24 もう我慢できません
「ユーマちゃん! しっかり!」
何事かを叫ぶユーマの手を握ってミュリーナは走る。さっきまでは端から見ればまるでミュリーナが一方的に、変異体に対して攻撃をしていた様にも見えただろう。しかし魔術の連続使用は術者への負担が大きいという話通り、実際のところはすでに限界だった。魔力と精神力をすり減らし、行使する魔術によっては副作用や反作用も起こる。そんな魔術を立て続けに行使したのだ。
手袋をしていて良かったとミュリーナは心の中で呟く。風と氷の魔術を連続で使ったため、ユーマの手を握るミュリーナの手はひどく冷たく感覚が殆ど無い。魔術の副作用のその多くは時間さえおけばもとに戻るが、副作用が発生したまま次の魔術を重ねて使うのはリスクが大きい。
次の副作用はより大きなものになり、既に発生している副作用は治るまでにより時間がかかるようにもなる。普段ならエドガスやケアリオがある程度時間を稼いでくれるし、あるいはヒルダと交代で魔術を行使することで適度に時間を空けられる。しかし今回はそうした時間稼ぎが出来ず、変異体の虚を突くために相手が動き出す前に連続で魔術を使わざるを得なかった。
想定通りではないとは言え、幸い変異体の行動を遅らせることが出来ている。エドガス達も近くにまで来ているのだ。エドガス達がこちらを見つけてくれることを期待して逃げ回るのが得策だろう。再びまともに魔術が使えるようになる頃には、変異体に刺さった魔術の槍も霧散し、変異体の走る速度も早くなるだろう。そうなれば逃げ切れるかは分からない。
エドガスたちが自分たちを見つけられなかった場合、囮となってユーマだけでも逃さなければとも考えるが、先程からまた、ユーマの精神状態が不安定だ。苦手な蜘蛛の変異体の鳴き声を聞いて、錯乱してしまったのかもしれないとミュリーナは考える。ユーマだけを逃がすにしても今のユーマを一人にするのもそれはそれで不安だった。
――ギボン、ニボンギンダッデ、ギシ、ギシシシシ!
変異体の鳴き声は発生器官のせいで発音こそ悪いが、確かに日本語だった。ユーマが叫んだ日本人という言葉に、変異体は明らかな反応をしてみせ、そしてユーマを嘲笑う。普段聞けば、それは大蜘蛛達の警告音と変わらなく感じただろうが、調子が同じだと言うのに変異体のそれはユーマを嘲笑う声に聞こえた。
『なんで!なにが可笑しいんだよ!』
ユーマはなにも笑われるようなことなど言ったはずはない。そのはずなのに、変異体はユーマを笑う。他人に笑われることにはある種の諦めはあるが、別に笑われるのが好きなわけではない。そして以前なら愛想笑いなどを浮かべて流すことができた嘲笑でも、感極まった今のユーマにはそれが出来なかった。
――ミロオ、ゴノガラダオォ、ゴンガ、ギンゲンガ、ドゴギギヌンダゴ!
変異体の言葉は、発声器官が違いすぎるせいで人間と同じ発音にはならない。そのため所々、何を言っているのか聞き取ることが出来ない。普段ユーマが皆に言葉の意味を聞いて補足しているように変異体に聴き直したりも出来ないため、わからない部分は想像に任せるしか無い。
『こんな人間が何処にいるんだよ!』 その言葉はユーマにも深く突き刺さる。陽に焼かれる所為で素肌を隠して生活し、人の血を舐めて恍惚として正気を失うような人間もいない。やはり吸血鬼は人間ではないのだ。
『ぼくだって! それはぼくだって……』
だがユーマは人の姿をしているだけ、彼よりも遥かに恵まれているのだろう。あの日、ユーマがこの世界で目を覚ました日に、蜘蛛の姿をしたユーマがマーリド達の前に姿を表したとして、何が起こっただろう。追い払われでもすれば良い方で、最悪その場で打ち殺されていただろう。
世の中には蜘蛛を飼うような人もいるが、いくらマーリドでも蜘蛛を飼おうなどと言うとは思えなかった。マーリドは最初からユーマが吸血鬼だと看破したらしいが、マーリドがユーマを引き取ったのも、それも人間と同じ姿をしていてこその話だ。
――ボマエ、モ、ニボンギンガ、ギシ、ボア、ギンゲンガ、ウバゾウダガァ!
ユーマはそんな事を思っていないと走りながら頭を振る。人間のことを美味しそうだなどと考えたことはない。――ああ、でも、ミュリーナの血は、とても旨かったじゃないか――
『ちがう! ミュリーナは!』
ユーマがより激しく頭を振って否定した拍子に、ユーマを引いていたミュリーナの握力の弱っていた手が外れてしまう。手を引く者がいなくなったユーマはそのまま数歩走った所で身体と足の動きがずれ初め、足を滑らせて転倒してしまった。
「やっば! ユーマちゃん!」
ミュリーナも慌てて足を突っ張って身体を止めるが、そのすぐ後ろには巨体をもつ変異体が迫ってきている。変異体から見てもそれは突然の状況の変化だった。全力で走ることが出来ない状況にあったとは言え、止まることなど考えずに二人を追っていたのだ。
突然動きを止めた二人に対して、数百キロもある巨体を急に止めることは出来ない。そのまま突き進み、一度弾き飛ばしてから捕らえ直すしかない。
対する動きを止めてしまった二人にはその変異体を避けることなど出来ないし、手が外れたことに気がついて自らの意思で慌てて止まったミュリーナとは違い、ユーマは転倒したままで打つ手がない。ミュリーナには躊躇している暇などはなかった。
「こなくそ! 殴れ!」
握り拳を作った腕で下から振り上げ殴りかかるような仕草と共にミュリーナが叫ぶと、ユーマから僅かにずれた場所の地面が、塊となって盛り上がり速度を落とすこと無く走り迫る変異体に打ち掛かる。土塊の重量だけなら、変異体にも負けない量だ。
ユーマは盛り上がった土塊、三メートルほどの地面を転がり変異体の直進方向から逸れる。そして変異体はミュリーナの魔術によって正面に出現した土塊に正面からぶつかることになる。変異体はほぼ同重量の土塊に殴られてその速度をほとんど殺され、身体の後ろが一瞬持ち上がって止まる。
変異体の持っていた数百キロの前進する威力により、土塊は重量物同士がぶつかり合う音とともに粉砕されてしまう。そして変異体の腹部が持ち上がった拍子に腹部に刺さっていた氷柱も土塊にぶつかったことで砕け散った。
――ゴガアアア! ゴノグゾオンナァ! ゴア、オマエガァアァ!
人間なら正面から頭をぶつければ脳震盪でも起こすかもしれないが、体の構造が根本的に違う蜘蛛の身体はそんな心配は無いが、先のミュリーナの攻撃により外殻の各所に傷を受けている変異体にとってはその傷口を更に広げることになる。更にほぼ正面からぶつかったことで主眼となる二つの打ち右眼が潰れてしまう。
変異体は死角に転がり見失ったユーマではなく、眼の前に立っているミュリーナへと当面の目標を定める。正面衝突の衝撃にもかかわらず、すぐに動き出す変異体と比べてミュリーナの状況は逆に厳しい。十分な時間をあける前にまた魔術を続けてしまった為だ。さっきまではユーマを連れて走ることくらいは出来た足が、今は立っているのがやっとだ。
変異体は女に対して警戒し、ゆっくりと近づく。今も、その前も、そして昨日も、この女が何かを叫ぶと何かが起きるのだ。どうやら魔法使いの類だろうかと警戒していた。自分のようなバケモノが存在しているのだ。魔法使いがいたとしても納得できないでもない。女は逃げるでもなく、不敵に彼の前に立っている。女がもう一度口を開けば、今度は何が起こるのか想像がつかない。
変異体の極度の警戒をよそに、そんな警戒をされているとも知らずにミュリーナは立ち尽くしていた。踏み潰されそうだったユーマを脇に転がし、変異体の体当たりを危うい所で止めることが出来たが、もう次の手がない。用意してある魔術はまだ幾つかあるが、魔術の使いすぎでこれ以上の魔術の行使は本当の意味で身体に障る。
『ミュリーナ! 逃げろ!』
そして逃げたくても副作用の所為で足が動かないのだ。それを地面に転がったまま見たユーマにはミュリーナの事情も分からず、変異体と同じくミュリーナが変異体に対して、不敵な様子で対峙しているように見えていた。そしてしばらく日本語で思考を巡らせていたため、思わずミュリーナに対しても日本語で呼びかけてしまう。
――ギュリーナッデギウノガ、ゴオ、オンアガ……ゴア、ユーマ……
ここに来て、ミュリーナもまた変異体の鳴き声に違和感を覚える。今、このバケモノはミュリーナの名前と、そしてユーマの名前を呼んだように聞こえたのだ。
『よせ! ミュリーナから離れろバケモノ!』
――ゴア、バケモノデガルガッダガ。ゴア、バケモノダガダガ。ギンゲンガッデグウンダギョ!
そして、ユーマの話す知らない言葉と、変異体の鳴き声が何処か似ているようにも聞こえるのだ。
「ユーマちゃん、こいつ……喋ってるの?」
思わずミュリーナがユーマに疑問を投げかけると、変異体は体を震わせて一歩後退する。左前脚を大きく振り上げ、いつでもミュリーナに対して振り下ろせるようにしているが、ミュリーナの声を聞いて後退したのをミュリーナは見逃さなかった。
「おい! バケモノ!」
ミュリーナが間髪入れずに声を荒げると、変異体は更に二歩後退する。だが、何も起きない。ミュリーナはただ、大声を上げただけで魔術を使ったわけではないのだから、何も起きるはずはないのだ。ただ、ミュリーナを危険な相手であると認識していた変異体が、怖気づいて数歩逃げただけだ。
――ゴギ! ガギボ! ガギボオギネーゴ!
ミュリーナが声を荒げた後、何も起きなかったことで変異体は激高する。警戒していたのを見抜かれ、驚かされたのだ。今度はからかわれたことに気が付いた変異体が声を荒げる番だった。
――オンアガ! バガニズグナァ!
本来なら相手を捉えるために振り下ろすはずの前脚を、変異体は怒りに任せて横薙ぎに振り払う。変異体の左前脚でミュリーナの右腕側から殴られ、ミュリーナはちょうどユーマのいる方へと殴り飛ばされる。
「ふっげぅ!」
その前脚を体重を載せて上から叩きつけられれば、逃げ場のないミュリーナならばそれだけで押しつぶされたかもしれない。横に薙ぎ払われたミュリーナは見た目こそ派手に殴り飛ばされ、肺の空気を押し出すように悲鳴を上げるが、叩き潰されなかった事を思えば不幸中の幸いだった。
「ミュリーナ!」
ユーマと同じ側へ殴り飛ばされたミュリーナの元へ、ユーマは震える足を奮い立たせて、ミュリーナの元へ這っていく。立ち上がれないと言うよりも、立ち上がらないでミュリーナの方へ跳んだほうが早い距離だった。
「ミュリーナ! ごめんなさい! ミュリーナ!」
殴り飛ばされる前にミュリーナがユーマに声をかけた事で、やっとユーマの思考は日本語から離れる。ようやくミュリーナにも分かる言葉を使い始めたユーマがミュリーナのもとにたどり着き、ミュリーナが両腕でユーマを抱きとめて迎える。ミュリーナに抱きとめられると、ユーマは強い酒に鼻先を近づけたときのような酩酊感に襲われ、頭を振って正気を取り戻す。
「ごめんねユーマちゃん。私いま、足が動かなくて、逃げれないの」
変異体の体当たりを止めてからわずか数分、ミュリーナを警戒してさえいなければ、動けないでいたユーマとミュリーナを変異体が叩き潰すのには十分な時間があった。それをミュリーナの脅しだけで稼いだ僅かな時間は実を結ぶことになる。
「おい! ミュリーナ! ユーマ!」
ミュリーナの声や、変異体の暴れる音、そして変異体の巨体を見つたエドガスとケアリオがようやく二人を見つけ駆けつける。そしてヒルダの声が、飛び出した二人の男を追うようにその後方からかかる。
「刃へ宿れ!」
得物を構えたまま走るエドガスとケアリオの剣と槍に、ヒルダの魔術により魔力がやどりその刃が鈍く輝き出す。その光は、薄暗いとは言え日中であっても輝いているのがわかる程の青白い光量だ。輝き出した獲物を振るうと、二人の刃の軌跡に輝きが残光として残る。熱はなく、しかしその刃に当たる雨は瞬時に蒸発し蒸気の音を立てた。
ケアリオは正面から潰れた変異体の右眼を突き、エドガスはミュリーナを殴り飛ばした左前脚へと斬りかかる。ケアリオの槍は傷ついていた変異体の眼に深々と刺さり、エドガスの剣は変異体の左前脚を、切り落とさないまでも外殻を大きく切り込み、その刃は外骨格の中に守られた肉へと到達する。
「よし! 通るぜ!」
「ミュリーナ、ユーマ! 動けるか!?」
「私は大丈夫です! ミュリーナは、動けるはできません!」
「よし、ユーマ! ミュリーナを引きずって距離稼げ!」
今は変異体の脚に近すぎて、変異体がすこし足を伸ばしただけで当たりそうな位置だった。ユーマは返事をするよりも早く、昨日と同じくミュリーナを抱え後ろに引きずってミュリーナを変異体から離す。まるで昨日と同じ様な状況だが、もちろん違いもある。ミュリーナは意識を保っているが、昨日とは違いもう走って逃げられそうにない。
引きずりながらミュリーナを見れば、ミュリーナは右腕に怪我もしていた。変異体に殴られた時に出来たのだろう。傷そのものは命にかかわるほどではないが、変異体の爪に裂かれたらしく上腕の服と皮膚が裂け、傷からは血が流れ出している。ミュリーナの怪我を見て、ユーマはミュリーナを抱える腕に力が入る。
「ミュリーナ、怪我があります。彼は、よくもミュリーナに……」
ミュリーナの怪我にユーマの中で二つの感情が芽生える。一つは怒りと憎悪が入り混じる憤怒。愛しい者を、今やユーマの占有であるミュリーナを傷つけた者への憤怒だ。そしてもう一つの感情が、ミュリーナの傷口から目を離さなくさせる。興味と食欲がない混ぜになった渇望。
吸血衝動など持っていなかったはずのユーマが、ミュリーナの傷口から湧き出す鮮やかな紅の色に釘付けになってしまう。ミュリーナが怪我をしているというのに、そしてすぐ近くに変異体がいて、一つ間違えば命すら危ういというのに、それでもミュリーナの流れ落ちる血から目が離せないでいた。――ああ、だって、もったいないじゃないか――
変異体に対して、一本の木を盾にするように木陰に入り、ユーマは改めてミュリーナの怪我の具合を確認する。ひどい怪我だし出血も多いが、怪我そのものは放置したとしても自然と血が固まり止まるだろう。特別な治療の技術を持たないユーマでも布か何かを当てるだけで止血できてしまう。簡単な手当をしただけで、せっかくの鮮血が止まってしまう。
「ユーマちゃん?」
「ひ、ご、ごめんなさい……」
さっきとは別の意味で様子のおかしいユーマにミュリーナに声をかけられ、ユーマは我に返る。どうにも、おかしな事を考えている自分に気が付く。もう原因は一つしか考えられなかった。ミュリーナの血を見て、そのにおいを嗅いで、おかしなことを考え出しているのだ。
ミュリーナからみたユーマは、少し滑稽で、強い親近感を覚える。食い入る様にミュリーナの怪我を、そこから流れる血をみつめ、もうそれが欲しくてたまらないと言った様子だ。少し半開きになった口がよだれを垂らしそうになっていることにユーマは気がついているだろうかとユーマの表情を盗み見るが、そんな些末なことに気を使っている余裕はユーマにはなさそうだった。
昨夜、あるいは今朝、ユーマが愛おしくて堪らなくなったミュリーナがユーマに迫った時も、自分はこんな顔をしていたのだろうかとミュリーナは少し反省する。物欲しげで、でも本能だけに従って行動するのを理性が限界の所でとどめているような感じだ。
あの時、ユーマは我慢してくれと言ったが、今のミュリーナにはユーマに我慢をしてもらう必要性が感じられなかった。背後で時間を稼いてくれているエドガスたちには悪いが、どのみち動けず、魔術も使えないミュリーナにはどうすることも出来なかった。だから、ついユーマを許してしまった。
「ユーマちゃん。いいよ」
まさか許されると思っていなかったユーマにとって、ミュリーナの許しはユーマの理性の最後の一欠片を打ち砕くのに十分だった。




