10 お風呂会ってこんなのでしたっけ……
ミュリーナはユーマの長い銀髪に指を差し入れ、ゆっくりとくしけずるように洗う。最初こそ身体を洗おうとするミュリーナに抵抗していたユーマだったが、今は諦めたように座って少し顎を上げ、ミュリーナにまかせていた。
ユーマはミュリーナを見ないように、顔を背けながら抵抗を続けていたのだが、あまりにミュリーナを視界に入れないように顔を背け続けるユーマに、ミュリーナが不満を爆発させてしまった。
「ユーマちゃん、話をする時はちゃんと目を見て!」
結局そう言われたユーマが折れ、ミュリーナに任せることにしてしまった。少なくともミュリーナがユーマの背中や髪を洗っている間は、背後にいるミュリーナから不自然に目を背けている必要はない。ただ、前を向いていれば良いのだ。
普段の入浴では、髪も身体もざっくりと洗って終わりにしてしまうユーマにとって、ミュリーナの丁寧な洗い方は時間を掛けすぎではないかと思うものの、引っ張ったり、無理にこすったりはせず、しかし適度に力が入っているその洗い方はマッサージのような効果でもあるのか肌に心地よい。
「ミュリーナ、あれは、魔法ですか?」
顎を上げた姿勢のまま、少し上がった視線の先にはミュリーナが生み出した光がある。ロウソクやオイルランプの様に燃料を燃やしているようには見えず、それでいてそれら既存の灯りに比べても明るく、光量も一定で安定している。こんな明かりが普及したら、村の夜ももう少し賑やかになるのではないかと考える。
「んー、魔法、まあ魔法かな? 私たちは魔術って呼んでるけど」
「マジュツ? 魔法と魔術は違っていますか?」
「私達が使うのが魔術で、魔法は魔術の――とかのこと、かな」
何となく聞いたユーマだったが、ミュリーナはユーマの髪と頭皮を優しく揉みながら、難しい話を始めてしまっていた。わからない言葉を聞きただしながら確認していくと、ユーマたちが魔法とひとくくりにしている言葉は魔術師にとっては、世の中の事象を統べる法、つまり法則の様なものらしい。
そうした魔法という法則を用いて、その素となる力を感じ取り、操作し、形作り、望んだ状態で利用する技術。そうした術を魔術と呼ぶ。更に細かく、素となる力の種類や、操作の方法、術の作り方などで呼び方や流派のようなものが幾つか在るのだという。
「……その、魔術は、私も使えますか?」
それはミュリーナやヒルダが魔術を使うのを見ていて思っていたことだった。昼間に森を歩いた時、ケアリオのアドバイスに従い大蜘蛛を見るたびに鉈を抜いては居たものの、大蜘蛛に近づくのは容易ではなかった。なにせユーマは足が竦んで動けないのだ。
そしてそれは大蜘蛛に限った話ではない。何らかの理由で近づくことが出来ない相手は他にも存在するだろう。そうした相手には魔術が有効だろうと思えた。もちろん石を投げたり、弓を使うと言う方法もある。しかしそれらと比べても魔術には物理的な制約が少ないように見え、汎用性にも富み魅力的に見える。
「使えるよ。もちろんちゃんと勉強して練習とかしないといけないけど」
ミュリーナにあっさりと肯定され、ユーマは拍子抜けする。ミュリーナによれば魔術の適正や才能などはもちろんあるが、それは何人かにひとりと言ったような稀有な才能などではなく、魔術を使えない人間はまず居ないのだという。
「でも、師匠を探すのが大変なのよね」
横で掛け湯をしながらヒルダが口を挟む。
「冒険者は――だけど、そこらの職業――や技能学校みたいなのが、魔術師にはないのよね。」
剣士など戦士に必要な戦うための技術を身に着けたければ、手っ取り早いのは都市の兵士になるか、傭兵団に入ると良い。エドガスとケアリオは元は都市ミロスの兵士だったのだそうだ。大工やパン職人であれば街に数十人といるし、組合を作っているので技術なども組合で共有されている。
魔術師になるには魔術師の弟子となり師事することになるが、しかし魔術師は人数が少なく、そうした組合などが出来るような規模ではない。冒険者の中には一般より高い比率で魔術師がいるが、それでも一つのチームに必ずいると言うわけではなく、ミュリーナたちのように四人という少人数のパーティでは、居ない場合のほうが圧倒的に多い。四人の内の二人が魔術師というのは珍しいのだという。
そして魔術を教えるのに適した、落ち着いた環境に居を構える魔術師となると更に少なく、その上それらの魔術師のすべてが弟子を取り魔術を教えているわけではない。己の研究に没頭している魔術師も多いのだ。
運良く魔術師の弟子となってもその扱いは様々だ。後継者として魔術を教えられれば最高だが、弟子とは名ばかりで小間使いの様に扱われることもある。組合などが存在しないので師としての技量もその質に大きく差があり、弟子の扱いがひどくてもそれを正す組織はない。
「だから魔術師の弟子になる事自体、敷居が高いのよ」
「そうそう。魔術師の弟子になるなんて、ほとんど自分から奴隷になりに行くくらいの覚悟が欲しいからねぇ」
なるほどとユーマは頷く。魔術師とは学者であると同時に一種の求道者なのだろう。多くの魔術師が自分の知識や腕を上げる事こそが重要だと考え、魔術を普及させようとは思っていないのだ。
もし弟子をとっても全ての知識を受け継ぐのは自分の後継者として残す一握りであったり、あるいは弟子ではなく魔術書としてのみ知識を後世に残す。さもなければその術は魔術師が己の墓の下まで持って行ってしまう。
魔術がどんなに便利であっても普及しないのは、その知識が一部の魔術師だけに留まり、新たに学ぶ体制も教え広めていく意識も整っておらず、普及の過渡期以前の状態にあるためなのだろう。
「ユーマちゃんは魔術師になりたいの?」
ユーマの髪に手桶で湯をかけ、泡を落としながらミュリーナが聞くが、ユーマは即座には答えられずに沈黙する。武器の扱いが下手だから魔術を学ぶという消去法で答えるのは、はばかられたからだ。魔術を学ぶのも、剣を学ぶのも、どちらも相当の苦労があるだろう。
ならば消去法ではなく、自分の適正で選ぶべきだろう。ユーマは自分には何が適しているのかと思い悩む。吸血鬼であるおかげで、疲れも怪我も回復が人間にはありえない程に早い。持久力も十分にある。そうした能力は前線向きだろう。
しかし前線で武器を持って戦うのであれば筋力などが必要になる。武器だけではなく鎧も着込むだろう。体格に比べて力も強いユーマだったが、あくまでそれは体格に比べてだ。マルスたち兄弟より強くても、実際に前線で戦っているエドガスたちとは比べるべくもない。
そして体重も軽い。ユーマは冒険者四人のなかでもっとも背の低いミュリーナよりも、さらに背が低く軽いのだ。武器の心得などは無いが体重がないと、攻撃が軽いものにしかならないのではないだろうか? それは武器を持って戦うのにはあまりに不利だった。
鍛錬によって筋肉量が増えれば体重も増えるかもしれないが、吸血鬼が成長しないとすれば、背が伸びず将来的にも大幅に体重が増すという期待も持てそうにない。そう考えた時、ユーマには戦士としての将来性、適正には疑問が残る。
魔術についてはどうだろうか? 魔術については判断材料が少ない。ミュリーナは学びさえすればユーマにも魔術は使えるという。だがユーマはまだ言葉もおぼつかない有様である。意思の疎通が何とか出来ている程度というところだ。読み書きはまだ幾つかの単語が読める程度で文としては読むことは出来ない。
そんなユーマの語学力は、学術的な研究の成果として存在する魔術を学ぶにはいささかどころではなく心もとない。ただ、それについては希望はある。言葉も文字も覚えていけるはずだ。現状でも少しずつ覚えて語彙は増えつつある。文字や文章についてもそうだ。
努力次第ではあるが体重の様に途中で頭打ちというわけでも、おそらくないだろう。いずれ母国語である日本語と遜色なく理解できたとして、もちろんそれは言葉についてだけである。魔術師として大成できるかどうかはまた別なのだろう。
だが、今の段階では学ぶのが難しいという以外に、魔術師を目指すことへの障害が見つからない。
「ミュリーナ。私が魔術を勉強して。出来ないことはどれですか?」
しばらく押し黙ったままだったユーマは、思わず振り返りミュリーナに尋ねる。ミュリーナの目を見て、ミュリーナの助言を聞き逃すまいと集中する。ユーマは自分もミュリーナもお互いに裸だということはすっかり忘れ、そして気にならなかった。
「え、出来ないこと?」
「勉強することが出来て、その後、難しいこと。うまく出来ないことです」
「ええと? 魔術を勉強したとして、ユーマちゃんに難しいこと?」
「はい。言葉は難しいです。言葉の他にありますか?」
今度はユーマに質問されたミュリーナが押し黙る。ユーマの赤い瞳にまっすぐ見つめられながらユーマの言葉の意味を吟味する。ユーマの言葉は、たしかに拙い。難しかったり、複雑な表現は苦手のようだ。それはもちろん、魔術を学ぶには障害になるだろう。正直、言葉もまともに喋ることが出来ない者に、魔術を教える魔術師などいはしないだろう
だが、言葉の壁は除外された。ではユーマが幸運にも魔術の師を得たとしよう。魔術を学び初めた者にとって次の障害は、魔力の感覚だろう。魔術師は触覚として魔力を感じる。魔力に触れた触感、あるいは魔力に冷熱の温度を感じる者、それとも魔力を圧力として感じる者もいる。
何を持って魔力を感じるのかは、人によって違う。ただ、より強くはっきり感じ取ることができるかどうかは魔術の才能と言えた。己の魔力の感じ方を知り、その感覚をより磨いて研ぎ澄ませていく。この魔力感覚、あるいは魔力感応や魔力感知とも言われる感覚が魔術を学び始めたものの最初の難関だった。
感覚が弱くとも魔術は使えるが、より高度な魔術にはより強く精度の高い感覚を必要とする。そしてこの魔力感覚を会得するために、年単位もの時間を費やす魔術師もいる。長い時間をかけて弱い魔力感覚しか得られなかった魔術師は、魔術を使えはするものの才能が無かったという外ないだろう。
「んっと…魔力を感じることかな。魔力を感じられないと操れないからね」
ミュリーナはユーマの左手をとって自身の右手の掌を合わせて指を組む。そしてその掌の間に魔力を練り上げていった。そうして練り上げた魔力を掌の中で転がす。回したり、ユーマの手に送り込んだり、引き寄せて離す。その間も掌は組んだままだ。ユーマは組み合わせられた手に視線を落とし、見つめている。
「ミュリーナ。何か、動いています」
「お、いいねいいね!ユーマちゃんどんな感じ?」
「なんだか、手が、押されたり、引っ張られたり。ですか?」
魔力感覚という点においてミュリーナは、才能に恵まれた魔術師だった。幼い頃から魔術師として学び初めた彼女はその頃から、魔力を触覚と、温度覚、そして圧覚の三つの感覚を有する複数感覚の保有者だった。ミュリーナの様に会得するのではなく生まれながらにして魔力感覚を持つものは稀にいる。
ユーマが掌の間の中で、ミュリーナが動かす魔力を感じられるということは、ユーマもまた、そうした天賦の才能を持つのだろう。その感覚を得るのに時間がかからないのであれば、魔術を学ぶのに大きな優位性があることになる。ミュリーナはユーマの感覚をさらに確かめるため、ユーマの右手も同じ様に手を組み腕で輪を作る。
「もっと動かすから、どんな感じがするか教えて」
「はい」
ミュリーナは右手に練り上げた魔力を自分の腕の中に引き込み、肩をつたいそれを左腕に移す。ユーマはその様子を目で追い、ミュリーナの左手に視線を移す。
「こんどは、右手が押されたり、引っ張られたりします。少しくすぐったい感じです」
ミュリーナは満足げに頷く。ユーマは熱い、冷たいとは言わないので温度覚は持たないようだが、おそらくは触覚か圧覚、おそらくはその両方を魔力感覚として持っているようだと確信する。魔力感覚を痛覚として持つ者もいるので、そうでないのも僥倖だ。痛い思いをしながら魔術を使わなくてはならないなど拷問のようなものだからだ。
もう一度、ミュリーナは魔力を右腕に移すと、ユーマもそれを追って自分の左手に視線を送る。そして、ミュリーナはそれに気がつく。ミュリーナは移動させた魔力の塊を右手まで送らずに、そのまま左腕に戻す。同じ様にユーマも、目線を右手に、いや、ミュリーナの左腕に移した。
「……ユーマちゃん、見えてる?」
「え、はい。ミュリーナの、魔力ですか? ミュリーナの腕を中を、明かりが動いてます」
ミュリーナがユーマの手を離すと直ぐに、ユーマを抱き締めて歓声を上げる。
「すっごい! ユーマちゃん、それ! すっごいよ!」
「え、見えてるって、それって視覚で感知?」
驚くのはミュリーナだけではない。ヒルダもまた身を乗り出すようにして確認する。魔力感覚は、通常は触覚系で感じるものなのだ。触覚以外の、聴覚や嗅覚などの感覚で魔力感知するのはそれこそ過去の大魔術師として名を残したものくらいで、それも視覚ともなれば別格だった。
「ミュリーナ! あの、ちょっと!」
「ユーマちゃん!それって、すごい才能だよ!」
突然ミュリーナに抱き締められ、生の胸に顔を埋める形になって集中が途切れ、ユーマはまだ入浴中だったことを思い出す。ユーマは慌てて逃れようとするが、興奮したミュリーナは力強くユーマを抱きしめるのだった。