MY SWEET DARLIN'(補完編) 祭りの夜
「わかったから。じゃあ、なーに。何で怒ってるの」
「ほらまた聞き流してた。もういい!」
執務室の扉を開いた途端、神官長の耳には、二つの声が耳に飛び込んできた。
その声の持ち主は、神官長にとって、よく知っている二人だというのに、いつもとは全く違う雰囲気に、その場から動けなくなってしまった。
小首を傾げ、中の様子に耳を澄ますだけで、扉を持つ手を離すことすら出来ない。
なだめすかすような祭宮の声。
感情を剥き出しに怒る巫女の声。
そんな二人の遣り取りは、神官長にとって信じられないものだった。
二人が話している姿は、祭宮が神殿に来るたびに見ていたものの、今まで二人がそんな風に話す姿は見たことがなかった。
一体何があって二人が言い争っているのか、また二人が言い争うほど仲がいいようにも思えなかった。
だからこそ、耳に飛び込んできた声は、神官長にとって信じられないものだった。
祭宮の深い溜息が聞こえる。
祭宮とは、幼い頃からの知り合いだけれど、今まで神官長の前ではそういった溜息をつく事もなかったので、神官長の顔には更に困惑が広がる。
いつも笑顔を絶やさない人なのに、と心の中で祭宮の笑顔を思い出していた。
綺麗に笑う王子だと、王都にいた頃から思っていたのに。
なぜ、こんな風に巫女に向かって冷たい態度を取れるのだろう。
全てが、神官長にとって想像すらしたことがない出来事で、扉の前でただ立ち尽くすしかない。
止めた方がいいんだろうか。
そういう思いも心を過ぎるものの、なぜか一歩が踏み出せないでいる。
「……気分悪いから、帰る」
巫女の一言に、咄嗟に扉に掛けていた手を離す。
なぜそうしてしまったのか、神官長自身もわからない。
巫女が扉を開けた時、ただ立ち尽くしていたら、巫女も祭宮も不審に思うかもしれない。
それに呆然として立ち尽くしている姿を巫女に見られるのは、神官長のプライドが許さなかった。
意を決して扉を開けると、目の前に巫女が立っていて、その目が大きく見開かれる。
「あら、巫女。こちらにいらっしゃったのね」
取って付けたような言葉に、神官長は内心苦笑する。
しかし、立ち聞きしていたと言う事を感付かれなかったと思うと、自然に笑みが零れる。
ぎこちない笑顔を作る巫女の顔は、先程までの怒りのせいだろうか、微かに紅潮している。
「はい。昼間に神官から祭宮様がいらっしゃってるとお伺い致しましたので、ご挨拶をと思いまして。でも、もう済みましたので、奥殿に参ります」
「奥殿へ?」
「奥殿?」
巫女の思いがけない言葉に、神官長は反射的に聞き返す。
神官長が思った疑問と全く同じことを祭宮も思ったようで、祭宮の声が神官長の声と重なった。
「はい。水竜が大祭の間は、夜でも奥殿に入っていいとお許し下さいましたので」
神官長と祭宮が思った疑問については、当の巫女はなんとも思っていないかのように、ごくごく普段と同じように話す。
それが、神官長には信じ難く、また神官長の心の傷に触れる。
なぜ水竜が、夜に奥殿に入ることを許したのか、神官長には全くわからない。
以前巫女だった時のように、心の中で水竜を呼ぶものの、当然その声は聞こえてこない。
改めて自分は巫女ではないんだと認識させられ、神官長は小さく溜息をつく。
溜息をつきながら、巫女の方へと目をやると、ひどく不安そうな顔をしているのがわかり、自分の感情を押し留める。
「……わかりました。明日は朝から儀式がありますから、あまり遅くならないようにして下さいね」
「はい」
前の神官長がしていたのと同じように、口元に少し笑みを浮かべ諭すように巫女に話し掛けると、嬉しそうな返事が返ってきて、巫女がペコリと一礼をする。
それから執務室を振り返り、巫女が祭宮に一礼をする。
「どうぞ、祭りの夜をお楽しみ下さい」
そういって笑顔を浮かべる巫女に、神官長は口元だけの微笑みを浮かべる。
気遣ってくれているのかもしれないけれど、それを素直に受け止められないくらい、神官長の心には小さな棘が刺さってしまっていた。
扉を静かに閉め、巫女が執務室の外へ出ると、神官長はもう一度大きく溜息をつく。
私が巫女だった時には、水竜様は夜に奥殿に入れてくださる事なんて無かったのに。
その事実が、神官長の心を深く傷つけた。
そしてそれは今の神官長にとっては、どうしようもないことだということを、本人が一番よく知っている。
水竜の傍にずっといたい、そう願った自分への試練なのだということも十分に承知している。
王族の出身であるが故に、他の巫女とは違い神殿に残ることが許されたことも分かっている。
それでも心のどこかではまだ未消化な気持ちが、一年経った今もまだ、神官長を苦しめている。
「巫女様は奥殿に行かれるのですね」
やはり溜息交じりの声で、祭宮が呟く。
祭宮の表情は、明るくもなく暗くもなく、ただ苦笑いのような顔をしている。
その言葉には答えず、神官長は静かに執務室の中を歩いて、恐らく巫女が座っていたであろう椅子に腰掛ける。
ゆらりと揺れる衣は、神官たちが着ている服と同じ作りになっているけれど、所々に金糸で刺繍がしてあり、神官長のかつての身分を思い起こさせるような上質な絹で作られている。
椅子に腰掛けると、神官長の傷を更に広げるように祭宮が呟く。
「巫女は水竜に愛されていらっしゃるようですね」
祭宮にしてみれば、それは水竜への小さな嫉妬から出た言葉だったけれど、神官長にとっては耐えられない重い言葉だった。
「水竜様は、歴代の巫女全てを愛してくださっていますよ。今の巫女に限らず」
そう、祭宮に否定したところで何もならないと言う事は、神官長だってわかっているのに、でも口に出さずにはいられない。
否定しなければ、今の巫女だけが特別だということになる。
たった二年しか巫女でいられなかった自分は、水竜に愛されていなかったと肯定してしまうようで、神官長は祭宮の言葉を受け入れられない。
「あなたが巫女でいらっしゃった時にも、やはり同じように、水竜の傍にいる時間が多かったですしね。水竜は巫女を自分の手元においておきたいのでしょうね」
くすりと笑い、祭宮は更に言葉を続ける。
「神殿に来ても、なかなか巫女にお会いできなかった日々を思い出しました」
柔らかい祭宮の口調に、神官長の心も少しずつほぐれていく。
「ええ、そうでしたね」
遠い日のような、けれどほんの一年前までの自分を思い出し、神官長は微笑む。
祭宮がきても、誰が何と言っても、奥殿から出ようとはしなかった。
水竜に促されても、それでも奥殿から出ようとしなかった、巫女であった日。
あの鮮やかな時間は、今でも消える事無く、思い出になるにはまだ時間が足りなかった。
どんなに一緒にいたいと願っても、次の巫女が選ばれ、そして次の巫女に「巫女」を受け渡してしまえば、ただの人に戻ってしまう。
だからこそ、限られた時間を水竜と共に過ごしたいと強く願い、また巫女を辞めた後も、少しでも水竜の傍にいたくて、神官長になる道を選んだ。
両親からも、前の神官長様からも、一度王都に戻る事を進められたのに、それさえもせず神殿に留まっている。
けれど、それを後悔はしていない。
水竜の声は聴こえなくとも、水竜の気配を感じられる神殿の中で、ずっと死ぬまで過ごしていたいと望んだのだから。
「あなたといい、今の巫女様といい、どうして水竜の事となると嬉しそうな顔をするんでしょうね」
にっこりと笑顔を浮かべる祭宮は、水竜に対する小さな嫉妬を抱いていた。
目の前に座る神官長は、子供の頃から知っているけれど、水竜を思う時に見せる笑顔は、自分に対しては向けられた事がなかった。
自分が祭宮になって初めて誕生した巫女である今の巫女も、なかなか心を開いてはくれないし、まるで作られた笑顔しか自分に対しては向けてはくれないからだ。
二人の巫女は、なぜあんなにも水竜に心を捕らわれるのだろう。
祭宮には全くわからず、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「水竜様は特別ですもの。他のどんな方とも比べようが無い、とても素敵な方ですわ。ただ、巫女が不思議なことを言っていました」
「不思議なこと?」
「ええ。わたくし、以前に巫女に伺いましたの。水竜様はお優しいでしょうって」
「はあ」
神官長の言う「不思議」の意味がわからなくて、祭宮は生返事を返す。
「そうしたら、巫女は何と答えたとお思いになります?」
神官長は真剣な瞳で、祭宮を食い入るように見つめ、祭宮の答えを期待して待っている。
そんな事聞かれても、と内心思うものの、祭宮は考えて答えを引っ張り出す。
下手な事を言っても、やぶへびだな、と今までの行動パターンから導き出し、とりあえず一番無難な答えを伝えることにする。
「お優しい、とお答えにはならなかったのですね」
「そうなんです」
大げさな声で、神官長は祭宮の答えを肯定する。
まるで大事件でも起こったかのような口ぶりに、祭宮は何がそんなに問題なんだと、いぶかしむ。
しかしそんな祭宮の心中など、神官長が察することは無い。
「ワガママで生意気ですよって答えたんです。わたくし、本当にびっくりしてしまいましたわ。だってわたくしの知っている水竜様とは全然違うのですもの」
「はあ、そうですか」
神官長は水竜には会った事がないので(当たり前だが)、そう言われたも何も答えようがない。
優しいかどうかも主観によるだろうし、ワガママだとか生意気だとかっていうのも、主観によるところが大きい気もする。
「わたくしの知っている水竜様は、本当にお優しくて、わたくしの体を気遣って下さって、奥殿にいない時ですらお声を掛けてくださって。紳士という言葉はあの方の為にある言葉だと思いましたのよ。それなのに、巫女ったら……」
私も十分あなたに気を遣っていますが、と言ってみたくなったものの、どうせ言っても無駄だということも十二分にわかっているので、祭宮は何も言わずに神官長が続きを話しだすのを待っている。
王都で深窓の令嬢として、王家に名を連ねるものとして、傅かれ育ってきた彼女には、誰もが気を遣って接していたし、それを彼女自身も自然な事だと思っているだろうから。
神官長はといえば、巫女であった日に水竜から言われた言葉を思い出していた。
――体が弱いんだから、無理する事はないよ。傍にいなくても話をすることは出来るから、体調が悪い時にはゆっくり休んで。
生まれつき体が弱く、どうしても月に何日かは臥せってしまう日があって、そんな時に奥殿に行こうとした時に水竜が言ってくれた言葉だ。
そう、丁度二年前。
初めて巫女になって水竜の大祭を迎える準備をしていた時に、体調を崩してしまって、本来やらなくてはいけなかった大祭の準備が出来なかった時だ。
それでも水竜は神官長を一言も咎めなかった。むしろ大祭の準備よりも、神官長の体調を気にかけている様子だった。
例え体調が悪かろうと、晩餐会となれば必ず出席させられていた頃には考えられなかった言葉で、水竜のその言葉に、神官長はひどく感動したのを今でも覚えている。
身分だとか、立場だとかよりも、体調のことを第一に考えてくれた水竜の言葉が本当に嬉しかったから。
「今でも覚えていますわ。水竜様のお優しい、そして落ち着いた低い声を。巫女は水竜様の素晴らしさを、おわかりになっていないんだわ」
明らかに腹立たしさが声に混じり、そろそろ今の巫女のフォローをしておかないと、と祭宮は口を挟む事にする。
「きっと巫女だって、水竜が素晴らしい方だということは、わかっていらっしゃるでしょう。水竜はきっと、巫女それぞれに対して同じようには接していらっしゃらないのでは。そうでなくては、巫女とあなたの水竜に対する認識があまりにも違いすぎる」
感じたことを率直に述べた。
神官長の肩を持つわけでもなく、巫女の肩をもつわけでもなく。
「……そう、なのかもしれませんわね」
苛立ちが少し収まったかのように、静かに神官長が告げる。
冷静になって考えてみれば、水竜のことを巫女が軽んじていたりするわけではない。今回の大祭の準備だって、一人で黙々とこなしていたというのに。
それでも納得しきれない気持ちが、神官長の心に漂っている。
あと一押し、と祭宮は思い、神官長にとって最も効果的な一言を口にする。
「きっと今の巫女すら知らない、あなただけしか知らない水竜の一面があるのでしょう。それはとても素敵な事ですね」
祭宮の言葉が、神官長の心に残った最後の小さな氷も溶かす。
ふふふ、と微笑んで、かつて巫女だった時のように奥殿の方へ目をやる。
声は聴こえなくても、巫女でなくなった後もずっと、こうやってたまに奥殿の水竜に声をかける。
きっと水竜は声を聞いてくださっていると、神官長は信じている。
そして水竜もまた、神官長の声を聞き逃す事はない。
他の多くの「巫女であった者たち」の声も同様に、今でも水竜は聞きつづけている。
――君は君、サーシャはサーシャ。それぞれを違った形で大切に想っているよ。
今の巫女には聴こえないように、そっと水竜が神官長に向かって囁く。
決してその声は届かなくとも。
水竜が神官長に囁いた声は、今の巫女が聴く水竜の声とは全く別のもので、もしも巫女が聴いたとしても、もしかしたら水竜の声だとわからないかもしれない。
水竜の本質を見抜いてしまった今の巫女は別として、水竜は巫女に深く愛されようと、巫女が最も理想とする人物を作り上げるからだ。
だからもしかしたら、神官長が聴いていた水竜の声は、神官長が知る誰かの声によく似ているかもしれない。
「それでも、わたくし羨ましいですわ、巫女が。わたくしには一度も奥殿に夜に行く事はお許し下さいませんでしたもの」
例え、全く違うように接していたのだとしても、それでも自分には許されなくて、今の巫女には許されたことがあるということが、神官長はほんの少し気に入らなかった。
けれど、目の前に座る祭宮には、まるで子供が拗ねているように見える。
気に入らない事があると拗ねたように顔を背けるのは、子供の頃から変わらず、それがとても祭宮には微笑ましく思える。
「……あなたは大祭の時に体調を崩されていらっしゃったとお聞きしましたが」
「ええ、ええ。そうなのですけれど、でも去年の前夜祭の時にもお呼び下さいませんでしたわ」
「しかし、昼間は篭もりっきりだったとお伺い致しましたよ。あなたが篭もりきりで儀式がなかなかできず、前の神官長様が大変お困りになられたとか」
「いじわるをおっしゃらないで。水竜様にも寝る時間を取らないと倒れてしまうって心配をおかけしてしまいましたのよ」
照れたように神官長が笑い、祭宮は苦笑いを浮かべる。
それは前の神官長も、そして水竜もさぞかし大変だっただろうと、自分がその現場に遭遇しなくて良かったと、祭宮は思い苦笑する。
「巫女には今の話は、お話しにならないでね。わたくしがそんな巫女だったなんて知られたら、神官長としての威厳が台無しになってしまうでしょう」
本当に子供のような方だ、と祭宮は思う。
擦れたところが無い故に、そのように見えるのかもしれない。
「ええ。わかりました。ここだけの秘密にしておきましょう」
にっこりと満足そうな笑みを浮かべ、神官長が祭宮を見つめる。
祭宮もまた、神官長に微笑み返す。
二人の間には穏やかな空気が流れ出した。
「それよりもどうして、巫女を怒らせてしまったの?」
神官長はやっぱり、どうしてもその事が気になっていて、聞かずにはいられなかった。
思いがけないその言葉に、祭宮の顔が引きつる。
「……いつからお聞きになっていらっしゃったんですか」
「あら、聞かれたら困るようなお話でしたの? あら、わたくしったら御免なさい。聞くつもりはなかったのよ」
本当は殆ど聞いてはいなかったけれど、困惑するような祭宮の顔に、絶対に何かあったんだろう、と神官長は思った。
何でそんなに楽しそうなんですか、と本当に言ってやろうかと思ったものの、あまりにもイキイキしている様子の神官長に、祭宮はがっくりと肩を落とした。
今日は絶対女難の相が出ている。絶対そうに違いない。
祭宮は心の底からそう思った。