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夢物語   鯨

作者: 森田 享

   鯨




 夜明け前の渚を、私は一人で歩いていた。

 薄暗い空の下の黒い海に、微かに白い波頭が立っては砕け散り、暗い砂浜に、黒い生き物のような波が広がる。滑るように寄せては返す波を見ていると、意識が海に引き込まれていくように感じた。

 歩き続けていると、やがて辺りは乳白色に明るみ、東の水平線の太陽が昇ろうとしているあたりが、薄紫色から徐々に薄桃色に染まってゆく。

 まだ薄闇に暗く沈んでいる足下の砂を見ていると、私は何のために歩いているのか、その目的を見失いそうになってくる。まとわり付いてくるような砂に足を取られ、下半身が重かったが、私は波打ち際を黙々と歩いた。

 昨日の夕刻、美しい海岸線の向こう、遥か遠くの浜に何かを発見したので、私は夜明け前の暗い内から、それが何なのかを確かめるために、ずっと歩き続けていた。

 広大な砂浜の向こうに、目的のものが段々と近づいて見える。海岸によくある突き出た大きな岩礁か、あるいは陸揚げされた大きな船なのか。渚の朝靄あさもやが、ゆっくりと消えてゆく。目的のものに徐々に近づいて行って、やがて私の視界に目的のものが鮮明に映った。

 近づいて行けば行くほどに、それは砂浜を遮る大きな灰色の岩壁だろうとも思ったのだが、それは浜に打ち上げられた岩山のように巨大な淡灰色の鯨だった。


 その鯨は一つの生きた塊りとしては、私が見たものの中で、最大だと思った。それもそのはずで、それは地球史上最大の動物である白長須鯨であった。おそらく白長須鯨の中でも未知の最大個体なのだろう、全長四十メートル近くあるかも知れない。

白長須鯨とは、こんなに大きくて、こんなに重そうなものなのか、と私は思った。命をたった一つだけ持ち、哺乳類としての体が一つなのは私と全く同じなのに、こんなにも大きな動物がいるものなのか。その体の大きさ、その重さは、何と比較したらいいのか見当もつかない。全長は私の二十倍、体重は二百トンとしたら私の三千倍だが、人間と比較してみても実感が全く掴めない。ただ、人間の作った貯水槽や貯水池に入れるには、あまりにも大き過ぎることは分かる。もし淡水に生息できるとしても、この巨大な鯨には大河だろうと湖だろうと陸地には居場所はない。白長須鯨にとって陸上は狭過ぎる。途方もなく広い大海でしか、この鯨は生きていけないのが当然だ。だからこそ、この鯨が海から出てしまって、陸地に打ち上がっていることに、私は驚愕し、惑乱した。


 しかし、私は、陸に打ち上がっている鯨を遠くから見ているだけで、何もできずに、ただ考えることしかできなかった。

この巨大な鯨が、百年もの間、途方もない膨大な量の動物性プランクトンを食べて、こんな地球史上最大の巨体になったこと、そして、その巨体を今はただ浜に横たえているだけであることに、私はある虚しさを感じた。鯨の寿命である百年もの歳月をかけ、一日に何トンもの莫大な食物を消費し続けてきたのに、その末路は生命力を使い果たし、ただ浜に流れ着いて、今や獣や鳥や虫と同じように死を迎えている。こんなに巨大化した肉体と、世界中の海を回遊して、ひたすらオキアミや小魚なども飲み込み続けた単純な時間の連続に、何か意味が有ったのだろうか、と私は思った。

その意味が後に、この鯨の死によって、私にも少しだけ分かったような気がしたのだが、この時にはまだ、私には鯨の一生が全く無意味なことでしかないように思われた。


私は、鯨が、もはや体を大きく動かすことはないと悟り、安心して、その淡灰色で光沢のある小山のような巨体に近づいてみた。その肉体はまだ息づいていた。胴体を中心に大きく波打ち、脈動しているのが分かる。強大な鼓動が、鯨の横たわっている大地を通して、私の足から全身に音と振動を伝えた。私は、その巨大な鯨は地球の全ての動物の母であるように思った。

しかしまた、鯨の心臓の脈動が少しずつ弱くなり、今にも最後の鼓動を残して止まろうとしていることも分かった。

海から出てしまい、浜に打ち上がっている鯨を見ていて、こんなにも巨大な鯨にとっては、海という世界は狭かったのだろうか、と言う疑問を私は持った。

いや、こんなに大きな鯨にとっても、海は、まさに比較にも成らないほど、途方もないくらいに広大な世界であるはずだ。狭過ぎたとは、とても思えないが、現実に、この巨大な鯨は、世界中の海を泳ぎ尽くして、海から泳ぎ出て、陸地にいた。しかし、それは、決して巨大な鯨にとって、海が狭かった結果ではないだろう。

それは、ただ巨大な鯨にも死が訪れたからに他ならない。こんなに巨大な鯨にとっても、やはり生きる世界は、人間の私と同じ、限られた時間と空間の、狭い有限の世界に過ぎないのだ。


私は、その鯨の、自動車のタイヤよりも大きな瞳の前に立っていた。

老人のように思慮深く英知に満ちたような眼をしている。その黒く潤んでいて、人間的な親しみさえ感じさせる巨大な瞳に、空と砂浜と、海が少し、そして、小さく立っている私が映っている。鯨の眼を見つめていて、私はなぜだか、その眼はもう見えないのだと理解した。

私は、盲目の老いた巨鯨が海の中を泳いでいるさまを想像していた。

しかし、そんな老いて盲目となった巨鯨にも、若い頃があっただろう。白長須鯨の子は、母体からこの世に生まれ出て来たときに、既に七メートルもあると言う。大きな赤ん坊の鯨は、温暖な熱帯の海で母に育てられ、やがて母と離れて、より豊富な食物を求め広大な海を孤独に回遊して巨鯨になった。いつか雄の鯨に出会い、自らも子を産んだだろう。鯨の背には、銛が何本か突き刺さったままになっているのが見えるが、きっと

鯨漁師たちと幾度となく己の生存を懸けた死闘を繰り広げたに違いない。

そして、鯨は年老いて、盲目となり、ほんの僅かに感じる光を頼りに暗黒の海の中を、ゆっくりと進み、ついにこの白い海浜に泳ぎ着いて力尽きたのだ。


 いつの間にか、太陽は水平線から高く昇り、鯨の背に朝陽が煌めいていると私が気づいたとき、鯨は静かに、深い眠りにつこうとしていた。大きな黒い瞳が涙一つ流さずに、ゆっくりと光を失っていく。巨大な心臓が止まったのだ。すさまじく力強かった吸排気と脈動が弱まり、やがて鯨の大きな鼓動は、まったく感じられなくなった。

白い朝の温かな光に包まれながら、鯨は生命を失った。満々と海水を湛えているかのようだった鯨の体が、一瞬にして全ての力を失い、ただの一塊の肉の山のように見えた。

こんなに巨大な鯨にとっても、そのたった一つの命とは一体なんだったのだろう。神秘的なまでに雄大で、生物を超越しているかのような存在にも思われるのに、やはり最後は、傷つき年老いて、海から追いやられ、そして鯨は孤独に、苦しみながら最後の大きな一息を吐いて死んだ。あとには小山のような淡灰色の肉塊だけが残った。

この鯨の死は、ただ私に、この世界では、悲しみと苦しみの中からしか何も生まれ得ないことを教えているように思われた。いや、この苦しみ抜いた鯨の死が、一体なにを生むというのか。私は、ただただ悲しかった。

こんなに巨大な鯨の体でも、死の直後、一瞬にして生きた血と肉を失った。そして、腐敗し、朽ち果てていった。鯨の亡骸は、やがて白骨になった。広い砂浜に、巨大な白い象牙の塔のように鯨の骨が何本も並んでいる。そそり立っている骨が、そのまま鯨の大きな墓標のようだった。その鯨の墓場に、私は別れを告げた。


しかし、百年が経っても、私は、あの鯨のことを忘れることができなかった。

百年後に、年老いた私は再び、あの広い海浜を歩いていた。

あれから、もう百年も経っているので、砂浜の風景も変わっているのだろう。ここがあの場所なのか、もしかしたら、あの鯨と出会ったのは、もっと向こうの砂浜なのか、はっきりとしたことは、もはや分からなかった。

それでも、私は、思い出の渚を歩き続けた。

やがて砂浜の向こうに、美しい小さな入り江が見えた。その向こうには、穏やかな入り江を育んでいる美しい岬。その岬は、ちょうど、あの鯨が死んだその場所にあるように、私には思われた。

その美しい岬は、あの鯨の亡骸の白骨に、砂と土が降り積もって、大きな岩山のようになって、その丘に草と木が寄生し群生し、青々と生い茂って小さな森となったものだ。そして、その森が岬になったのだと、私は信じたかった。


鯨の亡骸は百年後には小さな森になり、その小さな森が今では、この小さな入り江の美しい岬になった。

世界は、常に入れ替わりを求めている。入って来たものは、いつか次のために出て行かなければならない。だから、鯨は、自分の命を賭して、その屍を肥やしに、ほんの小さな美しい岬を生み残した。それは、自分が朽ち果てることによってしか、そのあとに何かが生まれ得ることができないからだったのだ。

私は、そう思った。

そして、私は、鯨が生きて、ここで死んだことに、まったく意味が無かったのではない、と思いたかった。少しは意味が有ったのではないか。


 さあ、鯨の岬の先端まで歩いてみよう――。










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