19 やっぱり戦うんですよね?蜘蛛と
休息日を終えた冒険者たちは再び森へと分け入って行くことになるが、その日の昼頃から厚い雲が空を覆うようになっていた。いつ降り出してもおかしくなさそうな暗く低い雲だ。
日光が隠れるのはユーマにとってありがたいことだ。おかげで暑苦しい面頬付きの帽子を外す事ができる。ただし、着付けに時間のかかる服装はいつ雲が切れるかわからないのでそのままにせざるを得ないが、そこはどうせ森を分け入るのだから無闇に肌を露出しないほうがいいのだと自分を納得させるのだった。
変異体を探し始めて最初の日は特に収穫がなかった。最初に見つけた牡鹿の遺骸から変異体の糸をたどってみたが、糸は途中で途切れてしまっていたのだ。蜘蛛は徘徊するときに糸を残すが、それは常にというわけではない。さらに言えば牡鹿からたどった糸が、牡鹿へ近づいたときのものか、離れた時のものかは分からなかった。決定的な所在の証拠とはならないが、ただ活動圏の証拠にはなった。
その翌日もまた成果が無いままに終わる。前日の夜の間に降った雨の所為で森にはときおり霧や靄が立ち始めている。森の外が見えなくなるくらい森に入る以上、そうそう磁石無しで動けるものではないが、見通しがより悪くなり磁石を確認する回数も増える。その度に立ち止まるのだから進みは当然遅くなってしまう。
視界が悪くなることで大蜘蛛との不意の接近遭遇も増えてしまうとなれば警戒も強めなければいけないし、それもまた足を遅くする原因になるのだ。探索できる範囲も狭まり、何より前日とは違い変異体の痕跡すら見ること無くその日の捜索が終わってしまう。
変異体の姿を見ることが出来たのは、捜索を開始して実に三日目の事となった。初日を中央とすれば、成果のなかった東側を探索したのが二日目だ。そして中央から西側の捜索では、昼ごろから変異体の痕跡である糸やなぎ倒された雑木、餌食となった動物を見つけることが出来、夕方が近づくに連れ、痕跡を見つける頻度が増えてきたと思った矢先のことである。
森の中で自然と木々が少なく開けた広場のようになった場所に、変異体が鎮座していた。体長は三メートルを超えるだろうか。大蜘蛛よりも足が太く、短いように見えるがそれはあくまで対比での話だ。足を広げれば五メートルは余裕で上回りそうな程の巨体は体重は五百キロは下らないと見えた。
変異体の傍らには動物の死骸が見え、食事を終えるところだろうか。開けた場所だったおかげでいくらか距離がある状態で発見することが出来たが、それは相手にとっても同じことだったようだ。
「あー、こっち見てるな」
変異体の死角に回り込もうと広場のに入らずに、その外側を移動したユーマたちだったが、木陰の間に見えているらしいユーマたちの方向へと変異体がその場で身体を回して常に正面に五人を捉えている。
「どうする? 正面からやるか?」
「――回りには他の動物の気配はなし。まぁ、あんなのがいたら逃げるよねぇ」
変異体の能力や脅威度を量るのがのが冒険者たちの役目なのだ。正面からかどうかはともかく、手を出さないという選択肢は冒険者たちにはない。槍を握り返して聞くケアリオに、ミュリーナが周囲の状況を補足する。
「よし、試してみよう。わかってると思うが様子見だから深追いするなよ。少しでも問題がありそうならすぐに逃げるからそのつもりでな。ヒルダ、ミュリーナ、糸は何とかなるか?」
「燃やせるけどあんまり多いと燃え移るわ。基本は捕まらないようにね」
「糸を出す部分を潰すか塞ぐとかできないか?」
「動いてるのをピンポイントには難しいかなぁ。あと後ろに回るか下腹を見せてくれないと無理!」
「とりあえずは捕まらないようにだな。それじゃあ機動力勝負だ。先陣はケアリオたのむ。機動力が潰されるようなら俺と交代して即撤退開始だ。その間にミュリーナは奴の動きを止められるか試してくれ。いいな?」
「わかった。ちょっと詠唱させてね」
特別に提案などなければ冒険者たちはリーダーのエドガスの判断に異論はない。各自の能力を十分に把握しているエドガスの作戦はそのまま冒険者たち全員の作戦となる。エドガスが手短に分担を決めると各自が持ち場についていった。指示のないヒルダは基本的に後援担当だ。
ユーマはと言えば全員の邪魔にならないように後ろに下がり、身の回りに注意を払う。戦力としては期待されていないし、期待されても困る。全員から少し離れた所で、離れたがために他の大蜘蛛などに襲われたりしないように周囲を注意しつつ、冒険者たちの動きを見逃さないように注目する。冒険者たちの動きを見ること自体が、ユーマの今すべきことだ。
「ようし、無理はするなよ!」
「おう。始めるぜ」
広場に入ったケアリオが槍を何度か音を鳴らして振り、固く作った革鎧を槍で打ち鳴らして構え直す。ケアリオが存在を誇示する動きに、変異体が反応し前脚をゆっくりと持ち上げ始める。それがどういった感情かはさておき、変異体が十分にケアリオに興味を向けたのを確認してケアリオが駆け出した。
ケアリオは変異体の脇を通り過ぎる角度で走る。正面戦闘とはいえケアリオ自身が正面から攻撃するわけではない。戦士としては軽装で機動力を活かすのを得意とするケアリオが正面から止まって攻撃するのではケアリオが先陣を切る意味がない。
変異体は急に駆け出したケアリオに反応して大きく足を振り上げながら変異体もまたケアリオに向かって走り出し、通り過ぎようとするケアリオに向かってその脚を振り下ろす。変異体は両前脚を上げていたが、ケアリオが脇を走り抜けようとするので振り下ろせる足は片方だけだ。ケアリオはその脚を走りながら構えていた槍の柄で往なそうとして、往なし切れずに弾き返す。
「――!重てえ!」
擦れ違いに失敗したケアリオに変異体は身体を回転させつつ、振り上げたままだったもう片方の前脚を振り下ろすが、ケアリオはその脚を体を捻って躱す。ケアリオは走ってきたその勢いを殺さずに、変異体の足を弾き、身体を捻った反動を使って方向を変え、数歩下がって変異体から距離を取る。ケアリオが交戦したのを確認したエドガスとミュリーナも動き出す。
ケアリオの擦れ違いは失敗しているがケアリオの役目は成功している。変異体の注意を十分にケアリオに惹きつけた上で、ケアリオ自身はまだ自由に動ける状態を維持しているのだ。ケアリオを注視している変異体のほぼ真横から、エドガスが体重を乗せて全力でシールドチャージする
変異体にとって真横はまだ視界の範囲だが、注目していなかったところからの衝撃に態勢を崩す。しかし前脚の二本を持ち上げていてもなお、蜘蛛は六本もの足で体を支えている。横側から押されても、反対側にはまだ三本の脚が体を支えているのだ。体勢を崩してもそれは少し身体が揺れた程度のことでしかない。
だが変異体は突然の衝撃に驚いたのか上げた前脚も使って身体を安定させようとする。それと同時に身体を小刻みに回し、最初の相手であったケアリオと横から出てきたエドガスを交互に見直す。エドガスも今の突撃で変異体を転ばせられるとは思っていない。ケアリオから僅かに注意を引ければ十分だったが、変異体が予想以上に動揺したのを確認できた。
エドガスのシールドチャージで動きが止まった変異体に、ケアリオが槍を突き出し、同時にエドガスも空かさず剣を振るう。二人の刃は変異体の外骨格を削り体液を滲ませる。しかしエドガスの剣は外骨格を貫くことは出来ず、ケアリオの槍も穂先が僅かに外骨格を貫いたのみでどちらも十分な傷を負わせられない。
「おいおい! 硬すぎるぞコイツ!」
「エドガス! ケアリオ! 行けるよ!」
「下がるぞケアリオ!」
変異体の正面にいたケアリオが離れ、ケアリオを追おうとする変異体を邪魔するようにエドガスも横から蹴ってその反動を利用して変異体から離れる。二人が離れたのを確認し、ミュリーナが両腕を振り上げつつ叫ぶ。
「閉じろ!」
蹴られて体を揺らしながらも、遅れてケアリオを追おうとする変異体の下の地面から、何本もの氷の柱が変異体を囲むように次々と立ち伸び、柱と柱の間に変異体を閉じ込めていく。
「いいぞ!よくやったミュリーナ!」
ケアリオが声を上げてミュリーナを絶賛する。変異体を取り囲む氷の柱の間には大きな隙間があるが、脚を出すことが出来るくらいで身体は通らない。氷の柱は二メートルを超える程の高さがあり、中央に向かって狭まっていて上の隙間からも蜘蛛の身体が通るほどの隙間はない。檻となって変異体を完全に閉じ込めた形だ。
「お、結構いい感じに出来た? でもあんまり持たないかもね」
変異体は氷の檻の隙間から足を伸ばして、前に進もうと地面を掻くが土を抉るのみで身体を氷の檻にぶつけて進めないでいる。氷の柱にぶつかる度に柱が軋みを上げている。
「早いとこ決めちまおう」
槍を持ったケアリオが変異体に近付こうとするが、変異体は動けなくなったことで半狂乱になったのか、氷の檻の隙間から出した脚を大きく暴れさせ、容易に近づけなくなっていた。あまり踏み込まないように槍で脚と打ち合ってみるが変異体の身体に比べて細い足とは言え、その外骨格に覆われた脚の太さはユーマの脚よりも太く、槍などでは潰せそうにはない。
脚をばたつかせる変異体に、ケアリオよりも攻撃が届く範囲が短いエドガスにはより深刻だった。剣が本体に届く範囲ではまともに殴られかねず、それを一つ盾で受け止めても次の瞬間、別の脚のでたらめな動きに対応できそうにない。
「動けないだけで、これじゃあ。――、近づけねぇな。魔術で仕留められないか?」
「一撃でって言うのはちょっと難しいと思うけど、やるだけやってみるよ。威力の高いのだと氷も一緒に壊れるから、ヒルダ、サポートよろしく」
これほど巨体を持つ相手はそうそういるものではない。歩脚を除いた体躯だけでみてもよほど大きく育った熊にも引けを取らず、そうでなくても生命力の高そうな虫型の、それも変異体である。下手をすれば身体の半分を失っても、いずれ死ぬとしてもしばらくは動き続けるかもしれない。仕留めるつもりなら一切の遠慮の無い打撃が必要だろう。
このまま時間をかければ落ち着いた後に関節や腹などの柔らかい部分を攻撃をすればエドガスやケアリオの剣や槍でも倒せなくもないだろうが、変異体の身体がぶつかる度に揺らぎ、軋みを上げる氷の檻はその時間まで持ってくれそうにない。
――ド、ダ! ダジェ、ダジェ! ボア、レア!
変異体は大蜘蛛が発したのと似たあの不快な鳴き声を上げ始める。滑らないものを擦り合わせるような、固まった樹脂を叩き合わせるような、不快な鳴き声だ。ただその音は大蜘蛛などより大きく、それ以上に不快な音に聞こえる。
その鳴き声と同時に、変異体は更に激しく暴れ始め、それにより檻を作る氷の柱のうち、比較的細いものが音を立ててへし折れた。歩脚をさらに激しく振り回す変異体に、エドガスよりもリーチのあるケアリオですら脚の届く範囲から後退せざるを得ない。
「うーん。その前にもう一度囲って時間を稼ごうか。柱がもう壊れそうだし」
ミュリーナは変異体に使う魔術に関して詠唱を必要としていた。変異体に十分に効果を及ぼせるような魔術をミュリーナもヒルダも準備ができていなかったのだ。変異体に使うために大蜘蛛に使うよりも、よりも強力な魔術を準備はしていたのだが変異体が想像以上に大きく、準備をしていた魔術では十分な効果を期待できなかった。
威力の高い攻撃魔術よりは短い詠唱ですむ、氷の柱を生み出す魔術で時間を稼ごうと、ミュリーナがもう一度魔術の詠唱に集中を初めた時に、変異体の様子が変化する。変異体が暴れさせていた歩脚のすべてを自分の身体へと引き寄せ、丸まるような姿勢を取る。
「ミュリーナ! みんな! 逃げて!」
「エドガス! ケアリオも下がって!」
その変異体の様子を見てユーマとヒルダの声が重なる。変異体は丸めた歩脚の先すべてを地面に叩きつけると、変異体の巨体が動く。簡単には動けないはずの変異体の胴体が縦に動いたのだ。
その光景は、間近に見ていた五人にとっても信じがたい光景だった。状況をもっとも把握していたのは、変異体から一番遠く離れていたユーマだっただろう。変異体が跳躍したのだ。岩を砕くような音を立てて変異体を閉じ込めていた氷の柱が砕け、変異体は身体を浮かせていた。
蜘蛛の中には跳躍を得意とする種類がある。それらは変異体に比べればはるかに小さな身体しか持たない蜘蛛だが実に自身の体長の数十倍の距離を跳躍する。変異体はせいぜい体長と同じ程度を跳躍したに過ぎない。だが、三メートルの巨躯を持つ変異体にとってはそれで十分だ。跳躍の勢いで自身を捉えていた氷の柱を粉砕し、三メートルもの高さまで浮き上がったのだ。
変異体のすぐ近くにいたケアリオ、エドガス、そしてミュリーナには変異体の移動に目がついていかない。氷の檻を粉砕した変異体が消えたようにすら感じていた。しかし変異体が跳躍し地面に降り立つまで、時間はそうかからない。ただユーマには高い角度で跳躍し、その高点で足を広げ、放物線を描いてミュリーナの方へ降りていく変異体の姿が見えていた。
地響きを立てながら変異体が着地したのはミュリーナの目の前だった。変異体は六本の脚でその身体を支えて着地し同時に前脚の二本をミュリーナに向かって振り下ろした。
「盾よ! 弾け!」
振り落とされた変異種の前脚は、ヒルダが即効で発動させた魔術によりミュリーナには届かない。だが届かないだけで三メートルもの高さから体重を載せて振り落とされた前脚は十分な勢いを持っていた。ヒルダが発動させた魔術の障壁ごとミュリーナは数メートルもの距離を弾き飛ばされてしまう。
弾き飛ばされたミュリーナは地面にぶつかり、そのまま地面を転がる。着地点から勢いで転がったため衝撃以上に長い距離を飛ばされたように見えた。変異体は前脚を弾かれたことに驚いたのか、転がったミュリーナに対してゆっくりと脚を進めていった。
「ミュリーナ!」
弾き飛ばされ、地面を転がってきた恋人に躙り寄る変異体をみたユーマは、虫への恐怖もわすれてたまらず走り出していた。後援であるヒルダよりも後ろに控えていたユーマだが、ヒルダを追い越し、用心のために抜いていた鉈をもった手を振り上げ、今まで一度も使っていなかった鉈を、ミュリーナに向けていた変異種の前脚へと無我夢中で振り下ろしていた。