04 こんなに大きいなんて聞いてません!
井戸がある村の水場には村全体で共有している三つの施設があった。井戸、洗濯場、そして公衆浴場である。この三つの施設が併設されている村の中央は村の社交場ともなっている。
洗濯場についてはユーマもエルザの手伝いとしてもう何度も利用しており、村娘――お歳を召した方も多い――の社交界デビューを既に果たしている。洗濯場には屋根がついている部分があり、ユーマは屋根の陰を優先的に使用させてもらっていた。
また陽の光に極端に弱いという程度にぼかしてはいるが、ユーマの体質についてもマーリドやエルザから説明されており日陰の優先的な使用については社交場の面々からもそれなりに支持をされているのは有難いことだった。
今、悠真が目指すのは公衆浴場の方だ。なぜ夜に、というと浴場は露天風呂で屋根がないからだった。服を脱ぎ裸体をさらす必要がある以上、日が沈んだ時間でなければユーマには安心して入浴が出来なかった。そして暗視が可能なので暗くともそれは問題にはならない。だからこの時間に公衆浴場へ出掛けるのもユーマの日常になっていた。
もうひとつ付け加えるならば、ユーマはマイス家の家族に言われるまで気が付かなかったが、暗い場所ではユーマの眼が光って見えるらしい。ユーマに慣れたマイス家の家族でも不意に見かけると驚くのだ。ユーマに慣れていない他の村人たちを驚かさないためにも、利用者のまずいない夜の時間はユーマの入浴には丁度いい時間帯だった。
脱衣所で服を脱いで棚に放り込むと、タオルだけを持って浴場に入る。最初に確認するのは湯が残っているかどうかだ。夕食あたりの時間に誰かが使っていれば湯が残っていることも多い。冷水でさえなければぬるま湯でも良いが、熱い湯が残っていればユーマにとっての入浴は楽しくなる。
外からは湯の残り具合が分からず、湯沸かし炉は浴場の外からしか火が入れられないのは、不便なところではあった。湯を貯める煉瓦の水槽に触れ、湯がすっかり冷めているのを確認すると肩を落とす。
面倒くさがらずに最初から炉に火を入れておけば二度手間にはならないが、残り湯具合の勝率が八割のユーマはついつい先に中に入ってしまう。薪は各自が持ち寄っていて、薪棚の在庫を使った後に翌日にでも補充しておけば良いのだが薪を用意する手間を考えると、残り湯に期待してしまうのも仕方がない。
一度、外へ出てから火掻き棒で湯沸かし炉内の灰に埋まった熾き火を探し出し、その上へ薪棚からとった薪の端切れと薪を焚べる。熾き火さえあれば着火道具などは必要がない。新しく入れた薪に火が移ったのを確認したら、もう何本か薪を追加しておけば後は放置しておける。
浴場内へ戻ると湯槽の近くへ陣取り湯が湧くのを待った。ちなみにこの公衆浴場には浴槽は無い。衛生的な面から見ても共同管理となっている公衆浴場では湯に浸かるという文化が根付いていないようだった。湯に浸かることは出来ないとしても、それでも温かい湯を使って身体を清められるのは普段から暑苦しい服装をしているユーマにとっては嬉しい限りだ。
家でも湯を沸かして身体を拭うくらいは出来るが、ふんだんな湯を使い掛け湯などで汗を存分に洗い流せるのは水源に併設された浴場ならではだろう。いくらか暖かくなった湯槽の湯を手桶にすくい二、三度掛け湯をしてから湯に浸して軽く絞ったタオルで身体をこする。
ユーマにしてみれば日課となるくらい入浴は毎日でも入りたいものだが、マーリドたちを含めて村人たちは、毎日は入浴していない。立派な浴場を作っておきながら、もったいない話だと思いつつユーマは存分に湯を楽しむのだ。夜ならば天に星を頂いて眺めも良い。
こんな時、吸血鬼は夜の存在だと言うのは事実だとユーマは感じる。ユーマにとっての夜は時間を独り占めできるひとときだ。昼間は大抵マイス家の誰かと、特に兄弟たちと一緒にいることがほとんどで、一人になることは少ない。稀に一人になっても家の手伝いなどで何かしら体を動かしているので、ゆっくりと一人でくつろぎ、考え事をするのはいつもこの入浴時間からなのだ。
――――
マーリドがユーマの居候を許してくれたのは、驚くほどの幸運だっただろう。それはマーリドの人柄によるもので、もし最初のあの晩に別の家を訪ねていれば同じ待遇が得られていたとは、ユーマも思ってはいない。短いとは言え他の村人たちとも交流を持ち、その上で改めてマーリドは実に柔軟な思考の持ち主だと思った。
最近はそれなりに会話が可能になってきているので、マーリドと二人になった時にはいろいろと話しをしていた。たとえば、自分の身の上のこと。元男だと言うことだけはなかなか言い出せずにいたが、マーリド達と会う半日前に村の近くに裸で放り出されていたことや、おそらく自分が吸血鬼であるということなど。
もっとも、吸血鬼について話した時にマーリドは「最初から吸血鬼と思っていた」と言われユーマは驚いた。マーリドは一目見たときからユーマを吸血鬼だろうと見当をつけていたのだそうだ。
吸血鬼はそんなに珍しくないのかと聞いてみたが、もちろん滅多に見かけることはないらしい。ならばなぜ吸血鬼だと分かったのかと聞けばもっと驚く答えが帰ってきた。マーリドには若い頃に知り合った吸血鬼の知人がいるのだそうだ。
「少しおかしな奴ではあったが、悪い奴ではなかったよ」
と、マーリドは言っていた。その吸血鬼も、銀髪でこそなかったが、白い肌と赤眼をもち、何より雰囲気がユーマと似ていたのだという。「最後に会ったのはもうずいぶん前だが」と言いながらマーリドは続けた。
「モルファスと言う奴なんだがね。いつか訪ねてみるのも良いかもしれないな。吸血鬼についてはいろいろ教えてくれるだろう」
ユーマの今後についても話しをしている。マーリドは好きなだけ居て良いと言ってくれていた。しかしいつまでも居候を続けるのも肩身が狭い。しかし、他に行くあてもないし、日本に戻る手立てもない、そして戻れたとしても男に戻ることができるか分からない。それに……
「無理に帰りたいわけでもない、か……」
ずるずると居候を続けているのも、帰ろうという意識に欠けるのが原因なのかもしれなかった。田舎暮らしに憧れていたわけではないが、ここでの暮らしは居心地が良いのだ。
とは言え、この村にいられるのも長くても数年だろうとユーマは思っていた。理由はマーリドに教えてもらった吸血鬼の特徴だ。「吸血鬼は成長しない」とマーリドは言っていた。
五年もしたら八歳のシーナだって十三歳になる。背もユーマと同じか越えるくらいに成長しているだろう。その頃には長男のマルスも十七歳になっている。もちろんデニスも成長する。そんな中、いつまでも子供の姿のままのユーマが居られるだろうか? 仮にマイス家の家族が気にしなくても、村にいる他の者達からどんな話が出てくるかわからない。
だいぶ熱くなってきた湯を頭からかぶり、ユーマは不安を一緒に洗い流す。熱い湯は気分を落ち着かせるには丁度良かった。考えすぎても仕方がないことだ。幸いなことに、ゆっくりと考えるだけの時間はたくさんありそうなのだからと。
ジギ……ギシュー……
一度考えるのを止めて掛け湯を楽しみ出したユーマの耳に、ふと聞き慣れない音が届く。まるで何かをこすり合わせるような音、だが何処か意思を感じさせる音だ。そしてボソボソと何かを小刻みに叩くような音。
聞き慣れない音に不安を掻き立てられ見回して音のした方向を探る。最初は分からなかったがその音の主は露天風呂の壁の上に居た。闇の中でも良好な視界を持つユーマだが、やっと見つけたそれが最初は何なのか分からなかった。
ユーマを見るその瞼の無い丸いふたつの目は、ユーマの目よりもずっと大きく月の光を反射している。いや、ふたつに見えたのはそれが大きく目に付きやすかったからだ。大きな目の周りに小さいが形の似た目がある。ユーマの頭よりも大きな頭部に大小の目が規則だって並んでいた。
頭部の前にある鋏角を動かすと、先にユーマの耳に届いた擦り合わせるような鳴き声を上げ、その音はユーマの不安を掻き立てる。頭部の後ろには大きな腹を持ち、その体の左右には太い歩脚が四対、その脚の一本が浮き壁を叩くとボソリと鈍い音がした。
蜘蛛だ。だがその大きさはユーマが知る蜘蛛ではない。その体長は五十センチを越える。脚を広げれば一メートル以上だろう。暗褐色の外殻は艷やかな印象があるが胴体にも脚にも茶色の太い毛が生えていた。ユーマの見ている前で巨大な蜘蛛がその前脚二つを大きく振り上げ、また鳴き声を発した。持ち上げた脚の裏側には暗い黄色の警告色が見える。
蜘蛛がいる話は聞いていた。それが大きい蜘蛛だとも聞いていた。だが、それが獣ほど大きいとは、思っていなかった。それを見たユーマの背骨にゆっくりとしびれるような震えが登ってくる。その振動は足や腕にも伝わり顔からは血の気が引いていく。背骨を登った震えが脳天を突き抜けた瞬間、ユーマは思わず叫び声を上げていた。
「ひぃあああああああああああぁッ!」
――――
月明かりの夜の中、四人の男女が村を目指して歩いていた。先頭の男は鎖帷子に要所を鉄板で覆う重武装で剣と盾を背中のリュックに括り付け、ランタンの灯りを持って足元を照らしながら歩いている。その後ろには革の上着とパンツ姿の女と、裾を短くして動きやすくしたローブ姿の女の二人。最後に槍を背負った革鎧の男が続く。
「あー、やっぱり出発明日にしたらよかったのに」
革服の女が声を上げるが、他の三人はその泣き言には冷ややかだ。本来なら夕方頃には村に到着している予定だったのだが、まだ到着していない。その遅れの原因が革服の女に因るものだとすれば、他の三人の反応が冷たいのも仕方がない。
「黙って歩けよ。もうすぐだろ」
後ろを歩く男が、ぼやく女に声を掛ける。日が暮れる前に野営でも貼ればよかったとも思うが、村からそう遠く離れているわけでもない。夜になっても移動を続けるのは歓迎出来ないが、どうせなら村に到着してから休もうと四人で決めて夜間進行を続けていた。
暗くなって村は見えないが、村の方では起きている者がいるらしい。一点だけ行く先に火の灯りが見えていた。暗い夜道を歩く四人にとっては灯台のようであり迷いなく歩けるのは助かる。おかげで歩く速度をそれほど落とすことなく進むことが出来た。
それにしても都市部であればともかく、辺境の農村で夜遅くまで起きているのは珍しく、何者だろうかという疑問はあったが。そして件の火の灯りまであと少しといったところでそれが聞こえてきた。
「きゃあああああああああああぁッ!」
甲高い女の、いやむしろ少女の叫び声である。誰もが寝るような夜中に聞こえてくるそんな幼く張り裂けんばかりの叫び声に、四人は緊張を走らせる。
「ヒルダ!火を頼む!」
先頭の男はランタンをその場に置いて走り出す。残りの者たちもすぐに反応し革服の女と革鎧の男が鎧の男に続き、ヒルダと呼ばれたローブの女がランタンを拾い上げて小走りで三人を追った。
叫び声は見えていた火の方向から聞こえてきていた。三人が駆け付けた先は建屋の屋外に設置された炉の火のもとだ。三人の到着を待っていたのか、炉に近づいたのと同時に壁の向こうから騒がしい音が聞こえ、建屋から何かが飛び出した。
飛び出した赤く光る双眸は獣かとも思ったが、それにしては位置が高い。人型の何かだ。その目は建屋から飛び出して三人の方へ少し走るが、三人を見てとり逃げるように急に方向を変え走り去ろうとした。
「ミュリーナ!」
「捕らえよ!」
鎧の男が叫ぶのとほぼ同時に、ミュリーナと呼ばれた革服の女が叫ぶとその声に地面が答える。走り去ろうとした者の脚が泥を踏んだように膝近くまで沈み、急な方向転換のあおりで横滑りに転倒した。慌てて顔を守ろうとして付いた手も肘まで地面に飲み込まれる。
逃げようとした何者かは両足と片腕を地面に飲み込まれ、自由を取り戻そうと半狂乱に暴れようとするが身体の三点を飲み込んだのは硬い地面なのだ。暴れても簡単に抜けるものではない。
遅れて到着したヒルダが先を行った三人が即座に何者かを鎮圧したのを確認しランタンの灯りを向けて逃げようとした者を照らし出した。
「……女の、子?」
ランタンの明かりに照らされたのは、あられもない姿で地面の土に絡め止められた銀髪の少女の姿だった。その姿を見て鎧の男の喉から声が漏れる。少女は何が起きているのか分からず混乱し、青ざめた顔でうわ言のように呻いていた。
「ひっ! ……蜘蛛……助けて……!」
身体を捻って斜め上にブリッジしたような形で身体が固まってしまっているユーマは、何が起きているのか理解できず、唯一自由な右腕一本では見知らぬ男女から自分の裸を隠すことも出来ず、また動けないことで混乱していた。涙目どころではなく、大粒の涙が目からこぼれ落ち、しゃくりあげ、ついには泣き出してしまっていた。