1・訪問者
覚悟を決めて仕事場まで来てしまえば、隙間風吹き荒ぶ傾きかけたアパートメントにいるよりは、快適に過ごすことが出来る。
何せこちらは建物の普請は一級品だし、支給の燃料は使いたい放題だ。火打ち石を火打ち鎌で打って、麻の切れ端からなる火口を燃やし、暖炉の中で消えないように育てる。燃料は教会保有の湿原から取れる質の良い泥炭を四角く切り分けたもので、容易に燃える。焦げ臭いような匂いはこのあたりでは良い香りとして認識されており、ボーマンも例に漏れず好きだった。酒場のカウンターが想起されスコッチでも飲みたくなるが、流石にそれをやっては免職待ったなしで、我慢する。室内の湿度保持目的と後で茶を飲めるようにと――嗜好品だが、これも支給されるので問題はない――水を張ったケトルを火にかける。
ネームプレートを胸に付けた。
そこからは日課に移る。掃除の基本は高いところから。ハタキで壁や天井、棚や机の上の埃を落として床上をまとめて箒で撫で、固く絞った雑巾で拭き上げていく。週初め以外は床を掃くだけだ。母屋の方から抜き打ちに見に来られた時に汚れが目立つと、これまた喧しいので、これ以上周期を延ばすことは憚られる。
一息つく頃には、身体を動かしたことで促進された代謝と、すっかり暖まった室温でややもすれば背中に汗が滲みそうなくらいの案配になっている。
ここで扉表にかけてある木札をclosedからopenにひっくり返した。
(今日は意味があるかな……?)
前述の通り来訪者がないことを皮肉る。
楽ではあるのだが、それはそれで甲斐がない、とも思えるものだ。役所の同僚達は、やれ開拓、灌漑の土木計画だ、人口調査だ、予算立案だ、などと多忙そうにしつつ充実して見えたりして些か恨めしい。羨望の眼差しで見られるのは心外だった。
「なんなら変わってみろ」
というのだ。
……独り言が増えた実感がある。
やさぐれもする。
入り口からすぐの受付に座って突っ伏する。温もった部屋の中で未だ冷えた卓が頬に当たり、少しだけ気持ちがいい。
来訪者が記帳、支払い後に待機することになる長椅子の並んだ待合いスペースの向こうに続く扉が開け放たれている。その奥の部屋は秤量室であり、天井に巨大な天秤が吊り下げられているのが見て取れた。
あれこそがこの施設の主役であると言っていい。
細部に渡って彫刻や装飾が施された梃子、その両端には丁度人一人が乗れそうな大きさの計量皿が配置されている。
ボーマンからは死角になっている為見えないが、秤を挟むように簾がかかった棚が設置されていて、そこにはこれまた精緻に彫り込まれた、愚者の黄金とも呼ばれる黄銅製の様々な重量の錘が大量に陳列されているのだった。
一休みしたら秤と錘の手入れに着手しなければならない。
数が多いので時間はかかるし億劫だ。一つ一つ細工が細かく、小さなものになると更に磨くのは面倒な上に同じ作業を延々とやっていくのが精神的にきつい。
こちらは多少サボタージュしたところでそうそう見抜かれることはない。
だからといって手を抜いたことはないが。
損な性格だ。全く。
「…………」
そのまま、四半刻の半分ほどの時間が経過した。
(やれやれ)
小休止は終わりだ。磨き用の未使用端切れ布を持って、錘の棚に向かう。重量順で相当な数があり、一日に手入れする個数をサイズの負荷に応じて決めていて――大きいものを実施する時にはノルマを減らしているということだ――、月齢周期一回分くらいで丁度周回するように分けてある。その後ははまた最初からだ。終わりというものはない。
「今日はどこからだったかな……」
前回の区切りを思い出しながら、手を付ける予定だった場所を探す。
と。
カン、カン。
扉に据え付けてある金属製のノッカーが叩かれ、甲高い空気の振動が耳朶を打つ。
(おや、珍しい)
母屋の方からの見回りは今日ではないし、来ても時間はこんなに早くはない。そもそも彼らはノッカーなど叩かない。
ということは、消去法で客だということだ。
「はいはい――」
迎えに出る暇もあればこそ、外から扉は開け放たれ、来訪者は無遠慮に、飛び込むようにして足を踏み入れていた。
「う~、寒い寒い……。わっ。中はあったか~い!」
ほんの短い時間の間に正反対の体感温度に関する感想を口にしたのは二十歳そこそこに見える小娘だった。
ボーマンも二十代半ばの小僧ではあるが、ともかく、自身よりは若い。
旅人なのだろうが、旅装は地味でもかなりものがいい。フードや袖口に豪華なファーがあしらわれた厚手のコートを身に纏っている。手袋や靴も同様だ。手に提げている背嚢はややくたびれているが、そのへんはまあ、季節に関わらず使うものなのでそういうものだろう。
「どうも、おはようございます」ともあれ、慣例として来訪者には愛想よく挨拶を入れ、用件の確認を行う。「最初に窺いますが、秤に御用でお間違いはないでしょうか?」
「そうそう」女性は鷹揚に首肯する。「『常人証明書』を発行してくれるのよね?」
その発言から、勘違いで迷い込んできたわけではない――たまにあるのだ――と判断。
「ええ、あなたの重量がその範囲内であれば……。では、こちらに記名と、寄進の方をお願い致します」
「ここね? え~と」
女性は手袋を外し、かじかみを取るようにして息を吹き付けてから、備え付けのペンを使ってさらさらと記名をする。歪んでいてあまり上手ではない。
エセル・キルパトリックというのが名前なようだ。
寄進料は銀貨三枚。鍵付きの箱の中に入れられる。この内二枚が教会に納められ、一枚が市の取り分ということになる。
「たかだか体重を測ってもらうだけで、これは暴利というものよね~」
別に怒るという感じでもなくエセルはそんなことを呟いてくる。反応に困って、ボーマンは苦笑するしかない。
「はは……。それでは、奥の部屋で秤に乗って頂きますので、荷物は下ろしてください。そちらのコートも。目方を多く測定することになってしまうので……」
「ええ、分かったわ」ちら、と名札を見やって。「ボーマン? 重く見積もられて、魔女扱いされては堪らないものね?」
そのあたりは知識が半端らしい。世間話代わりに訂正する。
「魔女である場合は、目方が軽くなる方らしいですよ。エセル。魂を〈今でなく、ここでない場所〉へと接続する為の契約に捧げている分、目減りしているそうで」
「あら、ということは重たい分にはただのおでぶさんなのね……。ふふ。まあいいわ、ここでこの恰好だと、段々と暑くなってきていたもの」
備え付けの衣架に荷物とコートをうまく引っ掛ける。短衣とズボン、という恰好になったところを見て、それ以上特に重たいものはなさそうだとボーマンは判断する。
(釣り合ったところで最後に一瓩引けばいいかな……。……うん?)
ふと、エセルの服の胸元にある縫い取りに目が行く。
それは、地図上で北を示す矢印を鷹で意匠化した紋章だ。
取りも直さず、彼女の所属する組織を表している。
母屋の方から、その組織の人間が来ても中に入れないように言われていた。
「あんた、あれなのか?」
最早丁寧語でも何でもない。声が上擦った。
「え? なに?」
「だから、それ……」
胸元を右手で指しながら、左手で頭をくしゃっと掻く。正確な呼称が思い出せない。
揶揄したような呼び名だけが、どうにか記憶の底から掘り出される。
「あんたは『地図屋』の人間、なのか?」
「その呼び方は止めて欲しいんだけどな~」
唇を尖らせて、エセルは訂正してきた。
「『帝立知識蒐集調所 平面化機構』が正しい名前なんだよ?」
何故だか誇らしげに胸を張り、ぴ、指を一本立ててくる。