峠の物の怪
さて。
あるところに、人を食う物の怪がおりました。物の怪は峠で野宿している旅人を怖がらせてから食うのが好きだったので、その峠道では決して野宿してはいけないと言われていました。
あるとき、大嵐の中、ひとりの旅人が峠を通りかかりました。既に夜中になっており、強い風雨で前も後ろもわかりません。これ以上進めなくなった旅人は、仕方なくその峠で夜を越すことにしました。そこで喜んだのは勿論、物の怪です。
「おいおい旅人さんよ。今夜は酷く大荒れだね」みすぼらしい老人に化けた物の怪は、祠で雨宿りをしている旅人の隣に座ると言いました。「こう荒れてしまっていては、もう外には出られないだろう」
「そのようだ。全く、困ったものですな」旅人は頷いて、ふと老人を見ました。「ところで、あなたはどうしてこんなところに」
「それはな……お前を食べるためだよ!」一息に変身を解いて見上げるほどの物の怪の姿に戻ると、旅人を見下ろして吼えました。「さあ怖いだろう、おれは今からお前を食っちまうのだぞ! 恐れろ! 騒げ! 逃げ場所なんてないけどな!」
しかし物の怪の予想に反して、旅人は物の怪の姿を見ても至って平然としておりました。
「どうやらそのようだ」旅人は言いました。「成程お前が噂に聞いた物の怪か。なかなか立派な変身だな。全く気が付かなかったよ」
「褒めても見逃してはやらんぞ」
「そんなつもりはないさ」旅人は軽く肩をすくめました。「しかしこれですぐに食われてしまうのではもったいない気がする。そんなに化けるのがうまいのに、今まで誰に披露したこともなかっただろう。ひとつ、私にその腕前を披露してから私を食ってしまうというのはどうかね」
「ふん、いいだろう」ちょっと得意になって、物の怪は笑いました。「では見事に変身してみせよう。何に化けてやろうか」
「では大虎などどうだ。出会ってしまえばやはり食われてしまうから、私はまだ見たことがない」
「よしきた」
言うなり物の怪は見上げるほどの大虎に化けました。旅人など一飲みにしてしまえるであろう迫力満点の大虎です。おお、と旅人は手を叩きました。
「これは凄い、確かにこれは大虎だ。では次は、天狗などどうだろう。天狗も物の怪の類だろうが、私は物の怪に会うのはお前が初めてなんだ。だから天狗を見てみたい」
「お安い御用だ」
言うなり物の怪は威風堂々鼻高々たる天狗に化けました。扇を持って高下駄で立つその姿は、まさに天狗そのものです。旅人はまた手を叩きました。
「これは凄い、確かにこれは天狗だ。それも余程力のある大天狗に違いない。では次は、雨に濡れたので寒くなってきたからな、立派なかがり火が見たい。濡れた服が乾くくらいに、盛大な炎だ」
「いいとも」
言うなり物の怪は赤々と激しく燃え盛るかがり火に変身しました。しかし外は大雨と大風の大嵐です。物の怪の変身したかがり火はあっという間に吹き消され、物の怪もいなくなってしまいました。
旅人は、物の怪のお陰で服も乾き、風邪を引くこともなく、嵐の収まった夜明けに悠々と峠を越していきましたとさ。