信念
翌朝、私は決意した。これまで先延ばししてきた問題に蹴りをつける時が来たのだ。
スタッフを路頭に迷わせたくない。それは嘘ではないが、それは会社がもう駄目だということを認めたくない口実に他ならなかった。それこそ正に私のエゴであり、自己満足だったのだとあの少女に諭されたのだ。みんなを信じよう、そして自分も信じよう、そう強く思った。
スタッフが全員集まったところで、私は話を切り出した。みんなそれぞれショックを受けているようだったが、意外なほどあっさりと受け入れてくれた。
「みんな、薄々分かっていました。でも、仲井さんが一番辛いはずだから、仲井さんから話を切り出すまでは頑張ろうって話してたんです。」
「ありがとう、みんな・・・。」
「でも、まだ月末までは予約のお客様がいらっしゃいますからね。これで、どうにかなるってわけでもないですけど、最後まで一生懸命やり切りましょう。」
「ああ、そうだな。」
この日、みんなの最後の出勤日が決まった。
予定していた全ての業務が終わり、私の手元には莫大な借金だけが残った。ただ気持ちはさっぱりしていた。明日は大晦日だ。新年を祝う準備は何一つ出来ないが、良い年を迎えられそうな気がしていた。
それから時は流れ、三月も半ばを過ぎた。私は散歩したり、部屋の模様替えをしたりと、毎日特にやることも決めないで、ゆったりとした日々を過ごしていた。お金は無いが、穏やかな日々だ。そんな生活を十分なほど満喫した私は、あの場所へと向かっていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ。」
その占い師は快く迎えてくれた。聞きたいことは沢山あった。でも、私はただ一つだけ質問をした。
「私はこれからどうすればいいでしょう?」
彼は微笑み、私も微笑んだ。
「それは、あなたが決めれば良いと思いますよ。」
彼はそう言ったが、正しくは『私が決めるしかない』ということだ。期待通りの言葉に私は嬉しくなった。
「でも、もし今選択肢が無いというなら、ここに行ってみるのも良いでしょう。」
彼は一枚の紙を差し出した。そこには住所だけが記されていた。まだ、やることの決まっていない私が、そこを目指すのは必定だった。
長野県の山間にその場所はあった。最寄りの駅から緩い坂道を進み、ちょっとした商店街を通り抜け、さらに川沿いを二十分ほど上った林の中、私はようやく白い建物を見つけた。入口の門には『きづきの教会』と記されていた。しかし建物自体は教会というよりも小洒落た別荘という感じだ。芝敷きの庭に小径が一本延びていて、それは建物の入り口まで続いていた。
私は道に従い歩を進めた。心地よい風が吹き抜ける。木陰に立つ少女はスカートをひらひらと棚引かせた。その黒髪の少女は私に向かって大きく手を振る。
「遅かったじゃん。」
あの家出少女が出迎えてそう言った。ここに彼女がいたことに驚かなかったわけではないが、不思議とすぐに納得した。
「まるで、待ってたみたいじゃないか。」
「待ってたんだよ。ようこそ、きづきの教会へ。」
そう言って私は教会の中へ通された。入ってすぐの部屋は講堂のようになっていて、教会らしい雰囲気を醸し出していた。しかし、特に祀られているものは見当たらない。私はさらに奥へと通された。そこは先ほどの部屋とはがらりと変わって、広いカフェのような食堂だった。外にはテラスも見える。
「良い所でしょ?もともとここはペンションなんだ。」
そう言って近くのテーブルへ向き合って座る。すぐに、コーヒーが運ばれてきた。
「ここ、喫茶店もやってるんだよ、今日は休みだけどね。」
「あれから、親とはうまくいってるのか?」
「一応、うまくやってるよ。結局自分だって親と同じだしね。」
「そうか・・・。」
「で、今東京に住んでるんだよね?どうするの?一応部屋は空いてるけど。」
「ちょっと待て。別に入信する為にここに来たわけじゃない。」
彼女は不思議そうな顔をした。
「じゃあ、何しに来たの?」
そう聞かれて口籠る。その問いに対する確かな答えなど持っていない。
「お礼を・・・、お礼を言いに来たんだと思う。」
「思う?」
「君のおかげでいろいろけじめをつけることが出来た。それに肩の荷が一気に下りたような気がする。ありがとう。」
「んん?良くわからないけど、私は私の為に行動してるだけだよ。」
「それが良いんだよ。」
彼女は私の目を見つめてこう言った。
「やっぱり入信しなよ。」
彼女がそう言うと同時に、ゴゴッという音が響き、講堂の扉が開いた。中からは老年の男が出てくる。
「零様。そろそろお時間です。」
「分かりました。すぐに参りますので、少々お待ちください。」
彼女はそう答えて私の方へ向き直った。
「ごめん、ちょっと行ってくるけど。続きはまた後で。」
そう言い残し、講堂へと入っていく。
「代わりに私が話し相手になりましょうか?」
コーヒーを運んでくれた女性が声を掛けてきた。
「井上さん!」
彼女は旅行代理をやっていた時のスタッフで、あの家出少女がいなくなったときに涙ながらに電話を掛けてきたあの娘だ。
「どうしてここに?もしかして彼女に誘われて?それとも、あの占い師に会ったのか?」
彼女はにこっと笑った。
「ええ。でも仲井さんもここにやって来るなんて。」
「ここって何の宗教なんだ?」
「『現代社会に悩める人を救う』を目的に作られた新興宗教です。名前などはありません。」
「活動も宗教活動というよりは人の悩みを聞いたり、それとなくアドバイスしたり、カウンセラーみたいなことをやっています。覗いてみますか?彼女の仕事を。」
これまでのやり取りを見る限り、あの家出少女が教主というなのことだろう。講堂の扉を開き中に入ると、椅子には十名程度の人が座っていた。私はてっきり前に立って説教をしているものだと思っていた。ところが、彼女はひとりひとり丁寧な言葉遣いで声を掛けては話を聞いていた。建物が夕日で赤く染まるころ、ようやく彼女は戻ってきた。
一息ついて彼女は続きを話し始める。
「ねえ、日本であまり宗教が根付かない理由って知ってる?」
「一般的には、日本人は『八百万の神』的な考えがあるからだとか言われてるけど・・・。俺は、やっぱりどうしても宗教に対して、不信感があるな。」
「うん、確かに宗教絡みの事件や紛争はよくニュースにもなってるし、宗教によってはカルト的な儀式や、厳しい修行、窮屈なしきたりがあったりするから、そういったものが嫌で宗教を敬遠する人は多いんだと思う。」
「時代は常に変わっていて、求められるものも変わっていく。多くの宗教は儀式とか修行とかしきたりとか教典とか、それぞれの信念を形にして伝えようとする。でも、形あるものは必ず劣化してしまう。ならばいっそ根本にある信念のみを伝えようというのが、ここの考え方なの。つまり具体的に何をするかっていうのは本人の自由ってこと。」
「で、その信念っていうのは?」
「『人を知って人を許す。』つまり、人の本質を理解して、それぞれが自立し、協調するってこと。」
私が理解出来ずにいると、彼女はさらに続けた。
「人の本質は『自己満足』。その視点を持って、自分を律し、その視点をもって他人を許しなさいってこと。」
「でも、直接それを説いても駄目。あくまで本人に自ら気付かせることに意味があるから。」
「それは、骨が折れるな。」
「でも、あなたは気付いた。骨はだいぶ折れたけどね。」
彼女は笑った。
「礼拝もしなくていい。宗教の名も名乗らなくていい。ただ『人を知って人を許す。』というその信念を持って、人の自律と調和を手助けして貰えればそれでいいの。」
「宗教を広めるのではなく、信念を広めるってことか。それって宗教っていえるのか?」
「そんなことはどうでもいい。」
「・・・気の長い話だな。」
「焦っては駄目。自分たちで気付いてこそ意味があるものだから。」
彼女はもう一度同じことを言った。
「わかった。」
私はそのときそう答えたが、正直なところいまいちよく分からなかった。ただ、まだ十代の少女がこの日本に、この世界に思うところがあって、それをどうにかしたいという気持ちがあって、私にはそれが通じたということはだけ分かった。
その日は教会で一夜を明かした。朝食を済まし、ここを出るとき少女は「また、いつでも来てね。」とだけ言った。電車を乗り継ぎ、東京へと戻る。この街は相変わらずごちゃごちゃとしていた。ここに残らないといけない理由は何もなかったが、もう少し人が集まるこの東京という街のことを知りたいとも思った。家に着くと、私はそのまま横になり、あの少女の言ったことを整理してみる。だが、すぐに電話が鳴り思考は中断した。電話の相手は意外な人物だった。