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あのころ

私が上京してきたのは二年前の春だった。

ここに来る前は地方支部の勤務で、上司たちからの信頼も厚かった。特に支部長には「仲井、お前は我が社期待の星だ。」などとよくからかわれながらも可愛がってもらっていた。期待に応えようと企画書も人一倍出した。後輩にも恵まれ、みんなよく慕ってくれていた

総勢十名の小さな支部ではあったが、私はなんとなく幸せだった。仕事が生き甲斐だとさえ本気で思っていた。


そんなある日。いつものように仕事をしていると支部長から声が掛った。

「東京本社への転勤が決まった。急なんだが、来月から東京に行ってもらいたい。」

私は暫く呆けていた。栄転だった。どうやら支部長がずっと熱心に私を推してくれていたらしい。

今の生活に満足していた私は、昇進など興味は無かったが、支部長の期待を裏切れないと、東京行きを決意した。


支部出勤も最後という日に私の送迎会が開かれた。街中の小さな居酒屋で、いつもみんなでよく通っているところだ。

みんなに促され、上座へと腰かける。私の左には支部長が、右には新人の女の子、佐藤が座った。そして、正面には初めての後輩で、最も可愛がっていた田中がいた。彼はお調子者だが、いつも明るく場を盛り上げてくれた。飲み会などはほとんどが彼の企画だった。今回の送迎会も彼の発案らしい。

支部長の乾杯で送迎会は始まった。支部長の挨拶が終わるころにはビールの泡はすっかりなくなっていた。いつものことだ。みんなもいつもと変わらず笑顔だ。

この飲み会も今日で最後かと思うと、少ししんみりしてしまう。そんなことを考えていると、私の右隣から声がする。

「どうかしました?もしかして寂しくなっちゃいました?」

「そんなわけないだろ。東京でもガンガン働いて、楽しくやって見せるさ。」

「まあ、仲井さんならどこに行っても大丈夫ですよね。」

彼女は空になった私のグラスにゆっくりとビールを注いだ。

「ちょっと、お手洗いに行ってきます。」

そう言って、彼女は席を立った。

彼女の注いでくれたビールを少し口に含むと、今度は前から声が掛る。田中はかなり身を乗り出していた。

「あれあれぇ、もしかして佐藤さん、先輩のこと好きなんじゃないですかぁ?」

彼は既にかなり酔っている。これもいつものことだ。

「何言ってんだよ。」

「先輩もぉ佐藤さんのこと気になってるんでしょぉ?でも、だめですよぅ。佐藤さんは誰にも渡しませんからぁ。あはははははは。」

彼は大声で笑い始めた。

「相変わらず、酔うの早いな・・・。」

「何言ってるですかぁ。まだまだぁ全然酔ってませんよぅ。」

「ささっ、先輩もぐいっとぐいっといっちゃってください。」

仕方なく一気にグラスを空けるとすぐさま、グラスぎりぎりまでビールが注がれる。

「田中は完全に出来上がってるなあ。」

話に入ってきたのは支部長の声だ。

「仲井は最後だからってしんみりしちゃってるんじゃないか?」

「そんなことないですよ。大いに楽しんでます。」

「そうか。来月からは東京だ。お前が偉くなって戻ってくるのを楽しみにしてるぞ。」

「支部長の期待に沿えるよう精々頑張ります。」

「しかし早いもんだな。お前が入社してからもう五年が経った。あんなに頼りなかったお前が、今やみんなの中心になって頑張っている。お前が抜けたらこっちは大変だな。」

「大丈夫ですよ。田中だって今はもうみんなをまとめられるくらいに成長しています。」

「ううん?何か言いましたかぁ?」

この酔っ払いには、もう話がちゃんと届いていないようだ。しっしっ彼を追っ払って支部長との話を続ける。

「それにみんなも懸命に仕事をしてくれています。何より、支部長は人を伸ばすのがお上手ですからね。私がここまで成長出来たのも支部長のお陰です。本当に感謝しています。」

私は深々と頭を下げた。

「それはお前の努力の賜物だよ。東京に行っても頑張れよ。私ももともと本社にいたが、あそこはなかなか大変なところだ。」

「そんなに忙しいんです?」

「それだけじゃあない。まあ、いろいろとだ。でも、お前ならきっと大丈夫だろう。」

本社の話を詳しく聞きたかったが、かわるがわるみんなが挨拶にやってくるのでなかなか支部長とゆっくり話せなかった。

「さあ、そろそろお開きにしますよぉお。」

結局ほとんど何も聞けないまま、酔っ払いの声が大きく響いた。


「あ、雨。」

外に出ると、しとしとと雨が降っていた。

私は駅の近くにアパートを借りていたので、みんなを駅まで見送って帰ることにした。駅舎は週末の終電時間ということもあり、人で溢れていた。私はもらった花束を片手に改札の向こうへ大きく手を振った。それから、深くゆっくり一礼した。みんなはすぐに人混みに紛れ、ホームの奥へと消えていった。それを見送ると急激に涙が溢れてきた。

家に帰ろうと振り返ると、うつむく佐藤さんが立っていた。確か彼女の家も駅の近くだった。私は慌てて顔を拭った。

「それじゃあ、帰ろうか。」

彼女は小さく頷くと私の少し後をついてきた。

二つ傘を並べ、沈黙の時間が続く。もう春が近いというのに、今日はすごく冷える。

「寒くない?」

大通りの歩道橋まで歩いて、ようやく私は口を開くことができた。

「大丈夫です。」

彼女は首を振って答える。

「佐藤さんも今日はありがとね。」

「いえ、私は何も。送迎会を企画したのは田中さんですし・・・。」

「あの、仲井さん・・・。」

「ん、何?」

「いえ・・・。本当に今までありがとうございました。私が入社した時から、何から何までご指導頂きまして。」

「そんなこと。それより、これからも頑張ってね。」

「はい。でもやっぱり仲井さんがいないと寂しいです。」

彼女の言葉に何と返していいのか分からず、再び沈黙が続く。そして、そのまま言葉を発することなく、彼女の家に着いた。

「今日はどうもありがとう。それじゃあ、元気でね。」

「仲井さん、ちょっと待ってください!」

彼女は慌てた様子で顔を伏せた。

「あっ、あの・・・。」

雨はいつの間にか、すっかり止んでいた。空には薄ら月明かりも見えている。

「仲井さんのことがずっと好きでした。東京に行ってしまうのが、本当はとても残念です。」

彼女は顔を上げた。

「私、仲井さんのこと応援していますから。ずっと応援していますから。東京に行ってもずっと素敵な仲井さんのままでいてくださいね。」

彼女の目から一筋の涙が流れた。

「ああ、ありがとう。」

その言葉を聞いて、彼女はにこりと微笑み、家のほうへと駆けて行った。

私の目からも温かい涙が零れていた。

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