成就した初恋は恩返しと共に終了しました
痛っ!
ぐるん。
どすっ。
「大丈夫かな、小さなお嬢さん?」
心配そうに覗き込む深緑の瞳、知らない男の人。背中が痛い。胸がドキドキする。
ーーーーーー
「わかったってばマリーナ。オジサン王子様カッコいいわよね」
「おじさんじゃないわ。大人の魅力が溢れてるんだから」
「はいはい、小娘に気を遣ってくれる大人の余裕が滲み出てるわね」
「そうやって揶揄って。良いのよ、私が勝手に憧れているだけなんだから」
サーシャは揶揄うけど、毎回同じようになる話をきちんと聞いてくれる。
「憧れの人がいるのは素敵よね。相手がオジサンでも」
「シュイクーザ様は未だ32歳だわ」
「16歳差だものね。あ、丁度倍になったわ。これからはマリーナの歳の方が多くなるのね」
「それが何か?」
「良いじゃない。16歳と32歳より、20と36、30と46ってなると、違和感が減る気がしない?」
悪戯っぽく笑うサーシャ。
確かにそうよね。うん。素敵。
「ありがとー、サーシャ!」
「初めて会った時が5歳と21歳だから、幼児の初恋が現実味を帯びて来たわね」
「現実味も何も、命の恩人のシュイクーザ様に憧れているだけで、どうこうなりたい訳じゃないもの。家の繋がりで会えて挨拶出来れば充分よ」
「そうなの?伯爵は独身だから、お子様のマリーナにもチャンスがあると思うけどなー」
「まさかまさか」
五歳の私が家族と出掛けた市場で、人混みに押され荷馬車の前に飛び出してしまった。その時に助けてくれたライオット・シュイクーザ伯爵。アッシュグレイの髪と、アーモンド型の目にオリーブグリーンの瞳、紺色の服を着ていた王子様。
お母様の話によれば助けて貰った次の瞬間「およめしゃんてくだたい!(噛)」と言ったらしい。
シュイクーザ様のお母様であるレナータ前伯爵夫人は体が弱く、以前より私の祖父の商会が取り扱っている生薬を購って下さっていたので、以来、最上の薬をお渡ししている。
本店は隣国カレリア自由連合国にあるのだけれど、このウラトール国に二号店を開いて直ぐ、医術を学び店主兼医者として診察もしていたお父様が、王妹殿下の持病を劇的に軽減させて騎士爵を賜り両親と私はこの国の民になった。
お祖父様は薬に興味が無いけれど、薬草の入手経路を多く持ち、高価な物から大衆薬まで幅広く扱っている。お父様が騎士となり普段は家で薬を調合納品し、必要に応じて城に上がって王妹殿下の主治医の助手を務める為、カレリアとウラトール間の品物の輸送は番頭の息子で私の幼馴染のアレンの仕事。
私も時々一緒に往復する。大変だけど面白い。護衛も一緒で街道しか使わないから安心して楽しむ事が出来る。貴重な品を運ぶ時は危険度が上がるから同行出来ないけど。
お父様の影響で薬学を学ぶ、私の実力はなかなかだと思う。残念ながら、医者としての才能は無く診断は出来無いけど、処方箋薬の調合は出来るし、よく使われる処方は暗記しているから、そちらで店に貢献出来ている。勿論、薬以外の商品も扱えるし。
ーーーーーー
「は?結婚ですか?誰と誰がですか?」
「マリーとシュイクーザ伯爵様が、だ。気が向かないのなら直ぐ断るが」
「する!」
「いや少し待て、聞いた俺が言うのも何だが、16歳も離れている上に前妻とのお嬢様がいるのだぞ?」
「大丈夫、結婚する!」
「大丈夫って、結婚だぞ。婚約ではなく、結婚だ」
「望む所です。この私マリーナ・トレラント、例えお祖父様や父様が立ち塞がろうとも、薬草鎌で薙ぎ払い、薬研ですり潰し不退転の心構えで嫁に「待てい」」
「何か?」
頬に手をあて首を傾げれば、激苦薬湯を味見した時の様な珍妙な表情で傍のお母様に『どうしよう』と尋ねるお父様。
「だから言ったでしょう?絶対喜ぶと。貴方も断るつもりなら、黙って断れば良かったのです。態々聞くからこうなるのです」
「だがな、マリーに内緒で断って後でバレたら?そしたら嫌われるぞ」
「男親なんて年頃の娘には嫌われるものですよ。どうせ結婚前には「今までありがとう大好き」と言われるでしょうから、それまで嫌われておけば良いんです」
「だがなあ」
何故か落ち込んでいるお父様は仕事の時のキリッとした感じと違って、ちょっと可哀想だけど、そんな事より結婚の話を聞きたい!
お母様の説明によれば、持病を長い間投薬で小康状態で保ち、家内を取り仕切っていたレナータ前伯爵夫人が、季節の変わり目に大きく体調を崩して床に臥され、後遺症で寝たきりの状態になった。
お嬢様のニーナ様が幼い時に生母アンジェラ様を亡くされて以来、レナータ前伯爵夫人が母代わりをしてきたが、無理となったので後妻を迎えようと考えているとの事。
シュイクーザ様は宮殿で各地から上がって来る税金とそれに付随する手続きの仕事をされている。税は現金や穀物の他、特産品や貴重な薬草もあり、薬草はお父様が勤める医局に届けられる。
先日、シュイクーザ様が薬草を医局にお持ちになり、父に『レナータ様が倒れられ介護が必要な事。ニーナ様の養育と、介護が出来る後妻候補を探されているという事』を話され心当たりを聞かれた。その際「トレラント殿のお嬢様は薬学に詳しく、学生として学園に通いながら店舗で活躍されている上に愛らしくて大変素晴らしい」とおっしゃったらしい。
娘を褒められて嬉しくなったお父様が「うちの娘でしたら、小さな頃に命を救って頂いて以来、伯爵様を慕っておりますし、一代限りの騎士の娘で良かったら」と言いかけた辺りで「そうか!それは良かった!では後ほど正式に申し込むから宜しく伝えてくれ!」と食い気味に言い放って、あっという間に消えていった、とかなんとか。
浮かれたお父様は反射的にシュイクーザ様に「娘をどうぞ」しちゃって、状況を聞いても真面に答えられず、お母様が交流のある医官の奥様経由で話を集めてくれて分かった事は、職場の皆さんの前で
「娘さんを後妻として下さい」
「よござんす、差し上げましょう」
と、やっちゃったと。
その日の夜には我が家に正式な婚姻の申込と条件を纏めた書類、支度金と複数のドレスとアクセサリーが届けられ、社交界の情報通を中心にここ数日で婚約の話があっという間に広がった。
最高、お父様、最高。もうこの、後には引けない感、最高。
数日間私に内緒にしていたのはいただけないけれど。
「私は反対なのよ?伯爵は32歳で歳が倍も離れているし」
「来年には33と17、二十年後には52と36なので大丈夫です」
「卒業まで後二年残っているでしょう?」
「既に多くの科目の単位を満たしてますし、通学中は看護師に前伯爵夫人をお願いして、きちんと卒業します」
お母様は眉根を寄せ頬に手をあて首を傾げる。私と同じ癖ね。
「お嬢様のニーナ様は15歳、マリーと一つしか違わないのに養育が必要なのかしら?今までお体の弱い夫人に大切に育てられてきたのだから、こういう時こそ介護する側になるべきではないのかしら?ニーナ様はマリーと同じ学園に通っているのでしょ?」
頷く。
私達が通っているのは14歳から18歳までが通う王立学園で、代々爵位を持つ家の子息令嬢は無試験で、一代限りの爵位持ちと平民の子供は試験を受け、成績上位者が入学出来る。
ニーナ様は一学年下だけれど、明るいブロンドにオリーブグリーンの瞳で、感情によってクルクル変わる表情は感情を抑え気味な令嬢達に比べて愛らしく、且つ最低限の礼儀は押さえた言動が出来て好感が持てると男子生徒に人気が高い。
一部の女生徒には、男子生徒に媚びているとか、年齢の割に子供っぽく付き合いづらいとか、避けられている所も見受けられるけれど、辛い幼少期を感じさせない明るさは素晴らしいと思う。
「幼い頃にお母様を亡くされて、甘えられる時期にお辛い思いをされたのだから、仕方が無い所もあるのだと思います」
「何とでも理屈はつけられますけどね。私はマリーに婿を迎えてウラトールの商会を継いで欲しいのよ」
「孫が継げば良いのでは?」
「そう都合良くいけば良いけれど。マリーは一度決めたら引き下がらないけれど、世の中には状況を判断して、速やかに引き下がった方が良い事もあるのよ。それだけは覚えておいて頂戴」
ーーーーーーー
天気にも恵まれた結婚式は郊外の教会で、両親とサーシャと伯爵家のバトラーの四人の立ち合いで行われた。再婚で、後妻である私と一つしか違わない娘がいるシュイクーザ様が派手な式を挙げるのは外聞が良くない、らしい。
前伯爵夫人の体に負担を掛けられないし、ニーナ様は夫人に付き添っているから、お屋敷に戻ったらしっかり挨拶しないと。
「マリーナ、もっと友達やお家のお仕事の関係者とか、たくさん招待した方が良かったと思うけど。伯爵は再婚だけど、マリーナは初婚なのよ?介護の必要な義祖母と、一つ違いの義娘がいる相手の希望を全部叶えてあげるんだし」
「シュイクーザ様、ううん、ライオット様と結婚出来た奇跡だけで十分だわ。でも、心配してくれてありがとう」
こそっと囁いて来るサーシャにお礼を言うと、目を逸らしつつも「困ったら私に言うのよ」と、手を握ってくれた。やだもう、私の親友可愛すぎるでしょ!
涙目のお父様と、「いつでも帰って来て良いのよ」と、よそ行きの笑顔を貼り付けたお母様に見送られ、伯爵家に到着。ハウススチュワードを筆頭に伯爵家の使用人の人達と、トレラント商会番頭ブルーノ・モデストの娘と息子、アレンとカレンが出迎えてくれた。
トレラントに残ったと思っていた二人がお母様の手配で、住み込みで働いてくれるのはとても心強い。私もしっかりしないと。
19歳のアレンと20歳のカレンは生まれた時から一緒に育った兄と姉の様な存在だけど、「結婚したからには伯爵夫人としての距離を考えて接する様に」と真面目な顔のアレンが綺麗な透かし模様の封筒を私に差し出す。裏を返すと、お祖父様の名前が記されていた。
『我が孫マリーナへ
何時でも何処でも、トレラントはお前の味方だ。
辛い時は声に出す事。困った時は頼る事。無理をする位なら一度初心から考え直す事。
逃げる決断も時に必要となる。
己自身で良く見、良く聞き、良く考えよ。カレンとアレンに相談せよ。
考えが纏まらない、答えが決まらない時は、その事を伝えよ。立場が変わっても二人はマリーナの姉兄だ。
状況を把握せよ。それが大人の責任である。
何時迄もお前の祖父であるジェローム・トレラント』
色々と心配されている様だけれど、これからはシュイクーザ伯爵夫人らしい姿を見せて、お祖父様達に安心して貰わなくては。
うんうん、と頷くと、カレンとアレンがにこりと微笑んだ。
結婚するにあたり私が王立学園を卒業するまで、若しくはニーナ様の婚約が決まるまでは子を成さないという約束が交わされた。確かに、私も前夫人の介護に学業にと忙しいし、年頃のニーナ様が不安を抱えては困る。
そんな理由も含めて、表向き私はライオット様の婚約者として花嫁修行の為にシュイクーザ家に入ったという事にした。貴族の婚姻なので、王家も教会も婚姻の事実を把握しているけど、年齢差や財産譲渡や後継者の関係で、婚姻を知らせるタイミングをずらすと言う前例は幾らでもあり、その辺りの問題は無い。
寝室も別だし、ライオット様も仕事が忙しく二人きりの時間はほぼ取れないけど、初恋から11年目の結婚で今更焦る必要は無い。落ち着いた後の人生の方が長いのだし。
「マリーナ様ぁ、助けて下さぁい」
結婚するまでライオット様のお嬢様として学園で見かける程度の他人だったニーナ様が、やたらと話しかけて来る様になった。内容は『課題が難しすぎるから手伝って欲しい』『意地悪を言う人がいるから誤解を解いて欲しい』『しつこく絡んでくる男子生徒に注意をして欲しい』という感じで、学園内だとサーシャの前で話を聞く事になる。
「良い加減、後始末をするのは止めた方が良いわよ。どんどん調子に乗って来てるじゃない。宿題も課題も教えてと言いながら、わからないを連発してマリーナ任せだし、虐めの被害者だって言うけど、子供っぽい言動や我儘を『幼い頃に母親を亡くしたから』って言い訳して直さないから注意されているだけだし、男子生徒に絡まれるのも誰彼構わず甘えた態度で接するのを止めれば良いだけよね」
「そうなのだけど、ニーナ様が辛い思いをされたのは事実だし、一人っ子だから姉みたいに慕ってくれているのではないかしら?」
「実の姉でもやるべき事を押し付けてはダメよね?婚約者がいないあの子に良い相手を見つけて、立場を自覚させるべきだわ」
「婚約の事はライオット様にお聞きしたけど、まだ家族と離れたく無いのですって。卒業まで時間もあるから急ぐ気は無いそうよ」
「そうなの?だったら前伯爵夫人に孫として恩返しするべきだと思わない?倒れる寸前まで助けて貰ったのに、倒れた後はマリーナ任せ。家族と離れたくないのではなくて、ふわふわぽわぽわ好き勝手遊びたいだけだと思うわよ」
「素直で可愛いお嬢さんだもの」
「ベタベタに甘やかされた、我儘令嬢、の間違いじゃない?」
「サーシャ、私の大切な義娘を余り悪く言わないで欲しいわ」
「ふーん。マリーナが大丈夫ならこの話はこれ以上しないけど、困ったら相談してね」
ーーーーーー
本屋から新しい薬学書が入荷したと連絡が入ったので、カレンと一緒に大通りを歩いていると、人気の宝飾店からライオット様が出て来た。
近付いて声を掛けようとした時、ライオット様の腕に縋り付く艶めくブルネットが魅力的な女性に気付いて喉が詰まった。
事情があるのだろうと露店の影に隠れて覗き見ると、蕩ける様な笑みを浮かべて見つめ合う二人が目にうつる。
結婚してから一年以上経っても、二人だけの時間は殆ど取れていない。一緒にお茶を飲んだり、ちょっとした話をしていても、直ぐお義母様の部屋に呼ばれる。それでも私はライオット様に望まれて婚姻出来たし、優しい言葉と眼差しで感謝を頂いて満足していた。学園を卒業してニーナ様の婚姻が決まれば、お義母様の介護の為、お父様に付き添い看護師を紹介して貰って、二人きりの時間を取れるから。
「マリー様、如何なさいますか?」
「い、如何も何も、何かお仕事の関係では?」
答えてから気がついた。カレンに「如何?」と聞かれただけなのに私は見知らぬ女性を意識して答えた。本心から仕事で一緒にいると思っていれば「気付かれない様にしましょう」とか「本屋は改めて」と返事をした筈。
「本屋に行く前に、商会で大奥様の薬を用意しているアレンと合流しましょう。このままですと、アレンが先にお屋敷に戻ってしまいます」
さあ、と手を引かれ商会に入ると、暫く顔を見ていなかったみんなが笑顔で迎えてくれた。
「マリーはどうしたいのかしら?」
重要な商談をする防音室で、久しぶりに顔を合わせたお母様が晴れやかな笑顔で口を開いた。
「どう、とは……」
「カレンがいきなり連絡も寄越さず貴女を連れて来たのだから、伯爵様が女性と一緒にいらしたのを見たのでしょ?」
「お母様は何かご存知なのですか?ライオット様が女性とご一緒だったのは確かですが、お仕事かも知れませんし」
「まさか。各地の税金担当の伯爵様が、仕事時間に城下町で女性と歩く必要があるとでも?」
「休み時間に家族への贈り物を選んでいただいていた、と言う事は」
「それなら本人と一緒に買えば良いでしょ?内緒にして驚かせたいのなら、渡す相手以外の家族と選べば良いと思わない?」
唇を噛んで視線を彷徨わせる。お母様の横には不機嫌な顔をしたブルーノおじさん。お父様は仕事で居ない。
「お前達はお嬢様を守れなかったのだな」
「「申し訳ございません」」
「二人は悪くないわ。私が……」
「二人に問題が無ければ、伯爵様に問題がある事になりますが、宜しいでしょうか?」
「モデスト、マリーに私達が調べた事を教えてあげて。マリーも伯爵夫人として現状をきちんと把握すべきだわ」
テーブルに何枚もの資料が広げられた。
結婚前のライオット様に一切問題は無かった。仕事をきちんとこなし、知人の貴族女性達にニーナ様の事を相談する際も節度あるお付き合いを心がけておられ、再婚を打診されてもニーナ様とレナータ様を尊重して暮らせなければ無理だと断られていた。
ところが結婚後に先の貴族女性の方々と、休みや仕事の合間を使ってカフェ等でお会いしている。特定の一人との仲を深めている訳では無く、広く、浅く。お相手の方々からすれば、婚約者はいるものの平民同様の一代限りの騎士爵の娘で学業と介護に明け暮れている。
「お屋敷のメイド達から聞きました。伯爵様は侍女長と家政婦長に対して、お嬢様との婚約が撤回されても、そのままレナータ様の看護師として残ると伝えているそうです」
「伯爵様が出入りされている紳士クラブの納入業者に友人がいるのですが、伯爵様はお嬢様を看護師として褒め、将来レナータ様の介護が必要無くなったら未だ若いお嬢様には自由になって貰うとおっしゃっているそうです」
ぐらりと視界が揺れた。けれど、今、大切な話を聞いている。しっかりしなくては。
「私の娘は馬鹿じゃ無いから分かるわよね。貴女が伯爵様に命を救って頂き、以来好意を持ち続けている事は、貴女自身もあちこちで話して周知されて伯爵様に都合が良かったわね」
「ライオット様は誠実な気持ちで婚約ではなく婚姻を結んで下さいました」
「伯爵様は貴女が逃げない様に囲い込んだのよ。婚約であっても、あちらは伯爵、こちらは一代限りの騎士爵。こちらから解消を申し出るのは難しいけれど、学生を家に住み込ませて家にいる時間は一人で介護に従事させ、自分は外で一般的な社交程度とはいえ複数の女性との時間を設けていれば話は別よ」
お母様が言葉を切ってお茶を飲む。私も手元のお茶をこくりと飲むと、喉が渇ききっているのに気がついた。一気に飲み干してお代わりする。
「けれど、結婚ですからね。現状、伯爵様は浮気と言える程の事はしていないし、浮気してもある程度なら見逃すべきだと言われるわ。私はカークが浮気したら庭木に逆さ吊るしにするけれど」
「奥様、若旦那様は誠実な方かと」
「ええ、モデストの言う通り。例え話よ。通学以外殆どの時間を介護で拘束しても、妻なら当然と言われるでしょうね。それも、喜んで仕えてくれる素晴らしい妻だ、前夫人も満足していると褒められたら、何も言えないわ。もし、辛くなって実家に戻っても堂々と連れ戻せるわね。暴力も言葉で傷付けてもいない、ドレスや宝飾品もたくさん頂いて、使用人はマリーの事を尊重しているのだから」
「年若いお嬢様に前伯爵夫人介護負担が多くなっている事は申し訳無いと思っているが、今後、お嬢様の意見も聞いて体制を見直す。と伯爵様が主張されればそれで終わりです」
「誠意で婚姻したのでは無く、法的に繋ぎ止める為と思えるのだけど?」
「本当に誠実な方が、婚姻の事実を婚約と偽るでしょうか?」
お母様とブルーノおじさんが諭すように、ゆったりと話す。
言ってる事はわかる、けど。
それでも。
「私はライオット様を愛しています」
「奥様、私からお話しても?」
「良いわよ、アレン。幼馴染の貴方から言える事もあるでしょう」
お母様の許可をとったアレンが私の視線を捉えた。
「マリーは伯爵様を信じているんだよね?」
「お嬢様に失礼な口の利き方をするな!もうお嬢様は伯爵夫人なのだぞ」
「父さん、奥様の許可は取りました。マリー俺の話を聞いてくれる?」
アレンが、いえ、アレン兄さんが、一緒に悪戯をして「内緒」と言った時の笑顔を浮かべ、私の口元も緩む。カレン姉さんも「お父様、アレンの話を聞きましょう?」と言って、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
お母様が「あらあら」と言いながらブルーノおじさんを見れば、おじさんも「仕方ありませんな」と軽くアレン兄さんを小突いた。
「俺と姉さんはマリーが生まれた時から一緒にいるから、どれだけ伯爵様を慕っているかよくわかっているつもりだ。だからその気持ちを利用するみたいな状況が許せないんだよ。伯爵様が純粋にマリーの能力をかって後妻に迎えたのなら、何も言わないよ」
「伯爵様を信じていない訳では無いのよ?信じたいからこそ、はっきりさせたいの。奥様や父が調べた事や、私やアレンが聞いた話を繋ぎ合わせると、歳下で御し易いマリーを利用していると感じられる。卒業まで婚約者と偽り、夫婦の時間を作る努力も見られないのは、嫌な気分なのよ」
アレン兄さんに続けてカレン姉さんも口を開いた。皆に心配掛けるのは嫌だけど、どうしたら……。
「はいはい、マリーだってこのままで良いとは思ってないでしょ?ですからね、少々失礼ではあるけれど、伯爵様がマリーを妻として大切にしているか確認しましょう」
お母様はそれはそれは楽しそうに微笑んだ。
ーーーーーー
私の結婚式が早急に決行された為、カレリアにいる祖父や伯母達が参加出来なかった事を大変残念がっている。せめて当日着たウエディングドレスを持って、報告に来て欲しい。特に老い先短い祖父が意気消沈しているので、と従姉であるラクシュ姉様が微笑みながら言うと、ライオット様が眉間に皺を寄せる。
「申し訳ないが母がマリーナを大変気に入り、終日介護して貰いたいが大切な嫁だからこそ卒業まで遠慮している位なのだ。もう少し母の体調が良くなるまで待って貰いたい」
「そうなのですか。ではマリーナがカレリアに行っている間、私にお任せしていただけませんか?マリーナと同じ薬学と介護を学び、医師の資格を持っています」
「妹はマリーナより4歳年長で実務経験も長いですし、我がトレラント商会と提携している病院で働いております。更に幼い頃よりオスワルド神聖公国の医療所にも出入りを許され、大切な大奥様のお体に障る様な事は致しません」
従兄のトレッド兄様の言葉にライオット様の表情が緩む。
薬の調合しか出来ない私と違って、姉様は一人で診察と調合が出来る。見た目も地味なダークブラウンの髪に栗色の瞳の私と比べて、ダークブロンドと青い瞳が綺麗で安心感に溢れている。私の憧れのお姉様。
「それなら暫くラクシュ嬢にお願いしよう。マリーナ、気を付けて行っておいで」
ーーーーーー
ラクシュとトレッドの母であるララーナ・トレラントはマリーナの父カークの姉で、女性専門の医者をしている。その婿であるアルビスはオスワルド神聖公国の出身だ。
カレリアを挟んでウラトールの反対側にあるオスワルド神聖公国は、権威はあるが政治には関わらない教皇を代表とする大教会と、それを守り選ばれた代表者が議会制で公国を動かす聖騎士団で構成されている。国名になっているオスワルド公は代々教会の盾を誓う家の長で、聖騎士議会の議長も兼ねているが他国の王の様な大きな力は持たない。
国民は教会の敬虔な信徒で、能力が高く本人が希望すれば聖騎士への道が開ける。また、代々聖騎士の家の者でも、信仰心の薄い者は国外へ、聖騎士に向いていない者は家を出て市井で暮らす。
大教会への薬草類納入時に『修道女の健康診断が出来る女医がいれば連れて来て欲しい』という希望があり、医師として教会に赴いたララーナに警護中のアルビスが一目惚れ、更に真摯に仕事に取り組む姿に深く惚れ込んで求婚、真面目なアルビスにララーナが絆されて結婚した。
アルビスは代々続く名家の次男で父は公国議会の議員であり、仕事好きなララーナが自由に動き辛くなる嫁入りを拒んだ為、定期的な診察契約を結び大教会指定医師の護衛としてトレラント家に婿入りした。
ラクシュは尊敬する母の後を継ぐべく医師を目指した。努力を続け才能にも恵まれ、優秀な医師として正騎士団にも認められている。
日々不安なレナータはマリーナからの手厚い介護とリハビリを喜んでいたが、ラクシュが医師兼薬剤師であると知って歓喜した。マリーナは話し手に寄り添う聞き上手だが、ラクシュは時に反論するものの理由を明確にして受け答えするので、不安の多いレナータと相性が良かった。
カレリアで伯母と働くマリーナは、ラクシュの護衛を兼ねて残ったトレッドからの手紙が届く度にため息をつく。自分が居なくても何の問題も無く、寧ろ優秀なラクシュを皆で頼りにしている。
唯一、戻ってきて欲しいと日を空けず手紙を寄越すのはニーナだけ。そんな手紙には『お父様がラクシュを見習えと言う』『使用人がラクシュばかり頼りにする』『学園の課題をラクシュが手伝わない』『顔は良いのに無愛想なトレッドが嫌』『お父様がラクシュだけお出掛けに誘う』等と書かれマリーナはどんどん落ち込んだ。
見かねたアレンが街に連れ出す。
カレリアはさまざまな職業ギルドが集まり、その長達が色々と調整して連合国として成り立った地域なので、様々な物が溢れている。始めのうちは薬に関する店をまわっていたマリーナも、女の子向けの店に案内され、結婚前の自然な笑顔が少しずつ戻ってきた。
マリーナがカレリアで過ごす事半年程、ライオットからは一通の手紙も届かなかった。
では忙しいのかといえば、ニーナの手紙にあった通りラクシュとの仲を深めようしている様で、母親の主治医への感謝と言う理由で外食や夜会に誘う。外出の話題さえ出されなかったマリーナに、アルビスがトドメを刺した。
『ライオットとマリーナの婚姻届が教会に提出されていない』と。
「みんな口が堅くて苦労したよ。一応予備聖騎士だし現役の親友も多いから、遠回りで時間が掛かったけど経緯も証拠もはっきりしたよ」
「でも伯父様、婚姻申込書とそれに関する書類は家に保管してありますし、両親立ち合いで婚姻書類を記入しましたよ?」
「記入しても届を出して無いのなら意味が無いよ。伯爵が婚姻の申し込みをしてトレラント家が承諾、婚姻届に親子でサインして未提出だから婚約状態だ」
「教会の婚姻届受領書類は見せて貰いました」
「それは誰が保管しているの?」
「ライオット様が金庫に入れると」
「だろうね。偽造書類だな。受領届けさえ誤魔化せば、その後確認する事はまず無いからね。トレラントは伯爵に騙されたんだよ」
マリーナ達の婚姻届は貴族戸籍管理部と教会に提出される。マリーナは世襲不可の準貴族令嬢なので、父の庇護がなければ庶民でしかない。本来なら、ライオットとカークの二人で提出すべきだったが、仕事が立て込んでいた為ライオット一人に任せた。
ライオットは伯爵家の面倒事をマリーナに押し付ける気だった。真面目に文官務めをしていたライオットは伝が多く、管理部に出す書類を握りつぶし、教会の神官を買収して受領届けを偽造した。その後、偽造書類を見せて『大切だから己が保管する』と金庫に入れ『まだ学生のマリーナが伯爵夫人としての社交や仕事をするのは大変だから、卒業までは婚約したという事にしておこう』と優しくマリーナを誘導した。
ライオットが婚姻を申し込みトレラントが受けたのだから、婚約状態なのは事実だ。他の女性とやや親密な付き合いをするのは不誠実だが、16歳も離れた伯爵と準貴族令嬢、しかも介護が必要な義母と大きな義娘までいては解消してもすんなりと受け入れられる。
後は、その時が来たら『手違いで婚姻届が受領されていなかった』とライオットがトレラント家に頭を下げれば良い。ライオットが少しでも罪悪感を持ち合わせているのなら、
『若いマリーナを縛るのは心苦しい』『私の努力不足で年代差を埋められなかった』
といった理由を挙げて多めの慰謝料を払えば良い。
逆に、
『介護に問題があった』『伯爵夫人として力不足だ』『ニーナがマリーナを受け入れられない』とマリーナの非を挙げれば、下位のトレラント家は引き下がる事しか出来ない。
蒼白になり涙を堪えるマリーナをアレンとカレンが支える。
「これだけでも唾棄すべき所業だけど、あの野郎愛娘に手を出そうとしてるんだよな」
アルビスがどす黒い微笑みを浮かべると、マリーナを除く主従全員が同じ微笑みを浮かべた。
マリーナとラクシュは同じ祖父の孫だが、大陸全土に力を及ぼす大教会認定医の母を持ち、その後継指名をされているラクシュ。父方はオスワルドの聖騎士でニーナを他の聖騎士の家に嫁がせる事も不可能ではない。
ライオットにそこまでの打算があるのかは分からないが、贈り物を渡そうとしたり、外出等に誘うのだから下心はあるだろう。必要以上の接近を阻む為トレッドから断ると『君には関係無い』と邪魔者扱い。『兄に従います』と言うラクシュに落胆した表情を見せるので、トレッドの手紙には「いちいち鬱陶しい」と書かれている。
「証拠も揃ったけどマリーはどうしたいんじゃ?」
孫娘二人をいい加減に扱われ怒り心頭のジェロームが大量の調査書類の天辺を平手でビッタンビッタン叩きながら問いかける。
「儂としては信用に値しない相手とは縁を切りたいが、可愛いマリーが諦められないと言うのなら尊重しよう」
「私は……」
両手を握り涙を流すマリーナの手をアレンが包み込んだ。
「マリー、俺と結婚してくれない?」
ごすっ ごすっ ごすっ
祖父ナッコゥと伯父ナッコウと番頭ナッコゥがアレンに突き刺さる。
「痛え!」
「当たり前だ小童が!」
「傷心のレディに付け込むのは許さん!」
「愚息がお嬢様に触れるな!」
「俺は素直に思った事を言っただけで」
ごすっ ごすっ ごすっ
「痛え!」
「まだ生意気を抜かすか小童が!」
「聖騎士になって出直せ!」
「愚息は黙れ!」
「俺はマリーが伯爵家にいた時間は無駄じゃないって言いたかっただけだ」
「それが結婚とどう繋がるんじゃ!」
「もう一発行くか?」
「いえ寧ろ起きられなくなるまで」
「うふふっ、そうね、無駄じゃなかったわ」
思わず吹き出してしまった。
「シュイクーザ様に不誠実な所はあったけれど、憧れの命の恩人なのは事実だもの。過去のお礼として介護したと思えば良いのよね。利用されたけど恩返しと縁が切れたと思ってお終いにします。お祖父様、伯父様、円満な婚約解消手続きをお願い致します。アレン兄さんからの申し込みは保留させて下さい」
私を大切に思ってくれている人に囲まれていると思った瞬間、気分が楽になった。憧れの王子様に恋をして、妻になって幸せだったのも事実で、あの時馬車に轢かれていたら、全部無かった事になってしまう。
だからアレンが無駄じゃないって言ってくれたのがとても嬉しい。
ーーーーーー
婚約解消の件が片付いてラクシュ姉様達が戻るまで、御し易いと思われている私は帰国せずカレリアで商会の手伝いを続ける事になった。
実際は「薬の専門家であっても商売を知っておくべき」というお祖父様の言葉で、トレラント商会との付き合いのあるお店の裏を見学させて貰ったり、美味しい物を食べ歩いたり、今まで全然知らなかった別の業種やギルドのお店を覗いたりする。
「兄ポジションから脱却する!」とみんなの前で堂々と(?)宣言したアレン兄さんが、付き添いをしてくれるけど「儂の目の黒いうちは小童に孫はやらん!」とお祖父様がついて来て、混み合った場所ではお祖父様を中心に三人で手を繋ぐという迷惑な状況になったりもした。
婚約解消の為の話し合いの為、アルビス伯父様がウラトールに向かってくれた。
出発前に友人に助力を頼むとお手紙を書いていらしたのだけれど、その友人エルニエ卿の息子さんのミシェイル様はラクシュ姉様の恋人なのだそう。姉様が認定医師としてオスワルドに移住が決まったら結婚式を挙げるので、余計なトラブルを避ける為に公にはしていない。大教会が絡むと権威や利権等の面倒が増えるみたい。
話し合いでは、「可愛い姪と娘に何をしてくれたのかな?」と微笑む伯父様と、「息子より可愛い義理の娘(予定は確定)を奪うなら決闘も辞さない」と無表情で呟き続けるエルニエ卿と、「得意武器は何ですか?そちらに合わせますよ?」と姉様を後ろに庇うミシェイル様の勢いが止まらず、お父様の出番は無かったとか。
その後ウラトールの店舗兼家で、三人にお母様まで加わって「娘を簡単に差し出したお前が一番悪い」というお父様吊し上げ大会が開催された、らしい。
慰謝料については私がお願いした通り『私が恩義に報いた』という理由で、どちらも瑕疵無し支払い無しとなった。みんな色々思う所はあったみたいだけど、私がスッキリしたと言うと納得してくれた。
「もう最上級生なんて信じられない」
サーシャの笑顔は変わらないわね、と言えば「子供っぽく見えるって事?」と頬を膨らませる。その態度が子供っぽいのだと思うのだけど。
シュイクーザ様との事を全部話したら「恩返し出来て良かったわね。夫婦の縁が無かったのは残念だったけど」と、カフェでケーキをご馳走してくれた。お腹いっぱい食べたら肌荒れした。二人で反省した。
卒業後の結婚が決まったサーシャが「是非式に来てね」と言った後、「でもアレンさん頑張ってるからなー。二回目の結婚式の方が早かったりして」とニヤニヤ笑いを浮かべた。
アレン兄さんと結婚するイメージは未だ想像出来ないけれど、一緒にいると安心する。
「マリーナ様ぁ!こんな所にいたんですねぇ!みんなが酷いんですぅ!」
「マリー、とっとと逃げるわよ!」
「当然!」
反射神経が良いサーシャが私の手をとって走り出す。
伯爵家にはトレラント商会から優秀な介護士と看護師を紹介したのだけど、大奥様は「ラクシュを呼び戻しなさい!」と言って暴れているらしい。「嫁なら診察から投薬、食事指導までした!」「楽しく散歩したい!」と不満や文句ばかり言っている、と薬を取りに来た看護師さんに愚痴られた。
ニーナ様は私が継母になってから、学園の雑用を進んで受けて私に丸投げしていた。「高位貴族の子女は学園の仕事が多い」と聞いて手伝っていたのだけど、実際は自分の評価を上げる為に多くの仕事を受け、敬遠していた生徒達に見直されつつあった所で私がカレリアに逃亡。仕事を受けなくなり、宿題や課題も未提出に。最終的に指導室で上級生や先生に詰められ、大泣きして逃亡。
翌日の教員室で「出来ない仕事を押し付けた方が悪いんです」と言い放ち、周囲が『間違いを理解させる事』を諦めたらしい。
シュイクーザ様は後妻の紹介を周囲に頼んでいるけれど、良い相手は見つからない様子。確かに、ラクシュ姉様と比べると物足りなく感じてしまいそう。
それからニーナ様の婚約相手も見つからないと困っているとか。
婚約解消の話し合いの最後に「折角の機会なので聖騎士かその子息を紹介して欲しい」と言われ、部屋に入って来たニーナ様に「初めましてぇ、聖騎士のオジサマぁ。マリーナ様とラクシュ様にはお世話になっておりますぅ。ニーナと申しますぅ。素敵な聖騎士の妻に成れるように頑張りますぅ」と挨拶された伯父様が「あの親子は人間じゃない何かだ」と明後日の方向を見ながら呟いていた。
伯爵家の方々が幸せである様にと思うけれど、今の私には何も出来ないしする気も無いので、助けを求めて来るニーナ様からは逃げるしかない。
だってもう、私は初恋と恩返しを終わらせて、これからを楽しむのだから。