東京という街
その日の午後、私はとある喫茶店にいた。遅れてやって来た彼は、随分と疲れた顔をしていた。
「すみません・・・。遅くなりました。」
そう言ったのは田中だった。
「久しぶりだな、東京に来てたなんて知らなかったよ。」
「ええ、連絡もしてなくてすみません・・・。」
彼の声には以前のような爽やかさがまるで感じられない。
「で、どうしたんだ?随分やつれたように見えるが?」
田中は消え入りそうな細い声で語り始めた。
私が会社を去ったあと、田中は暫くして東京の本社に転勤になったそうだ。その後の成り行きは私のときとほとんど同じようなものだ。あのオヤジはまだ自分の正義の為に同じことを繰り返しているようだ。
「失礼な話ですが、仲井さんが支部に戻ってきた時、この人は東京に負けて帰って来たんだと思いました。でも、仲井さんはそれでも企画を出し続けて、ちっとも腐ってはいなかった。私も先輩が支部を離れてから急成長したっていう自覚と自信がありました。でも仲井さんには一生敵わないんじゃないかってそう思っていた矢先に、仲井さんが会社を辞めてしまって。その後、支部長に東京転勤を言い渡されたときは、仲井さんを超えるチャンスが来たと思いました。自分なら仲井さんが出来なかったこともやり遂げられる。でも、それはただの勘違いでした。仲井さんがあんなに辛い思いをしていたなんて・・・。」
田中は俯いて話を続ける。
「先輩を退社に追い込んだのは私なんですよね。そう思うと自分が情けない。そして苦しくなると、追いやった相手にまで頼っている。本当に図々しくて恥ずかしいです。」
彼の肩は震えていた。彼が落ち着くのを待って店の外へと誘う。
「ちょっと、歩かないか?」
乱立するビルの間をゆっくりと歩く。
「佐藤さんには相談したのか?」
「・・・。彼女は私が東京に来てすぐ、下田と付き合い始めたそうです。」
「そうか・・・」
驚きで良い返しが出来ない。田中の為にあんなに必死だった彼女がそんなにあっさりと手の平を返すようなことをするとは思ってもいなかった。
「彼女は私に惚れこんでいると思い込んでいました。当然、東京にも付いて来てくれるものだと。でも、それも私の自惚れだったようです。」
私は言葉が見つからず、二人は黙ったまま歩き続けた。
「仲井さん。仲井さんは今、多額の借金を抱えていると聞きました。仲井さんがあのまま会社に残っていれば、きっと成功していたはず。それも私のせいだ。」
「・・・仲井さん。私のこと恨んでいるでしょう?」
そんなことを聞くなんて、よほど精神的に追い詰められているのだろう。私は、ゆっくりと首を振った。
「俺は別に誰も恨んでいないよ。」
彼の目からは涙が零れていた。
「なあ、田中。バベルの塔って知ってるか?」
田中は返事はしないで私の顔を見た。
「なんでバベルの塔は崩壊したんだろうな。人が一生懸命作り上げたのに。」
「それは、人間が傲慢にも神に近づこうとしたからです。自分には力があると勘違いした結果です。今の私と同じように。」
「でも、人はまだ高い塔を築こうとしている。」
私たちの視線の先には建設中の電波塔が見えていた。
「そんなに必要ないのに世界一高い塔を作って、そしてまた、どこか別の国がそれより高い塔を作って。その繰り返しだ。」
「それは自己満足を得るためですよ。」
「きっと、みんなそうなんだろうな。自分の力を過信して、高い塔を作って、失敗したりもするけれど、それでもまた完成を目指して。ただの自己満足でしかないんだろうけど、そうやってこの街は発展してきたんじゃないだろうか。そしてきっとこれからも。」
そう言って自分で納得した。きっとみんなそうなんだ。上口支部長も、佐藤も、田中も、下田も、工藤部長も、城ヶ崎も、根岸も、矢切も、川本も、井上も、あの占い師も、あの零という少女も、そして私も。すべては勘違いから始まって、苦しんだり、苦しめたり、傷付いたり、傷付けたりそんなことを繰り返してやっと自己満足を得るに至るのだ。そしてその自己満足までの過程を途方もなく繰り返しながら、人は少しずつ進化を続けるのだろう。この東京という街は正にその象徴であるかのように思えた。そう考えると、人の醜さも、狡賢さも、情けなさも全てを飲み込んで形作られたこの世界が、この世界で生きるみんなが、不恰好で汚ならしくも愛おしいものに思えてならない。
何度も、見限ってきたこの世界を、勘違いと自己満足で出来上がってしまったこの世界を、私はようやく愛せそうな気がした。