15 見られちゃいました
ミュリーナは狼の顎から引き抜いたユーマの腕を確認する。指先から肘まで赤黒く染まったグローブは噛まれていた手首の辺りが破れてしまっている。ぼろぼろに裂けているあたり、ただしっかりと噛んでいたわけではなく、途中途中で逃さないようにしながら何度も噛み直していたのだろう。
「ひっ!痛、いたたっ! ミュリーナ、引っ張るは痛いです!」
ユーマの上腕まであるグローブはユーマを太陽の光から守るためには役に立ち、森でも植物によるひっかき傷などからユーマを保護していてくれたが、急いで脱がそうと言うときには逆に手間が増えてしまう。
ミュリーナはユーマの上腕部にあるグローブの結び紐をきつく締め直して止血帯の代わりとし、引き裂かれた場所から、取り出したナイフの刃を入れてグローブの裂けた部分を広げて切り取りそこから指先までの部分を抜き取りユーマの噛まれた左手首部分を露出させる。
ユーマもグローブの下の自分の腕を見るが、まさに目を覆いたくなるような惨状である。手首ではない下腕の中程で腕が曲がり、そこから手首まで間に皮膚と肉がささくれるように裂けている。出血はいくらか抑えられているとは言え、それでもユーマの脈に合わせて血が目に見えて溢れているところもある。
その惨状に思わずユーマの力が抜け、狼に覆いかぶさったまま四肢をぐったりと投げ出してしまう。だがその傷も、ユーマとミュリーナの目の前で癒え始めている。日光にあたって焼け焦げた時以上の怪我はユーマにとっても初めてだったが、同じ様にこの身体は治癒してくれるらしい。
「ユーマちゃん、これ……」
ミュリーナはユーマの怪我が治っていくのを見て、言葉を失う。ユーマはそれも仕方がないと思う。自分の体のこととは言え、まるで映像を逆再生したかのように傷が癒えていく様子は自身で見ていても気味が悪い。だが、ミュリーナにとっては見慣れているとは言えないまでもその様子には見覚えがある。
ユーマの傷が癒えていく様子は、治癒の魔術を使った時の様子に似ていた。これほどの大怪我を癒やすのは魔術にしても大仕事であり、治癒を得意とするのはヒルダであってミュリーナはそういう時には補助に回っていたのではあるが、ともかくそういった様子は見たことがあったのだ。
癒やしの魔術を用意していたミュリーナだったが、ミュリーナが魔術を使うよりも早い速度で傷が癒えていくユーマの腕を見て使用を見送る。ユーマの腕の傷が何らかの魔術か、少なくとも魔法が影響しているのはほぼ間違いない。そこへミュリーナの魔術を重ねてしまうとその力を阻害してしまうかもしれなかったからだ。
ユーマの腕の痛みは続いているが、傷が癒えていくにしたがってその痛みの範囲は狭く、緩やかに引いていく。ただ、目の前で骨が元の位置へと戻った時に腕の中で鈍い音が聞こえた気がして、一際大きな鈍痛に襲われユーマは仰け反る。
「んぐぃふっ!」
「う……ユーマちゃん、これ借りるね」
痛みに呻くユーマを見て心配しながらも、ミュリーナはユーマの腰の鉈を取って鞘から抜き取り、残った鞘を腕に当てて脱がしたグローブの紐を利用して縛り付け、骨が元の位置に戻ったばかりの腕を固定していく。鞘そのものは木の板を張り合わせて出来た軽く真っ直ぐで平らな物だ。当て木に使うには丁度よい。
――ちょっと、チビッたかも……
少しずつ痛みが和らいでいくところに不意打ちのように骨がずれる痛みに襲われ、全身を強張らせ、仰け反った拍子に少し漏れたようだったがミュリーナに見られている手前では確認するわけにも行かなかった。もっとも確認しようにもその強烈な痛みに、それの後でも脂汗が吹き出し、投げ出した手足に力が入らない。
「骨、戻ったみたいだけど念の為、あんまり動かさないでね」
骨が折られた時もおそらく同じ様に痛かったはずだが、あまりに突然の事で、また狼に襲われている最中だったためかそこまで痛みに気が回っていなかったが、怪我の状態に意識を向けていた時に襲った痛みは比べようもない。ミュリーナはそう言ってくれたが、ユーマは奥歯も震えて身体に力が入らずそもそも動かせそうにもない。
「ユーマ! アイン、ユーマは僕の家族だ!」
ミュリーナが当て木をしているところで、その後ろの方から叫び声がかかる。ユーマは目だけでデニスを確認すると、ようやく開放されたデニスがアインと呼んだ狼を止めようと二、三歩進むがこちらも足を滑らせて倒れてしまう。半日近く捕らえられたまま、意識があるのにもがいても殆ど動けないという状況での疲労は相当なものだ。デニスの方も精魂尽き果てていても仕方がないだろう。
エドガスはユーマたちの方を見て状況が落ち着いているのを確認する。ユーマは狼の上で脱力して動かないがミュリーナの方が見たところ落ち着いて治療にあたっていた。デニスを助け起こしてから二人でユーマたちの方へ近寄る。本来ならもっと狼を警戒するべきだったが幸いなことにはユーマにの下敷きになっている狼はユーマに覆いかぶさられたまま静かにしていた。
「ユーマの方はどうだ?」
「怪我は酷いけどとりあえずは大丈夫、後で一度ヒルダに見てもらったほうが良いとおもう」
エドガスたちがユーマとミュリーナの元へ来た時には、固定が終わったユーマの腕はミュリーナのタオルで丁寧に包装されていた。所々に血が滲んではいるが、溢れるような出血はもうなくなっている。
「ユーマ……大丈夫?」
「はい。デニスも、大丈夫ですか?」
「うん」
ユーマとデニスもお互いの無事を確かめる。ユーマは左腕に当て木をされ四肢を投げ出した状態で、デニスはエドガスに片脇を抱えられるようにして立っているのがやっとの状態だが、さしあたって現時点では命に別状はなさそうだ。
「アインは……その、狼は?」
「ん。この子は、大丈夫です。ミュリーナ、起きます。手伝ってください。狼は大丈夫です。動かないです」
「ユーマちゃん大丈夫?」
狼の上から起き上がろうとするユーマが地面に足を立てようとするが、まだ身体が震えて上手く立てない。ミュリーナに手を貸してもらい、ようやく狼の上から離れるが、ユーマの言う通り狼はユーマに乗られていた時の体勢のまま地面に伏せている。
「ええと、名前はアイン、ですか? アイン、私たちを襲わないならもう動いて大丈夫です」
ずっと動かないでいた狼は、ユーマの言葉を聞いてやっと動き出す。そのタイミングから、ユーマの言葉を理解しての行動なのは他の誰の目にも明らかだった。つい先程までユーマを襲い、その手首に噛みつき大怪我を負わせたはずの狼が、その被害者の言葉に忠実に行動するのは異様だった。
「え? あの狼、ユーマちゃんの言ってることがわかるの?」
「はい。私の言うことも、今は少しは聞いてくれます」
動き出した狼はエドガスに抱き抱えられたデニスの元へ行き、デニスの心配をしているようだ。デニスを抱えたエドガスは狼に気を払いつつミュリーナに次の指示を出す。
「ミュリーナ、ケアリオたちと連絡を取りたい。頼めるか」
「わかった。ユーマちゃん、立てる?ちょっとだけ我慢してね」
頷いたユーマはミュリーナの手を離す。一度立ってしまえば、立っていることはできそうだった。もう少し休めば直に歩くのも問題ないだろうと見当をつける。ユーマから少し離れたミュリーナは呪文の詠唱を始めた。ユーマも何度かミュリーナの魔術を見ているが、呪文の詠唱は初めてだ。
ミュリーナたちが普段使っている魔術は、呪文の詠唱などを含めた必要な手順をすべて終えた状態のものを発動させている。弓で例えれば、矢をつがえ引いた状態の魔術を常に幾つか持っている。あとは、予め決めた切っ掛けにより魔術を発動させるだけだ。
しかし、準備を終えていない魔術は必要な手順を最初から行う必要がある。常に準備を終えておける魔術の数には限りもあり、呪文の詠唱などの準備に時間がかかっても問題のない魔術はこうして最初から魔術の手順を行うのだった。
呪文の詠唱が終わるとつむじ風がミュリーナを包み、その風はミュリーナが前に掲げた右手の掌一点に集まっていく。その右手を頭上へと振り上げると、集まり圧縮された風の塊が森の木々の間を縫って上空へと打ち上げられた。森の木々よりも高く打ち上げられたそれは上空で開放され、爆発音を上げて森に響き渡る。
真下で聞いた爆発音は相当に大きく、ユーマたちの身体を震わせてユーマに至っては驚いてたじろいで数歩よろめいてしまう。爆音を轟かせたミュリーナは慌ててユーマの方へ駆け寄り、ユーマを支え直す。
「ほら、ユーマちゃん気をつけて」
「は、はい」
ユーマも何とか立っているがまだ腕の痛みが無くなったわけではない。大怪我なだけに回復にも時間がかかりそうだったし、デニスもまだふらついている。朝食後から何も食べていないのもあるが、動けないなりにずいぶんと暴れていた。脱水などの状態が心配だった。
「ユーマ、大丈夫?ごめん……アインがひどいことして……」
「大丈夫、です。少しくらいの怪我は、直ぐ治ります。それにアインはデニスを助けただけです。私が脅かしたからです。気にしないで」
ユーマとデニスがお互いに声を掛け合っていると、すぐに何処か離れた場所で、先ほどミュリーナがおこした爆発音とよく似た音が響く。ヒルダが同じ魔術で爆発を起こしたのだろう。爆発音はエドガスたちの間で決めていた簡易の連絡手段だった。より高度な意思疎通の為の魔術もあるが、単純さや負担の少なさなどで大きな爆発音を立てるこの魔術により野外での連絡手段としていたのだ。
「ユーマ、歩けそうか?」
「はい、ゆっくりなら、大丈夫だと思います」
エドガスが見たところ、ユーマは少し強がっているようではあった。歩けないわけではないというのは嘘ではなさそうだったが、デニスも含めて怪我人を二人も抱えることになる。
「少し休憩してから戻ろう。早くデニスを送り届けて安心させてやりたいがこっちもあまり無理をして戻るのも大変だ」
「はい、ありがとうございます」
ケアリオたちに拠点に戻るように連絡はできている。細かいことはわからないが休憩をしていればケアリオとヒルダが先に村に到着しているだろう。デニスの捜索を打ち切った意味を察して、マーリドたちに上手く言っておいてくれることを期待することにする。
うまく意図が伝わっていなかったとしてもデニスを連れて帰る以上悪いことにはならないだろう。ユーマたちはミュリーナに助けられながら座り込み、昼の残りで水分補給などをしている。狼はユーマとデニスの間に大人しく座り込んでいた。
「この狼、どうするの?」
「……連れて行きます。アインは、もう野生の動物とは言えないです」
吸血鬼とは何者なのか。それは文字通り人の血を食らうバケモノのことをそう呼ぶのだ。だがそれはあくまで人の視点で吸血鬼を語ったものだ。狼に襲われたための偶然の結果ではあったが、今のユーマは吸血鬼の本質の一部を知ることになった。ユーマの憶測ではあるが、おそらくアインはユーマの血を飲んだことでユーマの言葉を聞き分け、命令の一部に従うようになっている。
アイン自身が吸血鬼になったわけではない。吸血鬼の下僕、眷属、あるいは使い魔などと言える存在なのだろう。
だがその能力では吸血鬼の言葉の意味には合わない。おそらく、人の血をユーマが飲むことでも何かがあるのだろう。どんな事が起こるのかはわからないが、ユーマにとっては人の血を飲むという事には忌避感があるし、いわゆる吸血衝動のようなものもない。あまり試したいともユーマは思わなかった。
ミュリーナは今は何も聞かないでくれているが、怪我が治っていくところをミュリーナも見たはずだ。帰って落ち着いたら説明が必要だろう。今後の付き合いを考えても、いつまでも隠しておくのは難しいし良いことだとも思わなかった。
「デニスも大丈夫ですか?疲れていないですか?」
「うん、僕は大丈夫。ユーマのほうが気をつけないと」
とりあえず水を飲んだデニスはいくらか元気を取り戻している。もちろん披露しているだろうし腹は減っているだろうが、それで動けなくなると言うほどではなさそうだ。あとは、ユーマ自身がちゃんと歩けるかどうかだ。
まだ動かすと痛みだす左腕はおいておき、ユーマは右手を開いたり閉じたりし、足に力が入るかどうかを確認する。
「エドガス。大丈夫です。帰りましょう」
「わかった。よし、行こう。ミュリーナ、ユーマを頼む」
鞘を当て木として使っているため、抜身となった鉈をエドガスに預かってもらい、一行はデニスを伴って村へと戻るために立ち上がる。念の為にデニスにはエドガスが、ユーマにはミュリーナが近くで何時でも助けられるようにそばについて歩き出す。
「ミュリーナ」
「うん」
「明日、少しお話させてください。朝早く、お話したいです」