じてから欠かさず続けており、ようやくはっきりと感覚で「入る」ことができるようになってきた。
失敗することのほうが多く、今夜はうまく集中できていたので成功した。きゅっきゅっと指をにぎりながら俺は安堵の息を吐く。
肉体は睡眠などよりもずっと深い休息状態に入っており、また一方で俺の精神はというと肉体という枷から解かれた。
五感はより鋭敏になり、また普段よりもずっと強く第六感を意識できる。
「なんか、山岳地帯にいる修行僧みたいになってきたな」
んーっと伸びをしながらそうボヤく。
オカルトじみているし、誰にもきちんと説明できないところはそっくりだ。語ったとしても変人という烙印が押されてしまう。
確かにね。寒くもなく、暑くもなく、肉体が感じているものをごっそりと失っているのは変な感じだ。
さて、なぜこんなことをしているのかというと、どうしても会得をしたい技があるのだ。
もう何日も前になるが、俺は確かに魔剣士からの剣を受け流した。
一刀両断されたようにしか見えなかったのに、斬撃は身体の表面を流れてゆき、背後の大岩を分断するに至った。
「あれはたぶん、衝撃というエネルギーを受け流したんだ。これ以上なく完璧に」
あれをきちんと使えるようになりたい。
咄嗟の勘頼りではなく、操れるようになるべきだ。
できるという答えが出た以上、あとは方程式を組むだけでその願いは叶う。
たしん、ぱん、と足を鳴らして体術を淡々とこなす。
まだ己の肉体を操りきれていない自覚があったし、まだ遅い、まだ重いと第六感が告げている。
ゆっくりと、正確に、一秒のブレもなく、考えるのではなく感じて動く。
感覚を総動員する訓練だ。生まれてから一度もやったことのない鍛錬法によって俺の集中力はすぐに乱れが生じる。
一説によると人の集中力は45分が平均で、訓練すれば120分まで伸びるらしい。肉体という枠がなくなると感覚があやふやになり、さらに難度は跳ね上がる。
しかし、足さばきと体さばきは止まらない。
たしん、ぱん、という音を鳴らし続けて、冷たい浴室のタイルをただ感じ続ける。
さて、俺の周囲をぐるりとぐるりと漂っているものがある。それがなにかというと大型の魚……ではない。
この領域に入ってからすぐに生み出したもので、あれには俺の意思と関係なく動くように命じている。
エリンの助けを得て生み出したそれは、突如として角度を変えて迫りくる。
水流を生じることなく爆発的な加速を見せるもの。鍛錬を続けながら俺は五感でそれを感じ取った。
たしん、ぱん。
伸ばした手を通じて、他者が己に入り込むという感覚は独特だ。
ただのエネルギーは体内を駈け廻り、衝撃を反対側まで届けようとする。内臓が悲鳴を上げたように感じたのは、単なる俺の幻想だ。ないものをあると感じてしまったせいで、無用な苦しみを生んでいる。
「おどれ、なにやっとんじゃボケえ!」
……なんか出てきちゃったよ。
頭から湯気を放ちそうなほど激怒した幼女、カロンがそこにいて俺はげんなりした。こっちは忙しいんだけどなー。
「あー、すまん。起こしちゃった?」
「身体のなかをウネウネされて、はー、これで気持ち良く眠れるーなんてやつがいるかボケ!」
勢いだけの新人芸人かよ、こいつは。
ああ、すまんすまんエリン、そっちのせいじゃないから気にしないでくれ。などとよそ見をしていたら、カロンはジャンピング張り手で俺の頭をパンと鳴らす。
こいつパンツ丸見え幼女のくせにクソ腹が立つなぁー。
「おう、人様と話すときは相手の目を見んかい。んで、おどれは深夜になにをやっとったんじゃ」
「見て分かれよ。鍛錬だ、鍛錬。前みたいな感じにさ、衝撃を受け流せるようになりたいんだ」
深夜に特訓するとか、どこかの漫画を読んだ若造かよと思いはするので若干照れが生じてしまった。
そんな俺の弱みを握ったせいか、底意地の悪さを見せつけるようにカロンはにたりと笑う。
「あほ」
…………。
キレていないですよ?
ただ若干イラっとしただけで、こんなガキ相手に手をあげるような真似はしませんって。
「あーほ、あーほ。あほタロー」
あばばーという顔をされても俺は、俺は……!
立派な大人だから、立派な……!
「たしん、ぱんってやつ、自分に酔っておったじゃろ。どうでもええが、かなりヤバいやつじゃったぞ。うり、うりうり、なんとか言うてみいや! このあほタロがあ!!」
ぐいっと竜の尻尾を掴んで宙づりにするや、パアンパアンと容赦なくお尻を叩く。
ぎゃにゃああーーと泣いていようとお構いなしだ。このクソガキ、大人の力を思い知れ。
「嘘や嘘や、冗談じゃ……ン゛ッ!! ちょっとだけからかって遊ぼうと……ぎゃんッ!! もう嫌やぁぁぁーーー!!」
くっくっく、よく鳴くおケツ様じゃねえか。
さんざんバカにしておいて、笑って済ませられるわけ……と考えていたときに、ふと思い出す。
「そういえば、こっちで体内の受けながしができたとしても、元の肉体のときには同じようにできないな」
「そうやぁ、そうやぁ、最初からそれをワシは言いにきたというのにぃーーっ! あほんだらぁぁーっ!」
あーん、と大泣きを始めたカロンは、ひしっと首に抱きついてまた大声で鳴く。子供特有というか火竜だからこそというか体温は高く、ぐすぐすとぐずりながら耳元で「あほぉ」と言ってまた泣く。
確かにな、体内はこいつに守られているが、魔剣の衝撃まではさすがに無理だ。
しかしあの日、俺は確かに受け流すことができた。
「火事場のなんとやらで成功したが……ふむ」
今夜のところはカロンが本格的にグズり始めてしまい「飴ちゃん買うて」などと言い始めたので、残念ながら鍛錬はここまでだ。
よしよしとあやしつつエリンを呼び寄せると、この不思議な空間から戻ることにした。
ぱちっと目を開く。
そこは元の浴室で、外からの風でカーテンがそよそよと揺れている。
なにげなく振り返ると太ももまでのシャツを着たアーイカがおり、しゃこしゃこと歯をみがいていた。
やや変人を見るような目つきをしていて、ベッと排水溝に吐いてから唇をタオルぬぐう。それから冷たい目を再び向けてきた。
「変なやつばかりアタシの家には増えるなぁ」
違う、ただ秘密の特訓をしていただけで……!
と口にしかけたのだが、パンツ一丁で女性のお風呂に座っていた状況を思い出し、もはや言いわけなど通じないと俺は悟った。
仕方ない、さっさと起きて飴ちゃんを買いにいくか。