決断
週明け、私はひどい頭痛で目が覚めた。昨日は熱帯夜でもなかったのに、なかなか寝付くことができなかった。外から漏れ出る激しい雨音が私を一層憂鬱にさせる。それでもどうにか立ち上がり、会社へと向かった。まだ頑張れる。心の中で、呪文のように何度も呟き続けた。
今日は月に一度の全体会議だ。各チームのリーダーと企画発案者が集まり、新しい企画を検討する。参加資格を持たない私は、その結果を議事録でのみ確認することができた。議事録を読むと、私の企画の方が何倍も優れているではないかと思える。
次の企画に目線を移したとき、私は目を疑った。その企画は私の出したものと瓜二つだ。企画発案者は・・・根岸正義。私は激しく根岸に詰め寄った。
「この企画、以前私が出したものじゃないですか!」
周りの社員も驚いて目を丸くする。
「何言ってるんだ。これは紛れもなく私の企画だぞ。」
「城ヶ崎さんも私の企画書見たでしょう?」
「確かに君の企画書も見たが、これは根岸が出した企画書で間違いない。」
「矢切さん!川本さん!」
二人は困った顔をした。
「私は以前根岸さんにこの企画書を見せて貰っています。」
矢切が答える。
「川本。お前も見たよな?」
「ええ、・・・。」
このチームは完全に腐っている。心からそう思った。もう、働く意味も意義も何もない。もう会社を辞めてしまおうと思った。いや、それでは気が済まない。全員、殴り飛ばしてやりたい。
何とか気持ちを抑え、私は自分の机を整理し始める。パソコンの電源を切ろうと画面に目をやるとメールの画面が開いていた。私は導かれるようにあのメールを開いた。熱いものが頬を伝い、何度も何度も滑り落ちた。
夕方、屋上に出ると、ちょうど日が沈んだところで、雲には一筋の赤だけが差していた。私は鉄柵越しに街並みを眺め、空の色が消えるのを待った。隅では一人のOLが電話に夢中になっている。その他に人影は見当たらない。鉄柵を乗り越えビルの淵に立つ。見慣れたはずの景色は、急激に別世界へと変貌した。見下ろすと、世界はひどく歪んで見えた。足が竦む。一歩踏み出すだけで全てが終わるのに、まるで足が動かない。随分長い間戦っていた。しかし、とうとう私は恐怖心とか防衛本能とかそんなものに押し返されて尻餅をついた。そのまま立ち上がることが出来ずに、ただただくすんだ光を発し続けるこの世界を眺めていた。そこから見る朝日はあまりに眩し過ぎて、目からはいくつも涙が零れ出た。その涙は雨となり降り注ぎ、誰にも気付かれることなく大都会へと吸い込まれた。
私は空腹を覚えていた。死んでしまえば何の意味もなくなるのに。ただ、もう一度だけあのときのラーメンを食べたいと思った。
駅のホームにまだ人も疎らだ。こんなに朝早くラーメン屋が開いているはずもない。だが、どれだけでも待つつもりでいた。彼は私に聞くだろうか?なんと言われようと人生最後の決断を変える気はない。もし引き留められたりでもしたら面倒だ。また、私のせいで彼まで何か背負ってしまうのも不本意だ。最後にあのラーメンが食べたいなどというのはただの私のわがままでしかないのだから。
私はホームの一番奥、人目につかないところで立ち止まった。通勤時間は電車の本数も多い。私はぐっと足に力を込めてその時を待った。
何本も電車を見送った。私の決断した一歩を、見えない力が押さえつける。もう人通りも随分増えてきた。大事な友を巻き込んでしまうことに心苦しさを覚えながらも、私は最後のわがままを叶えるため電車へと乗り込んだ。
店の前までやって来た。しかし、そこはもう店ではなかった。中はからっぽで『貸店舗』と書かれた看板が張り付けてある。移転でもしたのだろうか?前に来たのはほんの数週間前だ。移転したなら、新店舗の案内などが張り付けてあってもよさそうだ。それに移転の知らせなども受けていない。彼もまた一人で何かを決断したのだろうか?
ふとあの看板が目に入る。人生の最後にとあのラーメンを求めてやって来たが、それさえも与えられることはなかった。鼻で笑ってもう一度あの看板を見る。
『捜せば見つかります。』
捜したいものなどなかった。居場所を知っていても会えない人たちができただけだ。ただ、たった今唯一人捜したい人ができた。無性に会いたかった。捜せば見つかるのだろうか?しかし、あまりの落胆に立ち上がる気力さえない。そのまま顔を伏せると、朝の街は静かに音を失っていった。
コンクリートの照り返しの熱にうなされ目を覚ます。晩夏でこの気温だともう昼前だろう。目を開くと予想に反して日差しの眩しさは感じられなかった。私を覆うように黒い影が落ちている。
「大丈夫ですか?」
降ってきた声に驚き顔を上げる。あのときの黒い外套の男だ。彼は優しく、ドアの向こうへと促す。そして私は催眠術にでもかかったかのように、ふらふらと部屋の中へ吸い込まれていったのである。




