クモなんか食べないん
傭兵社イミコへ戻るとリルとアーリエが忙しそうに働いていた。書類を取ったり、数を数えたり、ベルツァーも書類に何か記載している。
「俺たち今日ヤツアシグモを撃退したんだ、すごいだろ? アーリエさん‼」
「あら、そうなの」
「こうして飛びかかってきたのをさ‼」
「成長しているのね」
早く報酬を受け取って服を変えたい。
街に入ると周りの人から嫌な顔をされた。臭いからだ。ひどい、ぼくは街のために頑張ったのに。嘘だけど。
ちなみにぼくが一番カダーヴァを殺したし、一番遅くまでかかわっていたせいで、ぼくが一番臭い。
「おっ、ナインじょぇっ」
リルがぼくの名前を呼び掛けて顔を引くつかせた。
「よっおかっおかえり」
これじゃ指名は無理だぬ。
みんながぼくを避けるのでベルツァーの前にすんなりと到達した。
「おっナインじゃねーか。ひでー臭いだっあっはっは」
「報酬」
「おうわかってるって、それにしても八十一匹ってすごいな。今までこんなカダーヴァの臭いに耐えてこんなに倒した奴はいないぞ」
こんなこんな‼
「報酬」
「まぁ慌てるなって、カダーヴァどうだったよ? ちゃんと埋められたか? 顔に痣があるがどうかしたのか?」
「報酬‼」
「この臭いを隣国じゃ香水の材料にするってんだからな、世の中わからんもんだな。なんでもこの臭いを――くどくどくどくどくどくどくど」
このやろう‼
早くお風呂に入りたいし服も買いたいのにこのやろう‼
「なっナイン、あたしはっべつにっおまえを避けてるわけじゃっねーから」
涙目になってまで頑張らなくてもいいから、あと何その意味不明なフォロー。無理してこっち来なくてもいいから。
リルがこっちへ一歩踏み出しては、まるで押し戻されるように一歩後退する。
「くどくどくどくどくどくどくどくどくどくど」
話しながっ。なんだっなんでこんな話が長いのだ。
おいハゲ‼ ふざけるなよ‼ ハゲ‼ おいハゲ‼
「はぁ……まだべとべとします」
「なっべとべとっ? べとべとってなに?」
「あっはい白いのがかかってしまって」
「えっなに? なに白いのって」
なっなんだ。後ろにいるアンバーが体のあちこちをぬぐいだし、言葉に反応してリルがさらに後ずさりしてぼくを見る。
「ナイン、お前もしかして……」
アンバーの服装が嫌だ。もうなんか嫌だ。いやらしい。体に張り付いててすごくやだ。白いワンピースが体に張り付いててもうやだ。
なにがお前もしかしてなのだ。何が何なのだ‼
もうやだ‼ この人たちやだ‼
お湯と代えの服を用意し、菜隠は部屋にもどり湯浴みを済ませた。
雨の中に含まれていた埃や砂などが体から落ちて、菜隠の心と体を落ち着かせる。火照った体からは湯気が香り、簡易なパンツとシャツ、手袋を着けて浴場のドアを開けベットのヘリへと座る。
「もういいの?」
「うん、ありがとう」
「ナインさんはお湯を浴びるのが好きなんですね」
「うん」
大した事をしていないのに報酬を山分けして貰ったので、そのお礼がしたいとアンバーは申し出た。菜隠は別に良いと言ったのだが、アンバーは押しが強く譲らず、菜隠は仕方なくアンバーにお湯を持ってきてくれるようにお願いした。
お湯は一回で運べる量が決まっているし、水で温度を下げながら使うので必然的に少ないお湯をやりくりするようになる。二階なので床を濡らさないように気を付けないといけないし、水を捨てる場所は決まっている。
湯船、タルに張れるお湯の量は足首まで、浸かりながら髪や体を洗う。湯船に張ったお湯で髪や体、すべてを洗わなければならない。
まだ一回しか使っていなかったが、今日全身を本格的に洗おうと思ったところで、この浴槽の仕組みに菜隠は気が付いた。
お湯を入れる金属の筒は一つ、湯浴みの途中で下の階まで行きお湯を持って来るのは考えるだけでも絶望的。正直、どうしようか考えて止まってしまった。
思考停止、思考をリセット、整理するようにまた一から問題に向かう。
新しい服を買ったせいで浪費してしまい、遠心分離機は買えなかった。
ついでに買った石鹸とニノ腕までを覆う新しい手袋、歯磨きが菜隠の懐にダメージを与える。貯金をしたいのだが、金が入るたびに必要な物を必要なだけ買ってしまい貯金できない。
今の相場では9枚の銀貨で1枚の金貨と交換できる。
遠心分離機が無ければ乾燥させているドレイク草の根を毒と薬に分離できない。分離できなければ賢者薬は作れない。
悩んでいるところに隣の部屋からアンバーがやって来て、お湯を持ってきてくれる事になった。
「ありがとう」
「うん、いいよ。じゃあ横になって」
「なんで?」
「えっ、体、見ようと思ったの」
「いいよしなくて」
「えっ!?」
信じられないというアンバーの表情に、むしろ菜隠が信じられない。
「それより、アンバーもお湯で体洗ったら? お湯、持ってくるから」
「ううん、ぼくは部屋で済ませたからいいよ」
いつの間に済ませたのか、若干の疑問を浮かべながらも菜隠は納得を示す。
アンバーは改めて菜隠を眺めた。身長は小さく童顔で体に張り付いた黒い髪は異国の血を思わせる。
「手袋、外さないのですか?」
君がいるからね。とはさすがに菜隠も言えない。
手袋の下にはかなり無骨な腕がある。見られて良い事はないだろうと菜隠は考えた。
ちなみにアンバーは菜隠の事を女性だと思っている。
「ナインさんは、北のレーゲナンシス地方出身なんですか?」
「なんで?」
「髪が黒いので」
「そんなとこ」
海街に来て日差しと潮風に当てらてた菜隠の肌は透明感のある太陽なような黄色になっていた。
肌には傷一つ見当たらないが実際に菜隠が負った傷は相当な数となる。怪我してない部位がないというほどに多い。何度も何度も無理やり治すたびに体が順応し、傷が再生しやすい体へと変わってしまった。雷鱗による変異と言ってもいい。綺麗な肌に見えるのは変異の結果によるものだ。
その色にアンバーは何処か温かみを感じて微笑んだ。
リシアは恋愛禁止だが恋愛感情がないわけではない。ただし恋愛感情を表に出す事は固く禁じられ、またリシアに対して思いを告げることも禁じられている。
もっともリシアを好きになる人は多い。
アンバーは小さい頃から名も無き女神の寵愛を受けていたため、周りに奉仕するのを当然として育った。アンバーの体が女性的なのは、より相手に柔らかさと寛容性を与えるためであり、父性愛よりも母性愛が強かったためである。
これはアンバーには育ての母親がおらず、父親に育てられたため、理想の母親を思い描き、女神の力が投影した結果だ。
小さい頃に捨てられてしまったアンバーを名も無き女神は祝福した。
女神はアンバーを束縛する気はなかったが、周りはそれを許さなかった。寵愛というものは本人よりも周りからの影響を強める。
アンバーは恋愛心を奉仕、母性という形にすり替えて発散するので菜隠を見ていると抱きしめてたくてしょうがなくなる。なんとも保護欲をくすぐられてしまい、見ていて少し口下手な所や、視線を逸らす仕草に後ろから抱きしめたり、膝の上に座らせて頭を撫でたりしたい欲求に囚われる。
甘やかしたい。甘やかしたいのです。甘やかせてください。
アンバーは自身が抱える抗いがたき衝動を表に出さずに押し殺した。
この国は数々の危機と常に隣り合わせだった。国と民は乱れたが国という枠組みの中に一致団結してより強固となり歴史を保ってきた。
人が死にやすいという事は遺伝子に深く刻まれ、残せる者は残せる内に子孫を残すように。この国の人間は恋愛には情熱的だが教会があるのでお淑やかを保っていた。一目惚れをする人間が多く、いつ死ぬかわからないとい楔は深くこの国の民の胸に穿たれていた。
「髪、濡れています。拭いて差し上げます」
「いい」
「ヴぇっ‼」
「もしかしてヴゾヴゾクモケムシいた?」
「ヴゾヴゾ?」
「うん」
「あのっ体を見て、差し上げます」
「いい」
「ヴぇッ‼」
「どうしたの?」
「別に、いえ、その、別に」
服をアンバーと一緒に選んで買ったのだが、なぜだか女性物の服を進められるので菜隠は不愉快だった。
ちなみにアンバーは予備の修道服を買った。リシアは専用の服以外は通常着用しないのでどこの店でも必ず各サイズ一着は用意されている。白のワンピースはアンバーがたまたま進められて衝動買いしてしまった一着だ。
菜隠はツナギとシャツ、パンツを買った。パンツ、シャツを着て上からツナギを羽織る、暑くなったら上半身だけツナギを捲ればいい。水に強く丈夫で安い。サイズが少々大きいのが難点だが、使い捨てるので腰をベルトで止めて袖を捲れば問題ない。
この世界のパンツは男女共に同じ形をしており、柔らかい生地でできたショートパンツとなっている。
やっと下着を買ったので、心許なかった下半身に余裕が出来た。
菜隠はしきりに自分の体の匂いを嗅ぐ。石鹸で臭い匂いが消えたのか、気になって仕方がないからだ。自分では自分の匂いを感じる事が難しい。
「ねぇアンバー、臭くない?」
菜隠にそう言われ、アンバーは菜隠の隣に座ると顔を近づけて鼻をヒクつかせた。
「スンスン、うん大丈夫」
ふんわりと春の日差しのように漂う石鹸の香りはアンバーの鼻に心地よかったが、アンバーの吐息は菜隠を凍らせた。相手にそんな気はないとわかってはいるが、男は嫌なのだ。
「お腹空いたし、ご飯行くけど」
ところでこいつは何時までぼくの部屋にいるのだと菜隠は思う。一応ご飯に行く旨は伝えてみる。
「あっではご一緒させてください。よろしければ今日はぼくが作ります。菜隠さんは命の恩人ですし、今日もお世話になったのでぜひ作らせて下さい」
「いいのに」
「いえ、そういうわけにはいかないですよ」
「いいのに」
「お嫌、ですか?」
内心では男の手料理など嫌だったが、懐具合に余裕のない菜隠は悩んでしまい言い出せなかった。
「別に嫌ではないん」
「じゃあ決まりですね‼」
上着を着て聖者の行進は部屋に置きドアを出ると、菜隠は部屋の鍵を閉める。
「それ、どうするのですか?」
菜隠が無言で差し出してきたヤツアシグモの足にアンバーは顔を引きつらせた。まさか本当に持って帰ってくるとは思わなかったからだ。
「食べるけど」
「ヤツアシグモの足、持ってきてたんですね」
「うん」
「……本当に食べるの?」
「食べるけど」
菜隠は先に一階へと降り、一度自分の部屋へと戻ったアンバーが食材を持くると、菜隠は一階で狼狽えていた。台所には人がいるので料理の邪魔をしたくない。かと言って席もあらかた埋まっており、座る場所を探すにも人が多い。誰も仲間がいない場所で一人、下手に注目もされたくないし、すでに一人浮いている事で注目もされている。
菜隠は人見知りだった。
菜隠はどの選択が正しいのか考えている。
席に座る。台所でアンバーの手伝いをする。アンバーが料理しやすいように援護する。アンバーのために席を確保する。優先順位が高いのはどれ?
「何してるの? ナインさん」
「いや、別に」
「今グルタン作るからね」
食えるならなんでもいいと菜隠は思う。
アンバーは台所へと立ち寄り、一番近くにいた女性へと話しかけた。
「ちょっとごめんね、台所、空きあるかな?」
「ちっと待って、ねぇ? 料理終わりそうな人?」
「あたしもう少しで終わるわ」
「あっおれおれ、おれここ横空けますよ」
「あっ空く? そこ使っていいみたい、みんなもうちょっとつめてね」
「ありがとう」
「「「うぃーっす」」」
「それにしてもさ、こないだの依頼超受けるよねー」
「あー屋根の修理に行ったのに、雨漏りが増した奴ねっ」
「お前何しに行ったんだよって話だよな。お前が穴開けてどうすんだよっ」
「そうそう、あそこの頑固おやじがめちゃくちゃ怒ってさー」
「そうそう、こんな風に手と足を振り回して」
「ぶはっそっくり‼ マジ似てるんだが‼」
「ていうか何それ!?」
「ヤツアシグモの足……だよ」
「なんで!?」
「食べる……から?」
「「「まじで!?」」」
なんだこのコミュ力の高さは、菜隠は驚愕した。あの輪の中に入りたいと思い胸をときめかせつつも、入ったとして会話が成立しない事を想像し勝手に気まずくなると菜隠はその想像をあきらめた。
アンバーが入ったら台所は定員オーバーだ。
「気にしてないって言ってるでしょ!?」
「でも、ごめんな、俺がうまくかわせなくて」
「良いってなんで貴方が謝るのよ‼ あたしがあたしがさ」
「もうやめてよ、ウラードもフローディアさんもっ」
「あたし、もう行くから」
「フローディア」
「しばらく一人にして」
雑談で溢れる広場で席を探していた菜隠は、急に耳に入った怒鳴り声にそちらの方を向いた。雑談の中でその罵倒の声は響かなかったが、菜隠は何処かで聞いた声なので振り向いてしまった。
「いこうウラード」
「でも……」
「ウラードが悪いわけじゃないじゃない。ね? ほかのとこ行こう」
「だが……」
フローディアが歩いてくる。顔をしかめて腕を押さえ歩くフローディアを菜隠は目で追った。何かあったのだろうかと、フローディアは視線を下へ、やがて彷徨わせると菜隠と目を合わせた。
「あっ」
菜隠は気まずいので目を反らしてしまう。
「ナイン、ナインじゃない」
フローディアは菜隠へと近づいてきた。
「今話してもこじれるだけだわ」
「あっ……あぁ」
菜隠の視線がフローディアの背後へ行き、フローディアの表情は苦笑いへと変わった。
「あははっ……」
なんとなくそのままフローディアと席に着く雰囲気になってしまい、気まずさを感じながら菜隠は一緒の席についた。無駄に緊張してしまい、話題が思い浮かばない。そもそも菜隠の会話のレパートリーは少ない。
「ナインは夜ご飯?」
「うん」
菜隠の視線は台所へいるアンバーへと向かい、アンバーがそれに気づいて笑みを浮かべる。
「固定パーティー組んだの?」
「いやっ……違うよ。今日会ったばっかり」
菜隠は答えにくい事や自身の知らない質問をされると必ず最初に「いやっ」と言ってしまう癖がある。否定しているわけではなく、「いやぁ~」とお茶を濁している発音だ。
この癖は、菜隠がどう答えようか考えるために作る間だ。
「いや、そうかもしれませんね」
「いや~どうでしょう」
「いや、ちょっとわからないです」
あまり使わないように心掛けているが癖になっているのでなかなか直らない。
「今日……組んだ」
言葉を選び抜いた結果、最小の答えがこれだ。
「そうなんだ。聞いたよ? オードを八十一匹も倒したんだって? すごいねー」
答えたいが言葉がでない。心の中で「うん」と菜隠は呟く。
「はぁ……」
笑顔を浮かべた後にフローディアはため息をついた。
「あっごめんね。夕食、一緒していい?」
菜隠には否定も肯定もできない。料理を作っているのはアンバーでアンバーが三人分料理を作っているとは現時点では思えない。フローディアは自分で料理を準備しなければいけないし、そうなるとまた色々な言い回しや面倒ごとが出てくる。
普通に、いいよ、と言う答えをそのまま伝える事ができなかった。
考えた結果出た答えは、
「ちょっと待って」
だった。
席を立ってアンバーの元へと向かう。たぶんこの後、フローディアは少し気まずくなるだろう。気を使わせてしまったのではないか、と。
でもそれはたった一言否定すれば済むので菜隠は台所へと向かった。
「アンバー」
「あれ、ナインさん、どうしたの?」
アンバーの鍋からはグルタンの材料達が、美味しそうな香り立ち上げ、菜隠の舌を舐めあげた。
「ごめん、一人増えるけど、いい?」
「うん?」
菜隠の言葉を聞いて、アンバーは菜隠の座っていた席の辺りを探るように見回す。女性を一人見つけ、アンバーの表情は能面のように一瞬固まった。無表情で壁を作るように。
「あのひと?」
「そう、ごめん、いい?」
「お友達?」
恋人か友達かどちらか聞こうとしてアンバーは友達と聞くことにした。アンバーは菜隠を女の子だと思っているからだ。
「違う、昨日パーティーを組んだ人」
「あっフローディアさんですね? わかりました。一人分多めに作りますので気にしないでくださいね」
「うん。後で食材代払うから」
「いいのいいの‼ 一人分増えたぐらい大丈夫です、それにぼくにとっては命の恩人ですし」
「ごめん」
菜隠が申し訳なさそうに呟くのがアンバーには不思議でしょうがなかった。そこまで気にしなくてもいいのにと思いつつ、逆に苛めたくもなる。ふとそんな気持ちを抱いて、アンバーは自分の顔に触れた。初めてそんな感情を自分の中に見た。
菜隠の申し訳なさそうな表情を見て、もっと苛めてやりたいと思ってしまったのだ。
「あれ? ぼくは……」
どうしてこのような感情が芽生えたのか。
例えば料理に悪戯をしたらどうなるだろう。アンバーの中には菜隠の漠然とした偶像があって、たとえ料理がまずくても、菜隠は何も言わないだろう事を想像してしまう。
美味しいか聞けばきっと、美味しいと答える漠然とした偶像が出来上がっていた。きっとそのような性格なのだろうと。
「ふふっふふふっ」
初めて抱いた黒い感情を、アンバーは黒い蝶とは思わずに、指先に止めては心地良さを浮かべながら飴玉を舐めるように。手の先では料理を舌の先では飴玉を。きっと他の人間が幸せを感じる瞬間――ベクトルは違うけれど、内面から湧き上がってくる気持ちよさに恍惚の表情を浮かべた。
菜隠が席に戻ってくると、フローディアは貼り付けたような笑顔を浮かべた。内心では気まずい事が菜隠にはわかる。
「ごめんね。無理言って、もう行くわ」
「一緒にご飯いいって」
「ううん。迷惑かけちゃうし」
「もう作ってるから」
フローディアが席から外れようとする行為を菜隠は否定して固定する。椅子に座らずに立っているのはフローディアに上から重圧をかけ、席から立ちにくくするためだ。
「本当に、迷惑じゃない?」
「別に平気、少なくともぼくは平気」
「そっか」
「うん、話変わるけど、あの人、こないだ助けたリシアだから、覚えてない?」
「あっあー‼」
菜隠は話を逸らす事で気まずさの軽減を図る。フローディアは会話に乗り、そして助けたリシアだという事に今気が付いた。
「なんだっそっか、あの時の、えーっとアンバー? さんだっけ」
「そう」
菜隠は改めて椅子に座る。フローディアの斜め前に座るのは、その方が心理的に良いとテレビで見たからだ。それは菜隠にも当てはまっている。正面よりは斜めの方が話しやすい。もう忘れてしまった事が沢山ある、だけれどふとした瞬間に日本の事を思い出して。
その瞬間菜隠は少しだけ幸せになる。
それに追従する勇者の記憶は、菜隠の心を汚染する。
考えすぎると全てが嫌になり放棄したくなる。意地だけで踏ん張り、負けたくはないと耐える。決して表情には出さず、誰にも言わないし、踏み込ませない。
「グルタンだって」
あとヤツアシグモの足。心の中で一品付け足した。別に言わなくてもいいと菜隠が思ったからだ。
「ほんとに!? あたしグルタン好きなのよね」
「あっそうだ」
菜隠は席を立ちまた台所へと向かう。布巾とお水を貰って来て、フローディアへと差し出した。こうすればフローディアが自分に対して感謝すると思ったから。
「はい」
「あっありがとー。ナインは気が利くね。将来いいお嫁さんになるわ」
お婿さんね。と菜隠は内心で付け足した。炊事洗濯掃除にマッサージ、耳かき付きでご奉仕します。
何も話題がないのでしばらく無言が続いた。何か話題をと思いつつ、無理して喋る事もないと菜隠は思う。
でも喋る。
「何か、あった?」
あえて問題に踏み込んだのは、自分ならそうして欲しいから。
「え? あっあー……うん」
水を一口飲み込んで、フローディアは視線を少し彷徨わせた。取捨選択している。言い訳だと考え直し、口を少し噛む。正直に言えば、パーティーを組んでくれる人が減る確率が上がる。しかし嘘は付きたくない。彼女の弓兵としてのプライドと合理性の戦い。
「私の撃った矢が前衛をしてたウラードに当たってしまったの」
早口になるのは彼女の心が焦燥しているから。
失敗してしまった時の妙な焦りがフローディアの心を消耗させていた。問題なのは失敗した事に対してどうフォローするかなのだが、失敗が心に響いてフォローを考えられない。
ただの失敗ではない。下手をすれば味方を殺してしまう。自分のせいで味方の命を、ましてや恋人の命を危険にさらしてしまったという危機感が、彼女に焦燥感を与えていた。
「そっか」
だからと言って菜隠が何かフォローできるような問題でもなかった。気にしない方がいいよ。なんて言葉、菜隠なら言われたくない。たとえそれが自分を思っての言葉だったとしても。菜隠はかつてそう言葉を口にし、他人事だね、と言われた。
確かに他人事だけれど、正直悲しかった。
言葉を口にする方も、その言葉を浴びる方の気持ちも菜隠は知っている。
菜隠は椅子から立ち上がった。
フローディアは困惑する。どんな言葉を向けられるのか、どんな表情をされるのか、菜隠は無表情だった。
菜隠が勇者だった頃、菜隠が失敗するたびに、菜隠が焦るたびに、菜隠が壊れるたびに、シシリーがしてくれた事を。
「えっ、なに? え?」
後ろから椅子に座るフローディアの頭を胸に抱きしめる。
ただそれだけ。
「いい子いい子」
「ふふっもう、なにそれ」
本当は体全身を包み込むように接触した方がいい。
人間は抱きしめらるだけで心配事や恐怖、ストレスが軽減される。愛情ホルモンとしてオキシトシンが分泌されるからだと言われているが、人体とはまだ解明されていない部分が多い。ちなみに女性のオキシトシンがもっとも分泌される行為は、おっとやめとこう。
心というはものは案外簡単に操れてしまうものなのかもしれない。
シシリー達、リシアはその行為で人が落ち着く事を知っていた。
菜隠は自分がされて嬉しかった事をする。もし拒絶されたならやめるけれど、拒絶されなかったので菜隠はフローディアの頭を胸に抱きしめていた。
自分が辛い時は、そうして欲しいから。
でも菜隠は目を閉じて心の中で泣き叫びながらそれを拒絶するのだろう。
それにきっと自分の事を抱きしめてくれる他人はいない。もしこうして抱きしめてくれる人がいるのなら、それはきっと幸せな事なのだから。
「ところでナイン、これ、本当に食べるのですか?」
料理を終え、グルタンと塩ゆでされたヤツアシグモの足をテーブルへと持ってきたアンバーは微妙な表情を浮かべた。
おそるおそる、塩ゆでしたヤツアシグモの足をアンバーは眺める。
「食べる」
菜隠は無表情だった。
「これ、なに?」
フローディアはヤツアシグモの足を指さす。
「ヤツアシグモの足」
菜隠は無表情だ。
「え!?」
「本当に食べるの?」
アンバーが再度聞き返す。
「食べるよ」
「本当に!?」
「美味しいよ?」
「本当に!?」
「しつこいよ‼」
「ヤツアシグモの足だよ!?」
アンバーが変に裏返った声で叫んだため、
「なんだなんだ?」
「ヤツアシグモの足がなんだ?」
周りの人間の興味を引いてしまった。
「えっ? 蜘蛛の足を? 食べるの?」
「まじで?」
変に注目を集めたので菜隠は気まずくなりながら結局ヤツアシグモの足を食べた。
触感はイカ、味はエビだった。ちょっと苦く、そして甘く、塩気が癖になりそう、美味しいと思うんだけどな。菜隠はその感想を口には出さなかった。
菜隠がこの世界に来て初めて見る食材を口にした時に思った言葉は、「食べれなくもない。」だった。
食べれなくもない。次にまた口にした時は知っている味だに変わった。
きっと体が覚えたのだろう。この味の物は食べられる。毒があるかないかは別の話。
「ねぇ、大丈夫? 具合が悪くなったらすぐに言って? 浄化するから」
すでにアンバーが菜隠の体に触れる準備をしていることに菜隠は驚きを隠せない。
「ぶふっごふっ」
「ナイン!?」
アンバーのせいで菜隠は咽てしまった。
「大丈夫!? すぐに解毒するから‼」
「さわっさわっ」
咽たせいで言葉がでない。触らないでと言いたい。
「あははっあんたら面白ッ‼」
「フローディアさん、笑いごとじゃないよ!?」
「もふっごふっごふっ」
(やめろおおおお‼ さわるなぁああああ‼)
「あははっあははっ」